case.4「BOX the S-undo-M」(01)
case.4開幕
「――免許持ってねーのかよ」
言わば起きがけ。
言わば病み上がり。
気だるさの抜けない状態で運転席に座らされたアニは、助手席に座るオリアに不満を漏らした。
遠回りな苦言になったのは、怒るほどの体力が戻っていないからか。
欠伸と《あくび》一緒に流れ落ちる涙に目を凝らしながら、土砂降りのその先を見ようとする。
しかして見えるのは、フロントガラスを叩きつける雫が九割。
かろうじて見通せる景色は茶色く濁り、対向車どころか前を行く車も見えないというのに、その進みは牛歩を越える事はない。
蝸牛にも劣りかねない道程に、アニはつい苛立ちを募らせた。
せめて運転を代わってくれたら――そう思って言ちてはみたが、オリアの返事は色よいものには程遠い。
「免許――か。持ってるには持ってるんだけどね」
「ブランクか?」
「それもあるけど……あまり足が良くなくて。それに君の車はMTだろう?僕には少し荷が重いかな」
「なるほどな――って、どっか怪我してんのか!?」
運び屋を利用している時点でお察しではあるが、自分で運転する事は稀らしい。
渋い返事に嘆息する――のは僅かな事で、アニは初めて知る事実に目を丸くした。
(言われてみりゃ、走ってんの見た事ねーけど……)
運転どころか運動も苦手そう。
たしかにそんな印象があったものの、足が悪いなどとは誰が考えようか。
昨日今日で負った傷ではなさそうだが、オリアがようやく見せた弱味に、アニは苛立ちも忘れて眉を下げた。
運転そっちのけで横を向けば、視線を感じたオリアもチラと視線を右に向ける。
「……君ほどじゃないよ」
「けど痛むんだろ?」
「だから……君ほどじゃない。自業自得みたいなものだし、歩けないわけではないから……気にしないでくれ」
だが目が合うのは一瞬だけのこと。
すぐに逸らされた視線からも分かる通り、あまり触れられたくない事らしい。
珍しく不機嫌になった声色が、心配するアニを拒絶するのだった。
(そんなに信用ねーのかよ)
やっと近付いたと思っても、すぐこれだ。
干渉を許さないオリアに寂しさを覚えれば、先とは違う腹立たしさが胃の奥でぐずりと熱を帯び始める。
それ以上にジクジクと痛むのは、チョーカーに覆われた古傷だ。
雨のせいなのか、煮え切らない気持ちのせいなのか。
ぐるりと首を一周する傷が、熱をもってズキリと痛み――アニは気を紛らわすように前を向いた。
窓の外に広がる景色は変わらず。
怪異〝浮沈の箱〟によってもたらされた嵐が、逃げ場はないと言わんばかりに車窓を叩きつけている。
時刻は朝と昼の丁度中ほど。
とはいえ、太陽が昇らず、まして月も顔を見せないとなれば、今が何時かも分からなくなってしまいそうだ。
時計が正確な時間を告げているにしても、感覚は徐々に徐々に狂い出すもの。
いずれは朝も夜も不明瞭になり、気が病んでいくのだろう。
だからこその浮沈。
だからこその爆発。
オリアがそう呼ぶ理由を直感だけで感じとり、アニは重い息を吐く。
当然のように昇る朝日に感謝した事などなかったが、それがどれだけありがたい事だったか。
雨の日には決まって痛む首に辟易としながら、普通だと思っていた日常を恋しく思うのだった。
だがその日々も――
(本当は全部、夢だったりしてな)
現実だったのかと問われると、もはや答えに悩むものに変わってしまっていた。
『……――次の十字路を直進――10km程の場所に休憩所があります』
変わらないのは無機質な電子音だけ。
ダッシュボードの穴に収まった電脳箱[K-hack]が、まるで〝個〟などないかのように道案内に準じている。
全知全能を謳うにしては勿体ない〝知〟の使い方なのはさておき――その箱に従い、何の間違いも、何の不安も、何の迷いもなく生きてきた人生は何だったというのだろうか。
一夜の夢を越え、現実まで浸食し始めた悪夢に、アニはもう何が夢で何が現実かの区別がつきそうになかった。
あるいは――あるいはだ。
オリアという存在だけが、夢の中の産物なのかもしれない。
無意識に退屈を嫌った結果――もしくは意味の分からない恐怖をやり過ごすために、心地よい声の幻聴を、そこはかとなく理想に近い姿の幻を作り出してしまったのかもしれなかった。
いつにも増して顔色の悪いオリアを横に、アニは答えのない泥沼にズブズブと嵌っていく。
(……お前は一体、何なんだ?)
