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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
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case.5「BOX the B-ankh」(03)

本文中[一][二][三]について。

環境文字のため上記表記となってますが、正しくは□+漢数字表記となります。

浮き上がる闇があれば――沈むものもあり。

小さな警鐘に、男は意識を深層へと近付けた。

「……もうそういう頃合いか」

小さなランプの点滅は何を意味するのか。

赤と青の光がチカチカと意思表示する様を見つめ、男は薄暗い闇を照らすパネル――部屋一帯に敷き詰められたPCピーシー-正式にはパーソナルコンピューターと言う-の前へと腰を下ろした。

巨大な画面は一枚、二枚、三枚と幾重にも並び、忙しなく変動するグラフやメーターを暗がりに照らし出す。

それは心音か、熱量か、何かの記録か。

膨大なデータに目を向けんとする、その僅かな時間にも、男の額には大粒の汗がにじんでいく。

もっとも、尋常ではない熱気を放つ箱が鎮座ちんざするのだから当然の話。

あるいは――男の体が悲鳴をあげているのかもしれない。

暑さからくるものか、痛みからくる冷や汗か、はたまた脂汗あぶらあせかも分からない体液を都度拭つどぬぐっては、眼鏡をかけた男は変化を刻み続けるデータを読み取っていった。

「バイタル――範囲内。メンタル――乱れはあるが問題なし。磁場――クラスK(ケイ)の歪みを確認――管理プログラムM・O・W(モウ)レベル引き上げ――監視を[三](サン)に任命。[一](ハツ)は現在命令を終了――[二](ソウ)と共に維持・管理に専念を」

PCピーシーに繋がれたキーボードやスイッチャ、時には別のPCピーシー群をこれまた忙しなく操作しながら、男は淡々と状況を分析する。

応えるのは――聞き馴染んだ電子音。

『コード:[三](サン)――M・O・W(モウ)レベル――E(イー)からKに引き上げ完了――プロトコル異常なし――監視にあたります』

『コード:[二](ソウ)――施設および周辺地域サーチ――予測危険度Eより変動なし――引き続き監視にあたります』

『コード:[一](ハツ)――代理制御(オートモード)を終了――本体接続完了――動作問題なし――制御権を返還――補助並びにバックアップを開始します』

部屋一つを埋め尽くす機械のせいだろう。

五月蠅うるさいファンの音に混じって鳴り響く声に、男は頷く暇もなく操作を続けるのだった。

それらを繋ぐのは無数のコード。


まさに生命線――というものだろう。


電力を送る線が。

電解質でんかいしつを輸液する線が。

電気信号を伝えるための線が。

複雑に、難解に、幾重いくえに――箱と箱を繋いでは熱気に満ちた、それでいて凍える程に冷たい部屋を満たしている。


もっとも冷気を放つのはただ一つの箱。

黒い――何よりも黒い、漆黒の箱だけだ。


コードの終着――もしくはコードの始点とも言うべき箱は、硝子がらすで仕切られた壁の向こう側。

赤い光を溢すその箱を見つめながらも、男の目は死を宿した虚ろなものだった。

(あと……少しだ)

背負うのは、床に散乱する本と資料。

ろくに効かなかった錠剤じょうざい

乱雑なそれらとは逆に、酷く丁重に守り続ける鍵の付いた箱。

けして少なくはないそれらを背負ったまま、なけなしの栄養剤を呑み込んだ男は一本のコードを手に取った。

(あと少しで……完成する。この苦しみから解放される。そのためにも君には……)

手の震えは何からくるものか。

歓喜とは言い難い感情に顔を曇らせ――男はガラス膜に覆われた電極を自らの後頭部に突き刺した。

「ぐっ……あぁ……」

何度やってもこの痛みと不快感に慣れはしない。

だがその気分の悪さなど些細ささいなこと。

「……接続確認」

『コード:[三](サン)――伝子体レムナントの受肉開始――……つつがなく同期完了――磁場への影響ありません』

『コード:[二](ソウ)――周辺警戒引き上げ――現時点での磁場への影響なし』

『コード:[一](ハツ)――同じく警戒引き上げ――収容所および収容物に異常なし――いつでもどうぞ』

どうか――これが永遠の眠りとなりませんように。

今にも壊れてしまいそうな眼鏡を外した男は、電子音を子守歌に目を伏せる。


「観測を開始――はこを開けてくれ」


     ❖


Please...


