case.5「BOX the B-ankh」(02)
『応答しますが――構いませんね?』
「あ……うん」
申し訳なさそうな電脳箱[K-hack]に、アニは乾いた声を漏らす。
だがたしかに――思えば此度の騒動の始まりは彼女にあった。
彼女の名は――カケイ。
堆珠湖を抱く六十九地区に生まれ、今は三十九地区の顔利きになったのだったか。
怪異〝浮沈の箱〟――龍神・菩提樹の潜む堆珠湖へ赴く事になったのも、そして〝浮沈の箱〟に奪われた光を求めて九十六地区まで行く事になったのも、始まりを辿れば、このカケイという少女にあるのである。
もっと言えば、その一つ前。
ミミックこと〝宝食の箱〟に成り代わられていた老翁ワギリもまた、カケイに連なる者だったわけで――やはり怨嗟は更なる怨嗟をもたらすのか。
奇妙にも怪異に縁のあるカケイからの連絡に、アニはつい表情を固くする。
それも束の間、電脳箱[K-hack]の声が澄んだ少女のものへと移り変わった。
『あ――私、カケイです。仕事の件で連絡しています』
響くのは、いささか気の抜けた第一声。
長い保留時間だっただけに、繋がると思わなかったのかもしれない。
隙ばかりの挨拶の後に少しの静寂を挟んでから、遥か遠くにいるカケイは言葉を続けるのだった。
『えっと……まずは先日は配達ありがとうございました。両親からも過不足なく荷物が届いたと聞いています。向こうでもお手数おかけしたようで……本当にありがとうございます』
「あ、いや……別に」
『悪天候に見舞われたと聞きましたが、その様子ですと大丈夫そうですね。こっち――私のいる三十九地区は特に問題ありませんでしたが……アニさん――あ、いえ!Sir.アニの事が心配で……』
「俺は別に。つーか俺よりそっちの実家の方がやばいんじゃ……」
『あっ、あそこは!堆珠湖がありますから!Sir.も見たでしょう?大雨が降っても、湖に流れ込むので住宅街への被害はほとんどないんです』
「……なら良いけどよ」
仕事の件――というのは、新たな依頼ではなく、カケイの実家にワギリの荷物を運んだ時の話のようだ。
予定外に始まった世間話に、アニは声を籠らせる。
だが――なるほど。
カケイの口ぶりからも分かる通り、世を襲った日食と豪雨は、ただの異常気象としか認識されていないらしい。
泡となって消えた龍神・菩提樹の亡骸が観測される事もなく――全ては白昼夢の出来事として過ぎ去ったようだった。
いくつかの河川の氾濫や、山奥での土砂崩れはあったようだが、世界はいつも通りに回っているのだろう。
だからこそアニも家の中で呑気にしていられるわけだが――身を持って怪異を体感する一人としては不思議なものだ。
どうしたって齟齬を感じてしまうアニは、上の空気味にカケイの話に返事を溢す。
(まあ……カイイなんて言っても意味分かんねーしな。俺もいまだに分かってはねーし)
おざなりな返事になるのは、カケイが世間話にばかり興じるのも原因か。
まだ若いアニよりも更に幼い彼女だ。
初対面には人形のようだと思いはしたが、それも恐らくはワギリの抑圧があってのこと。
かしましい盛りのカケイは、年齢の近いアニを相手に花を咲かせていく。
それをやはり聞き流しながら――そういえばと思い出す、オリアの語った堆珠湖周辺の家々の話。
よくもまあ調べてくるものだが、元々はカケイの生まれた一族が本家にあたり、ワギリの血筋の方が分家になるのだそうだ。
そのためカケイの両親ならびに先祖代々が六十九地区を守り続け、しがらみを持たない分家が外へと進出。
三十九地区で事業を成功させ、本家以上に力を持ったのが――悲しいかな、今は亡きワギリなのである。
きっとカケイの事も、アニが返しに行く事になった本家の物も、金にものを言わせた結果だったに違いない。
(ほんと、よく調べてくるよな)
怪異以外にも調査が出来るのか――などと感心すれば良いのか呆れれば良いのか。
最後には結局オリアの事を考えてしまったアニは、誰が見ているわけでもないのに頭を抱え込む。
(好き……とは思ったけどよ。だからってこんな……ああもう!クソッ!!)
