◆ 歴史、伝承などのちょこっと解説
本作は、「天正遣欧少年使節」や戦国時代等の歴史的背景、鬼の伝承などをベースに作品を構成しています。
ここでは本作に関わる歴史や鬼の伝承について、なるべく簡単に解説します。
作品を楽しむ一助になれば幸いです。
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【歴史関係】
「天正遣欧少年使節」
歴史の教科書で、誰でも一度は目にしたことがあるこの名前は、1582年(天正十年)に、ローマに向けて派遣された、マンショ、ミゲル、マルチノ、ジュリアンたち4名の少年を中心とする使節団のことです。
使節団の最大の目的は、日本におけるキリスト教の布教活動を続けるため、財政的支援をローマ教皇やポルトガル国王から引き出すということにありました。
なぜ若い彼らが選ばれたかというと、日本での布教活動が素晴らしいものであるということをアピールするためでした。
容姿端麗で優秀な日本の少年たちを目にすれば、ローマ教皇やポルトガル国王も心が動かされると考えたのではないかと言われています。
少年たちの数が4名なのは、聖書にある「東方の三賢王礼拝」という、イエスが誕生した際にオリエントの王3人が東方から馬に乗ってやって来て贈り物を捧げたという名シーンを、教皇との謁見時に再現するという意図があったとも言われています。
(3名でなく4名なのは、長旅で一人ぐらいは死亡することを前提にしていたため、との説があります。実際、使節団が教皇に謁見する際には、その時に高熱を出していたジュリアンが宿舎に帰され、他の3人だけで、着物姿で馬にまたがっての謁見を果たしました。一説には、ローマ側が強引にジュリアンを帰したとも言われています)
使節団がたどった海上ルートは、長崎→マカオ→マラッカ(滞在は1週間のみ)→インドのコチンとゴア→セント・ヘレナ島(ナポレオンが流罪になった島、滞在は10日間のみ)→ポルトガルのリスボンになります。
ヨーロッパ大陸では、主に、スペインのマドリッド、船で地中海を経て、ピサ、フィレンツェ、そしてローマというルートを辿りました。
マドリッドでは、スペインとポルトガルの2つの国王を兼ね、当時の世界最強の王であったフェリペ2世と謁見して国賓級の待遇を受けています。
また、その後のローマでも、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において当時のローマ教皇グレゴリオ13世と謁見を果たしました。
この謁見も、帝王の間において全枢機卿が列席する中で行われるという破格の待遇であり、極東から来たアジア人相手になぜそこまでと不満を持つ枢機卿もいたようですが、教皇が押し切ったとされています。
教皇は日本での布教活動のための支援金を約束し、さらにはその後、ローマ市議会からローマの市民権を与えられたり、貴族に列せられるなどの栄光を得ました。
彼らの功績は、日本よりも当時のヨーロッパ世界で多くの記録に残されており、16世紀末キリスト教世界最大の功績とも言われています。
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「千々和ミゲル」
島原半島の千々和(長崎県雲仙市)生まれ。
父の直員は、有馬領主・有馬晴純の三男であり、千々石城主。
使節団4人のうち唯一の棄教者、つまりキリスト教を捨てた者としても有名。
(1601年に、イエズス会を脱会)
ローマに行き教皇にも謁見したミゲルが棄教した理由としては、イエズス会や外国人宣教師に対する強い反感があった、という説が有力です。
(ミゲルと同じ頃に脱会した日本人修道士のファビアンという人は『彼らは日本人を人と思っていない』と不満を漏らしています)
その一方で、2017年にはミゲルの墓とされる石碑からロザリオが発見され、実は信仰を捨てていなかったのではないかとも言われています。
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「伊東マンショ」
日向国(宮崎県)の大名、伊東義祐の娘の子。
4人の中で最年長とされています。
(ジュリアンが最年長とする説もあります)
幼い頃に父親が戦死。
薩摩の島津軍が日向に侵攻してきた際、マンショは当時8歳程度の子供でしたが、伊東家の家臣であり、後に刀工・堀川国広として名を馳せる田中金太郎という人に背負われて逃げのびた、との話があります。
その後、母親の再婚を機に親元を飛び出し、大分の町で放浪生活をしていましたが、11歳ぐらいの頃に教会に保護されたということです。