Please talk me......


Please talk me back.........


     ❖


「……――ハッ!?」

誰かに呼ばれたような奇妙な感覚。

夢を見ていたのか、ただ失神していただけなのか。

バチリと目を開けたアニは、ずぶ濡れの体を気を留める暇なく、反射的にその場を転がった。

(どこだここ……っ!?)

転がった先で素早く身を起こし、キョロキョロと辺りを見回してみる。

叫びそうになる声を呑み込むのも、第一に状況を見極めようとするのも、怪異との邂逅かいこうで育まれた危機管回避能力と言えるだろう。

壁際に身を寄せたアニは、手早く周囲を探りながら、まずは隠れる場所がないかを確認するのだった。

だが見えるのは拓けた砂場ばかり。

枯れた雑草がペンペンと散る以外には何もない、乾いた足場が広がっていた。

もっとも、乾いた――という表現は間違いか。


白んだ大地の中央には、底の見えない長い長い、どこまでも続くかのような長い川が流れている。


どうやらその川は、空から落ちてくる滝を水源としているらしい。

身をかがめるアニの遥か遠く――不気味な茜色の空からは、いやに暗い緑色の液体が絶えず流れ落ちているのだった。

(どこまで続いてんだ……?)

空の途中から唐突に降り注ぐように見える滝も、水平線の先まで伸びる川も、一体どれだけ遠くまで繋がっているのだろう。

不安を煽る水の流れに顔を顰めた時、アニは河原に埋まる黒に目を留めた。

(あれは――コハクッ!!)

地面の白さに救われたと言うべきか。

体の半分程を砂に埋めたコハクを見つけたアニは、すぐさま大事な相棒の元へと駆け付けた。

ここがどこで、あの滝が何で、川はどこまで続いているのか――電脳箱[K-hack(コハク)]ならば、その答えを知っているかもしれない。

頼る伝手つてを見つけただけに、アニは急ぎいさんで電脳箱[K-hack(コハク)]を掘り起こした。

「待ってろ!今助けるからな!」

手に触れる砂は妙に固く――それでいて随分ともろいようだ。

大きな塊だと思っても、強く掻き分けるだけで簡単に形を崩していく。

サラサラと粉になった白が手を汚すのも構わずに砂を分けること幾許いくばく

ビショビショに濡れた電脳箱[K-hack(コハク)]を掘り出したアニは、漆黒の箱に語り掛けた。

「コハク!コハク!大丈夫か!?」

Si……アニ…………』

「電源は生きてるな!?」

『かろう――じて――……ですが……駄目そ――デス――申しワケ……――――緊急停止状態シャットダウン――中心地店[S-pot C(サポートセンター)]ニゴ相談クダサイ』

しかし電脳箱[K-hack(コハク)]は弱々しく。

ブウゥン……と鈍い電子音を上げると、アニの手の中で眠りに就いた。

「っ……コハク!」

『…………』

いくら防水・衝撃吸収機能が完備されていようとも、電脳箱[K-hack(コハク)]にも耐えられる限界がある。

「また……っ!!またこれかよ!!」

とはいえ、最近は常にこれだ。

怪奇現象に巻き込まれた時には決まって沈黙する電脳箱[K-hack(コハク)]に、アニはわなわなと体を震わせるしかなかった。

怒りと歯痒さにおののき――さりとて、いつまでも地団太を踏むわけにもいかない。

「たぶんアッチだよな?」

手の平いっぱいで電脳箱[K-hack](コハク)を掴んだアニは、始まりの見えない水流へと真紅に燃える目を向けた。


どれだけ意識を失っていたのか。

それは分からないが――たしかに自分は上から落ちてきたのだ。


ガラリと景色を変えた風景をいやに冷静に眺めながら、アニは我が身に起きた出来事を思い起こす。

(えーっと……浮瀬湖うきせこってとっから落ちてきたんだよな?)

