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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
19/65

case.4「BOX the S-undo-M」(03)

『……――ヴォ■■■』

静かに響く深い声。

椅子に座っていた男は顔を上げ、自らを呼ぶ相手に視線を向けるのだった。

『何だい、エ■ファ■』

『伝える事があるのだが、良い報告と悪い報告――ドチラを先に聞きたい?』

『それは……嫌な振りだね。でもまあ、普通に考えて悪い話が先かな』

『妥当な判断だ。もっとも、アナタには良い話かもしれないがね』

眼鏡と眼鏡に阻まれた視線が交錯すれば、横に広い男は大粒の目を細くする。

恰幅の良さに比例するかのような大きな顔に乗る眼鏡はいやにこじんまりとして見え――しかして本人はそれを窮屈に思う事もなく、長椅子の上でコーヒーを啜る男の隣へと腰かけた。

ほんのりと香るのは苦味を伴う豆の香ばしさと、そこに混じる微かな煙の重さで。

時を負う毎に増える煙草の残り香に寂寥を覚えながら、エ■ファ■は自ら持ってきたお茶の紙コップを両手で包む。

茶色の湖面に映るのは、お茶と同じ茶色の肌色と黒い瞳。

その表情かおは上手く笑えているだろうか。

小さな不安を胸に、エ■ファ■は世間話でもするように口を開いた。


『■インの処遇が決まった』


しかし、その内容は軽々しく話すようなものではない。

まして〝悪い報告〟という前触れがあった後だ。

ヴォ■■■は僅かに目をみはり、それも束の間、焦燥を飲み下すように黒々としたコーヒーを口に含んだ。

『……それで彼は?』

『幸い――カレにとっては不幸だろうが、患部の切除だけで済んだそうだ。行動に問題があったとしてアナタとの接触を禁止。手配が済み次第、他の研究所に移動される事になっている。リハビリも……そこでになるそうだ』

『そう。それは良かった……のかな』

■イン――それは同僚の呼び名。

そして、ヴォ■■■の悩みの種でもあった黒い男の事だ。

遺伝性色素異常症メラニズムに生まれた彼は、幼い頃から奇異の目で見られてきたのだろう。

どこか屈折した大人へと育った■インは、人には言えない嗜好しこうを抱えるようになったのだった。


結果、ヴォ■■■を襲いかけ――手痛い一撃を貰う羽目になったのが数日前。


大事な大事な息子に傷を負った■インは医務室へと駆け込み、今なおベッドの上で恨み言を吐き続けているらしい。

その間にもエ■ファ■が上層部へと本件を報告し、■インの――つまりはヴォ■■■への処遇が下されたというわけだ。

セクシャルハラスメントどころか、レイプされかけたヴォ■■■としては、■インがどうなろうと知った事ではないが――それでも少なくない時間を共有した仲間でもある。

『他の場所……か』

『それでは不満だったかね?』

『いや、過分なくらいだよ。罰せられるとしたら、僕の方だと思っていたから』

どうにも後ろめたい気持ちを感じながら、ヴォ■■■は■インに下された処罰を受け止めるのだった。

自然と視線を落としたヴォ■■■。

その肩にエ■ファ■はそっと丸々とした手で触れる。

『国民柄――と言うには、アナタの優しさは毒にも思うがね。カレの工学者としての知識が素晴らしかったのはたしかなこと。■インの旅立ちを祝福しようじゃないか』

『……人格の改善も願っておくよ』

『ふっははは!それもソウだ。移動先にまで、カレの目に止まる相手が居るとは思わないがね』

もしこれが■インだったら、肩に置かれた手を悍ましく思うのだろうか。

父親らしい素振り-事実、エ■ファ■は三児の父だが-に得も言えぬ感情を抱いたヴォ■■■は、話もそぞろに自らの過去を思い返す。

(あの人は……こういう時に困った表情かおをするんだろうな)