晩年、長崎で死去した際には、その枕元で、マルチノとメスキータ神父が祈り続けていたとされています。
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「原マルチノ」
肥前国(長崎県波佐見町)生まれ。
4人の中では最年少とされています。
語学に堪能であったとされ、ローマからの帰路に寄ったゴアの地で、得意のラテン語を使って演説を行い、旅の成果を報告しています。
この演説はゴアで出版されましたが、これが日本人による最初の活字印刷となりました。
後年はメスキータ神父に仕え、長崎で翻訳や印刷、出版など様々な仕事を行っていましたが、江戸幕府による禁教令に伴いマカオに追放され、その地で死亡しました。
その遺体は、師であるヴァリニヤーノ神父と共に、今もマカオの聖パウロ教会の墓地に並んで葬られています。
なお、作中における船上での釣りシーンですが、実際、メスキータ神父がインド洋での航海の様子を手紙に記しており、ミゲルたちがカツオや鯛、タコ釣りを楽しんだり、釣り針を使って鳥を捕まえていたことが書かれています。
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「中浦ジュリアン」
肥前国中浦(長崎県西海市)で、中浦城主小佐々甚五郎の子として生まれる。
1608年に、マンショ、マルチノと共に司祭(神父)に叙階されました。
禁教令を受けて国内に潜伏しましたが、全国に指名手配された上に懸賞金までかけられ、1632年に捕縛されてしまいました。
長崎に連れ戻された後、役人達からひたすら棄教を迫られるも、頑としてこれを拒否。
翌年、穴吊りの刑に処され、耳から血を滴らせながら3日後に絶命したとされています。
処刑の直前には、「私はローマに行った中浦ジュリアンである。天主の栄光のため、この光景をよく見ておけ!」と叫びました。
2007年には、ローマ教皇ベネディクト16世より、福者に列福されています。
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「アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ」
イタリア・ナポリ王国の貴族の家に生まれる。
巡察師(アジア全域での布教状況を視察し、改革を断行する特別職)として、長崎に来日。
日本でのイエズス会の布教活動改革に乗り出し、日本人司祭(神父)を育成するため、神学校セミナリオなどを作りました。
なお、ミゲルたち4人は、有馬晴信の日野江城のふもとに作られた有馬セミナリオの第一期生にあたります。
ヴァリニヤーノは、日本人は礼儀正しく理解力があり、ヨーロッパ人よりも優秀であると高く評価していたとされています。
ヴァリニヤーノはゴアまで来た段階で、イエズス会から突如インドの管区長になるよう命ぜられてしまい、使節団一行と離れてインドに留まることになってしまいました。
その代理として、当時ゴアにいたロドリゲスを使節団の総責任者にして派遣を行ったのです。
ミゲルたちとは、ローマからの帰り道に、再びゴアの地で再会を果たしました。
ヴァリニヤーノと4人は、船の上で抱き合ってその再会を喜んだとされています。
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「織田信長」
信長は、自分に反抗する仏教勢力を根絶したいという考えから、キリスト教を全面的に保護していました。
来日したヴァリニヤーノは、安土城を訪れて何度も信長と会っており、大いに寵愛されたとされています。
ヴァリニヤーノが帰国することを聞いた信長は、帰国にあたっての記念品として、狩野永徳が描いた「安土城図屏風」を贈りました。
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「森蘭丸」
織田信長の美少年小姓として有名な蘭丸ですが、兄であるの森長可は織田軍の中で「鬼武蔵」と言われるほどの豪傑として名が通っており、また弟の森坊丸や森力丸も信長に小姓として仕えるなど、一家総出で織田家を支えていました。
信長から、彼の愛刀であった「不動行光」という短刀を下賜されたと言われています(諸説あり)。
なお、森長可の妻であった池田せんという女性は、自ら200人の女性からなる鉄砲隊を率いていたとされています。
作中にも記載しましたが、戦国時代には、女性でもそれなりの人数が兵士として戦場に出ていたということです。
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「鬼丸国綱」