事の発端は――やはりカケイで。

運び屋の仕事で三十一地区を訪れたアニは、カケイの誘いで浮瀬山うきせやまに水を張る浮瀬湖うきせこに足を運んだのだった。

そこでアニは――

(カケイに……告白――されたんだよな)

想いの丈を告げられた。

それ自体は直接顔を合わせる前に分かっていた事だが、面と向かってとなると空気は異なるものだ。

緊張と後ろめたさと切なさが茜色へと変わる中、カケイは電脳箱[K-hack](コハク)の意志に沿うままアニの手を掴もうとした。

だがアニは――その手を取らなかった。

(金持ちで美人で俺みたいなのを慕ってくれて……普通断らねーのに。前の俺だったら絶対断らねーのに……ははっ。でも変だよな。何も後悔してない)

これが本当の恋なのかもしれない。

オリアに抱く感情の意味を知ったアニは、電脳箱[K-hack](コハク)の意志も願いも顧みず、カケイに背を向けたのだった。


その不義ふぎが原因か。

それとも、もっと違う何かなのか。


そこまで――そこまでの道に不審な点はなかったが、カケイは突如としてアニに襲い掛かった。

俯いた顔は血の気を失くし、まるで人形に戻ってしまったかのようだ。

元々人間であるカケイに〝戻った〟と表現するのは、なまじおかしな話だが、初めて会ったカケイは人形同然。

老翁ろうおうワギリに付き従っていた頃の面影を浮かべた姿に、アニはついブルリと身震いした。

しかしそれは、濡れた服が体温を奪う事だけが理由ではない。

カケイと湖に落ちる瞬間、アニは少女の中におぞましい影を見たのだった。

(あの時たしかに……)

カケイの声に重なって聞こえた音。

あやしい金光きんこうを宿した眼差し。

細身の少女からは考えられない力。


その背後に見えたのは――鋭い瞳孔どうこう

オリアが〝浮沈の箱〟と名付けた異形の存在だった。


だからこそアニは、湖に落ちる直前、カケイの体を無理やり引き剥がした。

その甲斐虚しく、変な場所に落ちてきたようだが――カケイの顔に重なる龍神りゅうじん菩提樹タイジュとの記憶を思い出せば、嫌な汗が背中を流れていく。

(気のせい……だよな?)

チリ――その名で呼ばれたと思うのも、何故なのか。

湖に落ちたのではなく、カケイの手で引きずり込まれたとしか思えない状況を思い返しながら、アニは空を縦断する滝の方へと爪先を向けた。

「……行ってみるか」

いやに冷たく感じる背中の感触。

そしてビッショリと濡れたトレッキングシューズの気味悪さを払うように、電脳箱[K-hack](コハク)を抱えたアニは歩き出す。

目印は空に浮かぶ流水だけ。

山でもなければ、湖でもない――歩くのには適さない道無き道を踏みしめた。

(まさか……骨じゃねぇよな?)

一歩、二歩、三歩と進む度、粉々に砕け散っていくのは乾いた塊だ。

人骨じんこつなど見た事がないが、形もまばらな白い塊は、精肉店で見かけない事もないそれによく似ている。

(…………考えんのやめよ)

怪異に出くわしたかもしれない焦燥しょうそうが。

電脳箱[K-hack](コハク)にもオリアにも頼る事が出来ない孤独が不安を掻き立てるのかもしれない。

嫌な想像に怪訝な表情を一つ。

アニは手に持った電脳箱[K-hack](コハク)をぎゅっと掴み、進む事だけを考えた。

もっとも、空の色は変わらない。

血のような不気味な茜色はどこまでも――否、いつまでも続き、アニの歩みを嘲笑あざわらう。


それはまるで月の如く。


どこから仰いでも同じ位置にする月のように、付かず離れずの水流が空を下り続けているのである。

そのことに――

「……近付いてねーよな?」

しばらく歩いてようやくアニも思い至る。

普通に考えれば、川を辿れば自ずと川上に辿り着くはずだ。

だが景色は変わらず、滝の遠さも変わらず――アニは戸惑いと共に足を止めた。

(同じ場所歩いてんのか……?)

広がる風景は白い河岸と長い川と空に浮かぶ滝が一つ。

本当に同じ場所を回っているのか、似たような景色が続いているかも分からず、アニはじっと電脳箱[K-hack](コハク)を見る。

「コハク。なあ、コハク」

『…………』

「…………はぁ」

水気が抜ければ大丈夫かとも思ったが、電脳箱[K-hack](コハク)は黙ったまま。

うんともすんとも言わない箱に項垂れ、アニはその場にしゃがみ込んだ。

「どうしろってんだよ」

零れたのは――泣き言だ。

思わず溢した声はか細く、アニは自分のひざに自分の顔を押し当てる。


ここにオリアはいない。


今までとは違う状況に、アニは心細さをつのらせるのだった。

これまではどんな時にでもオリアが傍にいて、怪異の存在を紐解き、すべき事を教えてくれたというのに――今は本当に、本当に一人きりだ。

(オリア……なあ、どうすりゃ良いんだ?俺は……何をすれば良い?)