浮かぶのは、実の父の顔。

虐待を受けたわけではなかったが、ヴォ■■■にとって父という存在は、手放しに尊敬できるものでも、信頼できるものでもなかった。


否――自分が平穏を壊してしまったのか。


コーヒーのようなほろ苦さを。

煙草のようにチリチリと灰を焼くもどかしさを思い出し、ヴォ■■■は居場所になり得なかった場所を頭から追い払う。

その頃にはエ■ファ■も香料スパイスの利いたお茶で喉を潤し、もう一つの話を始める準備が整っていた。

『サテ……次は良い報せだ』

『悪い報せの間違いじゃなく?』

『たしかに……悪い報せだったカモしれない。アノ子への処罰についてだが――……』

そもそもの話、■インに課せられた処遇が〝悪い報告〟だったかと問われれば、はなはだ疑問の残るものである。

研究員らのチーフを務めるエ■ファ■にとっては、優秀な人材が抜けるという事実が〝悪い報告〟だったのだろうが――余計な勘繰りをしたくなるのも、ある種当然の事だろう。

処罰という言葉に改めて眉を顰めれば、エ■ファ■は空になった紙コップを手ににこりと微笑んだ。

『アナタに監視・監督が言い渡されている。月に一度レポートを提出する義務と言えば良いだろうか。それがアナタたちへの処罰というわけだ』

『……それだけ?』

『ソウ。ダカラ良い報せで……悪い報せだったカモしれないと言ったんだ』

揶揄うように笑って、エ■ファ■は見た目にも重そうな腰を持ち上げる。

一方、拍子抜けしたヴォ■■■は、まだ中身の入ったタンブラーを落っことしそうになった。

〝良い報告〟とは言っていたが、本当にここまで甘い処置があるだろうか。

つい怪訝に皺を深めるが、一服を終えたエ■ファ■の背中はもう遠く。

『上の命令だ――困ったからと、イー■■ーに丸投げはやめてくれよ』

やはり揶揄うように笑って、白い廊下の向こうへと消えていくのだった。

休憩所のベンチに取り残されたヴォ■■■は、タンブラーの底で揺れるコーヒーを一気に煽る。

『……しかたないか』

あえて〝良かった〟とは言わず、ヴォ■■■もまたゆっくりと立ち上がる。

決められた休憩時間もタイミングもないとはいえ、いつまでも油を売っているわけにもいかないのが現実だ。

件の相手――今頃ヴォ■■■を探してうろうろと歩き回っている影を掴まえるべく、白衣を纏った男は椅子を離れるのだった。


事実上の処罰を免れた者と、左遷を言いつけられた者。

彼らが交わる事なく幾日が過ぎ――……


挨拶や送迎会もないまま、■インは箱のような施設から姿を消した。

顔を合わせないのが互いのため。

そうは思っても、前触れのない別れは寂しさを連れてくるものだ。

無論、招かれるのは寂寥だけではない。

■インと入れ違いにやって来たのは、そばかすと言うには大きく派手な斑点を体全体に散りばめた男だった。

『カレはジェ■――今日付けでココの配属になった。皆良くしてやってくれ』

『あー……ご紹介に預かったジェ■です。機械工マシニストってとこかな。箱詰め《デスクワーク》より現場の方が好きなのと……身長は198cm!どうぞよろしく』

会う相手全員に聞かれるのだろう。

自ら2m近い身長を公言した男は、ひょろりと背の高い体を難儀そうに体を丸めて挨拶する。

それを聞くのは広間に集められた三人で。

ジェ■の隣でどっしりと構えるエ■ファ■が、それぞれに肉厚の手を向けていった。

『簡単にだが……カレは■ウ。ココでは一番の若手だ』

『■ウです。自分は机に齧りつきたい(デスクワーク)派なので、そっちは任せてください』

遺伝性色素異常症アルビノのカノジョはイー■■ー』

『どうもイー■■ーでっす!生物いきものの事ならお任せあれ!私も現場大好きだから、一緒になる事も多いかも。これからよろしくね!』

若さ故の茶目っ気を残した■ウ。

紅一点のイー■■ーと挨拶が終わり、エ■ファ■の目が最後の一人へと向けられる。

