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老年

作者: 名無ナナシ

ある日、とある料亭で浄瑠璃のお披露目会があった。

浄瑠璃とは三味線の音を伴奏に詩を語る音楽活動である。


朝からひんやり、どんより曇っていたが

夕方にはひらひら、とうとう雪が降ってきた。

夜分には松の木が白化粧するまで積もっていた。


外の冷たさとは裏腹に、暖をとった部屋の中は汗をかくほどあたたかい。

部屋の中では中高年の男女がたむろしている。

口の悪い中洲さんは、成金趣味の六金さんを捕まえて

「どうです、着物を一枚脱いでは?大事なおべべが汚れますぜ」

とからかっている。


遊び慣れした中高年の会話は

芝居がどうのだ

人気俳優がどうのだ

話題の催し物がどうのだ

とだいぶ賑わっているようだ。


部屋は落ち着いた雰囲気で

籠行灯の中にともした電灯が所々に丸い影を映している。

梅と水仙の花が生けられており

「赤き実とみてよる鳥や冬椿」と書かれた掛け軸が飾られていた。

使われず、煙もたっていない高炉が、ひっそりと台におかれているが

なんとも冬めかしいではないか。


座席は右側が男、左側が女と決まっていた。

おとこ側の上座には師匠の紫暁が座り、次席には口の悪い中洲が座っている。

一番端には房と呼ばれているじいさんが座っていた。


この房じいさん、一昨年に還暦(60歳)を迎え

今となっては見る影もないのだが、若いころはずいぶんな遊び人で有名だったようだ。

15才で酒と女遊びを覚え

何に悲観したのやら

25才の時には遊んでいた女と自殺未遂をして周りを騒がせたらしい

そんなボンクラだったので親の財産を食らい尽くして一文無しになったが

変に器用で文化人的なところがあり

歌や詩、楽器で生計を立てていたようだ。

それでも歳を重ねるごとに落ちぶれていき、食にさえ困るほどだったが

なんやかんやでこの料亭に世話になっているようだ。


しかし、すっかりと老け込んでしまい。

口の悪い中洲さんが珍しく

「子どもの頃に聞いた、房じいの歌声が忘れられない」と褒めた房じいさんははるか昔

最近は歌などもさっぱり歌わなくなり

鳥にエサをやる趣味も辞め

ひいきの役者が引退してからは芝居も見なくなり

ポツンと端の席に座っている。

この人が巷を騒がした遊び人だと誰が信じようか


あの口の悪い中洲さんが

「ほら、なんていったか、房じいの十八番の・・・そうそう八重次お菊

あれでも歌ったらどうだい」と話しかけている。

だが、滅多にしか、いいことを言わない、口の悪い中洲さんの誘いも

房じいさんは、剥げ頭をさすって遠慮していた。


披露会が始まり、場が盛り上がってくると

三味線の音につれて

「黒髪のみだれていまのものおもい」だの

「夜さこいという字を金糸でぬわせ、裾に清十郎とねたところ」と

なまめいた文句を師匠の紫暁が語っていく。


さびた声が久しく眠っていたこの老人の心を、少しずつ目ざめさせて行ったのだろう。

始めは背を曲げて聞いていたのが、いつの間にか腰を真っ直ぐに体をのばしていた。

成金趣味の六金さんが語りだした時分には

「うらみも恋も、のこり寝の、もしや心のかわりゃせん」というあたりから

目をつぶったまま、弦の音にのるように小さく肩をゆすって、わき目にも昔の夢を今に見かえしているように思われた。


浄瑠璃の唄と弦は

時を重ね、すいもあまいも知り尽くした、房じいさんの心の底にも

波をたたせずにはいられなかったのだろう。


唄が終わると、房じいさんは

「どうぞ、ごゆるり」と挨拶をして、席をはずした。

丁度、その時、料理が運ばれてきたので、しばらくいろいろな話で賑わった。

ここでも、あの口の悪い中洲が

「ああも老けるかね、隠居するようになったら房じいもおしまいだ」

「いつか、あなたがおっしゃったのはあの方?」と成金趣味の六金さん。

「ああ、師匠も知ってるから、聞いてみるといい。唄っても弾いても本当に見事で。

たしか師匠と一緒に稽古にも励んだとか、そうでしたよね師匠・・・」

と暫く房じいさんの話題で盛り上がった。


やがて、食事も済み、演奏会が再開された。

今の演目が終わるとワタシの番なので、一寸席を外した。

景気づけに生玉子を吸いたくなったのだ。

廊下へ出ると、あの中洲も付いてきた。

「一人で抜け駆けなんてずるいぜ、お前の次は俺の番なんだから。

一緒に一杯いこうぜ。素面ではようやらんわ」

「ワタシは酒でなくて、生玉子ですがね」

「卵をすするなんて、本当に物好きだな」

「フン、ワタシの勝手さ」


トイレに寄り、母屋の方へ向かう。

長い廊下の一方は硝子障子でもう一方には庭が広がっている。

三味線の声さえ聞こえず、しんとしている。

きこえるのは

藪柑子の紅い実をうずめる雪の音

雪の上にふる雪の音

八つ手の葉をすべる雪の音


かの音の中に幽かな囁き声がきこえる

気味が悪い。

「猫の水呑む音でなし」と咄嗟に呟いてしまった。

中洲と二人、足をとめて聞いていると声は、どうやら右手の障子の中からするらしい。

それは、とぎれながら、こう聞こえるのである

「何をすねてるんだってことよ。そう泣くな、浮気なんて誰がするかよ。

え?よしてくれよ、あんなばばあをどうするものか。

お前がいるのに、ほかにおんなをつくる訳がないだろうよ。

そもそも、お前との馴初めは・・・」


「おい、房じいの声だぜ」

「年をとっても、隅におけないね」

ワタシと中洲は、細目に空いている障子の内を、及び腰にそっと覗きこんだ。

どんな美人さんがいるのやら


部屋の中は電灯がぼんやりとともり、志那水仙の掛け軸が飾ってある。

コタツにあたっているのが房じいさんで、後ろ姿が見える。

女の姿はどこにもない

コタツ蒲団の上には、本が2,3冊広げられており

その横には首に鈴をつけた白猫がいた。

猫が身動きするたびに、鈴の音がきこえるが、聞こえぬかわからぬほどかすかな音をたてる。

房じいさんは禿げた頭を柔らかな猫の毛に触れるばかりに近づいて

「おれが語っていたら、ひょっいっとお前が来てよ・・・」

と語りかけている。


中洲とワタシは黙って、顔を見合わせた。

そして、長い廊下をしのび足で、また座敷へ引きかえした。

中洲はため息をつき、頭を振りながら前を歩いていく。


彼の背を追いながら、そっと振り返る

別嬪なうえに話も聞いてくれる、いい連れじゃないですか

ねえ、房じいさん


雪はやむけしきもない


引用、元ネタ

老年 芥川龍之介

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