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とある王国の、長文短編シリーズ

そんな貴方は、廃太子。 《王宮上級女官 サリーの独白》

作者: 龍槍 @ リハビリ中

長文短編 第二弾 前作とのリンク状態ですので、異世界転生のタグは付けたままです。 本作のみでも、お楽しみ頂ける様に綴りました。



 本来ならば、王宮女官という職に就くはずもない私。 


 全ては、王宮からの急報から始まった。





    § ――――― § ――――――§





 母は上級伯爵家の当主。 王宮に女官として出仕していた。 側妃様の御側御用を務める上級王宮女官だった。 寄り親たる侯爵家が側妃様の御生家であり、また、同年代でもあった為、選ばれた。 ”王宮で側妃様を支える者として” と、聞かされていた。


 父は寄り親の侯爵家の三男。 領地経営に長けた人だった。 母が王宮に出仕する為、上級伯爵家を維持するために侯爵家より婿養子として、上級伯爵家(我が血族)に入られた方だった。


 政略結婚の為に最初は愛情は無くとも、しっかりとした信頼関係は有ったと、そう理解している。 事実、一人娘である私が生まれたのだから。 そして、育まれた「愛情」を以て、私を立派に育て上げて下さったことは、強く感じていた。


 何不自由なく育ち、上級伯爵家の継嗣として登録され、礼法院に入学する前には、上級伯爵家の娘としての礼法も修めていた。 礼儀だけでなく、淑女の嗜みとしての、刺繍や茶事も沢山教え込まれた。 更に、上級伯爵家を支えるための知識。 すなわち、領地経営のアレコレも父が自ら教えて下さった。


 母は私には、”王宮に出仕する事無く、上級伯爵家を護って欲しい” と、常々仰っていた。 自身の様に、重大な責務を負う者では無く、領地に心を砕く優しき上級伯爵家の当主として安寧に生きて欲しいと、そう望まれていた。


 父も同じような意向だった。 なにも、強く責任を負う立場では無く、伴侶として迎える者と一緒に王国より賜った領地に心砕く優しき領主と成るべきであると、そう仰られていた。 私自身も領地経営がいかに難しいかは、父の背中を見て理解しても居た。 だから、伴侶と成るべき男性と共に上級伯爵領を盛り立てていくものだと、幼心にそう思っていた。


 側妃様が身籠り、そして第一王子たるアルクレイド様が誕生されるまでは、穏やかな日々を過ごしていた。 柔らかで穏やかな日々に陰りが入り込み始めたのは、正妃様が同年、第二王子様をご出産されてから。 それまで、定期的に王都別邸(タウンハウス)にお戻りに成っていた母が、なかなかお戻りに成られなくなった。


 正妃様が第二子である王女様をご出産され、そして、第三子の王子もご誕生になった。 国は喜び事の度に大きく祝う…… その度に母が王都別邸(タウンハウス)に戻れる日数は減り続けていった。


 ―――― そして、側妃様の大逆が起こってしまった。


 側妃様が第二王子以下、正妃様のお子様達に何らかの行動を起こされ、「断罪の塔」に幽閉されると知らせが入ったのは、私が十五歳の歳。 矢継ぎ早に入る様々な報告の中に、母が事情を聴取されるために、一時王宮にて留め置かれると、そう知らせが入る。


 父と共に、何事かと気を揉みながらも、此方は高々上級伯爵家。 王宮に伺いを出すことも出来ず、悶々と眠れぬ夜を過ごした事を思い出す。


 礼法院への入学を控えていた私に心配を掛けぬよう、父は優しく準備を進める様に言って下さった。 そんな言葉も耳に入らない程、私の胸には嫌な予感が浮かんでは消えていた。 王宮は遠く、その内部で行われている事は、耳にする事も無い。


