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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
14/65

case.3「BOX the B-om」(03)

冷たい水が肺を刺す。

凍りつかないのが不思議なくらい水は冷たく、アニは鈍くなっていく腕を真っ直ぐに伸ばした。

(コハク――……ッ!!)

声にならない悲鳴が呼ぶのは――オリアではなく、電脳箱[K-hack]の名。

沈みゆく体が天を向いているのか、底を向いているかも分からぬまま、アニの体はより暗く冷たい場所に落ちていくのだった。

(ッ……!!)

堪えきれずに咳き込めば、なけなしの空気が水泡となって昇っていく。

ゴボリと溢れ出たその泡を見て初めて、自分が下を見ていると気付くが――それが一体何の役に立つだろうか。

アニの意識はすでに朦朧とし、曲がり始めた腕を正しく上に向ける事も叶わなかった。

(……まず……い)

酸素を求める首には、鈍い銀の光。

一筋のその光に気付く事もなく、アニはただ下へと沈みゆく。

霞む視界には月光すら届かず、見えるのは走馬灯のような景色だけ。

(…………なん……だ……?)

千々《ちぢ》に散る意識の隅で揺れるのは、かねて見た夢の続きか――……



黒から一転。

白に染まる視界――否、意識の果てに、アニは真紅の目を閉じた。



『……――■ォ■■■』

その声は熱を帯びていたのか。

ただ下劣な匂いを放っていただけか。

太く大きな黒い手が、白衣に隠れた尻をするりと撫でる。

熱っぽく名を囁かれた方は、このやり取りに既にうんざりしているらしい。

逞しく毛深い腕を払うと、自分より一回りは大きい相手へと睨みを利かす。

『いい加減にして貰えるかな――■イ■』

『おいおい、それで睨んでるつもりか?お前の子供顔ベビーフェイスじゃ、これっぽっちも怖くないぞ~?』

『……生まれてこの方、子供っぽいと言われた事はないんだけどね』

もっとも、相手は相手でふざけた素振りでかわすばかり。

暖簾のれんに腕押し――そう言わんばかりの悪辣あくらつさに、故意に尻を撫でられた男は、ずれそうになる眼鏡の位置を直した。

もちろん、ずれているのは相手の感性であって、男の眼鏡ではない。

それでも落ち着かない気持ちを紛らわすよう眼鏡に触れ、男は心の中でため息を吐き出すのだった。

(エ■■■■に相談した方が良いな)

この接触も、もはや何度目の事か。

初めは■イ■という男が、ただ単に下品――もとい少しばかり節操がないだけかと思っていた。

しかし、所謂いわゆるセクシャルハラスメントを働くにも、こだわりがあるらしい。

口だけは誰にでも向けられるというのに、■イ■の魔の手は最終的にはいつも■ォ■■■へと狙いを定めるのだった。

『なあ、■ォ■■■。そろそろ良いだろ……な?』

『そのポジティブさは評価するけど……何をどうしてYESだ(いける)と思えたか不思議でならないよ。馬鹿を言ってる暇があるなら、研究に集中したらどうだい?』

『相変わらずつれないなぁ。ちょーっとくれぇイイじゃねーか?ちゃんと優しくしてやるからよ』

『……頭が良い事と品性が伴っている事はまったくの別物――君を見ていると、それを痛感するね』

減らず口に眉をひそめ、■ォ■■■は尚も伸びてくる■イ■の手を、持っていたバインダーで払い除ける。

金具に止められた資料がふわりと風を受けるのが見えれば、流石の■イ■も業務の事を思い出したのだろう。

白衣の掛かった椅子の背もたれを掴み、数え切れない程のコードが繋がれた画面へと目を向けた。

当然――捨て台詞も忘れずに。

『小せぇ尻穴通りの(ケツ)の狭さだな』

余談だが、国籍の異なる彼らが喋っているのは共用語というものだ。

わざわざ■ォ■■■の母国文化に合わせた言葉を選んだ挑発に――さりとて■ォ■■■もいちいち乗ってやりはしない。

口を曲げるに留め、■イ■同様、採取データや逐一更新される状況記録など、次々に目まぐるしく移り変わっていく電子パネルへと視線を移した。

普段はここにエ■■■■――彼らの上司にしてまとめ役が一緒だが、今日に限っては実験室に籠るつもりのようだ。

■ー■■ーと■ウもその付き添いで、データボックスに残るのは■ォ■■■と■イ■の二人だけ。

出来るなら座ってゆっくり作業をしたいが、膨大な資料を捌くのに呑気に座っている余裕はないだろう。

これまた■イ■同様、椅子には腰かけず、■ォ■■■は電子パネルの前と、様々な機材や積み上がったレポートの束、果ては古臭い本や巻物の置かれた作業台の前とを行き来する。

