case.3「BOX the B-om」(02)
「――で?何でいんだ?」
遥々訪れた第六十九地区。
そのはずれに佇む湖の家屋で、アニは僅かに口の端を歪めた。
もしかしたら、嗅ぎ慣れない匂いがそうさせたのかもしれない。
ミントの爽やかさと冷たさを伴う香りはどうにも辛く、家主を失った廃屋に入ったアニは目の前の男を睨みつける。
オリア――自称・民俗学者。
その職業からすれば、変わった言い伝えの残る堆珠湖にいてもおかしくはないのだろうが、それにしてはタイミングが良すぎるのではないだろうか。
私情と疑心の混じった訝しげな眼差しを向ければ、パチパチと燃える火に当たるオリアは、いつもの通りにゆるりと微笑むのだった。
「Sir.カケイに聞いたんだよ。不思議なものが好きなら、堆珠湖に行ってみてはどうか――ってね」
「は?いつだよ?」
「いつって……彼女に会ったあの時にだよ。君が眠っている間に、僕と彼女で多少話はしたからね。その時にここの事を教えて貰ったんだ。どうにも彼女には、Sir.ワギリと同じ蒐集家だと勘違いされてるようだけど」
「おー……そうか」
一瞬――一瞬、カケイと連絡を取り合っているのかと焦ったが、そういうわけではないらしい。
アニは胸を撫で下ろし――
(何ほっとしてんだよ……っ!)
自分の中で芽を出そうとする安堵の感情を必死に握り潰す。
オリアが気になるのは事実。
頼って欲しいと思うのも本心だ。
だがオリアと親しくなればなる程、命の危険が増えるという事に他ならず。
不測の事態から守りたい事と、自ら火の海に飛び込んでいくのを助けてやるのとでは話がまったく違うわけで――すでに嫌な予感が張り詰めているアニは、綱渡りの如き一線を越えるまいと気を保とうとする。
ブンブンと心の中で頭を振り――
(つーか!つーかだよ!コイツがいるって事は何かあるって事だろ……!!)
鑑みるのは自らの置かれた状況だった。
オリアのいるところに怪異あり――ではないが、やはりこの置物には何かあるのではないだろうか。
木箱に収まった奇妙な像を背中に隠しながら、鋭さを宿した真紅は、胡乱な眼差しをオリアに注ぎ続けた。
その恰好は一度目、二度目と何ら変わらず――オリアが纏うのは、いつ見ても変わらない薄緑のジャケットと、黒のハイネックと、白のズボン。
おまけと言うには大きすぎる数珠や十字架の存在感はさておいて、季節感のない春めかしいその恰好に、アニはふるりと身を震わせる。
雪が降らないせいで忘れがちだが、今は冬の前触れ。
いつでも運び屋のTシャツにジーンズのアニも大概ではあるが、見るからに体育会系のアニと文科系のオリアでは、やはりわけが違うというもの。
寒々しく火にあたるオリアの姿に、かえって寒くなった気がしたアニは、囲炉裏を挟んだ向かい側にドカッと腰を下ろした。
(ちょっと火にあたるだけ……)
言い訳は涙ぐましく――胡坐をかいたアニは、足の間に収まる電脳箱[K-hack]には目もくれず、静かに燃える火で暖を取る。
当然、例の箱は背に隠したまま。
座り込んだアニは火花を散らす炎に視線を落とした。
寒いのはオリアの姿だけでなく、自らの気持ちの問題もあるだろう。
悲しいかな。
これまで着ていたお気に入りのレザージャケットは、見るも無残な姿に変わり果て――今やクローゼットの中。
怪異〝宝食の箱〟に食い千切られたのが原因だが、新しいお気に入りを見つけられなかったアニは、家にあった適当なナイロンのアウターを引っかけるに至ったのだった。
(……思い出したら腹立ってきた)
腕は治っても、ジャケットを食い破られたという事象までは戻らないらしい。
同じ黒色のため代わり映えはしないが、いささか軽くて薄いアウターを羽織ったアニは、どこか恨めしげな視線をオリアへと戻した。
(ま、何もなきゃいーけどよ……)
無論、いつまでも見つめ合っているわけにもいくまい。
目的はカケイの両親に託された木箱を、この小屋に戻す事で――とはいえ、オリアの前に見るからに怪しい像を出して良いものか。