『そしてカレが――……』

僅かにウェーブのかかった――否、寝癖か。

少しうねった黒灰の髪に、煙水晶にも似た紫苑の瞳。

眼鏡をかけた柔和そうな、あるいはぼんやりとした男に視線が向けば、エ■ファ■の紹介が終わるのを待たず、ジェ■が口を開いた。

『君が噂の……ああ!前任のような趣味は持ってないからそう警戒しないで!久々に刺激的な話を聞いて、どんな人なんだろうって思ってたのさ。これからよろしく』

『こちらこそよろしく、ジェ■』

前任――■インの不祥事はジェ■の耳にも届いているらしい。

冗談めかしているのか、ヘラヘラとした性格なだけなのか。

長躯の男は良く言えばニヒルに、悪く言えばだらしない笑みを携え、ヴォ■■■の手を握りしめた。

至って普通の握手だが、それを良く思わない者が一人。

黒い影がひらりと舞い込んだかと思えば、

真っ黒な毛を揺らした青年が、ヴォ■■■に触れるジェ■を睨みつける。

もっともの話だが――

『……こら』

『ウッ……!』

ヴォ■■■に軽く叩かれ、前に出かけた頭をすごすごと下げるのだった。

『ほんとヴォ■■■のこと好きよね』

『イー■■ーが言うんだから間違いナイ』

『ジェ■さんも気を付けてください。噛み付かれても知りませんよ?』

『それは怖い……まあ、変な事はしないから安心してくれ』

微笑ましい光景に、顔合わせの緊張感も吹き飛んだのだろう。

皆で青年を笑い――研究に没頭する日々が始まり直すのだった。


挫折と失敗。

繰り返すばかりの作業。

時折訪れる進展――そして振り出し。



その果てに叡知は実を結び――……



ふと覚醒する意識――そして嫌な予感。

指先を動かすのもだるい倦怠感。

ズキズキとした鈍痛。


ぼんやりと揺らぐ思考を掻き集めるように、アニは意識を取り戻した。

(また……あの夢……)

少しずつ輪郭が明瞭になっていく夢想。

その夢が意味する事は何なのか。

(ヴォ――……ダメだ。思い出せない)

思い浮かんだ言葉を紡ぎかけ、いまだ鮮明にはならない音に、一度は開いた目を静かに伏せる。

(けど……知ってる。知ってる気がする。アイツは俺の――……)

朧げに浮かぶ残照。

温かく穏やかな腕の温もり。

とても幻想とは思えない熱に縋ろうとし――アニはバチリと目を開く。

「……――オリア」

思い出せない夢よりも。

不確かな幻想よりも。

今この瞬間考えなければいけないのは、目の前にいる男の事だ。

とはいえ、目の前というのはあくまで表現上(・・・)の話である。

ガバリと起き上がって――

「ッ……!?」

オリアを探す間もなく、アニはそのまま横に転がった。

「クソッ!うざってえ!」

どうやら手足を縛られていたらしい。

足を一纏めに、手を後ろでに結ばれたアニは芋虫のように身をよじって、下を向いてしまった体勢を元に戻そうとする。

ごろりと転がって膝立ちになったところで一息。

アニはいくらか冷静に自分がいる場所を見渡した。

「どこだここ……?」

わけの分からない場所に連れて来られるのはこれで二度目。

だが前回と違って、今いるのは客室という様子ではなさそうだ。

物置きといった風な狭い正方形の中には何もなく、冷えた床板と、見慣れたコンテナの鉄壁だけが広がっていた。

唯一の出入り口となる扉は、当然の如く施錠済み。

びくともしない扉の向かい壁には、格子に覆われた窓があるが――そちらはそちらで幸いと言って良いものか。

「ううっ……!!毛布くらいねーのかよ!!」

極寒の冷気が吹き込む箱の中は、お世辞にも温かくなく、アニは不自由な体をブルリと震わせた。

鼻に届くのも、肺を凍らせかねない泥と雪の香りばかり。

手が使えなければ異装[I-sow(イソウ)]を起動する事も出来やしない。

困り果てたアニは、寒さを凌ぐように身を小さく小さく丸めていく。

(コハクもいねーし、どうすりゃ良いんだよ)