だが今はここがどこなのかも分からない。

恐らくは〝浮沈の箱〟の時と同じ、怪異の領域りょういきのようなものなのだろうが――それ以上の事は何も見当がつかなかった。

(〝浮沈の箱〟はやっつけたはずだよな?でもあの声は……タイジュの……。そもそもカケイはどうなったんだ?アイツもカイイにすり替わって……?)

不安に駆られたアニは、自らの首に手を伸ばす。

固い革の質感と、銀のチャームが指先を撫でれば、ほんの少しの安心感が生まれるのだった。

(大丈夫。俺にはコレがある。カイイが相手なら倒せば良いだけだ)

オリアが託してくれた異装[I-sow(イソウ)]。

今この場でオリアとアニを結ぶ唯一のモノに触れ、アニは自分を励起れいきする。

しかし、繋がれた生命線は細くもあり、アニはすぐに立ち上がれなかった。

(……どこいんだよ)

異装[I-sow(イソウ)]はたしかに強力だ。

だが本当に制御出来ているかと問われれば怪しいもの。

無暗矢鱈に頼る事も出来なければ、オリアなしに使いこなせる自信もなかった。

余計にオリアへの寂しさを積み重ね、ついでに空腹感や飢餓感も募らせ、アニは膝を抱く。


そこに手を差し伸べるのは――一人の少女。


透き通るように白い肌と、それとは逆の黒々とした濡羽色ぬればいろの髪を持つ娘が、月光の如き眼差しを注いでいた。

「探したんですよ、アニさん」

「っ……!?」

穏やかな声なのに、どうしてゾワリと悪寒おかんはしるのか。

アニは顔を上げる事も出来ず、張り付く喉を何とかという風に動かした。

「探し――……ましたよ――チリ様』

「………!!」

その姿勢のまま、アニは目を見開く。

カケイだと思った声は緩やかに声色を変え――たしかに〝チリ〟と呼んだのだ。

刹那、脳裏に蘇る〝浮沈の箱〟との戦いの記憶。

妖艶ようえんさを増したその声に、アニは弾かれるように走り出した。

「――ッ!!」

『おや……また鬼ごっこなのですか?チリ様は童心どうしんにおあふれなのですね』

回れ右をして川沿いを下るアニ。

その背後に、クツクツと喉を鳴らす女の影が差し迫る。


あれはもう――カケイではない。


これまでに相対してきた怪異と同じ嫌悪感と不気味さを感じ取ったアニは、一心不乱にカケイが居ない方――散々歩いて来たその道を戻っていく。

(何でっ……カケイまで!!)

その中にも、どこかでカケイに対しての情があったのかもしれない。

もしくは罪悪感だろうか。

倒せば良いと意気込みながらも、咄嗟とっさに逃げる判断を選んだアニは、なだらかな坂道を転がっていく。

(クソッ!!どうする!?イソウ使って――いやでもオリアなしでいけるか!?)

