case.3「BOX the B-om」(04)
巨大蛇――正確には龍だが、アニがその名を知る由もなし。
鰐の如く大口を開けた龍の顎が、両腕を失ったアニの体を一思いに呑み込むのだった。
暗く湿った闇に包まれ――その瞬間、アニは真紅の目を見開く。
眼前に広がる深い闇。
尖った歯列から漂う醜悪な匂い。
それらがいやに生々しく脳裏を掠めれば、アニの心は度し難い怒りに支配された。
(ヤメロ……!!)
チカチカと揺れる景色は誰のものか。
怒声は音にならず、震える息ばかりが口の端から漏れていく。
(ソイツは俺のだ!!俺のなんだ!!奪わせてたまるものか……っ!!)
叫ぶ声は自分のものだったのか。
フラッシュバックする情景の意味も分からぬまま、アニは怒りのまま牙を剥く。
その激情が、触れずして異装[I-sow]を起動させるに至ったのだろう。
黒革を飾るチャームに亀裂が入るや否や、黒々とした煙がアニの体を包み込んだ。
そうとは知らず、勢い良く噛み合う巨大な歯列。
ガチンと大きな音が轟き――
「……あら?あらら?」
内側から鳴り響いたその音に、異形へと姿を変えた女は目をパチパチと瞬いた。
肉が砕ける感触もなければ、血が噴き出る熱もなし。
舌先にほのかな甘さを纏った鉄臭さこそ広がれど、咀嚼したはずの肉が口の中のどこにも見当たらないのだから当然か。
歯を閉じたまま素っ頓狂な声をあげれば、代わりとでもいうように、閉ざされた歯列の隙間から赤黒い煙がもくもくと湧き上がった。
血潮のようにも見える煙は、長く伸びた女の鼻先に集まると渦を巻き始め――やがて黒い狼へと姿を変える。
無論、狼というのは一見してのこと。
四肢で立つそれは普通の狼には程遠いものだっただろう。
『グルルル……』
光を通さない漆黒の塊。
毛とも煙とも、はたまた影ともつかない黒曜の体には赤い閃光が脈打ち、眼のよに四方八方を睨みつけている。
ぼんやりとした光は真紅を宿しているのか、それとも朧げな黒霧を揺らめかせているのか。
岩から覗く宝石――もしくは金継ぎを思わせる赤を無数に奔らせる狼は、低く重い唸り声を湖底中に轟かせる。
どこが目とも分からない光は、たしかな怒りを宿し、長躯の怪物に飛び掛かる隙を伺っていた。
その姿に、女もまた声を震わせる。
「チリ様……チリ様なのですね?ああ、そんな……。犬畜生などに魅入られてしまうとは……どうりで私の言葉に耳を貸してくれないはずです」
古くから狐憑き――という言葉があるように、女はアニを狐ないし犬憑きだと考えたのだろう。
哀れみを込めた嘆きを吐き出し、それも束の間、黄金の目で獣を捉える。
通常、龍に睨まれて動けるものなど存在しないが――これも信仰心のなさ故か。
龍の神々しさも脅威も知らないアニは、ギョロリと中心に寄った眼差しを嫌うように、その眉間を蹴り飛ばした。
『ガルル……ッ!!』
『あうっ!?』
前触れのない衝撃に、女は長い首を大きく揺らす。
衝撃は蜷局を巻く尾にまで伝わり、龍となってなお被っていた角隠しが噴水の上に落ちていった。
角隠し――それは白無垢と共に纏う花嫁の衣装が一つ。
鬼の角を隠し、優しく穏やかな妻になる事を誓う意味があるとかないとか。
縁起物でもある白い頭飾りの下からは、目と同じ黄金の宝玉が姿を現すのだった。
額に埋まった丸石の価値は如何ほどか。
下賤な計算をする事もなく、漆黒の獣は跳ね上がって丸見えになった女の顎裏に二発目の蹴りをお見舞いした。
『グルアッ!!』
濡れた壁を軽々と蹴り、さらにもう一発。
壁から壁、天井から噴水、地面から壁と、湖底の広場を縦横無尽に飛び交っては、次々に爪と蹴りを浴びせていく。
唯一明かりが差し込むのは、円形に開けた広場の中央。
女の半身が浸かる噴水の上に、ぽっかりと丸い穴が空いているのだった。
穴の先には湖が広がるも、不可思議な力が働いているのだろう。
水が流れ込んでくる事はなく、アニは地上同然の軽やかさで、打っては揺れてを繰り返す龍をサンドバックに変えていく。
しかし、女の鱗は硬すぎた。
黒狼の顎が何度噛み付こうとも、鋭利な爪が何度切り裂こうとも、全身をバネにした蹴りが叩きつけられようとも、鱗一枚剥げず仕舞い。
