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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
26/65

case.5「BOX the B-ankh」(01)

白い壁、白い天上、白い床。

箱――そう形容するにふさわしい施設の中を、青年は慣れた足取りで進んでいく。

ここに来てから、どれだけの時間が過ぎただろうか。

招かれるように。

あるいは押し入るように。

蛾が光源に飛びつくかの如く辿り着いたその場所で、青年はいつもの匂いを嗅ぎ分けていった。

探すのはほのかに甘く、郷愁にふけるかのようなほろ苦さを纏う、あの香り。

物憂げな灰を浮かべる煙草であり、見た事もない異国の景色を想起させるコーヒーであり、網膜に焼き付く篝火であり――遠き日の初恋にも似たそれだ。

触れるだけで壊れてしまいそうな、小さな小さな命に触れるかのような感覚を胸に、ともすれば進んだようには見えない廊下を進んでいった。

右へ曲がり、左へ曲がり、左には入らず真っ直ぐ進み――今度は左側。

無数の扉を見送ったそこで、青年ははたと足を止める。

目に付いたのは、まだ若い男が一人。

青年とどちらが若いかと問われれば、それはもう青年の方なのだが、研究員の中では彼が一番の年下らしい。

『またヴォ■シーのとこ?』

彼ら研究員の主だった仕事場――研究エリアに繋がる道の途中で、角刈りにも近い短い髪の男が、爽やかな笑みで語り掛けてきた。

その顔は不思議にも――半分半分だ。

顔の半分が黒く、もう半分が白い男が、やはり左右で色の違う目で、歩みを止めた青年を見つめていた。

自然界においては〝雌雄しゆうモザイク〟と表されるものに近いだろうか。

左右を丁度半分に分ける取り合わせは、牛の柄のようでもある。

もっとも彼自身は、俗に言う〝天使〟だとか〝両性具有〟という、二つのせいを併せ持つような人間ではない――となれば、〝遺伝子キメラ〟という表現の方が正しいのかもしれない。

何にせよ、とても普通ではない男は、思い出したように顔の前で手を振った。

『いつもの場所にいると思うけど……あ!でも今はやめといた方が良いかも。煙草吸ってるだろうから、臭いと思うよ?』

大袈裟に仰ぐ手は、〝クサイ〟のジェスチャーらしい。

だが青年の目当ての相手――ヴォ■シーが煙草臭いのはいつもの事だ。

むしろ煙臭くない瞬間があるだろうか。

否――ない。

シャワーの後でさえ、染み込んだほろ苦さが、植物性石鹸の香りに混じって漂って来る程である。

無論、それは青年の鼻が特別良いから感じ取れる事ではあるのだが――要するに、ヴォ■シーはいつだって紫煙の匂いをくゆらせているわけだ。

止まる道理はないと言うように、青年は小さく返事をしてから、キュビズムを体現したかのような男の横をすり抜けた。

その折、男が眉を下げて苦笑する。

『行くなら止めないけど、急いだ方が良いんじゃない?イース■ーに捕まると後が大変だよ?』

イース■ーとは彼らの同僚――紅一点でもある研究員の呼び名だ。

生物への理解が深いとか何とか。

この箱に来る以前は、禁猟区域での動物保護や生態調査を行っていたらしい。

デスクワークを主体とする研究者たちの中では、群を抜いて異質な彼女はパワフルそのもの。

『…………ん゛』

『そんな顔しなくても……。ほら、早く行きなよ』

振り回される苦悩を知る青年は、やはり小さく唸ってから、ひらひらと手を振る男の脇を抜けて行った。

何となしに振り返れば――普通の横顔。

片側だけなら至って普通な男の姿が、丸みを帯びた褐色に映り込む。

(……変な顔)

声には出さないが一番若い男――■ウの容姿は奇妙なものだ。

否、■ウだけではない。

充血したような赤い目を除いて全身真っ白なイース■ーも、異様に背が高い斑点だらけのジェ■も、鼻や耳が不自然に巨大なエ■ファスも、皆一様みないちように普通をどこかに置いてきたかのようなのである。