後ろは振り返らず――正確には振り返れずか。

カケイの成れの果てを直視する事が出来ずに、アニはひたすら川下かわしもを目指す。

水がせり上がってきているのか。

足場は俄然悪がぜんわるく、もつれそうになる足を動かし続けた。

『今度こそ逃がしませんよ』

迫る声にも後ろは見ない。

ザバザバと川を割る音が耳に入っても、アニはただ逃げる事だけを考えた。

しかし景色はなおも変わらず。

茜色の空が無情にアニを見下すばかりで、胸を締め付ける痛みに息を吐く。

「ハッ!!アッ!!フウッ!!」

まだマシだと思えるのは、怪異というものへの耐性がついた事か。

喚き散らすしか出来なかった始まりの日。

災禍さいかの箱〟から逃げ惑うしか出来なかった時に比べれば良いものだと、自らを奮い立てながらひた走る。

その足がガクンともつれたのは偶然か、必然か。

「オアッ!!??」

水分を含んだ靴は重く、白砂に足を取られたアニは大きく態勢を崩した。

『チリ様……遊びはもう終わりにしましょう?』

その隙にも背後に迫る圧は増し、前のめりになったアニは後ろを振り返る。


直前――何かがアニの頭を踏みつけた。


「アガッ!?」

『んぎっ!?』

ドスンッとアニの後頭部を踏み台に、その何かはカケイ――否、怪異へと突っ込んだらしい。

強制的に下を向く事になったアニの視界の外で、ポンと跳ねた塊が怪異のあごを蹴り飛ばしたようだった。

「なっ!?何が起きて――」

アニがその激動を理解したのは、目の前に降り立った獣の存在だ。

怪異を蹴り上げた勢いで、アニの前に戻って来たのだろう。

自分を見ろと言わんばかりに、真っ白な塊がアニの目を見つめているのだった。

「う、うさぎ……?」

『プッ!』

鳴き声なのか、鼻を鳴らしただけなのか。

よく似た赤い目同士が交錯こうさくすると、小さいながらもたくましい兎が胸を張った――らしい。

兎が胸を張るというのも変な話だが、アニにはそう見えたのである。

「え?いや……夢?」

『プイーッ!!』

怪異も謎だが、それに輪をかけて不思議な白兎だ。

いきなり現れた――しかも怪異に立ち向かったらしい奇妙な兎を相手に寝ぼけた声を出せば、恐らく彼女だろう兎は短い耳を立てて怒りを露わにする。

それも束の間、真ん丸の尻を向け、ついて来いとでも言う風に後ろ足で砂を蹴った。

「は……?え?んん……?」

『プイッ!!』

早くとでも叫んでいるようだ。

何度か足を掻いた白兎は、アニを待たずに走り出す。

「あ、おい!」

『駄目……チリ様……行かせはしな――』

『キュップイ!!!!』

その影で怪異が立ち上がり、アニは無意識に声の方へと頭を向けそうになる。

だがそれは――またも勇敢ゆうかんな兎によって制されるのだった。

シュバッと大地を蹴った兎が、鍛え上げた足でアニの背中を一蹴ひとけり。

背中を押されたアニは、よろめきながらも前に走り出す。

しかして――

『キュウウッ!!』

『死にぞこないのくせに……っ!!』

『プギッ!!』

二度目は不発に終わったらしい。

アニを踏み台に怪異に飛び掛かるも、所詮しょせんはただ一羽いちわの兎だ。

返り討ちにあったらしく、痛烈な一太刀ひとたちを浴びた球体が、蹴鞠けまりのようにアニの前へと転がってきた。

それでも、倒れるつもりはないのだろう。

素早く身をひるがえした兎は、アニを先導するように力強く走り出す。

「お前っ!怪我して……っ!」

『プッ!!』

「っ……ああもう!ついてけば良いんだな!?んで後ろは見んなって事だろ!?」

『プイ~ッ!!』

一等わけが分からないが、どうやらこの兎は、アニを助けようとしてくれている――らしい。

意地でもアニを振り返らせまいと奮闘する彼女に、アニも自分がどうすれば良いのかを何となしに理解する。

(今は信じるしかねーよな!?)

正直、兎が言葉を理解している理由も。

怪異に立ち向かう意味も。

自分を助けようとする目的も――一つとして分からない。

だが後方に迫るじとりとした情念。

『チリ様……っ!何故逃げるのですか!?今度こそわたくしと共に――……ッ』

魚なのか蛇なのかも怪しい、妄執もうしゅうの化身とも言うべき怪物に比べれば、遥かに信頼出来るだろう。

逐一ちくいち後ろを確認したくなる気持ちをこらえ、アニは四つ足で跳ねる兎に目をやった。

「どこまで走んだよ……っ!?」

丸みを帯びた毛玉が跳ね回る姿は、卵転がし(エッグロール)さながら。

法廷への道を急ぐかのように、どこまでも続く坂道を転がっていく。

勢いがついたのか、それとも傾斜が激しくなっているのか。

ポーン、ポーンと跳ねる兎の歩幅は距離を増し――アニは浮遊感に目を瞬く。

「えっ……?」

直後、襲い来る重い感覚。

上から押し潰されているのか、下から引っ張られているのか。

「コッ!!コイツッ!?」

『プッ』

「騙しやがッ――お゛あ゛あああああぁぁぁッッっあああッ!!??」

アニの体は真っ逆さま。

悠然と舞う兎に手を伸ばすが――その手が黄昏たそがれに染まる毛を撫でる事はない。

アニは一人、滝を落とす崖の下へと呑み込まれていくのだった。

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