思えば、オリアの目的は何なのか。
怪異を調べているとは言っても、その理由を聞いた覚えは一度もない。
(つーか、ちゃんと調べてんのか?俺が倒してばっかで何も残ってねーよな?)
そもそもの話、現物が残ったのは〝災禍の箱〟の一つだけ。
〝宝食の箱〟も、〝浮沈の箱〟も調べるべきモノは欠片も残っていない。
事象の観測だけで十二分なのかもしれないが、アニに調査や分析の何たるかが分かるわけもなく――どうにも腑に落ちない気持ちでオリアに視線を送るのだった。
「……なあ」
「…………」
「オリア?お前……酷ぇ顔になってるけど、本当に大丈夫か?」
「ああ……うん。あまり休む時間がなくて……煙草、吸っても良いかな?」
「……一本だけな」
もっとも、本当に聞きたい事は胸の奥。
あまりに具合の悪そうなオリアに、アニの口からは気遣いの言葉が先に出た。
身体を想えば煙草も止めるべきなのだろうが、我慢させるのも気が引ける。
アニは右手でハンドルを握ったまま、左手で窓の開閉ボタンと、換気ボタンの二つを手早く押した。
電脳箱[K-hack]に頼んでも良かったが、ぼんやりと光る青い点は、どうにもオリアが煙草を吹かすのを良しと思っていないらしい。
文句を言いたげな恨みがましい視線を切り捨て、煙草を咥えるオリアをミラーごしに盗み見る。
(風邪ひいてなきゃ良いけどよ)
開けた隙間はほんの少しだけだが、如何せん外は土砂降りだ。
季節も相まって水滴は冷たく、そこにミントの風合いの強い煙草となれば、余計に体は冷える事だろう。
そうでなくとも、昨晩ずぶ濡れになっているのである。
見るからに体調を崩しつつあるオリアを心配するアニを余所に――
「……さて、どこから話したものかな」
当人は白い煙と共に、いつもと同じ文言を吐き出した。
残り半分を切った紙巻に、薄っすらと底を満たすライターオイル。
終わりを予兆させるそれらを感慨深く思う事もなく吐き出された言葉に、アニはつい口を曲げそうになる。
しかし、事の本題はそれ以外にない。
昨日の怪異の事、これからすべき事――その全てを知っているのは、間違いなくオリアただ一人だけなのだから、話を遮ってもしかたないだろう。
揺れが少しでも減るよう、アニはハンドルを握る手に力を込めた。
「…………」
「…………」
それとない気遣いをオリアは知っているのか。
気付かないフリをしているのか。
微かな空白の後、窓の外に煙を吐き出してから、掠れた声を溢した。
「まずは……ウキヨ伝説についてかな。君が出会った怪異――というかは、あれは龍神だね。彼女の名は菩提樹。回香の妹にあたるそうだよ」
ウキヨ伝説――既に懐かしい気分さえする名前に、アニはやる気なく声を返す。
口の中で籠った音は、声というにはほど遠く――けれどオリアにはそれで充分だったようだ。
手に持った煙草を極力窓の方に向け、調べ上げた内容をぼそぼそと語り出す。
「ウキヨ伝説――正確には龍に纏わる伝承だね。それ自体は各地に散見されるもので、様々な形態のものが見つかっているんだ。その中でも特に内容の似通った――今回で言えば龍宮や満願、人が水に関連する龍になる部分かな。それらを調べる内に回香と菩提樹――似て非なる二人の存在――もっと言えば、二つを繋ぐSir.チリの存在に行き着いた――というところだね」
覇気が足りないのは、やはり調子が優れないからだろう。