蛇腹を揺らめかせては衝撃を逃し、まったくの無傷で獣へと相対する。
『鬼ごっこをご所望なのですね。ではお相手しましょう……嫌になるほどに』
ちょこまかと跳ね回る獣に狙いを定め、湧水から飛び出した龍の尾が宙を踊る。
ドーム状の空間に鎮座する噴水は箱――もっと言えば、ビックリ箱に等しく。
長い胴体は常に噴水に浸かり、バネの如き蛇腹の頭と尾を自在に振り回した。
とはいえ、女の攻撃が煙状の獣を捕らえる事も適わない。
尾が当たったと思っても、鱗越しに感じるのは硬い岩礁の手応えばかりで、ぶわりと広がった霧は別の場所に集まり、五体満足の姿を作り上げるのである。
一進一退の攻防は激しく、それでいてゆるりと続き――
『鬼ごっこではなく、隠れ鬼でしたか?』
『ガフルルッ!!』
『ならば大願成就の神水満たしましょう煙に巻こうと、全て飲み干して差し上げます』
女は噴水から飛び出す頭と尾を、抱き合うように絡ませ合った。
手と手を合わせる、祈りを捧げるかのようにも見えるその姿は――まさに雨乞いか。
天で揺れ動いていた水が弾け飛び、ゴボリと飛沫をあげた水の塊が、女の上に降り注いだ。
ドボドボと流れ落ちる水は滝と同じく。
抜け穴のない広場を浸し始めていく。
見る見る間に嵩を増していく水はアニから足場を奪い、水中では生きられない獣を上へ上へと追い詰めていった。
『バフッ!?』
だが噴き出す水が濡らすのは足元だけではない。
飛び散った水は壁面をも湿らせ、足を滑らせた獣はボチャンと水に落下する。
『ガフッ!!ガフルルッ!!』
『万物の母たる水の元で生きられぬなど可哀想に……。浮魚となる前に……姉様のものになる前に……私と一つになりましょう』
バチャバチャと暴れる狼を嘲笑うように、水を得た龍は悠々とその顎を開く。
『ガウルルアッ!!』
アニは体を煙に変えかけ――吸い込まれる感覚に、咄嗟に舌を伸ばした。
勢い任せに伸びた舌は、飛び出した岩を掴み、バネの要領で湖面へと躍り出る。
『ガボッフ!!』
派手な水しぶきをあげたアニは大きく一呼吸。
しかし、流れ込む水が止む気配はない。
足場となる岩場は着一刻と滝に呑まれ、今となっては龍の体も水の下。
水中に入れば自ずとアニの動きは鈍くなるわけで――追い込まれたアニは〝クゥン〟とか細い声を漏らした。
図体が大きくなれど、所詮は犬か。
ザバン、ザバンと波を立てる龍はその姿を完全に晒し、縮こまる獣へと首を伸ばす。
水面に飛び出した顎は小さくなる獣をしかと捉え、深い闇への入り口を大きく開けた。
その背後――アニは降り注ぐ水の中に光を見る。
『グルッ?』
天から舞い降りる一筋の糸。
キラリと光を放つ糸に気が付いたアニは、ピクリと耳を震わせた。
それが何かは分からないが、真っ白な糸からはたしかにオリアの匂い。
微かながらオリアの気配を感じ取ったアニは、滑る岩肌を蹴って龍の頭に飛び乗った。
飛び上がりながらも見つめた糸は、音もなく水底に下がり――しかし、女の領域に触れたためだろう。
先端から灰となって綻んでいった。
降りてきた矢先、短くなっていくその糸に、アニは弾かれたように手を伸ばす。
『グルルルッ!!』
迫る女の尾を霧散して躱し、長い体の上で再顕現。
揺れる尾を踏み台代わりに、崩れ始めた糸に飛びついた。
風圧で揺れる糸は遠く――だがアニの四肢はしかとその白を抱き寄せる。
『ガルルアッ!!』
柔らかな繊維に触れて咆哮を一つ。
狂喜の遠吠えをあげたアニは、垂直に下がる糸を四本の足で器用に駆け上がる。
『待ちなさい……っ!!』
『ガウッ!!』
『このまま逃がしなどしません!!』
そこからは天目掛けて走るアニと、長い尾を土台に体を持ち上げる女との小競り合いだ。
糸が千切られては、岩礁や女を足蹴に無事な場所まで昇り直し――時に邪魔立てする女を遠ざけようと、その体を薄い霧へと変容させる。
ノンストップの上昇劇は地底を越え――
『小癪な……!!』
『ガルルッ――ルボボボボッ!?』
『ふふ……ここからは私の領分。貴方様に逃げられて?』
やがて水中へと差し掛かった。
水のない場所での逃走劇はあっという間に終わりを告げ、湖のただ中へと突入したらしい。
海底ならぬ湖底火山を作る山の頂――堆珠湖の謂れそのままの山頂から飛び出した獸は、ゴボゴボと気泡を吐き出した。