(■ウだけでも譲ってくれれば良かったのに)

自分の本分は現場調査フィールドワークを筆頭に解読や分析であって、計算を主軸にした演算や開発ではない――苦手とする分野の、さらに二人きりになりたくない相手との仕事に、■ォ■■■は再びため息を吐く。

とはいえ、一度集中してしまえば他の事は気にならない。

『…………』

『…………なあ』

■イ■が呼びかけるのにも気付かずに、■ォ■■■は目の前の作業に熱中する。

『おーい、■ォ■■■?』

もはや■ォ■■■の目には、データ解析以外の事が映らないのだろう。

何度かその名を呼び――■イ■はしめたとばかりに、無反応の■ォ■■■に背後から抱き着いた。

『っ――!?』

集中状態に入っていた■ォ■■■は肩を跳ねさせるが、■イ■とでは体格も力も違い過ぎる。

呆気なく抑え込まれる形となり、無理やりに黒い体の中で唯一色を持つ黄色と視線を交わす事となった。

『……■イ■』

『そう睨むって。どうせお前だって溜まってんだろ?意地張ってないで任せてみろよ、な?』

『君と違って困ってない』

『そりゃ……化物相手に抜いてるからか?』

『は……?』

『噂になってんぞ?化物相手じゃなきゃ興奮出来ない変態だってな。まあまあ、そこは置いといて……俺じゃお前のいう化物にはなりえないか――って話だ』

『はぁ……?』

噂の出所――それは恐らく目の前の男だろう。

容姿に圧がある事と、いささか手が早い事を抜かせば、話し好きで明るい男だ。

それとなく人除けをしているのか、孤立させようとしているのか。

他の職員たちに余計な事を吹き込んでいるようである。

それを察した■ォ■■■は、怒りの籠った眼差しで飄々《ひょうひょう》と笑う相手を睨み続けた。

その顔は黒く、腕も黒く、髪も黒く、元来彼が生まれるはずだった人種には、随分と程遠い様相だ。

それもそのはず――■イ■は遺伝性色素異常症(メラニズム)と呼ばれる、稀有けうな特徴を持って生まれ落ちたからである。

普通とは違うその姿を化物(・・)と称すのも、けして間違っている事ではないだろう。

だからこそ■イ■もここ(・・)にいるのだ。


しかしてそれは、■ォ■■■の求めるモノではない。


■ォ■■■は顔色を変えず、自由の利く足で■イ■の足を踏んづけた。

『君が抱きたいのは僕じゃなくて、僕という人種だろう?それこそエ■■■■に要望を出してみれば良い。あの噂が本当なら……手を出しても問題にならない相手を用意してくれるんじゃないかな?』

『あー……あの噂か?あんなのサボりたい連中の妄言だろ。はーあぁ……折角こっちに来たってのに、お目当ての■■■はお前だけだもんなぁ。他にいんなら、俺だってこうも食い下がらねぇっての』