今はいない■インだってそうだろう。

髪から肌まで真っ黒な彼は、イース■ーとは真逆にも近い様相だった。

一人――ヴォ■シーだけは、その異質からかけ離れて見えるが――きっと、そうではないのだろう。

本能的にヴォ■シーのいびつさを感じ取る青年は、嗅ぎ慣れた匂いを辿ってヴォ■シーのいる排気スペースへと足を踏み入れた。

実際はスペースと銘打つような小奇麗さはなく――換気扇を無数に並べたそこは、吹き溜まりのような物寂しさだ。

だがある意味では、その侘しさがヴォ■シーのお気に入りなのかもしれない。

一定のリズム、一定の音量。

静か過ぎず、五月蠅過ぎず。

換気扇の回る音が刻々と時間を刻むその場所で、ヴォ■シーは酷く気だるげに、ほろ甘く、それでいてほろ苦い煙草をふかしていた。

『…………ん』

『……うん?また来たのかい?』

遠慮がちに声を掛ければ、呆けながらも青年の来訪に気が付いたらしい。

飛び出したヘリに腰かけたヴォ■シーが、眼鏡の乗った顔だけを真横に向けた。

『毎日毎日、君も飽きないね』

『むぅ……』

『ああ、ごめん。怒ってるわけじゃないよ?少し……疲れているのかも。■インが抜けた穴も小さくはないしね。鍵が見つかったとか何とか……上からの指示が多くてさ。本当、参っちゃうよね』

疲労の浮かんだ眼差し。

精査の足りない、思い浮かんだ順に語られる愚痴ぐち

『…………』

どうやら相当に参っているらしい。

掛ける言葉も見つけられないまま、青年はふにゃりと苦笑するヴォ■シーの隣に腰かける。

どこか胡乱うろんな紫苑は、水を待つすみれのようにも見えて――脱力気味のヴォ■シーを相手に、青年は黒い頭をコテンとくっつけた。

他になぐさめ方を知らないとでも言えば良いだろうか。

青年なりの気遣いに、ヴォ■シーは紫苑の目を僅かに伏せる。

父親とも母親とも似つかない――曾祖母そうそぼに似たらしいの瞳。

古い白黒モノクロの写真の中でしか知らないその顔を思い出す事もなく、ヴォ■シーはただ青年の温もりを受け入れた。

それも僅かな事――

『……正直。本当の事を言うとね。僕自身は理念とか目標とか、そういうのはどうだって良いんだ。実際、表向きに掲げてるのは綺麗事でしかないからね。裏があるのも……分かってる。ここに骨を埋めるだろう事も。でも……それでも僕はもう一度――……』

回り続ける風のに隠すかのように、小さな声が零れていく。

哀愁に満ちた声は次第に覇気を失くし、遂には喉の奥で消えていった。

『…………?』

『いや……君に言う事ではなかったね。もう一度、彼らに会いたい――なんて。まるで君を踏み台にしているみたいだ』

最後の方は独り言のつもりだったのかもしれない。

思わず横顔を見上げれば、物憂げに微笑わらうヴォ■シーと目が合った。

境界を知るかのような紫《目》は。

眼鏡の奥の眼差しは。

一体何を見つめていたのだろうか。

青年は結局何も言えぬまま、何も知らない顔でその肩に身を寄せる。

ヴォ■シーにとっても、それが一番平和な事なのだろう。

煙草の一本が潰えるのを待って――そうしてからようやく、根を張ってしまいそうな尻を壁のヘリから離すのだった。

吸い殻はポケットに入れていた携帯灰皿に。

そして独り言同然の世迷言よまいごとは換気口の向こうに。

口数の少ない青年を伴って、ヴォ■シーはまた休みない研究の日々に戻っていく。

『そろそろ戻ろうか』

『……ん』

嫌でも思い出すのは――■インの事。

■インが去ってまだ一年過ぎていないのに、いやに遠い過去に感じられるのは、忙しさ故なのか。

寝食しんしょくを惜しんで研究や調査に没頭するヴォ■シーは、どこか覚束おぼつかない足取りで、白い箱の中を仰ぎ見る。

(レポートまとめないとな)

つい忘れそうになるが、■インが残したのは苦い記憶だけではない。

研究の片手間に、横を歩く青年に関するレポートも制作しなければいけないのである。

意味があるかも分からない上司命令にはうんざりするばかり。

しかして、無意味と決まったわけでもないも以上、手を抜くわけにもいかないだろう。

かろうじてため息を呑み込んだヴォ■シーは、呑気に後をついて来る青年に、つい苦笑を溢した。

それは呆れか、それとも慕情からくるものか。

(……情なんて持つべきじゃないのにね)