固く糸を抱き寄せども、湖面を目指す手足は重く、前に進めない。
動きを鈍らせる獣に反し、女は得意顔で。
ゆらゆらと尾を揺らめかせ、糸に縋る獣へと襲い掛かった。
『ガボボッ……!!』
尾の薙ぎ払いは躱せても、水ごと吸い込まれては逃げ場がない。
懸命に糸を掴むが、深淵への口はすぐそこにまで迫っていた。
『さあ、チリ様――今度こそ一つになりましょう?』
水の中でもハッキリ響く女の声は狂気に笑い、必死に耐えるアニの体を、細い糸ごと暗い口中へと誘い込む。
刹那、くんと糸が引き――
『馬鹿な……っ!?』
龍の体を水の上へと引きずり上げた。
無理やり吊り上げられた長躯は宙を舞い、驚愕のあまり、呑み込んだはずのアニを放り出す。
糸を掴んだままの獣もまた月夜の下へと投げ出され、黒曜の全身で月の光を浴びるのだった。
雨を呼ぶ黒雲の中でも満月はその存在感を示し――溺れかけていた獣は意識を覚醒させる。
『――……ンガッ!?』
「僕が手助けできるのはここまで。さあ、アニ――後は君の仕事だ」
満月に照らされるアニを見上げるのは、白い糸の束を抱えた眼鏡の男。
アニを――引いては龍を吊り上げた糸の先はオリアの手元へと繋がり、オリアが水底まで蜘蛛の糸を垂らしていた事を物語る。
それを知ろうと知るまいと――湖底には届かぬ月の光を浴びた獣は、メキメキとその姿を変えていった。
風になびく毛の一本まで鋭利な刃物に変えた様相は、まさに一本の槍――否、銛と言えるだろう。
月光の力を借りた獣は巨大な銛と化し、空であえぐ龍目掛け、鋭い針を振り降ろす。
『グルルアァッ!!!!』
『ッ……お前がチリ様を――……ッ!!!!』
一直線に迫るアニに息を呑む傍ら、オリアを見つけた龍は、黄金の目に憤怒を宿した。
しかし、水に住まう事に慣れた身では咄嗟に空を泳げない。
必死に蛇腹を打てども銛を躱す術はなく――最後には憎悪の叫びと共に宝玉の埋まった額を貫かれるのだった。
『アアアッ――――ッ!!??』
黒い煙に浸食された穴は崩れ、再生する事もなく長躯の全てに亀裂を広げていく。
溢れ出した靄は漆黒の獣に呑まれ――力なく落下した龍は、降り止まぬ雨を一層激しいものにするのだった。
湖面に叩きつけられ、しかして沈む事も出来ぬ様は――まさに浮魚。
自ら死せる魚となった女は、半人半魚に戻った姿で、白い手を静かに伸ばす。
『あ、ああぁ……チリ様……』
『ガルルアッ!!』
『そこな狐に……つままれたの……ですね。魅入られたの……ですね。ああ……口惜しい……やっと、やっとチリ様と……結ばれると思うたのに…………』
冷え切った水滴がオリアと、その傍に降り立ったアニを濡らす中、女は恨みがましくオリアを睨む。
狐と揶揄されたオリアは顔色を変えず、手に持っていた糸の束を、波紋を広げる湖に投げ捨てた。
役目を終えた糸はボロボロと崩れ去り――毛を逆立て威嚇するアニを制したオリアは、、冷ややかな瞳を女に向ける。
「君は……タイジュ様だね」
『っ……!?』
「正確には菩提樹――かな?回香と同じく、満願を捧げ不老長寿を得た龍神。ここでずっとSir.チリを待っていたのだろうが――彼はもう死んだよ」
Sir.チリ――それは堆珠湖に伝わる謂れに出てきた青年に他ならない。
南――つまりは回香から逃れるか、解放された彼が、逃げた先でまた同様の怪異に出くわしたのが、堆宝湖興りの影に隠れた真実なのだろう。
歴史を紐解いたオリアが事の顛末を告げるも――チリの帰還を願い続けた菩提樹に、その声は届かなかったらしい。
ただただ憎らしげにオリアを睨み、煙となって消えていく体を打ち震わせた。
『許さない……浮気夜の罪はけして、けして……』
消え入りそうな声が溢すのはウキヨの音。
浮気に溺れた夜を咎めるその音は、オリアに現を抜かしたアニを責め立てる。
全てが勘違いだとしても、もはや女にそれを判断する思考はなく、呪いを吐き出すだけだった。
水気に満ちた場とは真逆の乾いた声が零れ――
『姉様の残した恨みつらみ……私の憎悪を織り合わせ……――爆ぜるが良い』
次の瞬間、鼓膜を破る轟音が響く。
「ッ……!!」
『グルアッ!?』
ビクリと体を跳ねさせたアニがオリアに覆い被さるまで僅か一秒未満。