酸欠で死ぬ事はなさそうだが、このままでは凍死しかねないだろう。

動く事も出来ず、まして異装[I-sow(イソウ)]も使えないとなれば、もはやアニに出来る事はなし。

アニはただ小さく体を丸くする他なかった。

そこに響くのは――

「……アニ?」

「っ……オリア!居んのか!?大丈夫なのか!?」

「んー……たぶん同じ状況かな」

聞きたくてやまないオリアの声。

どうやら騒ぐアニの声に気付いたらしい。

壁越しに響いたオリアの声を頼りに、アニはずりずりと壁の一面に近付いていく。

「君こそ怪我はないかい?」

「おう。縛られてっけど、それだけ。お前は……本当に大丈夫か?殴られてただろ?」

「僕は平気だよ。電脳箱[K-hack(コハク)]は……駄目かもしれないね。僕と一緒に居るけど、うんともすんとも言わないから」

「あっ……あー……だろうな」

最後に見えたのは、オリアと電脳箱[K-hack(コハク)]が横殴りにされる光景だ。

話す声のトーンからいってもオリアは大丈夫そうだが、精密機械である電脳箱[K-hack(コハク)]は故障ショートしてしまったのだろう。

歯切れ悪く返事をし、アニは罪悪感から唇を強く噛んだ。

ズキズキと頭が痛むのも、胸がもやもやするのも、ただ単に二日酔いの症状なのだが――アニがそれを知るわけもなく。

初めてにも近い酒に呑まれたアニは、情けなく倒れた自分を恥じるのだった。

もっとちゃんと警戒していれば。

せめて一杯で辞めておけば――尽きぬ後悔はさておき、アニは恐らく背中合わせになってるだろうオリアに声を掛けた。

「俺たち、どうなっちまうんだ?」

「うーん……すぐに殺す気はないんじゃないかな?今すぐじゃないだけで、殺されない保障もないけどね」

「……あっさり言うなよ。けどアイツら……あの方とか儀式とか言ってたな」

「儀式は知ってるんだね」

「そりゃ葬儀とか色々あんだろ。馬鹿にすんなっての」

オリアの思う儀式リチュアルとアニの考える儀式セレモニーには大きな差があるのだが、そこに気付くのはオリアだけだ。

アニは小言を吐き出し、冷えた壁に後頭部を付けた。

「なあ。ゴクウって何なんだ?」

恐らく、この状況を打開するために必要なのは〝ゴクウ〟が何かを紐解く事だろう。

一人では頭を抱えるしかないアニは、素直にオリアへと問いかける。

無論、帰ってくる答えは――

「んー……ゴクウと言われてパッと思い浮かぶのは斉天大聖せいてんたいせいかな。別名を〝孫悟空(そんごくう)〟。魔猿(まさる)石猿(いしざる)とされる――謂わば神仙しんせんの一人だね」

「……出たよ。また意味分かんねーのが」

もはや恒例の、聞き慣れない単語のオンパレードだ。

聞きたいのはそこじゃない――そう言ってやりたいが、オリアにとっては解説含めての結論なのだろう。

「その名には〝最も天に近しき者〟、〝宇宙を悟る者〟なんて意味があるらしい。今となっては〝西遊記さいゆうき〟と呼ばれる冒険譚に記される姿が共通認識となってるけど……おおやけ流布るふされる以前は、猿神かみとしてまつられていた――なんて話もあるようだよ」

窮地に置かれている事も顧みず、長々と弁を垂れた末に、一つの解釈を音にする。

釈迦如来しゃかにょらいの酒の失敗によって生まれたとか何とか……かなりの暴れ者で自信家。部下を使ってあらゆるものを集めたさせた逸話も有名だね。意外と……今の状況に通ずるところもあるかもしれないよ」

「じゃあ、そのセイテンタイセイってのが悪さしてるって事か?」

「それはどうだろう?何せゴクウと言われているのはこちらだからね。盗みを働こうとする悪猿を諭すのは……それこそ釈迦如来か三蔵法師さんぞうほうしの仕事じゃないのかな」

だが、怪異の正体を決定付けるには至らないらしい。

話は振り出しに戻るかと思われ――しかして、オリアには何か思う事があるようだ。

窓を渡ってか、壁を通してか、いつもと変わらず落ち着いた声がアニの耳を静かに撫でる。

「かねては御幸ごこう――つまりはお偉いさんの旅行の事だね。そう呼んでいたと言っていたし、こちらがお釈迦様しゃかさまという可能性もあるかな。もしくは後光ごこう……これも御仏みほとけというわけだけど、天魔てんまや悪魔といった仏敵ぶってきが怪異と化したとみても良いかもしれないね」

「うー……ぐぐぐっ!もっと分かりやすく!」

「……外から来た者が変革をもたらす。何が目的かはさておき、〝ゴコウ〟はそういうモノなんじゃないかな。これ自体は〝浮沈の箱〟……いや。今まで見てきたどの怪異にも通ずる話だね」