 早馬が上級伯爵領の屋敷に駆け込んだのは、礼法院に入学する為に王都の別邸(タウンハウス)に向かう二日前。 母が毒を飲み身罷ったとの知らせ。


 側妃様が監視を魔法で躱し、正妃様を弑されようとされたと。 側妃様は正妃様の護衛騎士に切り捨てられたと。 その時には既に、法務官様の元で取り調べをされて居た母は、側妃様を御止め出来なかったことを悔いて、自ら隠し持っていた毒により身罷ったと…… そう、お知らせがあった。


 父も沈痛な面持ちで、その報告を聞き入っていた。 その時の父の言葉は、未だに私の脳裏に刻み込まれている。


 ”なぜ、アレクサンドラが死なねばならぬ…… 全ては姉の仕出かした事ではないか。 姉に傅き、暴挙を止めようとしていたではないか…… あらゆる機会を以て、姉の動向を伝えていたではないか…… それなのに…… アレクサンドラの献身を無視していたのは、あちらではないのか…… 責任感が強いアレクサンドラが、どう身を処するか予測できなかったとでもいうのか…… 度し難い…… まったくもって、度し難い……”


 母の悲報を聞き、呆然自失になった私。 そんな私に数々の悲運が襲い掛かる。 上級伯爵家の当主たる母の服毒自殺。 法務官様方の捜査により、一連の側妃様の行動には関与していなかった事は証明されたのだけれど、側妃様を止めきれなかった事により断罪され、王宮女官の職を剥奪された上に、当主を廃せられた。


 父は侯爵家より帰還命令が発せられ、上級伯爵家は侯爵家預かりとなり、新たな当主が選出される事となった。 私も継嗣認定を取り消され、さらには連座と云う事で貴族籍を失った。 今まで…… 貴族の娘として生きてきた私には、これからどうすれば良いか、判らなくなってしまった。


 執事以下、上級伯爵家の使用人たちも奔走してもらったのだけれど、一旦決まってしまった事は覆ることも無く……


 父は私に泣いて詫びを口にする。 貴族の家に生まれた者は、どこまでも貴族の責務を果たさなければならないと。 ……貴族に生まれ、市井に落とされる私は? 私はどうしたらいいの? でも…… 父の苦悩を間近に見ていた私には、父に非難の言葉を吐く事は出来なかった。


 父はたった一つ…… 父に出来る、たった一つの事を成してくれた。 一通の紹介状。 



「これを持って、王宮へ行きなさい。 話は通してある。 サリナ…… 愛しい我が子。 お前だけが何故こんな目に合わねばならんのかッ! わたしに力が有れば…… 悔やんでも悔やみきれない…… お前が会う方は、お前の境遇をよくご存じだ。 よくその方の云う事を聞き、為すべきを成しなさい。  身分は失っても、心からの貴族の誇りを、そして、矜持を示すのは、お前自身なのだから。 力なき父を…… 許しておくれ。 貴族の誇りと矜持を持つお前ならば、必ず降りかかった災厄を乗り越える事が出来る」



 滂沱の涙を流しながら、紹介状を手渡して下さった父。 まるで罪人の様に連れ出されて行った父。 振り返り、振り返り、何時までも私を心配して下さった父の姿が、今も脳裏に刻み込まれている。 その後の父の行方は、私は知らない。 きっと、侯爵家の意向で、またどこかの家に行ったのでしょうね。 侯爵家に有益なお家に……


 お父様の未来に幸多からんことを…… 祈るしかない無力な私をお許しください。


 送り返された母の遺体を、代々の墓所に埋葬した。 寂しい葬儀だった。 弔問に訪れる人も無く、私と使用人たちで、祈りを捧げた。


 もう、生家とは言えなくなった、そんなグランパス上級伯爵家の屋敷から、全ての火が落とされる。 使用人たちも紹介状を手に全て居なくなった。


 私もまた…… この屋敷から出る。


 大切な…… 優しい…… 楽しい…… 思い出の一杯詰まったそんな屋敷から…… 出て行かなくてはならなかった。 


§――――§


 父の最後の言葉通り、私は王宮に向かう。 城は大きく圧倒されるばかり。 しかし、怯んでいては、この先…… 生きていく事さえ難しい。 だから、勇気をもって城門をくぐる。 城門の衛視さんに、父の手紙を渡す。 父の言葉通り、入城が許されそのまま、城内に入ると入り組んだ回廊を巡り、とある部署に通された。