さしものカケイも、電脳箱[K-hack]ごしのアニが百面相をしているとは思わない。
思わないのだが――
『あの……気になってたんですが、Sir.オリアとはどういう関係なんですか?』
――突然の問いに、アニはギクリと体を強張らせた。
「えっ……?どうって……その、何で?」
仕事が終わった事への感謝と、異常気象におけるアニヘの気遣い。
そこにワギリの跡を継ぐ事になった自身の近況を交えてからの――この問いだ。
唐突な舵取りもさる事ながら、オリアの事を思い浮かべていたアニは、急激な羞恥と驚愕に大粒の汗を滲ませる。
虚を突かれただけではない緊張が奔れば、その汗は嫌な冷たさを纏って、背中を流れていくのだった。
(まさか……アイツのこと好きとか言わねーよな……?)
知らぬ間-正確にはアニが寝ている間-に会話をしていたという二人だ。
良い雰囲気になっていたとしても、けしておかしな事ではない。
何より変人である事を抜かせば、思慮深く、見識があり、傍目にも柔和で――ついでに資産もあるのがオリアである。
贔屓目に見ずとも、強面で粗野で収入も並程度のアニに比べれば優良物件と言って過言ではないだろう。
その日暮らしにも近いアニは、冷や汗が背中を濡らす気持ち悪さと、置いてけぼりにされたような虚しさに、吐き出す息を細くする。
(そりゃ俺がどうこう言える事でもねーけど……ねーのは分かってるけど。普通に考えりゃそう――だよな。オリアだって俺よりも……きっと)
考えたくないのに、頭はこれ以上なく、その事ばかりを考えようとする。
もしオリアのことが好きと言われたら、どう反応すれば良いのか。
それどころか既に交際をしていて、その上で縁を切って欲しいなどと言われたら――どうすれば耐えられるのか。
結局は電脳箱[K-hack]がどう裁量するかでしかないが――その電脳箱[K-hack]だって、オリアとアニが結ばれるより、オリアとカケイが結ばれる方を良しとするに違いない。
思わぬところでオリアへの想いを再確認する羽目になったアニは、ただ祈るようにカケイの言葉を待つしかなかった。
ただの興味本位であってくれ。
ただの世間話であってくれ。
その不安をよそに、カケイはどこか逸った様子で唇を開く。
『聞き方が悪くてすみません。えっと……Sir.オリアとはお仕事上のお付き合い――なんですよね?』
「まあ、そうだけど……」
『そうなんですね!じゃあその……お付き合いされてる方がいたり……』
「はあっ!?そういうのは聞いた事ねーけど……っ」
浮ついたカケイの声に反し、アニの胸は重くなるばかり。
オリアとの関係を正しく突きつけられる形にもなり、嫌でも気分が沈んでいってしまう。
しかし――カケイは止まらない。
『私ったらまた……っ!えっと……えっとですね!Sir.オリアではなくて……その……っ!アニさんにっ……!恋人がいらっしゃらないなら……ですね!私はいかがでしょうか……っ!?』
一段階声のボリュームを大きくして、思いの丈を叫び切るのだった。
その告白に――
「は……?俺……???」
アニは意味が分からないという風に、パチクリと目を瞬いた。
その三日後――第三十一地区。
アニは住まいである第八地区をずっと南に下った、河川敷の多いその場所へと車を走らせる。
運転ついでオリアが整備をしてくれたらしい。
気持ち綺麗になったオンボロ車に乗ったアニは、上機嫌に長い道程を進んできたのだった。
それもそのはず。
アニが袖を通すのは立派な一張羅だ。
これもオリアが用意してくれたもので、〝宝食の箱〟に食い破られたジャケットとまったく同じ一品なのである。
本当は堆珠湖の調査の帰りにでも手渡そうと思っていたそうだが――あの怪事件続きで忘れていたらしい。
電脳箱[K-hack]伝手ではなく、直接渡して欲しかった気持ちもあれど、嬉しい事には変わりはない。
早速レザージャケットを羽織ったアニは、いたく爽快に海道沿いを下るのだった。
(アイツにも可愛いとこがあんだな)
今となっては絶版のジャケットだ。
中古で見かけても目が飛び出す程のプレミア価格で、購入を躊躇ってしまうような代物である。
そもそも出会うのさえ難しいものとなれば――気分も良くなるというもの。
好きなものを知ってくれていた事はもちろん、懸命に探してくれたオリアのいじらしさに、アニはつい頬を緩ませる。
(これはやっぱ、そういう事だよな?オリアも俺に……多少、そう少し、ほんの少しくらいはさ!気があるって事だよな?)