『こちらとしては潔く諦めて欲しいんだけどね』

『はははっ!むしろ逆だろ?愛がないんだから、潔く楽しんどけって話だよ』

踏んづけ――一瞬話が逸れかけ――けれど■イ■も引く気はないらしい。

■ォ■■■を羽交い絞めにする手に力を入れ、固いズボンに守られたそこに指を這わせた。

『まさか……ここでする気かい?』

『そのまさかだよ。ここには俺ら研究員しか入ってこねーんだ。そのエ■■■■たちだって、すぐには戻ってこない。俺がこのチャンスを逃すわけないだろ?』

『う……っ』

『お前だっていつも言ってるだろ?未知との触れ合いはイイものだ――って』

下卑た笑みを浮かべ、■イ■は■ォ■■■の背に圧し掛かる。

体重をかけた体は難なく潰れ、■ォ■■■の体は資料の乱雑する机へと押し付けられるのだった。

暴れようにも腕はデスクの下側。

机の縁を境にくの字に曲がり、■イ■の重さもあって動かそうにも痛みが奔るばかりだった。

その間にも■イ■は自らの前をくつろげ――荒々しい吐息を■ォ■■■の耳に吹きかける。

『■ォ■■■……ははっ。やっぱ肌すべすべだな。細くて小さくて……本当に子供(ガキ)みてーだ』

『この……っ!変態(クソ)が……!』

あえて注釈を入れるなら、■ォ■■■は小さくもなければ細くもない成人男性である――という事だろうか。

だが大柄な■イ■から見れば、■■■の■ォ■■■は性愛対象(こども)同然。

人にはとても言えない嗜好しこうを持つ■イ■は、酷く興奮した様子で■ォ■■■のベルトに手をかけた。

剥き出しになった己をズボンの布越しに擦り付けながらも、器用に細いベルトを解き――

『…………あ?』

いざズボンを掴んだところで、■イ■は扉が開く音に耳をそばだてた。

まだエ■■■■たちからの連絡はない。

よほどの事がない限り、研究用の区画に一般の職員が入って来るはずもなく、■イ■は苛立ちを露わにしながらも後ろを振り返る。

『…………お前』

『…………』

そこには、青筋を浮かべる青年が一人。

今は紛れもなく業務の時間で。

呻き、抵抗する■ォ■■■を見れば、これが合意の上ではない事は一目で分かる事だろう。

醜悪な現場に青年は牙を剥き――

『――――……ッ!!』

躊躇ちゅうちょなく■イ■へと襲い掛かった。


『ぎっ……ギイイアアアァァッ!!??』


直後、聞くに堪えない叫び声が響き――血を流した■イ■は、白い床を赤く染めながら転げ回る。

『アッ……アァ!!俺の!!イギイィ……ッ……!!』

その悲痛な声を聞けば、■イ■の身に何があったかは想像がつくはずだ。

■イ■は■ォ■■■にも青年にも目もくれず、よろよろと――しかして、かつてない迅速さで転げ出て行くのだった。

目指すは当然、医務室だろう。

哀れとしか言いようのない姿を見送り、■ォ■■■はへなへなとその場に尻を着く。

『助けて……くれたのかい?』

『…………ン』

こくりと頷けば、■ォ■■■は相当に気が滅入っていただのろう。

『はあー……あぁ…………』

深いため息を吐き出し、その末に青年の黒い髪を静かに撫でた。

『ありがとう。助かったよ』

レンズ越しに青年を見つめる眼差しは優しく――けれど悲しみが揺れ動くのは何故だろうか。

浮かない様子に小首を傾げれば、■ォ■■■はやはり物憂げな表情で青年を見つめるのだった。

『助かったよ。助かったけど……でも君は……』

続く言葉を呑み込み、■ォ■■■は恩人たる青年に笑い掛ける。

もしかしたら、これが最後になるかもしれない。

そう思えば、■ォ■■■は無理にでも笑みを作るしかなかった。

理由は酷く単純なこと。

向こうに非があるとはいえ、仮にも■イ■は替えの利かない研究員だ。

その身に危害を加えたとなれば、罰せられるのは当然の事なのである。

同じ研究員である■ォ■■■ならば見逃されただろうが、一生ものの傷を負った■イ■が青年を許すわけがない。

(処分――されるんだろうな)

言い知れぬ悲しみと不甲斐なさを笑みの下に隠し、■ォ■■■は青年を見る。

だが胸に抱える憂慮とは裏腹に、赤く燃えるその目には一片の後悔も惑いも宿っていなかった――……



だって――後悔なんかしてなかった

お前を守れた事が、何よりも誇らしかったから



……――長い、長い夢想。

暗闇の淵から這い上がったアニは、焼き切れそうな瞼をこじ開ける。

(今のは……)

怪異〝宝食ほうしょくの箱〟――沈没船であり宝箱でもあった怪物との戦いの果てに見た情景。

その続きとも言うべき夢想に、アニはハッキリとしない頭を揺り動かす。

(……誰だ?思い出せ……思い出さなきゃ……なんねーのに)

あれはどこで、何者で――そもそも誰の記憶なのか。

懸命に薄れゆく光景を掴もうとするが、形のないものに触れる事は叶わない。

泣きそうに笑う男の顔さえが、ぼんやりと歪み――その輪郭を明らかにする前に、闇の彼方へと消えてしまった。

(駄目だ……なんも分かんねぇ)