豪雨のあまり意義を感じさせないワイパー然り、休みなく働いた結果が今というわけだ。
オリアが何をどう働いているのか――そこまでを汲み取る事は難しいが、怪異との戦いで都度サポートしてくれている事だけはたしかな事。
活力のないオリアに比例するように、元より亀の歩みだった車が、さらにその速度を落としていく。
「そーいうのは先に聞きたかったけどな。どうりで姉がどーのこーの言ってたわけだよ」
「聞く前に帰ったのは君だと思うけど……まあ良いか。いくつもの伝承を重ね合わせるに、国の南半分を姉の回香が、北半分を妹の菩提樹が治めていた――という話らしい。ここで言う国は水府――海の下に広がる下界と考えられるけど、ウキヨ伝説になぞらえて、今は龍宮と呼ぶ事にするよ」
「……ほぁ。つーか、つーかだよ。大事な話があんなら引き留めろよ!?おかげでこっちは……ああっ!過ぎちまったし良いけどよ!!」
水府だの、龍宮だの、いつも通りの慣れない単語に、アニは気の抜けた声を出し――すぐに怒りの色を乗せる。
だが茶々《ちゃちゃ》を入れたところで話は長くなるだけだ。
物憂げなオリアの横顔にどうにか溜飲を下げ、つい荒くなった運転を顧みる。
踏み込んだ足を浮かせれば、それを再開の合図と受け取ったらしい。
白い煙を燻らせながら、オリアがまたゆっくりと声を溢していく。
「亀を助ける――というのは一つの比喩として……Sir.チリは回香の眷属を助けるなり、彼女のお眼鏡に適う何かをしたんだろうね。そうして彼女の統べる龍宮へと招かれた」
「助けた恩にしちゃ最悪だな」
「彼にとってはどうだったのか……真偽は分からないけど、龍宮を訪れたSir.チリは生きて浮世――つまりは地上へと戻ってきたわけだ。その折、手土産に化粧箱を渡されたんだろうね。その箱を持って北の地へと渡り、奇しくも――いや、化粧箱に導かれてかな。彼は菩提樹に出会ってしまった。これが一見バラバラに見える〝ウキヨ伝説〟と〝堆珠湖伝説〟を繋ぐ真実だと、僕は考えているよ」
龍神となった回香と菩提樹。
彼女たちの求めたチリという青年が、此度の怪異を語る上での鍵になるらしい。
疲弊の抜けない声色で、オリアはそこまでの見解を淡々と述べていく。
そこで口を挟むのは――
『たしかに――Sir.オリアの語られた〝ウキヨ伝説〟――並びに第六十九地区に伝わる〝堆珠湖伝説〟――これらは相互に補完し合っているように見受けられます』
意外にも電脳箱[K-hack]だった。
「おっ!まっ!大丈夫なのか!?」
当然アニは目を大きく見開き――電脳箱[K-hack]は一瞬黙りこくる。
突き刺さるのは驚愕の視線か。
それとも冷酷な眼差しか。
吐き出される煙を小さな体全部で感じ取った電脳箱[K-hack]は、どこか弱々しく青い光を明滅させる。
『大丈夫――とは何の事でしょう?』
「不具合とか……色々あんだろ!?この前みたいに急に壊れたりしねーよな!?」
幸い、アニの心配事はその一点のみ。
事なきを得たとばかりに、電脳箱[K-hack]は四角四面に口を開く。
『……先日の不良は整備不足によるものでしょう――〝ウキヨ伝説〟についてはSir.オリアにご教授頂きました――ので電脳箱からも見解をお伝え可能です』
「えぇ?」
「君が眠っている間、いささか暇だったものでね。彼女――いや、彼かな?電脳箱[K-hack]に話を聞いて貰っていたんだ」