更なる苦笑と共に白衣のすそひるがえし――ついでに淡い黒灰の髪を揺らしたヴォ■シーは、青年を連れ立って研究室へと姿を消す。

『もう戻って来たのか。オレも一本吸いに行こうと思ってたのに』

『別に……一人で行けば良いだろう?』

『ヴォ■シーはそれで良いんだろうけど、オレは話し相手が欲しいくちなんだよ。喫煙所でこそアイディアが浮かぶって言うだろ?』

聞こえてくるのはジェ■の声と――

『あー、そのくだらない暴論ね。体に悪いだけなんだし、煙草休憩なんか辞めて一緒にストレッチしない?皆でやれば絶対楽しいよ~?』

『……いやー遠慮するよ』

『そうだね。僕もジェ■も体は動かしてる方だし……■ウを誘った方が良いんじゃないかな?ねえ、■ウ?』

『えっ!?やめてくださいよ!?イース■ーと取っ組み合いなんかしたら、冗談じゃなく骨折れると思うんですけど!?』

軽快なイース■ーの声と、情けなさを帯びた■ウの声。

そしてもう一つ。

彼らをまとめるエ■ファスの声だ。

『ふざけるのはソコまで――ヴォ■シーも戻って来たし、次の調査の話をしようか。ジェ■の休憩はその後で良いね?』

基本的に外に出る事はないが、調査のためならば話は別だ。

一堂に会した彼らは資料を囲み、調査対象の見分を広める他、資料や生態の回収手順についてを突き詰めていく。

それを陰ながら見守る青年は信じていた。

この日々がずっと続いていくのだと。


だが現実はいつだって唐突で。

終わる時は一瞬だった。


黒く、大きく、本能に訴えかけてくる恐怖。

悍ましい怪物の笑い声が轟いた後には、何もかもが崩れ去っていく。

人が倒れ、また一人倒れ――最後に残ったのは――果たして何だったのか。



『――ニ』



鮮明な――それ以上に曖昧な幻影を集める傍ら、ふと聞こえた声に耳を傾ける。

『――アニ』

それは自分の名前だっただろうか。

(……アニ)

頭の中で聞こえた声を反芻し、アニ――自分ではまだ自己を認識し切れていない青年はゆっくりと瞼をこじ開けた。

嗅ぎ慣れた匂い。

見慣れた鉄板の天井。

少し硬い、いささか薄汚れてきたソファ。

視界に飛び込んで来るのは、それも見慣れたものばかりで――

『Sir.アニ――お目覚めですか』

ついでにもっと見慣れた電脳箱[K-hack(コハク)]の姿に、アニは夢の世界から現実へと引き戻される。

『調子はいかがですか?』

「……おう」

『痛むところは――あるいは違和のあるところは――どこも問題はないでしょうか?』

「んー……頭はガンガンしてる」

『それは――二日酔いの症状です――ですから飲みすぎは良くないと――……』

「分かった分かった。説教は良いって。それより――……」

どうやら眠っていたらしい。

顔を合わせた傍から小言の多い電脳箱[K-hack(コハク)]をあしらい、アニはズキズキと痛む頭を両手で捏ね繰り回した。

(……またあの夢)