災禍さいかの箱〟は開ける者なくして成り立たず。

宝食ほうしょくの箱〟もまた噂を聞いて近付いた者から宝を奪い、〝浮沈の箱〟も富をもたらすいしずえにされた。


箱はしまうものであり、そして開く者がいてこそのモノ。


富であれ不幸であれ、住人たちが〝ゴコウ様〟と呼ぶ者には、箱を開ける役割があるのだろう。

そこまでを紐づけ――

「雑学はこれくらいにして……儀式という事は、間もなくここに人が来るだろうね。僕が時間を稼ぐから君は箱を……三つほど探しに行ってくれるかい?」

オリアは壁を三回叩いた。

乾いた音は軽々と響くが、それとは逆に告げられたのはただの無茶振りだ。

二進にっち三進さっちもいかないアニは、壁越しに吠えるのだった。

「探せ――っても、どうやってだよ?」

「どうも何も、君には異装[I-sow(イソウ)]があるだろう?」

「いやだから!手ぇ縛られてんだから無理だろ!?」

手足を縛られたままでは、首を覆うチョーカーに触れる事は出来ない。

子供でも分かる状況を叫ぶが、もっとも相手はあのオリアである。

僅かな空白の後、諭すような声がアニの鼓膜を静かに揺らす。

「……意識の問題だよ」

「んなこと言われても……」

「最初に言ったはずだ。異装[I-sow(イソウ)]は通常的に扱えていない能力を引き出すものだって。裏を返せばそれは……初めから君自身に備わっている力でしかないという事でもある。その力はもう君の手足、君の一部。わざわざ触れずとも、君の意志で引き出す事も容易なはずだ」

「俺の力……?」

「そう――君はただ思い描けば良い。戦うための姿を。生き抜くための意志を」

たしかに思い返してみれば、龍神・菩提樹(タイジュ)に喰われかけた時、触れずして獣へと姿を変えるに至ったのだ。

その事実を思い出し、アニは大きく息を吸い込みながら目を閉じた。

意識を集中し――深呼吸。

吸い込んだ冷たい息を吐き出す事に、凍りついていた感覚が鮮明なものへと変わっていく。

(オリアが言ってんだ。出来ないはずがねぇ)

何故そうまで全幅の信頼を寄せてしまうのか。

自分でもその真意が分からないが、不思議と自信の方は沸き立ってくる。

熱く滾る血が四肢へと巡り、舞い落ちる雪の音の一つ一つまでを鼓膜が広い、雪に溶ける匂いを鮮明に拾えば――その姿は、赤い閃光を奔らせる黒々とした狼へと変じていた。

『グルルッ……アオン!』

鋭利な牙が並ぶ口腔から溢れるのも、獣じみた咆哮だけだ。

勇ましく雄叫びを上げた黒狼は、煙のように姿を消すのだった。

否――オリアの前でその姿を揺らめかせる。

『ワフッ』

「良いかい、アニ。君が探すべき箱は三つ。根本が何であれ、追い求めるモノが星日月ほしひづきである事は変わりようがないからね。今の君になら……吹き溜まりのような場所も自ずと見えてくるはずだ」