鎌倉時代の刀工・粟田口国綱の作。
鎌倉幕府の五代執権である北条時頼(北条時政や泰時との説もあり)は、夢の中で小鬼に苦しめられ、病気になってしまいました。
そんな中、やはり夢の中で、自らを粟田口国綱の太刀と名乗る老人から「汚れた手に握られてしまい錆びつき、鞘から抜け出せない。小鬼を退治するため、清浄な者の手で刀身の錆を拭ってくれ」と告げられました。
翌朝、身を清めた者に手入れをさせ、抜き身のまま柱に立てかけておくと、太刀が近くにあった火鉢の足に落ち、銀細工で出来た鬼の彫り物の頭を斬り落としました。
この銀細工の鬼が時頼を苦しめていた小鬼の正体であり、以後時頼は病が治ったとされ、以降この刀は「鬼丸」と呼ばれるようになったと言われています。
刀の持ち主は、北条家滅亡の後、新田義貞、足利義輝、信長、秀吉、徳川家へと変遷し、現在は皇室御物となっています。
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「ジャンヌ・ダルク」
オルレアンの乙女として数々の作品にも取り上げられている彼女は、
『私たちが戦うからこそ、神は、私に勝利を授けてくれる』
『自分が何者であるかをあきらめ、信念を持たずに生きるのは、死よりも悲しい。若い内に死ぬことよりも』
など、数々の名言を残しています。
そんな名言を残した彼女ですが、読み書きが出来ない文盲であったと一般的には言われています(ある程度の読み書きは出来たとする説もあり)。
手紙を書く時は人に口述筆記をさせており、ジャンヌは最後に署名をするだけだったとのことです。
また、彼女の愛刀は「フィエルボアの剣」と言われています。
ジャンヌがイングランドとの戦いに向けて装備を整える中で、サント・カトリーヌ・ド・フィエルボワという町の教会にある祭壇の側に剣が埋っていると言い出し、実際に掘り起こしてみたところ、5つの十字が刻まれた錆びた剣が発見されました。
この剣はジャンヌが好んで帯刀していたそうですが、その後行方不明となっており、伝説の剣として今も人々を魅了し続けています。
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「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」
鉄腕ゲッツとの異名を持つ中世ドイツの騎士。
23歳の時に戦争で大砲の弾を被弾し右腕を失います。
以後、彼は鋼鉄の義手を付けて戦い続け、神聖ローマ皇帝のカール5世の下で従軍します。
その一方で、貴族や商人相手にフェーデと呼ばれる私闘を一方的にしかけ、賠償金や身代金を巻き上げるなどの蛮行も行なっており、盗賊騎士・強盗騎士とも言われていました。
晩年にはドイツにあるホルンベルク城というお城を購入し、1562年に82歳で亡くなるまでそこで過ごしたとされています。
なお、彼が仕えたカール5世はフェリペ2世の父親であり、スペイン王位を息子に譲った後に、スペインにあるユステ修道院に隠居し、その後死亡。
その亡骸は、修道院の附属教会に埋葬されました(その後、遺体はエル・エスコリアル修道院に移葬されています)
【伝承関係】
「酒呑童子」
大江山に棲む、鬼の総大将とも言われる存在。
その姿は、全身が5色まだらで、角が5本、目が15個、体長は5丈あるという話のほか、薄赤い顔をして子供のように斬り垂らした髪型という伝承なども残っています。
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「餓鬼」
下腹の突き出たみすぼらしい小鬼で、地獄で常に腹を空かせている、飢餓に苦しむ亡者として知られています。
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「牛鬼」
瀬戸内海を中心に全国各地に伝承が残る鬼で、その姿は、頭が牛で体が鬼だったり、頭が鬼で体が蜘蛛だったりと色々あります。
牛鬼は水に縁がある怪物とされており、島根県の民話などでは、「濡れ女」という妖怪と一緒に出没しています。
そのやり方は、海辺などに濡れ女が出現し、釣り人などに対して、びしょ濡れの赤子を抱いてほしいと頼み、その子を抱くと石のように重くなって身動きが取れなくなって、そこに牛鬼が現れて人を食べてしまう、というものです。
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「獄卒鬼」
地獄での亡者の監視がその役割ですが、彼らにはいくつかの種族がいるそうで、よく知られているのが役鬼と羅刹とされています。