伸ばしていたはずの手はダラリと下がり、掴む掴まない以前なのはさておき、どうやらまだ死んではいないらしい。

意識が戻ってきたアニは、よろめきながらも体を起こす。

「……どこだここ?」

最後の記憶は――海の如き湖のほとり

ワギリからカケイ、カケイからカケイの両親、そして彼らからアニの手へと渡ったあの奇妙な像を堆珠湖たいじゅこに落としたのが悪かったのか、何なのか。

電脳箱[K-hack]に認識出来ない女が現れたと思った時には、アニの体は湖の底へと引きずり込まれていた。

あのまま溺れ死ぬものだとばかり思ったが、幸いにも命拾いしたようである。

ずぶ濡れの体は冷たいものの、息苦しさはとんと感じない。

首の古傷を抜かせば痛む場所もなく、何かを盗まれた形跡も見当たらなかった。

もっとも、貴重品と呼べるのはポケットに入ったままの車のキーだけ。

電脳箱[K-hack]がいれば財布もいらず、その車のキーでさえ、失くしたところで電脳箱[K-hack]がいれば問題ない――という状況だ。

身ぐるみを剥がされない限り、痛手という痛手はないだろう。

着の身着のままの姿を確認したアニは立ち上がり、湿っぽい空間を見回した。

(湖の底……なのか?)

一言で言えば侵食洞窟しんしょくどうくつといった様子か。

どこかから光が差し込んでいるようで、暗い闇の中にも、透き通った水面が青や緑の光を反射しているのが見える。

壁や天井の岩も丸みを帯び、やはり水が作った場所なのか、踏みしめた靴の裏には苔の感触が広がるのだった。

波に呑まれた事を考えても、ここはきっと湖面の下なのだろう。

(これもカイイの仕業ってか?)

こんな不可解な事を現実に出来るのは、怪異以外には思い当たらない。

随分と慣れてきてしまった感覚にげんなりしつつ、雫を落とす髪を振り乱す。

犬や猫のようにブンブンと頭を振れば、だいたいの水気は抜けたらしい。

肌に張り付くシャツを不快に思いながらも、アニは思いつく限りの情報を掘り起こし始めた。

(えーっと……ウキヨ。あとニンギョだったな。人を海に連れ去るのと……何だったか?声が聞こえたら気を付けろとかも言ってたよな)

冷静な自分に嫌気が差すのはともかく、奇妙な状況に際して役立つのは電脳箱[K-hack]の導きではなく――他でもないオリアの言葉だ。

潮と苔の匂いが満ち満ちる中、アニはオリアの声をなぞっていく。

(……とすると、あの女がニンギョって事か?)

きっかけは恐らく――あの女の存在。

歌ではなかったが、電脳箱[K-hack]に認識出来ない女の呼びかけに応えた事が、湖に呑まれる要因となったのだろう。

話半分とはいえオリアの無駄口を聞いておいて良かったと思い――アニはすぐにこめかみをひくつかせた。

(気を付けろったって、巻き込まれた場合はどうすんだよ!?)