(…………)
アニはいくらか逡巡し、その末に何らかの用紙と睨み合い続けるオリアへと声をかける。
「何でここにいんだよ?」
奇しくも問いは冒頭に戻り――しかして、それが違う問いである事は、しかとオリアに伝わったらしい。
いつかの時代には土砂崩れでもあったのか。
古びた小屋の中にまで転がり込んできた巨石に座るオリアは、何かを考えるように視線を天井へと彷徨わせた。
それも束の間のこと――
「――ウキヨ伝説」
聞き慣れない単語を口にする。
それを聞けば、アニのすべき事は二つに一つ。
持ち帰りたくもない置物を家に運ぶか、もしくはオリアと共に現れ得るだろう怪異に立ち向かうか――そのいずれかだ。
(……無駄……だよな)
人と魚が混じったかのような像をカケイの両親に突き返す事も考えたが、それでは結局オリアの手に渡りかねない。
オリアと話す時には決まって無口な電脳箱[K-hack]が不安げに体を揺らしても、アニは苦虫を噛み潰すように見ないフリをするしか出来なかった。
『Sir.アニ――……』
「話くらい聞きゃ良いじゃねーか。どうするかはその後でも大丈夫だろ……たぶんな」
『かしこまりました――Sir.オリア――続きをどうぞ』
そんなアニに電脳箱[K-hack]も折れざるを得なかったのだろう。
嘆息するように再度大きく体を揺らし、黙っていますとでも言わんばかりに、青白い光を限りなく薄くする。
黒い箱となった電脳箱[K-hack]が静まり返れば――それが再開の合図。
アニはまた、今にも海の泡となって消えてしまいそうなオリアへと問いかけた。
「……で?今度の目的はその……ウキヨ?だって言うのか?」
怪異に始まり、菩薩に幽霊船に今度はウキヨ伝説。
自然と口がへの字に曲がってしまうアニの心情など裏腹に、コピー用紙の束から目を離したオリアは、惑いなく音を溢し始めた。
「そう――ウキヨ。さる文献によると、この湖には龍の宝が眠っている――という逸話が残されているんだ。君も堆珠湖の名前の由来は聞いたんじゃないかな?思うに、湖に投げ込まれた化粧箱が――」
「リュウとかいう奴の宝だって言いたいんだろ?」
「――うん。そうなるね」
話を折られながらも、オリアは苛立った様子なく首肯する。
だがアニの方は表情を曇らせるばかり。
(やっぱコイツが興味持つような内容じゃねーか!!)
((そう仰られましても――Sir.オリアに関してはデータが不足しています――正しい推量は困難を極めます))
オリアの言う龍と、アニの語るリュウが全くの別認識である事はさておき――電脳箱[K-hack]の語った堆珠湖の由来。
よくある起源のその裏に、オリアの好む人知を超えた何かが潜んでいるらしい。
怪異の存在をほのめかす昔話に、アニは電脳箱[K-hack]との間に火花を散らす。
しかしながら、文句が功を奏す事もない。
叫び出したい気持ちをぐっと堪えれば、まじまじと真紅を見る紫苑と目が合った。
「……っ」
「君は大方、助けた亀に連れられて――ってとこかな」
「は?カメ?」
「なに――こちらの話さ。それで〝ウキヨ伝説〟だったね。僕が調べた伝承によるとだが――……」
前にも亀の話をしていたが、今のお気に入りなのだろうか。
反射的に首を傾げるアニを見つめたまま、オリアは〝ウキヨ伝説〟を吟じていく。
「ウキヨ――ウキヨ――ウキヨ――満願の夜にウキヨとなりて、龍の宮は口を開けん。ウキヨはウキヨ――それを厭えば永久の楽土が披かれん。されど楽土は通りゃんせ。ウキヨを望めばウキヨとなるがウキヨの定め。たとえウキヨを逃れども、ウキヨの罪を暴かんと、ウキヨをウキヨに染め上げん」
篝火が照らす屋内に響くのは、幾重にも重ねられるウキヨの音。
同じ言葉ばかりを連呼されたアニはさらに首を曲げ、意味が分からないという風に目を瞬いた。
なぞなぞめいた言葉は、電脳箱[K-hack]でさえお手上げだ。
一人と一体揃ってオリアを見やれば、伝承を語った本人は、どこか満足気に囲炉裏の火を火箸でつつく。