痛むのは本当に酒のせいなのか。

それとも、何度となく蘇る幻想のせいなのか。

グリグリとこめかみを揉み――アニはハタと動きを止めた。

「…………ん?」

煩い電脳箱[K-hack(コハク)]のおかげでそれなりに綺麗な正方形。

ソファの端にくったりと座る、枕代わりの平たいクッション。

重い玄関扉の近くには、似たり寄ったりの黒いジャケットが吊るされた鉄製のハンガーラック。

見慣れた以外に言いようのない景色をもう一度視界に収めてから、アニは赤く燃える目を一度、二度と瞬くのだった。

「え……?何で家……?」

どこからどう見ても、ここは自分の家だ。

正確には借りているアパートの一室なのだが、自分の住まいである事に変わりはない。

帰って来た覚えのないアニは目を点にし、ふよふよと宙を漂う電脳箱[K-hack(コハク)]に手を伸ばした。

「どうなってんだよ!?」

『Sir.アニ――落ち着いて』

「落ち着いてられっか!!どっか傷は!?へこんだりは!?オリ――ッ……アイツはどうしたんだ!?」

どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。

記憶のハッキリしないアニは、ソファに座ったまま、勢い任せに掴んだ黒い箱に捲し立てる。

こんな時でも電子音は平静だったが――内心はどうなのだろう。

いやに人間味のあるアニの電脳箱[K-hack(コハク)]は、何ともそれらしい口調と音程で、血相を変える主人をなだめるのだった。

『Sir.アニ――まずは落ち着いてください――このままでは説明も出来ません』

「だから落ち着いてっ……!」

『ではワタクシを解放してください――話はそれからです』

「っ……おう。悪い」

悪く言えば頑固ともとれるが、電脳箱[K-hack(コハク)]の指摘にアニも、感情任せに動いてしまっていた事を理解する。

それは、あまりに合理的ではない行動だ。

当然のように電脳箱[K-hack(コハク)]に従って手を離し――手を離し――手を離して、アニはどうしてかもやっとした。


合理的でない事の何が悪いのだろう。


オリアとの時間が増えたせいなのか。

不可逆的でもある思考を頭に過らせかけ――アニはぶんぶんと首を振る。

(それどころじゃねーだろ!)

釈然とはしないが、まずは目の前の事からだ。

姿勢を正したアニは、10cmもない箱へと視線を落とす。

電脳箱[K-hack(コハク)]は電脳箱[K-hack(コハク)]で、乱暴に扱われるのが嫌なのだろう。

避難でもするように背の低いテーブルの上に着陸してから、青白い光を黒いボディに奔らせるのだった。

『まず――本日は十月十八日――天気は快晴――Sir.オリアと共に九十六地区を訪れて後――二日が経過しています』

電脳箱[K-hack(コハク)]が初めに口にしたのは今日の日付と天気。

至って普通の情報だが、それが重要な意味を持つ事にも違いはなく、アニは随分とほっとした気持ちになった。

「そ……っか。二日……」

オリアとの記憶が幻ではなかった事はもちろん、快晴という事は無事目的を果たせたのだろう。

どうにも記憶は曖昧だが、オリアの語る最悪が免れた事に安堵する。

一方で疑問は尽きぬものだ。

牢獄のようなコンテナで目覚めた後、あの集落で何があったのか。

(あれやると、どうにも記憶がハッキリしねーんだよな)