「あっ……そうかよ」
アニは一瞬顔を顰めるが、考えてみれば所詮はただの昔話だ。
〝ウキヨ伝説〟についてはそもそも一緒に聞いていたわけで――怪異として捉えなければ、電脳箱[K-hack]がおかしくなる事もないのかもしれない。
やはり腑に落ちないものを抱えながらも、アニは再びハンドルを握る手に集中する。
それも束の間のこと。
「君が隠そうとしていた箱」
「ん゛っ……!!」
オリアの放った一言に、アニは思い切りアクセルを踏みつけた。
急加速した車は激しく揺れるも、この嵐の中で出歩く人間はまずいない。
スリップしようと、反対車線に飛び出そうとも衝突する相手はなく、大きく横滑りした後に元の位置に戻るのだった。
「ッ――……ぶねぇ」
何とか持ち堪えた車内には、胸を撫で下ろすアニの声。
そして――
「あの箱――というかは棺か。一人の人間に執着し、悪神になりかけた菩提樹は、愛する者の手で木乃伊へと変えられ、かの地へと封印されたのだろうね」
場違いな程に平然としたオリアの声が静かに響く。
緊張感の欠片もないその姿に、アニは覚えたくもない気味の悪さを感じるのだった。
「……お前」
「本当は殺そうとしたのだろうけど……人が神を屠る事は容易くない。命を奪う事までは叶わなかったんだろうね」
「…………なあ、オリア」
「そうは言っても、元は人間。神としての格は低かったんだろう。あるいは龍と魚は比して似るもの――という事かな。水失くしては活きられなかったのかもしれないね」
これはもはや、話を聞いていないで済む次元なのだろうか。
運転の腕を信頼しているとも違う、あまりに不自然な平静さに、アニはごくりと唾を呑み込んだ。
ぶり返すのは、初めて怪異に出会った時の悍ましさで。
「……っ……」
トラッキングシューズを履いた足は、自然とアクセルを強く踏み込んでいた。
そうして未知への恐怖――オリアに感じたくなかった感情から目を逸らす。
「……殺すとか屠るとか物騒だな」
「君がそれを言うかい?」
「俺のは……しかたなくだろ。向こうが襲ってきてるだけっつーか、端からやり合おうとは思ってねーよ!」
「……そう。それは少し……困るな」
「あ?何だって?」
誤魔化しがてらの感想に返ってくるのは呆れと――何だったのか。
尻すぼみになった声は車体を叩きつける雨音に掻き消え、オリアはやはり何事もないように薄く笑んだ。
「……いや。もしかしたら回香も菩提樹と同じく、木乃伊にされているのかもと思ってね。ああ、木乃伊というのは平たく言えば干物かな。君も食べた事くらいあるだろう?」
「あー……干物。干物か。言われてみりゃ、そんな感じだったな。けどそんな事して何になんだよ?恨まれてたわけでもねーのに、わざわざそのミイラだかにする意味があんのか?」
「うん?これは僕の推察だけど、Sir.チリ――彼は金銀財宝を箱に詰めて持ち出したんじゃないのかな?」
「急に最悪みてーな話になったな!?」
木乃伊というのは、木箱に入っていた珍妙な置物の事らしい。
あの木箱に気付かれていた事も衝撃だが――その語り様はまるで、怪異ではなくチリの方が悪者と言っているかのようだ。
雲行きを変え始めた話に、流石のアニも先の不安を忘れて声を大にする。