「……――童歌みたいなものかな。その土地の風習や言い伝えを、それとなく形に残す手法だね」
「じゃなくて……何だよ今の。ウキヨって言ってばっかで、何言ってんのかさっぱり分かんねーじゃねーか」
「言葉遊びみたいなものだからね。ある種の暗号とも言えるかな。ウキヨにはたくさんの意味があって、それを一つずつ読み解いていけば、この詩に隠された真意も見えてくる――という事さ」
案の定なアニの反応が面白かったのか。
くすりと笑ったオリアは、揺れ躍る火へと紙煙草の先端をそっと晒し入れた。
しかし、湿気っているらしい。
赤々と燃える火が灯るのには、いくらかの時間を要し――やっとの事で煙をあげ始めた棒切れは、これまたゆっくりとかさついた唇へと吸い込まれていく。
白い煙は冷気を宿し――
「……前のが良かった」
アニはつい、鼻を撫でる刺々《とげとげ》しい匂いに苦言を溢した。
思えば、ここに居るのがオリアだと気付かなかったのも、この煙草のせいだ。
薄い唇が紙煙草を食む様を呆けたように見つめながら、似合わない匂いを纏うオリアに、アニは子供のように唇を尖らせる。
謂れなき文句に、オリアは何を想うのか。
白んだ煙を宙に浮かばせ、淡い菫色の瞳を静かに伏せた。
「僕も好きなんだけどね。前のはなくなったんだ。これは偶然、開いてるのを……そう。見つけたんだよ」
「見つけたって……嫌なら買い直せば良いじゃねーか」
「……それはそう。そうなんだけど……余裕がなくて。少し湿気ってるけど、使えるようだから貰っておこうと思ってさ。だから当分はこれ……まあ、これもたいして残ってはないんだけど」
何かを――あるいは誰かを懐かしむように煙を吐き出す姿は憂いに満ち、アニは言いようのないもどかしさを募らせる。
(……誰のだよ)
貰っておこう――その言葉は言外に第三者の存在を告げるものだ。
目ざとく――否、耳ざとくその事実に気付いてしまえば、アニは余計に顔を渋くするばかり。
苦い中にも甘さを漂わせる、コーヒーのような没薬のような香りが酷く恋しくなり、自らウキヨ伝説へと話を戻した。
「それよりさっきの……ウキヨ?だったか?やっぱカイイなのか?」
墓穴を掘るのは既に二度目。
それでも、オリアの影にいる誰かの存在を知るよりは、理解の及ばない怪異に相対する方がまだマシと言える――かもしれない。
嘆息気味に尋ねれば、オリアは紫煙を燻らせながらも口を開いた。
もっとも――
「怪異かどうか調べるのが僕の仕事――というところかな。怪異の多くは民族的な習わしや伝承から派生したもの。あるいは人に隠れて生きてきた特異な民族であるとも考えられるからね。僕が民俗学者を名乗るのも、そういう側面からだけど……ああ、今はウキヨ伝説の事だね。ウキヨ様が怪異かどうかは、今まさに調べている最中だよ」
「あ?ウキヨ……様?」
「ウキヨ伝説の中で語られる女神の事だよ。元は町娘だったけど、大願を成し不老不死の存在――要は神になったんだ」
「カミっつーかカイイだろ」
ぼんやりと揺らめく煙に乗るのは、やはり淡く朧げな与太話だけ。
とても現実には思えないウキヨ伝説のあらましに、アニは行儀悪く頬杖をつく。
聞いておいてその反応は如何なものかとも思うが、これもまたいつもの事。
たった三度――されど三度目ともなれば、互いに勝手知ったるものという事か。
当たり前のように不遜な態度を流し、オリアはウキヨ様についての弁を続けていく。
「神も怪異も紙一重として――海ないし湖の底に住まい、気に入った相手を自らの城に招いていたとか……だけど彼女、相当に嫉妬深かったらしい。一度でも彼女の領域に足を踏み入れれば、二度と日の光を見る事は叶わなかったそうだよ」
「あー……何つーか、前言ってたニンキーだかに似てんな」
「ニンキー……?ああ、人魚の事かい?セイレーンやセルキー。スキュラにメリュジーヌにヤオビクニ。ついでにマーマンやダゴン――半人半魚の存在は各地で知られているけど、たしかにウキヨ様もそれらに類する形態かもしれないね」
