Q-T[outside the BOX](2)
その日、世に怪異が溢れ出した。
怪物、怪奇現象、幽霊、呪い、未確認生命体。
呼称は数あれど、彼らは端的に位相の異なる存在。
伝承として語り継がれ、物語として楽しまれ、度胸試しとして最後には呆れられ、架空の存在として生み出され――人の世に在りながら、人の世にはない想像上の存在としてあり続けた。
当然それらを認識しうる者もいたが、その多くは彼らと相違える者。
陰陽師、退魔師、エクソシスト、神官、巫女、降霊師。
こちらも多様な呼称を持ち、相容れぬ異人たちをあの世に留めてきたのだった。
だからこそ、全てはおとぎ話として認識されてきたのだが――それももう限界がきてしまったのかもしれない。
その日、世に怪異が溢れ出した。
誰がそんな日を予見できただろう。
真っ赤な顔に長い鼻、柏の葉を手に空を駆ける天狗が山を支配する様を。
口の裂けた女が〝ワタシ、キレイ?〟などと問答する姿を。
首のない甲冑の騎士が、夜な夜な首を求めるように徘徊する恐ろしさを。
急成長した植物が、人里にまで蔦を伸ばす異常さを。
本来なら特定の条件下にのみ確認出来るモノが、一部の人間にだけ視えるモノが、人知れず現れるモノが、白日の下に闊歩する様になったのだった。
それでも幸いだったのは陰陽省――名だたる陰陽師を抱える組織が、一早く事の解決に当たった事だろうか。
怪異の出現こそ防ぐ事は出来なかったが、寝食を惜しんで祓魔に勤しんだ彼らの活躍によって、溢れ出した怪異の多くは白昼夢の出来事として人々の記憶に残る事はなかった。
不幸中の幸いはもう一つ。
発端となった場所もまず良かった。
何の実験をしていたのやら。
怪異を現実へと引き摺り出したのは、陰陽省が注視していた研究施設〝財団B-O-X〟――通称BOX財団が所有する山奥の土地だったのだ。
全てを全てなかった事にするのは不可能だが、表向きはさる研究施設の火災と爆発、それに伴う大気汚染という形で収拾がつけられる事になったのである。
ガスや薬品漏れの危険性を訴えれば、近隣一帯を閉鎖・隔離する事も容易く――幾許かの怪異を逃がした事を除けば、被害は最小限に留まったと言えるだろう。
解き放たれた怪異が数百にも及び、以前として研究施設に足を踏み入れられていない事を除けば――だが。
表向きとは言ったが、人命を呆気なく奪う臭気が蔓延しているのは事実。
いかに陰陽師であれど、黒い毒霧に覆われたその場所に辿り着くのは簡単な事ではない。
現地においては毒素の除去を第一に。
さらに外においては逃げ出した怪異の討伐を最優先に、かねてなく忙しい日々を送っているのである。
その騒動には当然、かの青年――コウジュツも名を連ねるのだった。
天と地を結ぶ山に理を持つ彼は、今日も今日とて山に潜む悪鬼を狩る。
「この程度……!!」
「無理すんなって、おっさん」
「黙れ!!この程度の妖、俺一人で――ッ」
「はいはい。文句は後で――まあ、聞く気ないけど」
以前であれば相棒-コウジュツにしてみれば介護だが-であるテイビ一人に任せても問題なかったが、量が増えれば自ずと質も上がるという事なのだろう。
共食いでもしているのか。
前にも増して厄介になった妖怪や怪異を相手に、呑気に様子を見るなんて真似は出来なくなった。
それでも天才肌であるコウジュツの敵ではないのだが、何とか喰らい付いているテイビには荷が重いらしい。
目の前で弾け飛んだ怪物――天狗を忌々《いまいま》し気に見やってから、黒い目をコウジュツに向けた。
「余計な横やりを……。俺一人で十分だと何度言えば分かるんだ?」
「だとしても、一人で突っ走るなっての。ばあさんも言ってんだろ?一人の怪我は全員の損失だって」
「あの程度で怪我などするものか。それより……ばあさんなどと気軽に呼ぶな。お前も陰陽省に属する陰陽師なら、ちゃんとジンシン様と呼べ」
「……めんどくさ」
うっかり本音が漏れるも――コウジュツの悪態は、仲間を倒された天狗の咆哮によって掻き消える。
その数、優に十は越えるだろうか。