怪奇現象が一転、現実にありうる男女のいざこざになったのだから、吠えたくもなるというものか。
そこには、アニが恋愛に夢を見ているという側面もあるのだが、そんなのはオリアの知った事ではなし。
笑みを強めたオリアは、煙にでも巻くようにその続きを語るのだった。
「でもね、アニ――伝説に語られる通り、Sir.チリはあの地の娘を選んだんだ」
北へと移り住んだ青年――チリ。
彼は回香でも、菩提樹でもなく、ただの人間と結ばれた。
それが意味する事をオリアは告げる。
「その娘の名はカケイ。以来、彼の者の家では、女児が生まれるとカケイと名付けているらしいね。というのも、彼があの地に多大な富――堆もる程の珠をもたらしたからに他ならない。その恩恵にあやかった結果、今でもその風習だけが残っている――という話だよ」
カケイ――聞き覚えのある名前の裏には、長い歴史の積み重ねがあったそうだ。
だが、話の根幹はそこではない。
奇をてらうように、オリアは一つの問いを投げ掛ける。
「捨てられたのは、果たして中身の入った箱だったのかな?」
「えっ?」
「いやなに――Sir.チリが捨てたのは、財宝を取り出した後の空箱だったんじゃないかって思ってね。そうでもなければ、堆もる程の珠をもたらすなんて到底無理な話だろう?もちろん、これは僕の想像だよ?でも浮気夜を許さないとまで謳うくらいだ。本当なら箱の中には、呪いが詰まっているはずだったんじゃないかな。愛する男を奪った女を苦しめる――そんな呪いがね」
今一度語るが、化粧箱とは嫁入り道具の事である。
結納に際し金が要り様になった時、あるいは着飾る妻への贈り物として、箱を開ける日がいつかは訪れるだろう。
そして、その時に回香の呪いは裏切り者たちへと降りかかる――はずだった。
しかし、青年はその呪いすら上手いこと平らげてしまったのだろう。
「領域を侵す者は浮魚となるも、愛するからこそ浮魚には出来ず――されど浮気夜は許さない。それがあの唄に込められた回香の――菩提樹の恋慕だったんだろう。だからこそ――かな。Sir.チリはその心を利用した。彼女たちが自分を殺せないのを逆手にとって宝を奪ったに飽き足らず、付き纏われる事がないよう――いや、復讐される事がないよう、彼女たちを封印したんだろうね」
浮魚とは水面に浮かぶ魚。
つまりは死を意味する言葉に他ならない。
チリという青年は憂世を離れるも、結局は浮世に焦がれ、されど浮魚になる事を拒み――更には浮気夜の罪さえも泡に変えたというわけだ。
その結びに――
「愛する男に騙され、捨てられた怨恨が積み重なり、長い時間を掛けて山となる。そうして姉妹の死を引き金に――爆発!」
オリアは紫苑の目を細めて手を叩いた。
何もかもを引っくり返すオリアの見解に、アニはただ唖然とするばかり。
――人間が一番怖い。
さもありなん。
しかして想像とは真逆の結末に、アニは堪らず頭を抱えそうになる。
「んな、馬鹿な話……あるんだろうな。お前が言うくらいなら、あり得るんだろうけどよぉ……」
襲ってきた相手を庇いたくもないが、もしその解釈が正しいのだとしたら。
二人の女を誑かして財宝を盗んだ挙句、別の女と家庭を築いた青年の方がよほどよほど恐ろしいのではないだろうか。
いつの間にやら、怪異を絶対的な悪だと決めつけていた事に気付かされたアニは、少しは元気の戻ってきたオリアを見てため息をついた。