『ギャウッ!』

「僕は大丈夫――さあ、お行き」

怪異を形作るのが何であれ、見つけるべきは失われた光以外にない。

優しく見送られ、アニは後ろ毛を引かれながらも狭いコンテナを後にする。

煙となった体はあっという間に格子窓の外に消え、オリアを一人置いて行くのだった。

僅かに覗く外には大粒の雪。

しんしんと降り積もる雪は、まるで箱のように山奥の集落と外とを隔絶する。

冷え込んでいく一方の正方形で待つこと十数分余り。

降り積もる雪が嵩を増してようやく、ガヤガヤとむさ苦しい男たちの声が耳に届いた。

「逃げやがった!」

「ちゃんと見張ってねーからだろ」

「見張ってたよ!どうやって扉以外から出るっていうんだよ!」

若い声、低い声、渋い声。

様々な男の声が揉め合う中、オリアの閉じ込められたコンテナの扉がつぃと開く。

いやに冷めた顔の青年――やはり彼らのまとめ役なのだろう。

二人を焼酎でもてなした黒髪の男が、髪よりも黒い服を纏って姿を現した。

「見捨てられましたか」

「逃がした――と言って欲しいかな」

「御冗談を。逃げるとすれば貴方の方でしょう?自らは酒に口を付けなかった癖に、ご友人には随分と勧めていたではありませんか」

開口一番、男はオリアを鼻で笑う。

強硬手段に出たのは己のせいだ――そう言わんばかりの非情な眼差しが、座り尽くすオリアをねめつけていた。

対して怯む事なく、オリアは笑みを返す。

「一つ忠告するよ」

「この期に及んで何を……」

人身御供ひとみごくう――随分と分かりやすい名前をつけたものだね。次からはもっと違う呼び名にした方が良いんじゃないかな」

笑みと共に紡がれた言葉。

ゴクウ様――その呼び名が意図するものを告げられ、青年は片方の口角を僅かに歪ませる。

「つまり……あえて逃げなかったと?」

「さあ、どうだろう。薬くらいは入ってると思ったけどね。まさか寝込みを待たずに殴られるとは……流石に驚いたよ」

背後に屈強な男たちを抱えようと、空気を掌握するのは真実を知る方か。

しかし、男の方も笑みを崩しはしない。

「……食えない人ですね。ですが……知っているなら話は早い。一人減ったのは誤算でしたが、あなたには我らが主への供物になって頂きます」

歪に笑い、オリアを連れ出すよう指示を出すのだった。


供物くもつ――その言葉の通り、人身御供ひとみごくうとは生贄いけにえの事。

神への供物くもつとして、人身じんしんを捧げる行為である。

この地に置いては稀人まれびと――外から来た客人を神の招いた供物と捉え、生贄として捧げているのだろう。


それをオリアは、ゴクウの名を耳にした時点で理解していた。

だが虎穴に入らずんば虎子を得ず。

致死性の毒ではなかったからこそだが、酒を舐めるに留め――しかして怪しまれない程度にアニに酒を勧めつつ、探索に出る機を窺っていたのである。

もっとも、その計画はあっさりと頓挫とんざしたわけだが、それはそれ、これはこれだ。

思考を切り替えたオリアは正面から、彼らの信奉する存在――噂に聞きし、日月を盗みし獣の元へ向かう事にしたのだった。

「ほら、早く連れて行きなよ。君たちの主人の元へ」

「言われずとも。あなたにもすぐ、あのお方の尊さが理解出来る事でしょう」

「すでに理解しているつもりだよ。妄信する気がないだけでね」

「……その減らず口、治ると良いですね」

腹の探り合いはもはや不要。

男たちを煽るに煽ったオリアは、吹雪に隠れるかのように佇む雪山へと連れて行かれるのだった。

山のふもとにはぽっかりと開いた深淵の口。

オリアは無慈悲にもその穴へと投げ入れられる。

「では――良き再会を待っております」

再会という事は、生きて帰れるという事なのか。

満面の笑みの男たちに見送られるように、オリアは闇の中を転がっていった。

その先に待っていたのは、眩いばかりの金世界。

目が痛くなる程の金色こんじき御殿ごてんが、雪山の内部に鎮座しているのだった。

とりわけ煌々《こうこう》と輝くのは、熱く燃える太陽で。

黄金の日差しの下に投げ出されたオリアは、紫苑の瞳を限りなく細くする。

そこに影を差すのは、黄金に輝く一羽の鳥。

三つの眼と、三対の羽と、三本の尾羽。

そして三又みつまたに分かれたあしを持つ巨大なからすが、オリアの前へと降り立った。

『待っておったぞ!』

若く活気溢れる――と言えば、聞こえは良いだろうか。

キンキン煩い轟音が、鼓膜を破りかねない勢いで降り注いでくる。

『お前は……狐?いや犬か?いやいや狐のような……?いや狐かぁ?まあいい。余の威光を盗みに来たのだろうが……余は寛大である!その狼藉不問ろうぜきふもんとし、お前も余の群れ(ハレム)に加えてやろう!光栄に思うが良い!』

話を聞かない度合いはオリアと良い勝負かもしれない。

無論、それを本人が気づくよしもなし。

傲岸不遜ごうがんふそんな怪鳥を仰ぎ、オリアは一手を取りにいくのだった。

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