役鬼は閻魔大王の忠実な家来、羅刹は元は地上にいて人間に害をなしていた悪鬼の類とされます。
役鬼の姿は、赤鬼、青鬼、白鬼、二本角、一本角などがあるそうです。
一方、羅刹の姿は、3つの頭に2つの口、4つの目、足は5本で指がない、手に角が生えている等の特徴を持ち、犬、ハゲタカ、フクロウ、鳥などの形を取ることもあります。
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「大嶽丸」
その姿は、身長は十丈(約30メートル)ほどもあり、目は日月のごとく輝き、天地をひびかせる大声を持っていたとされています。
伊勢国(三重県)の鈴鹿山に住み着き、住人を襲っていましたが、時の帝より、その討伐のため、藤原俊宗が派遣されることになりました。
俊宗は、夢のお告げに従い、大嶽丸が惚れている鈴鹿山の天女、鈴鹿御前と契りを交わして、彼女の協力を得ることになりました。
大嶽丸は、鈴鹿御前の家に現れ、ここで求愛の歌を詠い、御前の方も誘いを受けますよという内容の歌を返して、彼を油断させます。
彼女は、俊宗という人間に命が狙われている、ついては守り刀が必要であるとして、大嶽丸が持つ三明の剣のうちの2本を騙し取ります。
(残りの1本は、大嶽丸の叔父が天竺に持っていっていたそうです)
こうして宝剣を失った大嶽丸は、その後俊宗と戦い、首を刎ねられることになったとされています。
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「鈴鹿御前」
伝承により、天女だったり鬼女だったりしますが、いずれの記述でも、絶世の美女とされています。
「御前」とは夫人に対する敬称であり、鈴鹿山にいる夫人なので、鈴鹿御前と呼ばれています。
仁明天皇の時代に、都で鞠のような光が飛び回り、財宝や帝への貢物が奪われるという事件が発生しました。
帝からその成敗を命じられた田村丸利仁は、御前の屋敷で一戦交えるものの、御前は田村丸に惚れ込んでしまいます。
そこで、相手を油断させるため、田村丸は御前と契りを結び、3年という月日を共に過ごして、子供まで作ることになりました。
最終的に、田村丸は、御前を騙して都に連れて行こうとするものの、見抜かれてしまいます。
御前は、田村丸を連れて帝の前に飛んで行くと「彼と契り、子供まで作ったいま、朝廷と争う気はない」と言い残して姿を消した、とされています。
鈴鹿御前は、十二単衣の装束に紅袴を着て、纐纈(奈良時代に流行った絞り染めの名称)の袋に琴を入れて持っていたようです。
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「鬼子母神」
インド出身の鬼神。
インドのバラモン神話では、国の平和と人間を守る美女神ハーリティと呼ばれており、500人の子どもを持つ美しい女神とされています。
一方で、ハーリティとその一族は人間の赤子を喰らう神でもあり、人々は苦しんでいました。
人々の悲しみを知ったお釈迦さまは、500人の子どもの中から末っ子を選んで隠してしまいます。
悲しみに暮れるハーリティに、お釈迦さまが「500人もいる内のたった一人を失っても悲しむのだ。まして、数人しかいない子どもを失った人間の気持ちはどうだと思うか」と諭します。
末っ子を返してもらった彼女は改心し、以後、子どもの守り神になりました。
日本では鬼子母神と名前を変えて各地に伝承が広まりましたが、日本には山姥や鬼婆の話があったため、人喰いの面と相まって、改心するまでは醜い老婆の容姿であったとされています。
その後、仏の教えを授かると美女へと姿を変えた、というストーリーになっています。
なお、鬼子母神が改心した際、お釈迦さまは側にあったザクロの実を授けたと伝えられていますが、その理由として、ザクロは人肉の味がするので、人が食べたくなった時には代わりにこれを食べよと言われたとされています。
また、数多いる彼女の子どものうち、代表とも言える子を十羅刹女(他に八大羅刹女、十二大羅刹女、七十二羅刹女等の名称もあり、本作では十二を採用しています)と呼んでいるようです。
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「茨木童子」
酒呑童子の腹心として有名。
その姿は、若い女性だったり、おかっぱ頭の童子だったりするものもあるが、白髪の鬼女としての姿が最も有名であり、歌舞伎や絵馬などに描かれるものもこの姿が多い。
源頼光の「鬼退治説話」の中で、渡辺綱に腕を斬られた鬼として語られている。