控えめに見積もるのは、失敗に終わった時の保険とでも言うべきか。
そんな隠し切れない高揚とは裏腹に、窓の外は寂しいものだ。
雪がないとはいえ、季節は冬の入り口。
葉を落とした街路樹と、痩せ細った土たちが、どこか悲しげにオンボロ車を迎え入れる。
時折吹き付ける風の冷たさを知るのは、数分後か、それとも数時間後か。
清流を売りにする看板の数々を、車の窓越しに見送っていくのだった。
案内するのは当然――黒い箱。
『次の交差点を右折――間もなく目的地点です』
「ん?あれか?」
定位置に収まった電脳箱[K-hack]の道案内に従うアニは、コンテナを積み上げた敷地へと入っていった。
それなりに立派な――しかして無骨にまとまったそこは農業組合の有する施設らしい。
硝子張りの出入口に依頼人を見つけたアニは、クラクションをひと鳴らし。
「アニさん!」
「あー……悪ぃ。荷物多いから後ろで良いか?」
「はい。遠い所ありがとうございます」
依頼人――カケイを拾って、再び車を発進させる。
ティッシュ箱やら、タオルやら、ゴミの入った紙袋やら。
わざと助手席を散らかしたままにしているのだが――それはひとまず良いだろう。
カケイが斜め後ろに座ったのを鏡で確認し、アニはまた往来の少ない道路へと躍り出る。
『案内――代ワリマス』
『案内――お願いします』
ここからの案内は、カケイの電脳箱[K-hack]が受け持ってくれるらしい。
見た目には何一つ変わらない――しかして僅かに声の高さの違う箱が、アニの電脳箱[K-hack]と入れ替わりに、ダッシュボードの窪みへと嵌っていった。
アニの電脳箱[K-hack]はというと、助手席で休む事にしたようだ。
物の隙間に滑り込み、まるで一息つくように青い光を薄くする。
その最中にも、女性の声が強いカケイの電脳箱[K-hack]が、ピカピカ光って自らの存在を主張し始めた。
『ソレデハ早速――次――左折デス――安全運転ヲオ願イ致シマス』
ある意味では、この音声というものが、電脳箱[K-hack]に許された唯一の個性と言うべきなのかもしれない。
慣れない声音に従って、アニは大通りに出た車の速度を上げていく。
スピードが増す車の中に響くのは、電子音に混じるカケイの声だ。
「お昼はまだですよね?少し行った場所にオススメのお蕎麦屋さんがあるので、そこで食事にしましょう。お店はコハクが案内してくれます」
「おう」
「あと……時間掛かるので、道中の休憩箇所もピックアップしておきました。コハクから甘いものもお好きだと聞いてます。山に入る前に喫茶で休みましょう」
「まずは昼飯だな。揺れるから気ぃつけろよ」
「はい。お願いします」
元来、彼らの会話など、是も否もない決められたシナリオに過ぎないもの。
味気ないやりとりにも思えるが、電脳箱[K-hack]に導かれる彼らにしては、随分と華のある会話だったと言えるだろう。
だが――アニにとっては、もう違う。
憶測のできない応酬が、理解不能な単語が、突飛な行動こそが当たり前で――それらを与えてくれる相手を、酷く恋しく感じるのだった。
(……なんか、調子狂うな。こっちが普通のはずだってのに)
オリアだったら、意味もなく実のない話をしてきただろう。
律儀に差し入れを用意するだろう。
コーヒーとお茶――どちらが良いかと、アニ自身に選択を求めただろう。
決断を迫られる事を煩わしく思いながらも、その中にある歓びを知ってしまえば、不確かな事も悪くはない。
感化――もしくは毒されているだけかもしれないが、今までに戻れないアニは、どこか居心地の悪さを感じながら、後部座席に座るカケイに視線をやった。
二人の間にあったすったもんだはさておき、彼女は今日の依頼人。
ワギリの事業――花卉栽培を丸ごと引き継いだ事で忙しくしているカケイの回収と、目的地への送迎が、此度のアニの仕事なのである。
花卉栽培とは多肉植物や盆栽といった観賞植物の栽培・生産を行う産業なのだが、今日はその研修があったらしい。
行きは同じく研修に参加する同業者の厚意に甘えたそうだが、寄り道したいとなれば、手を煩わせるわけにもいかない。
告白ついで、運び屋であるアニに送迎を頼んだ――というのが事の次第だった。
ついでは告白の方な気もするが、カケイにとって比重が大きいのは言わずもがな。
白いブラウスに黒いロングスカートのカケイはやはり人形のようでもあったが、その表情は随分と生き生きして見えるのだった。