 緊張の連続でクタクタに成ってはいたけれど、これからの事を思うと、背筋は自然と伸び、父の言葉通り、貴族としての誇りと矜持を保てたと思う。 重厚な執務室。 総王宮女官長の執務室。 王宮と云う華やいだ場所にもかかわらず、シンと静まり返ったその場所で、冷静に、冷静にと呪文のように唱えつつ、この部屋の主人が来るのを待っていた。


 一人の女性が執務室に到着された。 母の上級女官のお仕着せとよく似た衣装。 高く結んだ御髪。 下黒縁の眼鏡の奥には底冷えするような瞳。 執務机の向こう側に座られると、ピタリと視線を合わせられ言葉を紡がれる。



「よく来てくれました。 サリナ=シェイナ=グランパス。 貴方の母は、とても優秀な王宮上級女官でした。 残念な事に成りました。 悔やみます」


「有難いお言葉です。 サリナ=シェイナ=グランパスに御座います。 もう、貴族籍も失いましたので、グランパス上級伯爵家の者とは云えませんが、父にそう名乗る様にと「言葉」を、頂いております。 どうぞ、宜しくお願い申し上げます」


「承知しております。 サリナ。 貴方は既に貴族籍を失っています。 残念です。 しかし、この国の国籍は有るのです。 貴族籍に無い者に、家名は無い事は理解していますね。 よって、呼び名を市井の民の様に、変える必要があります。 …………貴女らしい呼び名が必要です。 サンドラは貴女の話をする度に、貴方の事をサリーと愛称で呼んでおりました。 どうですか、名を『サリー』とすれば?」


「有難いお言葉です。 母も、父も、わたくしをそう呼んでくださっておりました。 わたくしが、わたくし自身が何者であったかを証する名ですので、有難く頂戴したくあります」


「そうですね。 判りました、『サリー』。 貴方の父君から、貴方の境遇はしかと受け取っております。 既に住む家も、戻るべき場所も、保護して下さる方も失った貴女。 どうでしょう、王宮で職に就く事を考えては?」


「……母の想いとは違います」



 私の瞳に強い否定の色が見えたのか、総王宮女官長様は困惑の光をその瞳に灯した。 引き詰めた表情が少しだけ和らぐのが見えた。 言葉にしても良い物かと、そんな逡巡を見せられた後、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出されたの。



「判っているわ。 サンドラは愛娘を、こんな場所に置くことは良しとはしなかった。 しかし、貴方には寄る辺も無い。 サンドラの友人として、友人の娘を市井に放り出す事は、出来ないわ。 貴方の父君も、それを危惧して私に繋ぎを取ったのでしょう。 サンドラの意思は理解しております。 しかし、貴方の事を思う、貴方の父君の想いを無駄にしては成らないと思いますが?」


「……父の想い…… ですか……」


「悔やんでおられました。 嘆いておられました。 こんな事ぐらいしか出来ぬと、詫びて居られました」


「……お父様…………」


「私があなたに用意できるのは、王宮内での衣食住の保証。 その為には、貴方には王宮にて職について貰わねばなりません。 まだ、礼法院に登院する前の貴女でしたので、王宮下女としての職を用意しております」


「お父様の想い…… わたくしの行く末に少しでも光を置きたかったのですね…… 判りました。 父の最後のわたくしに対する慈しみの情を無下にする事は、グランパス上級伯爵家の娘として出来ません。 …………総王宮女官長様、宜しくお願い申し上げます」