金切声を上げる天狗を仰ぎ、コウジュツとテイビはようやく息を重ね合わせた。
「チッ……次から次へと面妖な」
「ほんとにな。ゴキブリじゃねーんだから、うじゃうじゃ湧いてくるなっての」
「その例えもどうかと思うがな」
通常、天狗のような強い力を持った妖怪が群れを成す事は非常に稀な事だ。
群れたとしても、飛び抜けた頭と木っ端たちの集団になるのが常で――やはり今の状況は異様と言えるだろう。
S級でも特級でも表現は構わないが、本来頭となる個体が群れを作るなど、これまでにはあり得なかった事だ。
ギャーギャーと煩く喚き散らす天狗の大群を前に、コウジュツは五芒星の宿った瞳を物憂げに伏せた。
「めんどいし……――九重――〝喰〟」
そして、五芒星で異形を射抜く。
九又に割れた髪の束が舞い踊る様は尾の如く。
風が揺らいだと認識した時には、我が物顔で空を飛ぶ天狗たちは、一匹残らず消え去っていた。
「はい、終わり」
抉れた空には巨大な狐の顔が一つ。
手遊びのような歪なそれが九つに解ければ、そこには何の変哲もない茜色が広がっている。
逢魔ヶ時の赤色に滲み始めるのは、夜を連れ立つ紫紺の雲で。
「暗くなる前に後片付けしないとな」
「……分かっている」
呆気なく終幕を迎えた戦場に、テイビは拳を握りしめた。
(クソッ……!!クソッ!!生意気な小僧が……ッ!!どれだけ俺の手柄を奪えば気が済むんだ!!)
その腸は煮え返り、涼しい顔のコウジュツに怒りを募らせる。
もっとも、テイビの手に負えるのは中堅程度の異形に過ぎない。
手柄を上げようと逸りはしても、根源となる怪異を祓うのはいつもコウジュツの方だった。
しかしテイビは認めない。
その力量差を受け入れる事は、テイビにとって耐えがたい屈辱で――
(ジンシン様が目を掛けているからと大目に見てきたが……もう限界だ。どうしてコイツばかり評価され、俺が日陰者にされなければならんのだ)
手に負えない怪異に立ち向かうより難しい事でもあったからだ。
こちらはこちらで怪異に負けず劣らず。
以前に増して苛立ちを募らせながら、天狗に引き寄せられた悪霊たちを力任せに調伏していくのである。
それを横目に、コウジュツは鳥の形にくり抜かれた紙を空に飛ばす。
霊力の籠った紙は意志を持って空を駆け――瞬く間に、夕闇の彼方へと消えていった。
入れ替わりに、人型にくり抜かれた和紙がひらりと舞う。
「げっ……追加じゃないよな?」
思わず小言が漏れるが、差出人――ジンシンの知った事ではない。
力を失った和紙は蛇腹折りの文へと姿を変え、コウジュツの手に収まった。
若いとは言っても――先に語った〝山の物の怪事件〟から早四年。
27歳になったコウジュツは、長さを増した髪を振り乱す。
纏う服は四年前とそう変わらず。
元よりシンプルな衣服を好むコウジュツは、細身のジーンズに、ゆるさのある黒いシャツという、至って簡素な恰好で怪物退治へと繰り出していた。
ある意味では顔の良さが成せる業か。
おっさんことテイビが着ても寝間着の域を出ない出で立ちながら、コウジュツが着ればお洒落な一張羅に早変わり。
傍目には、住職の父親と息子に見えなくもない――かもしれない。
住職然とした姿のテイビに後始末を任せたまま、コウジュツは達筆の文面に目を通す。
ジンシン――陰陽省の現責任者であり、コウジュツにとっては師匠でもある彼女の字は読みにくい事この上なく。
世間一般では草書体。
コウジュツ目線ではミミズが這ったかのような文字を懸命に読み取っていく。
「……えーっと?」
つい声が上がるのは、疲れが溜まっているからこそか。
怪異の放流からすでに幾許。
休む間もなく怪異や妖怪、果ては異国の怪物の相手をする羽目にもなればストレスも蓄積するというもの。
独り言を溢したコウジュツは、いささか乱暴に蛇腹折りの紙を一気に広げ見た。
「これは……名簿?っても、あそこで働いてた連中が生きてるわけねーだろ。生きてたらムカつくっつーか……あ?」
古臭い和紙に書かれていたのは、どうやら何人かの素性らしい。
事の発端となった場所。