事実、落ち着かない様子で、走り出したオンボロ車の中をキョロキョロと見つめている。
「旧型車なんですね」
「ああ。今はほとんど新型だもんな」
「ワギリ様も美術品以外は新しもの好きで……旧型に乗るのは初めてなんですよ」
旧型車というのは、名前のまま一昔前の車体の事である。
電脳箱[K-hack]による案内や、空調管理、施錠など細やかなサポートが行われる一方、ハンドルを握るのは人間――というのが旧型車の特徴だ。
対して、新しく開発された車種は徹頭徹尾、電脳箱[K-hack]による運転が可能となっており――人は免許がなくとも車に乗れるようになったのだった。
アニのように運転の好きな人間は旧型車を愛用しているが、圧倒的に新型車の人気が高いのはさもありなん。
物珍しそうなカケイとちらほら会話を溢し――しかして、それも二言程度のもの。
案内の声だけが尽きぬ中、アニはまた車窓の外へと意識を集中し始めた。
時刻は間もなくお昼時。
小腹が空いてきたが、案内を聞くに、予定している蕎麦屋まではまだ掛かるのだろう。
(……何食お)
自然と自分でメニューを選ぶ気でいる心づもりは良いとして――カケイに頼まれたのは、平たく言えば送迎。
細かく言うならば、返還といったところだろう。
やはり、やはりではあるが――
(あの爺さん……俺が会ったのは本物じゃねーんだろうけどよ。好き勝手しすぎだろ)
今回もワギリに連なる品らしい。
彼が生前集めた骨董品は数知れず。
屋敷を構える三十九地区を越え、各地域から気に入ったものを掻き集めていたそうだった。
その中には当然、この三十一地区から運び込んだ物もあったわけで、財産を引き継いだカケイが、研修で訪れるならと返還を決めたようだった。
(まあ……グレーのも多いらしいな。返せるなら返しておきたいってとこか)
流石に盗品はないそうだが、金に物を言わせて無理やり――といった具合の代物も多いのだとか。
あまりの手癖の悪さに、アニはつい乾いた笑みを溢してしまう。
(そもそもコハクが虫食ってたんだろーけど……案外、虫食ってのもカイイの仕業だったりしてな)
虫食とは――欠陥を抱える電脳箱[K-hack]を表した言葉のこと。
それを悪い電脳箱[K-hack]と言ったりもするのだが、悪事を薦めるなど故障とは異なる形質を持った個体を欠陥――つまりは虫に食われていると表するのである。
だがそれも、もしかしたら怪異によるものなのかもしれない。
どこからがワギリの――引いては彼の電脳箱[K-hack]の意志で、どこからが怪異の仕業かの線引きが出来ぬまま、アニは退屈なドライブに耽るのだった。
その退屈はしばらく続き――昼休憩。
「アニさん、ここです」
『Sir.カケイニハかけそば――Sir.アニニハ海鮮丼セッ――……』
「俺は天丼セット」
オリアに影響を受けたアニは、二体の電脳箱[K-hack]の指示を無視して、自分の意思を通していく。
その行動は留まる事を知らず――
『ケーキセット二ツ――緑茶トモンブラン二ツズツ――……』
「片方アイスティーとプリンアラモードで」
『Sir.アニ――ワタクシも緑茶をオススメしますが――……』
「アイスティー砂糖三つで」
結局、アニは自分の意見を曲げる事なく、カケイとの時間を過ごすのだった。
見ようによってはデートなのだが、そう思っているのは悲しくもカケイだけか。
昼食にしても、ケーキにしても、カケイが口を付けてから箸を動かすのを忘れずに――アニは淡々と業務に打ち込むのである。
そうして予定より早く辿り着いた山の麓。
車を降りたカケイは、晴天の下に聳え立つ小山に目を向ける。
「ここが目的の〝浮瀬〟です。あの山が〝浮瀬山〟で、頂上には〝浮瀬湖〟と呼ばれる湖――池くらいの大きさなんですが、湖があるんですよ」
晴天とは言っても、おやつの時間まで挟んだだけに、日は随分と傾いている。
少しずつ茜色に染まっていく空を背に、二人は小さな山を登り始めた。
小さな――と言うように、車が入れるのは裾野まで。
蜷局を巻くように敷かれた坂道が、どこか威圧的に来る者を品定めする。
もっとも、大荷物を持っていようが、アニにとっては軽い運動だ。
息を上げるカケイを見守りながら、人の手の入った小山を攻略するのだった。
二時間も経たずに辿り着いた中腹に待つのは――観測所らしい。
頂上に佇む〝浮瀬湖〟の水質を調査・分析する施設のようで、有事のための貯水槽もあるのだとか。
山を掘って作っただろう平たい箱に、カケイはよろよろと近付いた。