「はんじんはんぎょ」
「うん――または半魚人。体の半分が人で、もう半分が魚の特徴をもつ生物の事だよ。キマイラやキメラと呼ばれるモノも、その類型かもしれないね」
海に誘い込む――その一文を抜き出せば、ウキヨ様も人魚も似たようなものだろう。
だがアニが目を留めたのはそこではない。
矢継ぎ早に飛び出す名前に辟易する暇もなく、アニは木箱の中身に意識を寄せた。
(まさか……)
カケイの両親に返還を頼まれた置物。
木箱に収まったあの像は、今まさに語られた半魚人というものではないだろうか。
人の頭に魚のヒレを持つ奇妙な姿を思い起こせば、途端に嫌な汗が噴き出してくる。
それは電脳箱[K-hack]も同じだったようで、まるで警告するかのように、チカチカと青い光を点滅させた。
無論、そんな忠告がなくともアニの心は変わらない。
背中に箱を隠したまま、一人と一体はその場を去る事を決意する。
(やっぱコイツには渡せねーな)
自分が怪異を引き当てているのだとしても。
オリアが怪異を引き寄せているのだとしても。
どちらにせよ、不安の残る材料を巡り合わせるわけにはいかない。
「ウキヨ伝説自体はもっと南で伝えられるものだけど、この湖に来た青年――彼も南から来たらしいじゃないか。ウキヨ様から逃れ、北の地に逃げてきたという風にも――……」
止む事なく話を続けるオリアを一瞥し、アニと電脳箱[K-hack]はそそくさと扉の方へと移動する。
そのままオリアから見えない位置に箱を隠し――
「悪い。次の仕事あるから行くわ」
『話の途中ではありますが――そういう事ですので失礼します』
返事を待たず、古びた扉をピシャンと閉める。
蓋をするよう固く扉を閉ざし――深いため息を一つ。
「……一旦戻るか」
『それが宜しいかと』
憎らしい木箱を鷲掴みにしたアニは、オリアの追求がある前にと、来た道を戻っていく。
(あ――……謝りゃ良かったな)
ふと前回の失態を思い出すが、時すでに遅し。
だが変わらぬ様子を見るに、怒っているわけではないのだろう。
(……帰りくらい送ってやるか?)
オリアがいつまで湖にいるかは知れないが、仕事が入らない限りは、その数日を待てない程ではない。
もう少し、もう少しだけオリアと話したい――膨らむ願望と、これ以上厄介な事に巻き込まれたくない気持ちとの間で、アニは足取りを重くするのだった。
一方、小屋に残されたオリアは――アニたちを追いかける素振りも見せず、短くなった煙草を囲炉裏へと放り投げた。
ぶわりと煙が広がるのは一瞬のこと。
匂いだけは冷ややかな空気に満たされる中、赤に照らされたオリアは一人謡う。
「浮魚――浮世――憂世――満願の夜に雨季夜となりて、龍の宮は口を開けん。浮世は憂世――それを厭えば永久の楽土が披かれん。されど楽土は通りゃんせ。浮世を望めば浮魚となるのが憂世の定め。たとえ浮魚を逃れども、浮気夜の罪を暴かんと、浮世を憂世に染め上げん」
それは先に語ったウキヨの伝説。
正しく読み解いた伝承を吟じ、オリアはゆっくりと天を仰いだ。
隙間風の入り込む廃屋は穴にまみれ、天には暗くなり始めた空が見え隠れする。
そこに星は見えず、うすぼけた暗雲が湿った空気を運び込んでいた。
煙の匂いも間もなく雨の匂いにかき消され、オリアは近く尽きるであろう赤を視界に映す。
「今宵は満願――大願成就の月が満ちる時。さて君は……どうする?」
火花を散らす赤に重なるのはアニの姿に他ならず――雨に呑まれ始めるその赤を、オリアはただ静かに見つめるのだった。
無情にもその吟は響かず――……
すごすごと去ったアニは、電脳箱[K-hack]を引き連れて水辺を歩いていた。
カケイの生家まではまだ半分にも満たず、雲行きの怪しくなってきた空に眉を寄せる。
鼻につくのは雨の匂いか、湖の匂いか。
邪魔にも思える木箱を手に、アニは気味が悪いくらい静かな湖に目を向けた。
「作り話だよな?」