その背後で湖の水が天高くに噴き上がり、菩提樹の体を吹き飛ばしながら、空に散りばめられた光を奪っていった。
恐らくは、龍脈とも言うべき湖底火山が噴火したのだろう。
雨を降らす黒雲はより厚く、より大きく膨らみ、大地を濡らす水嵩を増すばかり。
雷鳴を響かせる豪雨が降り注ぐ中、闇の冷たさだけが辺りを包み込んでいく。
「浮沈の箱――とでも言ったところかな」
覆い被さるアニを押しのけ、オリアは一切の光が消えた空を仰ぐ。
浮沈――それは世の浮き沈み。
かつてかの女神が姿を消した折、太陽を失った世は、病と飢餓に満ちた憂世と化した。
これはその再来か。
照らぬ日は希望を削ぎ、止まぬ雨は大地を壊し、病となって広がり続けていくともなれば――とんだ爆弾である。
厄介な置き土産に、ずぶ濡れになったオリアは気だるげに身を起こした。
それも束の間――
『クルルルッ』
「ああ……はいはい。よく頑張ったね」
甘えた声をあげるアニの顎の下を適当に撫でてやる。
もっとも、人間らしい思考を投げ出しているからだろう。
撫でるだけでは足りないと言わんばかりに、ぐいぐいと体重を乗せてくる。
『ワフッ』
「悪いけど……相手にしてる暇はないんだ。このまま第九十六地区まで行くよ」
『ウゥー……ッ』
「唸っても駄目だよ。幸い当てはあるからね。詳しい事は移動しながら話そうか。その前に……」
退こうとしないアニを見上げ、オリアは毛のような繊維に覆われた首に手を伸ばした。
瞬間、バチリと音が鳴り――人の姿に戻ったアニの体が頽れる。
「ガッ――オリ……ア…………」
「強制遮断――っと。今の状態で使い過ぎても負担が大きいからね。君は少し……休むと良い」
その声は届いているのか、いないのか。
転がるアニを一瞥し、オリアはのろのろと立ち上がる。
疲れた様子のその背中に近付くのは、ふよふよと浮かぶ小さな影。
『では――あなたはいつ休むのです?』
星の光がなくなれど、彼らの光までは奪われなかったらしい。
アニを見失った後、オリアに助けを求めに行った電脳箱[K-hack]が、アニの下から抜け出したオリアに問いかける。
不機嫌にも聞こえる電子音声を背に、オリアはただゆるりと微笑んだ。
「丁度良かった。僕一人じゃ難しいからね。運ぶのを手伝ってくれ」
問いには答えず、オリアは電脳箱[K-hack]に視線を向ける。
圧すら感じるその眼差しに、けれど電脳箱[K-hack]も折れはしない。
アニがいる前では素知らぬフリを敢行出来ても、今は己とオリアの二人だけなのだ。
不安げに体を揺らし、食い下がった。
『ワタクシとて心配なのです』
「……無駄なお喋りをする時間はないんだ。心配なんて何にもならない事をする暇があったら行動に移してくれ」
『……――YES.Sir』
しかしながら、電脳箱[K-hack]には気遣いすら許されないらしい。
冷ややかな声に気圧された電脳箱[K-hack]は、箱の下側を展開させる。
パカリと開いた底面から小さく折り畳まれた腕部を広げれば、あとは針金のような細腕でアニの体を掴むだけだ。
びっしょりと濡れたアニの衣服に爪を引っかけ、ずるずると重い体を引っ張り上げる。
『移動先はSir.オムの邸宅で宜しいですか?』
「うん。適当に寝かせておいてくれ。車の準備と――それと……少しの間、僕は離れる。彼が目を覚ますまでお願いするよ」
『かしこまりました――月並みですが無理はなさらずに』
「それは……出来ない相談だね」
余談だが、オムとはカケイの姓である。
ひとまずカケイの生家にアニを運ぶ事になった電脳箱[K-hack]は、酷く疲れた様子のオリアを置いて、雨と呼ぶには激し過ぎる水滴を散らす湖畔を後にする。
トボトボ……という表現が似合う電脳箱[K-hack]を横目に、オリアはため息――否、口を抑えて込み上げる吐き気を呑み込んだ。
だが呑み込み切れなかった赤が、べっとりと手を染める。
「……急がないと」
気持ち悪いくらい生暖かな赤を拭い、吐息を一つ。
主を失った湖に踵を返し、星も月も太陽も昇らない闇を進んでいくのだった。
case.4に続く。
次回6/16に閑話を更新予定。評価等々頂けましたら嬉しいです!