 柔らかな笑みを浮かべられた総王宮女官長様。 頷かれると、待機しておられた女官の方に、私を託された。 ちょっとびっくりしたのは、その女官様がこの部屋に居られるとは認識できなかったから。 総王宮女官長様と二人きりだと思っていたから。


 後から理解できることなんだけれども、女官の方々は【認識阻害】の魔法をその身にまとわれているとの事。 静かに、王宮を後ろから支えるそんな人達。 思えば、この頃から幾多の教えを受け始めていた…… と、云う事ね。


§――――――§


 王宮下女として、二年間みっちりと仕事を覚えた。 為に成ると理解した幾多の魔法も覚えた。 王宮内で起こる事に対応するために体技もある程度、身に着けた。 その為の時間はたっぷりと有ったのだもの。 他の下女たちが休養日に、生家や御婚約者の元に帰る事はあっても、私にはそんな場所は無かったのだもの。


 王宮に勤める下女、侍女、女官は皆貴族の娘でもある。 そんな中で、私は元貴族と云うだけで無く、大逆を成した側妃様の御傍御用を務めて居た上級王宮女官の娘と云う事で、疎外されていたことも又、私には良い方向に作用した。


 そう、噂話好きな同僚下女から離れ、ただただ仕事に集中し、さらに、身に着けるべきだと思える知識や魔法、体技の習得にとにかく時間を当てられたから。 研ぎ澄ます意識の感覚や、仕えるべき方の仕草一つで、何をお求めに成っているかを把握する能力も、磨きが掛かる。


 二年目の春を迎えるころには、下女長様より、侍女登用試験を受ける為の推薦状を頂くほどに成っていた。 王宮内の慣習も覚え、何か自分でも役に立てるのではないだろうかと、そう思い始めていたころでもあった。 推薦を受けた下女は多いが、実際に登用試験に合格できるものは少ない。


 ここでもやはり、生家の恩恵を受ける者達も沢山居る。 半面、私にはそんな物は全くない。 無いがゆえに、何処の派閥にも属さないモノであるとの認識が、下女長様にあったのかもしれない。


 侍女登用試験は知識を試す筆記試験。 時々に応じ対応出来るかをみる、実務試験。 そして、いざとなった場合に於ける、高貴な方々の退避時間を稼ぐ ”肉の壁” に成り得るかどうかの、体術試験の三段階に分かれている。


 登用試験の日程が発表され、それに向けての勉強の日々。 独りぼっちだと思っていたけれど、同じように登用試験を受けようとする者達と、なんとなくだけど連帯感も持てたことが、驚きでもあった。


 国法も勉強した。 王宮内の慣習も、各部署の立ち位置も理解できた。 自分だけで判断し得ない命令に関しては、上級職にお聞きする手立てもこの時に学習した。 この巨大な城の中に於ける自分の判断が、いかに重要なモノと成るのかも、身に染みて理解できるようになった。


 そのお陰だろうか、筆記試験については、なんら困った状況にはならず、合格の印を受ける事が出来た。


 実務試験に於いては、その日程は発表されない。 実際の業務に於いて、登用試験の受験者を陰から見る試験官が用意されていたらしい。 それは、王宮女官であり、王宮文官の方々でもあった。 私は日々の業務を淡々とこなしてさえいればそれでよかった。


 ただ、王宮下女の仕事を少しだけ逸脱した業務命令が出される事が多くなっただけ。 私自身がすることは、体術試験に向けた体力強化や、魔法の精度を上げる事に時間を費やす事だった。


 侍女様方の御手回りの品にお名前を刺繍し、文官の方々にお茶を淹れ、下女長様の書類作成のお手伝いをし、後宮内の掃除をして、体術試験に備えていた。 魔法の精度も上がり、【認識阻害】の魔法を身に纏う事に辛さを感じなくなった頃、下女長様からの御呼び出しがあった。