『作り話も何も――ウキヨ伝説というものはデータにありません――ニンギョやセルキーも然り――Sir.オリアの話は常に信憑性に欠けています』
「……だよなぁ」
思わず聞いてしまうが、電脳箱[K-hack]の回答もまた不変のもの。
いまだ怪異が何かも分からず、それでいて完全に信じる気がおきずにいるアニは、覇気のない声を漏らすしかなかった。
どちらを信じるかと言われれば電脳箱[K-hack]に決まっているのだが――ならばオリアとの記憶は何だというのか。
(夢……のわけねーもんな。あれが夢なら……アイツと出会ってすらないって事なんだからよ)
夢というには鮮明で。
妄想というにも、あまりに明瞭で。
説明の出来ない怪奇現象に気を揉まれながらも、アニは完全に否定できない己に気付き目を伏せる。
普通を願えども、二人を繋いだのは怪異で――きっとこの先も怪異によってしか繋がらない関係なのだ。
怪異を否定する事はオリアを否定する事でもあり、アニは釈然としないまま、湖の脇に見える小屋から目を逸らした。
足取りは自然と重くなり――ぽつぽつと冷えた水滴が肌に降りかかる。
『降ってきましたね――急ぎましょう』
「おう、そうだな」
生憎と傘は車の中。
雨に降られると思っていなかったアニは電脳箱[K-hack]を脇に走り出す。
しかし、急いだのが悪かったのだろう。
右手に木箱を、左手に電脳箱[K-hack]を抱えたアニはぬかるんだ土に足を取られ――
「げっ……!!」
バランスを崩したついで、電脳箱[K-hack]の数倍はあろう木箱を滑らせた。
雨に濡れた箱はツルンと手をすり抜け、真っ逆さまに地面へと落ちていく。
角から落ちていったのか。
地面を転がった箱は湖の方へと身を傾け――ポチャン。
「……やっちまった」
『やってしまいましたね』
足を伸ばすも間に合わず、気味悪い像の入った箱は湖へと沈んでいった。
重くはないと思っていたが、水に浮く材質ではなかったらしい。
ブクブクと泡をあげながら木箱は姿を消し、アニと電脳箱[K-hack]は波紋を広げる湖を見やる。
「…………」
『…………』
「……セーフ……か?」
『元の場所に返した――その定義で言えばあながち間違いではないでしょう』
「じゃあセーフだろ」
流石の電脳箱[K-hack]も、整備されていない湖に入れなどと言いはしない。
あるいはオリアの手に渡らずに済んだ事を合理的とみなしたのか――。
大きな波紋が雨の作る波の群れに呑まれるのを眺めてから、一人と一体は今しがた起きた事から目を逸らすように踵を返した。
その背中を、か細い声が引き留める。
「ずっと……ずっとお待ちしておりました」
「っ……!!」
ゾワリと背筋を撫でる嫌な感覚に振り返れば、いつの間に現れたのだろう。
雨に濡れるのも厭わず、一人の女がアニへと熱っぽい視線を注いでいる。
『Sir.アニ――どうされたのです?』
「どうって……そこに人が」
『人――ですか?ワタクシには何も確認出来ませんが――まさかSir.オリアの話を真に受けたのですか?』
「何言ってんだよ、そこに女が――」
だが電脳箱[K-hack]には、白い服の女が見えていないらしい。
視線を揺らせば、それが最後。
恐ろしい程に冷え切った手が、狼狽するアニの手をぎゅっと掴んだ。
「っ!?」
「さあ参りましょう――チリ様」
刹那、湖が逆巻き――しとどに濡れた手が、妖艶に笑む唇が、アニの体を水底へと引き摺り込んでいく。
「なっ……!?」
巻き上がった波がアニの体を呑み込むのは一瞬のこと。
ザパンと波が引いた湖畔には電脳箱[K-hack]だけが取り残され、水を被った箱はブルブルと身を震わせた。
それは寒さからくるものではなく、犬や猫が体を回転させるのと同じく。
水気を払った電脳箱[K-hack]は、ふいに姿を消したアニを探して辺りを見回した。
『Sir.アニ?どこに行ったのですか?』
しかし、アニの姿は見当たらない。
返る声もなく――電子音だけが人気のない湖畔に虚しく響くのだった。