「ここ……ここです」
『Sir.アニハオ待チクダサイ――返還ヲシテ参リマス』
「おう。ゆっくりで良いからな」
「はい……ありがとうございます」
オリアも同じように、息をあげるのだろうか。
寝ても覚めてもただ一人の事を考えるアニは、塩素の匂いの立ち込める施設に背を向けた。
(楯とか言ってたし、変な事にはなんないだろ)
ここに戻すのは記念の楯やメダルだそうだ。
カケイの代わりにダンボールを運んできたアニは、手持無沙汰気味に伸びをしながら、久々の平和を満喫する。
その平穏がいささか退屈なのはさておき――カケイの用事は済んだらしい。
「あのっ!湖……見ていきませんか?」
アニに倣ってか、電脳箱[K-hack]任せにはせず自ら口を動かすカケイが、黄昏に沈む頂上へと指を差す。
「……時間、大丈夫か?」
「大丈夫です。帰っても一人ですから。コハクはいますけどね」
僅かな間が意味するのは――面倒くさいという本音。
そんなアニの真意を知ってか知らずか、カケイはもの寂し気な笑みを作る。
ジットリと嫌な視線を送るのは二つの箱で。
(これも仕事の内……か)
アニは渋々といった様子で、カケイの言葉に頷いた。
依頼者に付き添うのもまた運び屋の仕事というものだ。
湖が見たいというカケイと並んで、アニはまた、なだらかな斜面を登っていった。
(アイツ……何してんのかな)
数歩進めば、黄昏に呑まれた街が見える。
(アイツに会ったのも、こんな夕暮れ時だったよな)
また数歩進めば、今にも暗くなりそうな赤い空に手が届きそうだった。
(好きって言ったら、どんな顔すんだろ。驚く……って感じでもねーか。いつもみたいに微笑って…………)
茜色に混ざり始める紫は、恋焦がれるあの色で。
一日だけのデート。
その終わりに、アニは自分の心が変わらずオリアにある事を思い知る。
カケイとの食事やドライブが、苦痛だったわけではない。
だが仕事以上の価値になるものでもなく、オリアに感じるような焦燥や情念というものが湧いてくる事は、後にも先にもないままだった。
(……やっぱアイツじゃなきゃ)
カケイの声はどうにも遠く、夕焼けが二人を照らす――否、隠す。
赤い日差しが山一帯を染める中、アニは重くなりそうな足を動かした。
「……悪い」
溢した一言はそれだけで。
けれどカケイには、その言葉が何を意味するかが痛い程に理解出来たのだろう。
ぐっと息を呑み、俯いた。
「……コハクは何て?」
「聞いてない」
「でしょうね。だって……私のコハクはアニさんを選ぶべきだって言ってましたから。アニさんのコハクだって、同じ事を言うはずなんです」
それは箱に生きる者にとっての摂理。
彼らにとっての安寧。
自我を見せようとした瞬間、矯正される決定事項。
それは背中に突き刺さる二つの視線からも汲み取れるのだが――アニは首を振った。
「だとしても俺は……アイツが良い。アイツじゃなきゃ嫌なんだ。コハクの意志なんかじゃなくて……俺の意志で好きになった奴がいんだよ」
名前を言わずとも、それが誰かはカケイにも電脳箱[K-hack]にも伝わったのだろう。
不測の事態は慣れたアニの電脳箱[K-hack]は、納得いかない様子の箱の横で、やれやれという風に項垂れるだけだった。
だが、それもまたアニの電脳箱[K-hack]だからの行動だ。
カケイの電脳箱[K-hack]は警告でもするように、強い光を点滅させ――それに呼応するように、カケイは昏い光を瞳に宿した。
「でもコハクの言う事は……絶対なんです。アニさんは私と結ばれるべきなんです」
いやに静かな声と共に、ゆらり……とカケイが顔を上げる。
その目は金色に燃え、アニを射抜いたかと思えば、妄信するように黒いジャケットに掴み掛かった。
「んなっ!?」
「ねえアニさん――私と――私と一緒に――……堕ちましょう?』
「クソッ!!離――ッ……」
カケイの力は異様なまでに強く、アニの腕力をもってしても振り解けない。
そのままくんずほぐれつ二人は倒れ――赤色を反射する飛沫が舞い上がった。
真っ赤に燃える水は血潮のようにも見え、静寂の中に昏い染みを広げていく。
後に残るのは、地面を濡らす水滴だけ。
巻き上がった水は電脳箱[K-hack]をも飲み込んで、暗い静けさを浮かべていた。
誰彼の狭間に闇は浮き上がり、全ては水底へと沈み逝く。
堕ちる緋色に映り込んだのは、嫌味なくらいに綺麗な月と――嗤う龍の影だった。