〝財団B-O-X〟が所有する研究施設で働いていた研究員の名簿のようだった。
震源地とも言える研究所の人間が到底生きているとも思えないが、万一の可能性もあるからだろう。
共有された情報を頭に叩き込み――コウジュツはある一点に目を留める。
「は……?」
それは忘れられない名前。
忘れる事の出来ない人の顔。
間違えるわけもないその名に、コウジュツは我が目を疑った。
「んで……あなたが」
まるで当然のようにリストに名を連ねる存在に、自然と声が震えを帯びる。
「…………何で」
一緒に居る事を望み、けれど生きる世界が違うからと見送った意味とは何だったのか。
一寸たりとも望まない形でのその名との再会に、コウジュツは瞳に宿る五芒星までを震わせた。
「……普通に生きるって言ったくせに。何でこんなとこに居んだよ。こんな事になるなら……こうなるって分かってたら、あなたを手放さなかったのに……っ!」
これでは何のために、その手を離したか分からない。
出版社に勤めると教えてくれた彼が。
趣味程度には研究を続けると微笑んだ彼が。
共に過ごした土地を旅立った彼が。
普通に生きたいと願った彼が。
何故――普通から最も遠いその場所に生きていたのだろうか。
五芒星がチリチリと揺らぐ中、コウジュツは懐かしい名を口に出した。
「■■■さん――……」
もっとも、呼んだ名前はくぐもって音にならない。
それは自らが放った呪い。
誰にも彼の人の名前を呼ばれないよう、自らの想いを封じるよう――もう一度本人に会わない限り、解けない呪いを振り撒いた。
(あの名前だけはオレのものであって欲しかった。けど今となっては滑稽な話だよな。あの日のように、あなたを呼べないなんて……馬鹿な話だよな)
それが愛称の一つに過ぎないとしても、慣れた名を口に出来ないもどかしさは相当のものだ。
自らの業に引き裂かれそうになりながら、コウジュツは蛇腹折りの手紙を閉じる。
一つ――一つ幸いなのは。
■■■が生きているだろうという事だ。
気付かれぬよう守護の陣を施しておいた甲斐があったというもの。
病を防ぐ事は無理でも、事故はもちろん怪異の魔の手から守ってくれるのが、別れの際に張っておいた結界の陣だ。
年数を刻んだため効力は弱まっているだろうが、もしその陣が壊されたなら、相応の反動がコウジュツに降りかかるようになっているのである。
それがないという事は、少なくとも命が瀕している可能性は低い。
崩壊した施設に取り残され、今も救助を待っている状態なのだろう。
だが前述の通りだ。
閉鎖・隔離をした以上、自衛隊や消防隊の救助の手が入る余地は潰えている。
根源ともなった研究施設に足を踏み入れる事が出来るのは、もはやコウジュツたち陰陽師だけで――コウジュツは五芒星の宿った目で空を見据えた。
(すぐに行きます)
助けられるのは、駆け付けてあげられるのは、きっと自分だけだ。
たとえそうでなくとも、じっと黙っている事は出来なかっただろう。
覚悟を決めたコウジュツは、テイビに手紙を渡しがてら、後始末へと参戦する。
(もう少しだけ待っていてください)
最悪の再会が待つのだとしても、二度も手放すよりはよほど良い。
もう一度あの名前を――もはや呼ばれなくなった自らの名を呼んでくれる存在を胸に、コウジュツはまず今日の仕事に終止符を打つ。
「……なるほどな」
その横顔を――テイビは見逃さなかった。
思い詰めたコウジュツの表情の秘密が、受け取った文に記されているのだろう。
その秘密を暴けば全ては逆転――否、あるべき姿に戻るはず。
(たしか……この辺りだったか)
いけ好かないコウジュツの狐面を崩せるなら、この状況も悪くはない。
コウジュツが熱心に見ていた場所を探っては、テイビは内心ほくそ笑んだ。
その内にも夜は帳を下ろし、怪異たちの時間が幕を開けようとする。
今宵現れるのは、鬼か龍か、それともゾンビかデュラハンか。
コウジュツたちもまた、明けぬ夜を終わらせるために力を尽くすのだった。
さりとて箱は開いたまま。
開けてはいけない匣は空いたまま。
彼らはそれを――怪異の氾濫――と呼ぶ。




