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40.逆様

 黒円の中は、底無し沼の中に浸かったように身動きが取れなかった。

 何かドロドロとした黒い液体が全身にまとわりつき、耳や鼻など体中の穴という穴から禍々しい存在が私を犯そうとしている……そんな感覚にとらわれた。


「むぐ、むぐぐぐっ……!」


 呼吸もろくに出来ず手足をもがいていた時、にわかに首からかけているロザリオが赤く光り、黒い液体を吹き飛ばしはじめた。


「あぁ……!!」


 自分の周囲が黒から赤色に染まった時、一瞬意識を失った。


 再び気が付くと、私は、明らかに異界と思われるような暗くてどんよりとした雰囲気の場所にいた。

 足元には、何か、湿った黒い綿のような地面が広がっている。


「こ、ここは……?」


 あたりの様子に気を取られていた時、


「わわわーーーーっ!!」

「ヒィエエエエェェーーーーーーッ!!」


 と叫び声を上げながら、マルチノとメスキータ先生が空中から突然現れて、地面に落下した。


「みんな、大丈夫!?」


 振り返ると、心配そうな顔をしたマンショが駆けてやって来た。


「痛ててて……腰打っちゃったけど、まあ大丈夫よ……それよりマンショ、ここって一体どこなの?」

「上を見て……」


 私たちは顔をあげて驚愕した。


「大聖堂が……空に……?」


 そこには、かつて本で見たことがあったサン・ピエトロ大聖堂が、上下が逆さまになる形で浮かんでいた。

 それはまるで、天空から建物が生えているかのようだった。


「私もよく分からないけど、どうやらここは天地がひっくり返っているみたいね。ここ……」


 マンショが地面に指を差す。


「これって……もしかして雲……ってか、雨雲ですかね?」

「雨雲みたいなもの、ってのが正しいのかもしれないけど……」

「フム……今、ワタシたちは鬼の世界に足を踏み入れてイマス。人とは別ノ次元にいますノデ、ソノ理も違うのかもしれまセンネ」

「いずれにしろ、早くジュリアンや教皇様を見つけないといけないわ。周りを見ても誰もいそうもないし……やっぱどう考えても、上の馬鹿でかい大聖堂の中にいるんじゃないかしら?」

「ミゲルの言う通り全員あの建物にいるとして、どうやってあそこまで行ったらいいのかしらね……」

「いくら高く飛べる跳躍の法でも、ちょっとあの高さまでは届かないわよねぇ……」


 私とマンショは頭を抱えてしまった。


「ええっと、こんなのはどうでしょうか? まずお姉様たち2人で私を抱えて高く飛んでもらいまして、一番高く上ったところで、私が更に跳躍の法で飛びます」

「2段構えで飛ぶってこと? それでも高さが足りないんじゃないかしら?」

「たぶん足りないです。ただ、2回飛んだあと、私の鎧通しの片方を上方向に投げて、大聖堂のどっかに引っかけてぶら下がります。んでもって、もう片方を地上に垂らしますから、それをつたってお姉様たちを上に引き上げるってのはどうでしょう?」