(なんつーか、なんつーかなぁ……)
分かってはいたが、自分とオリアでは見ているものも、見えているものも違い過ぎる。
埋まらない齟齬を前に、アニは拳の代わりにぎゅっと唇を噛みしめた。
(倒すだけじゃ駄目なんだよな。それだけじゃ、コイツの役には立てない。もっと……知らなきゃいけねーんだ。コイツの事もカイイの事も)
巻き込まれた体でいれば、頼まれた体でいれば――外野でいられる。
甘たっれたその思考を振り払うように、今度は自分の意思で強くアクセルを踏み込んだ。
どうしたってオリアを放っておけない事に変わりないなら、尻込みして後悔するくらいなら――ここでちゃんと前に進むべきなのだ。
首を燃やすジクジクとした痛みを押しのけ、アニはいまだ煙草を吹かすオリアに問いかける。
「今更……だけどよ。何でカイイってのを調べてんだ?」
「言ってなかったかい?」
「聞いたかもしんねーけど忘れた。聞く理由はそれで十二分だろ?」
「……口が上手くなったね」
褒めているのか、貶しているのか。
オリアは白い息を吐き出し、ろくに見えもしない外に目を向ける。
「初めは……そうだね。ただの興味だったかな。失くしたものを取り戻せる気がした――とでも言うんだろうか。惹かれるものがあったんだよ」
「何だよそれ?」
「比喩というかね……最初はただ調べて、自分なりに解釈したり、それを話し合ったりだね。時折、神社や仏閣、心霊スポットに行ったりもして……知見を増やしていったんだ。そこに大儀なんてものはなかったよ」
神社も仏閣も、何なら心霊スポットが何かも分からないが、怪異に関係する事だけは間違いないだろう。
アニは適当に頷きながら、郷愁に耽るかのようなオリアの声に耳を傾ける。
何て事のない始まりは、アニの思うものだったのか。
オリアは短くなった煙草を口に、どこか躊躇うように続きを囁いた。
「その後は……そう。研究に没頭した」
「研究……?」
「僕が怪異と呼ぶモノ――つまりは科学では説明の出来ない奇怪な生命体や超常現象。神話に語られる魔法や道具。そういったものを再現出来たらそれは……凄い事だろう?万病に効く仙桃があれば、今は治療法がない病を治す事だって可能になるし、巨大な豆の木や蕪があれば食糧難に苦しむ事もなくなってくる。どんな環境下でも育つ植物だとか、鬼門を利用した特定地点を繋ぐワープホールだとか……ある意味ではSFと相違ないようなものかな。生活を便利にするためというと聞こえは良いけどね。僕は……そういった研究をしていたんだ」
怪異――仙桃――空想科学。
アニには分からない言葉の羅列を一息に語り、オリアは薄くなりつつある紫煙を吐く。
輪になる事なく揺れる煙は窓の隙間に呑まれ――
「まあ……僕の場合、怪異に会ってみたかったから――ってだけなんだけどね。その夢は……既に叶ったというわけだ」
それを横目にオリアは笑う。
ふいを付いた笑みは眩しく、アニはぎゅっと固く唇を結ぶのだった。
「オッ――――ンンンッ!!」
〝君のおかげで〟――今の笑みには、間違いなくその言葉が隠れていた事だろう。
オリアに認められた気になったアニは、平静を保とうと全身を力ませる。
(今のはナシだろ……っ!!つーかコイツ、俺の事すっ――好きなんじゃねーか!?じゃなかったらこんな……――だああっ!!冷静になれ!!コイツのペースに呑まれんな!!!!)