壁越しにオリアと会話したところまでは覚えているが、その後――結局怪異はどうなったのだろう。

何故、何、どうしてと答えを催促すれば、それが存在意義だと言わんばかりに、電脳箱[K-hack(コハク)]は流暢に言葉を紡ぎ出す。

『問題の処理は完了――Sir.オリアがワタクシの修理――並びに――倒れた貴方をここまで運んでくださいました』

「そいつは良かった……って、アイツが!?どうやって!?」

電脳箱[K-hack(コハク)]の修理はまだしも、運転の出来ないオリアがどうやってアニを家まで運んだと言うのだろう。

思わず目を丸くするが、電脳箱[K-hack(コハク)]の答えは予想通りで予想外のそれだった。

『Sir.アニ――貴方の車を運転してです』

「いやでも運転できねーんじゃ……」

『運転出来ない――ではなく――運転しない――です――つまりSir.オリアは日常的に運転行動を行わないだけであり――運転行為が出来ないわけではありません』

「は……はあああぁぁっ!?」

つい叫んでしまうが、アニはふとオリアとのやり取りを思い出す。

「たしかに……たしかに出来ない(・・・・)とは言ってねーけどよ……っ」

思い返してみれば、たしかに〝運転出来ない〟とは一度も言っていない。

ブランクがあって、足に何らかの怪我があって、MT車(マニュアルしゃ)は荷が重いとは溢したものの、運転出来ないとまでは言っていないのである。

それこそまさに金色こんじきの鴉――〝背徳の箱〟が判断を誤った言葉のトリックなのだが、それはアニのあずかり知らぬ話。

まんまと騙された形になったアニは、盛大にため息を吐き出した。

「いくら何でも限度ってもんがあんだろ」

〝Don'tしない〟と〝Can'tできない〟で明確な差があるにしたって、後出しをされては気分が悪い。

呆れに呆れたアニは、遣る瀬無さからボリボリと頭を掻きむしる。

分かりつつあるとはいえ、箱の底を覗く――というのはある種、不毛な事なのかもしれない。

理解させる気のないオリアの言動に苛立ちながらも、今は無事に帰還出来た事実の方こそを噛み締める。

しかし、肝心のオリアはどこに行ったのだろう。

自分以外の気配を感じない部屋に、アニはつい顔を顰めた。

「はあー……で?オリアはどこに?」

『Sir.オリアは急務のため帰宅――伝言メッセージを預かっています』

「……急務ね。まあ良いけどよ。再生頼む」

『かしこまりました――伝言メッセージを再生します』

勝手にいなくなるところまでオリアらしい。

完全に毒気を抜かれたアニはごろりと転がって、電脳箱[K-hack(コハク)]の中に残されたオリアの声に耳を傾けるのだった。

聞こえてくるのは――

『やあ、アニ――これを聞いているという事は大事だいじないようだね――問題があっても此度の怪異について説明するわけだが……まあ――聞き流してくれても構わないよ――君の記憶にあるかはさておき、怪異の正体はからすにまつわる伝承の複合体――今は〝背徳の箱〟と呼ぶ事にしよう』

ザリザリとした電子音混じりの穏やかな声。

優しい声音が眠気を誘うが、語られるのは子守歌になるような内容ではない。

加えて、相槌を待つ事もない録音だ。

再生機器と化した電脳箱[K-hack(コハク)]が口を挟む事もなし。

『〝浮沈の箱〟――君の打ち克った龍神・菩提樹タイジュ――彼女の最後の呪いが光を奪ったわけだが――恐らくその光は水府すいふへと送られたらしい――背徳ソドミーの語源ともなったソドム――聖書に伝えられる都市の名前なんだけど――ソドムは湖の底に沈んだとも謂われているんだ――水府を文字通り水底と捉えるなら――〝背徳の箱〟は沈んだ光を得て――あるいは天と地が相互に浮き沈む事で――表層化したのだろうね』

ペラペラと早口に告げられる概要と顛末に頭痛を激しくしながら、アニは一人、オリアの口弁に耳を貸す。

とはいえ、理解出来る内容は微々たるもの。

「………………うぐぐ」

ただでさえズキズキと痛む頭をパンクさせながら、小難しい話を懸命に咀嚼そしゃくするのだった。

「何か……いたよな?とりみたいなの。あれが〝背徳の箱〟って事か?」

オリア曰く――あの雪山の集落には〝金烏キンウ〟を名乗る鴉の怪異がいたらしい。

八咫烏やたがらすに、ソドムに、ワタリガラスの伝承に、童謡ナーサリーライムにと――恒例の聞き慣れない単語ばかりが飛び交う中、アニは薄っすらと記憶に残る怪鳥の姿を思い起こす。

「あれがそのキンウって奴で……オリアの言ってた箱?何だあれ?残骸みてーなのが、キンウを倒す鍵になった――って感じか?」

〝浮沈の箱〟もそうだが、怪異をたおすのには何らかの手順プロセスが必要になる場合がほとんどなのだそうだ。

多くは〝開ける〟――つまりは怪異の存在を〝洗う〟事に繋がるが、アニにはいまいちピンとこない。

以前として首に巻かれたままの異装[I-sow(イソウ)]ごと首を掻いては、煩雑はんざつになった記憶の点と点を繋げていく。

その手をピタリと止めたのは――未知への恐怖というものか。

異装これ……本当に大丈夫なのか?)

オリアを疑いたくはないが、そもそもこの異装[I-sow(イソウ)]とは何なのだろう。

理性も記憶も置き去りにする衝動に、アニは思わず息を呑む。

ゴキュリ……と喉が鳴ったのは、果たして何への渇望なのだろう。

ほの昏い感覚に呑まれそうになったアニは、ごろりと寝返りを打って違う事を考える。

どこか懐かしい声色。

嗅ぎ慣れた匂い。

散漫とした頭に過るのは、忽然と姿を消した青年の顔だった。

「アイツ……何だっけ?レ……?ラテ――じゃねーな。えっと……」

いけ好かない男――村長だが何だか知らない輩を蹴散らしたあの青年は、何者だったのだろう。

「――レツェ?」

記憶の奥底から名前を引きずり出し――声に出して――アニは首を傾げた。

「……レツェ……だったか?」

間違っていない気がするのに、そうではなかったと異を唱える自分もいるのは何故なのか。

「…………」

雑音混じりのオリアの声をBGMに、アニはその違和の正体を考えるに考えた。

ごろごろとソファの上を転がって、時折首の古傷を掻いは転がること数秒。

「……分っかんねぇ」

解説を続けるオリア――もとい電脳箱[K-hack(コハク)]を横目に、アニは眉間に皺を刻んだ。

喉まで出かかっているのに、肝心の答えが出てこない。

どこかで見た事がある気も、匂いを知っている気もするのに――結局レツェと名乗る青年について思い出せる事は、雪山での邂逅かいこう以外にないのだった。

(夢の内容もハッキリしねーし、何かスッキリしねーんだよな)