叫ばなかったのが、せめてもの救いか。

肝心の対処法を語らないオリアに苛立ちながらも、アニは今一度自分のいる場所に視線を向けてみた。

青や緑の光を反射する水面。

棘を失った丸い岩肌――までは良かったが、どうにも何かがおかしい。

「何だこれ……?」

闇に慣れてきた目でじっくりと見渡せば、どうやら自分の寝ていた場所は、巨大な貝殻で出来たベッドのようである。

海藻で編まれたシーツに、ぼんやりとした光を放つ真珠だろう塊。

大柄に足を一歩踏み入れるアニを難なく呑み込めそうな貝殻の端には、替えと思しき衣服まで置かれ――

「部屋……なのか?」

ホテルの一室と何ら遜色ない空間に、アニは思わず頬を引き攣らせた。

相手が怪異であろうとなかろうと、見知らぬ相手に突然ホテルに連れ込まれる――これ以上に危険な事があるだろうか。


否――ない。


アニは唇をきゅっと結び、急ぎその場を後にする。

とはいえ、繋がる足場は一つだけ。

深い水に挟まれた橋のような一本道を、周囲の気配を窺いながら進んでいく。

もっとも見えるのはフジツボに苔に、水の中を泳ぐ魚だけ。

沈没船とはまた違った重くだるい水の匂いに辟易へきえきしつつ、狭い通路の終わりを探して足を繰り出した。

ピチョンピチョンと滴る水の音を聞くこと幾許、開けた場所に出たらしい。

閉塞的な息苦しさが緩和され――しかし、それとは逆に嫌な空気が身を襲う。

「……っ!」

「チリ様――もうお目覚めになられたのですね」

目の前には、しとどに濡れたあの女。

円形の広場の中央――一段高い噴水の上に豪奢な着物を纏った女の姿を見つけ、アニは行き場なく足を止めた。

「……誰がチリだよ」

「誤魔化さなくても良いのです。わたくしを長き眠りより目覚めさせてくれた――それこそ貴方様がチリ様である証。わたくしがそうであったように、貴方様も私を忘れずにいて下さった……これ以上の喜びはありません」

「こっちは一つも嬉しくねーっての。どいつもこいつも、わけ分かんねー事ばっか言いやがってよ」

何を勘違いしているのか、女はアニを見てチリと呼ぶ。

アニには何の覚えもないその名を否定するが、この女もまた人の話を聞く耳は持たないようだ。

黒い髪の女は噴水から身を乗り出し、アニの前へとだらりと首を下げた。

「うおっ!?」

飛び降りたのかと思えば、眼前には女の上半身だけ。

ずるりと下がった体――いや、腰から下は異様に長く、不気味に浮いた半身に見つめられたアニはたまらず叫ぶ。

それすら楽しげに笑い、女は逃げ先を探すアニの体に巻き付くのだった。

「ぐ……っ!!」

「あの日――貴方様は私を燃やした。燃やして焦がして私を箱に閉じ込めた」

「何……をっ!!」

「分かっています。分かっていますとも。私にお怒りになられたのでしょう。でもああするより他になかったのです」

ギチリ……骨が軋む程にアニを締め付けながら、女はさめざめと泣く。

(これがっ……!!ニンギョってやつ……なのか!?)

鱗の並んだ体は大蛇の如く。

蛇が獲物にそうするように全身を封じ込められたアニは歯を食いしばった。

腕さえ――片腕だけでも動けば、異装[I-sow(イソウ)]に触れる事が出来る。

(クソッ!!抜けねぇ!!)

しかし、魚のようにも見える長い尾を持つ女の力は、申し訳なさそうに嘆く表情とは真逆に出鱈目でたらめだ。

押さえつけられた胸は痛み、力むあまり、歯茎から血が溢れ出した。

「ああ……チリ様」

顎を伝うその血を舐め、女はうっそりと笑む。

「ずっと……ずっとお慕いしておりました。貴方様を欲しておりました。お怒りになられた顔さえ愛おしい」

「ふざ……けんな」

「ふざけてなどおりません。私には貴方様だけ。貴方様にも私だけであるべきなのです。ここに楽土がくどを拓き……永劫とわを共にしましょう」

「ガクド……永遠とわ……?」

「そうです。ずっと共に……夫婦めおととなりて、泰平たいへいの世を作りましょう」

酸素が不足してきたのか。

またも朦朧としてきた頭で、覚えのある単語を拾う。

(オリアの奴が……言ってた……はず)

もはやそれは幻聴だったかもしれない。

穏やかな声が耳を撫で、アニは消え入りそうになる意識をぐっと持ち上げた。


『ウキヨ――ウキヨ――ウキヨ――満願まんがんにウキヨとなりて、りゅうみやは口をけん。ウキヨはウキヨ――それをいとえば永久とわ楽土がくどひらかれん。されど楽土は通りゃんせ。ウキヨを望めばウキヨとなるがウキヨの定め。たとえウキヨを逃れども、ウキヨの罪を暴かんと、ウキヨをウキヨに染め上げん』


心地の良い声が蘇れば、アニは考える間もなくその名を口にする。

「ウキ……ヨ……」

オリアの語ったウキヨ伝説。

人の身から神になった娘――ウキヨの名を音に変えたその瞬間、極寒の冷気が肌を刺す。

同時に体を這っていた蛇のうねりが止み、まるで時間が止まったかのようだった。

「今……何と」

「ッ……ウキ、ヨ……ウキヨ」

「ああ――……ああっ!!何故!!何故なの!?何故その名を呼ぶの……っ!!!!」

その直後、絶叫にも似た叫びがアニの鼓膜を揺すぶった。

ビリビリと頭が痺れるのも束の間、のた打ち回った尾がアニの体を投げ飛ばす。

怒りのまま暴れたのだろう。

濡れた岩壁に叩きつけられたアニは、鈍い呻きと共に苔むした岩盤に転がった。

「あぐっ!!」

「チリ様――チリ様――どうして、どうして私では駄目なのです……?何故忘れてくださらないのです……?」

「っ……うう。何が、だよ……ゲホッ!」

「貴方様はいつも……いつもいつもいつも!!姉様の事ばかり!!姉様から逃げてきたくせに!!私がここにいるのに!!一度だって私を求めてくださった事はないではありませんか!!」