きゅうぅ……っと胸を締め付ける情動に耐えながら、アニは壊れかねない強さでハンドルを握りしめる。
『…………』
一人で百面相するアニに注がれるのは、さめざめとした青い光だったが、今のアニがそれに気付く事はないだろう。
(とりあえず、今はこの雨が先……先だよな!?片が付いたら……まあ、その……一緒に飯くらい…………)
匂いが好き――が一つ。
雰囲気や穏やかな声音に心地よさを覚えるのがもう一つ。
一度でも抱いてしまったという義理やら罪悪感やら独占欲がさらに一つ。
結局オリアから身を引けそうにないアニは、逸る心を抑えてぬかるむ土道を走らせていく。
オリアの事だ。
怪異を調査・研究する理由も言葉の通り。医学のためやら何やら、悪い方向のものではないはずだ。
惚れた弱味を地で行くアニの運転する車は、黒雲を打ち上げた堆珠湖を離れ――気付けば早数時間ほど。
窓から入り込む隙間風のせいもあって、その車内は随分と冷え込み始めていた。
気を利かせた電脳箱[K-hack]が暖房のスイッチを入れる中、一服を終えたオリアに、アニはつい浮かれそうになる声で問いかける。
「んで?この先には何が待ってんだ?」
「行き先は――第九十六地区。そこに興味深い民話があってね。正確には僕の知る民話で語られる場所がそこだろう――と言うべきかな。日月を盗んだ獣が棲んでいるらしい」
「その獣が光を奪ったって言いてぇのか?」
「額面だけなぞればそうなるか。でもこの話は逆でね。さる獣が真っ暗な世界に光を灯そうと頭を凝らす話なんだ。独り占めは良くない――という教訓のようなものかもしれないね」
「ふーん?相変わらずよく分かんねー話だな。さっきの……エスエフとか、セントウとか。お前の話は、いつ聞いても分かんねー事ばっかだけどな。まあ……聞くのが嫌ってわけじゃねーけど……」
そもそもオリアの話が奇々怪々としているのはさておき、次の目的地は第九十六地区。
最北端と言っても過言ではない、寒冷地帯に位置する場所だ。
悪天候のせいで誰もいない休憩所で羽を伸ばしつつ、泥に汚れたオンボロ車は海を越えた先へと上っていく。
その内、空からは早くも雪が降り始め――雨なのか、雹なのかも定かではない悪道が濡れそぼった車を待ち構えているのだった。
「揺れるけど我慢しろよ」
「それは……ご丁寧にどうも。まあ、だからといって対策のしようもないんだけどね」
「……手前は一言多いんだよ」
暗い夜道に倒れるのは――何だったのか。
雪に埋もれた看板に気付く事もなく、闇に溶ける車は真四角のトンネルへと吸い込まれていく。
点々と光が灯る暗がりは長く。
龍の臓腑の如く長く――平衡感覚の狂う闇を抜けてようやく、二人と一体は篝火の揺れる箱の山へと辿り着いた。
白く四角い箱はイグルといったところか。
雪で作られたかまくらが、大理石の遺跡のように暗闇の底でもその存在感を放っているのだった。
当然、人っ子一人見当たらないが、監視する者がいたのだろう。
「ゴクウ様――ゴクウ様がいらしたぞ!」
車を降りたアニたち目掛け、一人の男が震える声を張り上げた。
その声に一人、また一人と男が顔を出し、悪天候にも関わらず、あっという間にアニとオリアを取り囲む。
「おお……ゴクウ様!よくぞ参られた!ささ、お入りください」
「我ら一同、お二人を歓迎します!」
空がこのような状態だ。
外の様子が知りたいのか、それとも物資や救援が来たと勘違いしているのか。
男たちは、にこにこ顔で二人の世話を焼こうと集まってくる。
「なっ、なんだよお前ら!?俺はチリでもゴクウでもねえっつーの!!」
「うーん……とりあえず身を任せておこうか」
『電脳箱も休憩を推奨――歓迎されているようですし――彼らに従いましょう』
慣れない歓待に面を喰らうアニと、もはや抵抗する気力も見せないオリア。
そして二人を見守る一体の電脳箱[K-hack]。
人の波に揉まれた二人と、アニの腕に抱かれた黒い箱は、賑やかさを取り戻そうとする街の中に消えていくのだった。
ウキヨ伝説の解説と第九十六地区への到達――02へ続く。
次回7/1更新予定。