一つ――一つだけ分かるのは、オリアに関わる事はろくでもないという事だろう。

夢然り、怪異然り、理解しえないもどかしさばかりが募っていく。

その気苦労も知らず、ソファに項垂れるアニの耳には、変わらず電子音混じりのオリアの声がこだまするばかり。

『――交通費と――お駄賃かな――振り込んでおいてから確認しておいてくれ――君には世話になっているからね』

「……欲しいのは金じゃねーよ」

返事のない音声に愚痴を溢しながら――しかして、最後の言葉に頬が緩んでしまうあたり、もう救いようがないのかもしれない。

「…………クソッ」

しおらしく自分を受け入れるオリアの姿を思い出したアニは、すっかり深みに嵌ってしまった自身に悪態を溢した。

鼻の奥で蘇る煙草の匂いが。

舌に残る甘くほろ苦い味わいが。

思慮深い紫の眼差しが。

まるでふわふわと漂う煙のように、アニの事を捕えて放さない。

箱と見るや自ら収まりに行く猫の気持ちが分かった気がして、アニは顔のパーツというパーツを中央に寄せるのだった。

(また……っ!またヤっちまったけど……アイツも悪くはねーって思ってんだよな……?)

一夜の過ちも、二度三度と続けばそれはもう過ちというものではない。

怒るでも嫌がるでもないオリアに淡い期待を寄せたくなる心も、それこそ間違いではないだろう。

(今度こそ……続くか?)

切なく散った初恋に始まり、苦い思い出の残る最初の恋人。

その後に出遭った相手とも長くは続かず――気付けば数年。

(……認めるしか、ねーよなぁ)

あーだこーだと理由をつけて目を逸らそうともしたが、オリアに抱いているのは、過去のどれよりも強い情念だ。

初めはもちろん、同性を相手にそういう気になった自分への驚きもあった。

理解より先に体の関係を持ってしまった事への罪悪感も大きかった。


だが今は――怪異の件を抜きにしても、オリアの傍にいたいという想いが胸を埋め尽くしている。


腹立たしいのが許せてしまうくらい。

自分勝手なところを〝らしい〟と言い捨てられるくらい。

無理難題を吹っ掛けられても応えたいと思えるくらい。

気付けばもう、オリアという存在にほだされて切ってしまっているわけだ。

(それさえムカつくけどよ)

強烈な独占欲まで芽を出してしまった以上、もはやこの感情の意味を誤魔化す事は難しい。

(……次。次会ったら――……)

クッションに顔を埋め、アニは〝背徳の箱〟も雪山での事もそっちのけで、その先の事に思いを馳せる。

研究だか何かは知らないが、自分以上にオリアの役に立てる人間もいないだろう。

いまだ――どころか一生理解出来る気はしないが、オリアと一緒なら怪異との遭遇も悪いだけのものではない。

波乱万丈な未来を思い描き始め――というところで、電脳箱[K-hack(コハク)]がチカチカと強い光を明滅させる。

『……――着信が来ています』

再生されていたオリアの声が一転。

現実に引き戻すかのように、無機質な電脳箱[K-hack(コハク)]の声がアニを呼ぶ。

もっとも、アニの頭はすでにオリアの事でいっぱいだ。

「オリアか……っ!?」

バッと顔を上げ、長い長い蘊蓄うんちくを寸断した電脳箱[K-hack(コハク)]へと目を向けた。

実際問題、このタイミングで連絡をしてくるのは、オリア以外にいないだろう。

期待の眼差しが電脳箱[K-hack(コハク)]に降り注ぎ――……電脳箱[K-hack(コハク)]は気まずそうに体を斜めに傾ける。


そして――

『……Sir.カケイからの通信です』

絞り出すように、その一言だけを音にするのだった。

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