「なるほど! 蜘蛛が糸を使って木を登るみたいな感じね!」

「大変そうだけどやってみましょうか。じゃあ、私とミゲルにつかまって」


 私たち2人はマルチノを抱きかかえ、深く腰を落とした。


「じゃあ行くわよ! セーのっで……はっ!!」


 ドンッ! と力強く地面を蹴り上げ、ヒュゥゥゥーーーーーッと音を立てながら、天高く舞い上がった。


「マルチノ! そろそろ一番高い位置に着くわよ!!」

「行きます……やあっ!!」


 私たち2人の掌を足場に、マルチノが更なる上空を目指して高く飛び上がる。

 マルチノはぐんぐんと大聖堂の方に向かって飛んでいくと、胸元から鎧通しを取り出し、勢いをつけて大聖堂へと投げつけた。

 強靭な紐につながった鎧通しが、上下逆さまになった大聖堂の尖塔にグルグルと巻き付くのが見えた。


「よっしゃ! うまくいったわ!!」


 見上げると、はるか高くにぶら下がって、こちらに手を振っているマルチノの姿が見えた。


「お姉様たちぃーーーーっ! これから、もう一つの鎧通しを落としますよぉーーーー!!」

「りょうかーーーーい! 待ってるわーーーー!」

「よし……これでなんとか大聖堂まで登れそうね……」


 そう思った時だった。


「きゃああああっ!」

「あぁっ!?」


 見上げると、全身が赤黒く、長い白髪をだらりと垂らし、聖堂の屋根にも届くほどの大きさの鬼が見えた。

 その鬼は、これまた上下が逆さまとなって大聖堂からぶら下がり、その体と同じほどの大きさがある白銀の金棒を振り回して、マルチノに襲いかかっている。


「あの長い白髪……白銀の金棒…………もしかして、茨木童子(いばらぎどうじ)!?」

「あ、あれが!?」


 マンショが言った茨木童子は、酒呑童子の右腕とも言われている最上級の鬼の一人であった。

 酒呑童子が日本にいた頃、何匹もの鬼を率いて京都の大江山を根城に暴れまわっていたが、その中でも茨木童子は別格の鬼として知られており、何人もの人間を血祭りにあげていたと噂されていた。


(まさか、茨木童子までバチカンに来ていたなんて……)


「くっ……! 早くマルチノを助けないと……!」

「でも、さっきのやり方以外にあんな高い場所まで到底飛べないわ。今は、マルチノの力を信じるしかない……」


 天を高く見上げながら、マンショがほぞを噛んだ。


 マルチノは、聖堂に結びついた糸を振り子のように上手く操りながら、天地が逆転した茨木童子の金棒を避けている。

 金棒がブンブンと音をたてて空を裂くが、なんとか紙一重のところでかわし続けているのだった。


「うまい……さすがマルチノだわ。曲芸師みたいに体が軽い。あれなら……」


 私は感嘆のあまりそう呟いたが、その考えはすぐに打ち砕かれた。


「ブオオオオオオオオォォォーーーーッ!!」


 茨木童子が辺りを震わす咆哮をあげたかと思うと、マルチノがぶら下がる尖塔を目がけて、金棒を力強く叩きつけた。


「まずい! マルチノが落っこっちゃう!」


 私は思わず目を伏せそうになった。

 だが……


「くうぅーーっ、しつこいですねぇ!」


 マルチノはそう叫んだかと思うと、尖塔に絡みついた鎧通しを素早くはずし、続けざまに反対の手に握る鎧通しを別の尖塔へと飛ばした。

 茨木童子の金棒は元いた尖塔を砕いたが、すでにマルチノは別の尖塔へと移っていた。


「その調子よ、マルチノ!」

「ありがとうございます、お姉様!」


 マンショの声援に、笑顔でマルチノが答える。


「今度は……こっちから行きますよっ!」


 グインッと体を一振りして後方に下がったマルチノが、その反動を生かして勢いをつけ、茨木童子の方へと向かっていく。


「ガアアァーーーーッ!!」


 向かってくるマルチノをそのまま喰らわんと、茨木童子が口をガバリと開いた。


「やられるもんかっ!」 


 握っている鎧通しの糸をグッと力強く引くと、マルチノは上方向へと跳ね上がった。

 茨木童子の口はマルチノをとらえることなく、ガチンと大きな音をたてて虚しく閉じられた。


「マルチノってば大したもんね! 茨木童子にも一歩も引けを取ってないわ!!」

「でも、いつまでも逃げてばっかじゃ勝てないわ。どうにかして反撃しないと……」


 マンショの言う通りだ。


 マルチノは天性の身軽さを生かし、茨木童子を手玉に取っている。

 だが、回避行動一択ではいずれ体力に限界が来てしまう。


(マルチノに、何か策があるのかしら……?)


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