咳き込むアニの前で、女は血の涙を流して嘆く。

鬼気迫る姿に威圧されかけるも、アニは痺れる腕を首へと近付けた。

骨が折れたのか、脱臼したのか。

締め付けから解放されたとはいえ、腕にも足にも感覚がない。

それでも首を傾け、腰を曲げ――古傷を覆い隠すチョーカーへと手を伸ばす。

(も……少し)

しかし、あと一歩というところで、アニの左腕は長い尾に阻まれる。

バシリと叩かれた腕は、糸も容易くあらぬ方向に曲がるのだった。

「あ゛あ゛あ゛っ!!??」

「ああ、ごめんなさい。でもチリ様が悪いのですよ。いつまでも姉様の事ばかり見つめる貴方様がいけないのです」

あの時――〝宝食の箱〟に相対した時は、異装[I-sow(イソウ)]の使用と腕を喰われるのがほぼ一緒だった。

そのため耐えられたが、生身の状態で骨を折られては、嗚咽を我慢出来ずにはいれない。

その絶叫が消える間もなく――

「さあ、もう一本。ここで生きるのに、腕なんてもの不要でしょう?」

「がっ――あああぁぁっ!!!!」

岩盤についていた右腕も、太く重い尾で叩き潰される。

潰れた腕からは砕けた骨と血が飛び出し、青白い光を映す清水を赤く染めていった。

「ぐっ……うぁ……っ!!」

這いずる事も叶わず、アニはただ痛みに呻く。

ここにオリアが居ない事を幸運だと思うべきなのか。

それとも、オリアのせいで怪物に出会ってしまったと恨むべきなのか。

けれど――

(クソッ……何で)

アニの胸に過るのは、そのどちらでもない後悔と不甲斐なさだ。

オリアを守る――たった一度でもそんな事を思ったくせに、いざ怪異を前にすればこの有様だ。

成す術なく横たわる自身の弱さと驕りにこそ怒りが湧けど、オリアを恨めしく思う気持ちは浮かんでこない。

(箱……渡しときゃ、良かった……な)

むしろ、自らの選択が恨めしい。

奇妙な置物の入った箱――あの箱を下手に隠さずオリアに見せていれば。

そうすれば、少なくともオリアが傍にいて、生き延びる道を示してくれたはずだ。

だが、良くも悪くもオリアはいない。

(オリア……)

抵抗する気力もなくし、アニはゆらゆらと近付いてくる半人半魚の怪物を真紅の目に映す。

死人のような白い肌。

一つにまとめられた長い黒髪。

頭には角隠しを被すも、黄金の瞳は爛々と耀き、爬虫類の如き細い瞳孔に激しい怒りと興奮を乗せている。

濡れた白無垢は体に張り付き、もはやどこからが着物で、どこからが蛇を思わせる半身かもあやふやだ。

その悍ましくも神々しい怪物が口を開く。

紅の塗られた口は、裂けるように大きく大きく顎を開け――艶めかしい口内をアニの前に晒すのだった。

「チリ様……チリ様……せめて一つになりましょう。私を呼んでくださらないのなら、私を求めてくださらないのなら、せめて貴方様の血肉をくださいませ」

「ふざ……けんな」

「私は本気です。私の伴侶となりて共に生きるか、血肉となりて共に生きるか――さあ、お選びください」

アニに残された選択は二つに一つ。

だが好きでも何でもない怪物と連れ添う気など毛頭ない。

「っ……クソったれが。誰がてめーみたいな化物とくっつくかよ」

折れる事を待つ怪物を鼻で笑い、その鼻先に唾を吐きかけた。

拒絶された女は悲しげに目を伏せ、それも束の間、歯を剥き出しにする。

「チリ様――結局こうなってしまうのですね」

言葉とは裏腹に、開けられた大口に躊躇はない。

全身を人非ざるものへと変えた異形がアニを捉え、身動きの出来ないその体を軽々と呑み込むのだった。

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