「サリー。 体術試験を受ける日程が決まりました。 一月後、近衛兵鍛錬所に伺候しなさい」


「はい」


「頑張りなさい」


「精進いたします」



 そう、にこやかに仰られた下女長様。 彼女自身は王宮女官様なのだから、遥か雲の上の人。 そんな方から、にこやかに微笑まれるのはちょっと、心配にもなる。 狐や狸ばかりの王宮に於いて、微笑まれるのは何かしら、その背後に有ると云う事。 だから、殊更に殊勝な態度を改める気にはならない。



「サリー、此処だけの話よ。 貴女…… 実務試験に合格の印を頂いているわ。 それも、特級の印をね。 大丈夫。 体術試験に合格すれば、貴方は侍女に成れるわ」


「……そ、そうなので御座いますか? いよいよ、精進せねば」


「その前向きで真摯な態度はとても良い事です。 精進なさいませ。 いずれ…… わたくしの同僚となるかも。 頑張りなさい」



 王宮侍女の方にそう言ってもらえた事は、何よりの励みになった。 体術試験に向けて、休養日には体術の訓練に邁進する。 相手は男女問わず、体術訓練所に通う者達。 短剣や懐剣を使う皆さんとは違い、私はピックと云われる、短突剣を用いた体術を専門とした。


 体がそう大きくはない私は、短剣や懐剣を戦闘力を以て振るう事は、ちょっと難しい。 教官様にその旨をお話したところ、使う武器に短突剣を薦められたからだった。 この武器を使うには、ちょっと難しい事がある。 普通の武器と比べ、相当に間合いが近い。 相手の内懐に入らなければ、確実に仕留められないという。


 多くの下女たちが使う、長柄の武器(グレイブ)は、反対に狭い場所では不向きな武器。 大広間とかそう云った場所で、集団で迎え撃つための武器だとも云える。 彼女たちは連携に重きを置くことも、その理由だった。 仲良くは成ったとはいえ、それほど近しい訳でも無い私がそんな中に入るわけにもいかず、個人鍛錬の出来る、短突剣を薦められたことは、確かに有難かった。


 とはいっても、その武器を有効に使う為の体技を習得する事は、淑女の身としては至難の業。 また、短突剣を主武器とする方など、居られる筈も無く…… 教官を探す事すら難しい。 教官様より鍛錬相手とされた方々は、ほとんどが男性の方であった事が、その難しさを表しているとも言えた。


 そんな、男性陣の鍛錬相手。 私の練度が上がるにしたがって、騎士職の方が減り、文官職の様な細身の方々が増えていった。 それも、とても強い。 鍛錬場でも、同じように【認識阻害】の魔法を纏われて、ややもすると、鍛錬場で訓練中であっても、その姿を見失うほど。 そうなれば、決まって首筋に短剣を押し当てられ、忸怩たる思いに捕らわれる。



「お前も、同じような家の出だったか? いや、違うはずなんだが……」



 ある日、鍛錬相手の青年に、そんな事を言われた。 やっとの事で、一本を取れた後の事だった。 大汗を流しながら、肩で息をする私に近寄り、静かに言葉を紡がれた。



「……出身の生家の事は、話したくは御座いません」


「そうか…… そうだな。 すまない。 精進めされよ。 貴女の主となる方は、幸運だ」


「えっ?」


「……いや、なんでもない。 続けようか」



 その後は、又…… コテンパンに伸された。 なんだったのだろうか? 良く判らない。 そして、迎えた体技の登用試験。 相手は王国軍の兵。 鍛錬を重ねられたと思しき、頑強な体付き。 想定戦場は王宮内のお部屋。 試験会場に選ばれたのは、王宮内の一室。 兵の方は完全武装で標準剣を装備されている。 御部屋の中には、相応の調度も準備されており、動ける範囲はかなり限られている。


 私はいつもの王宮下女の服装。 腰には短突剣。 エプロンがそれを良く隠してくれている。


 戦闘開始の合図は、兵の方が部屋の扉を開けた時。 私は部屋の最奥に位置する、侍女の定位置に置かれる。 何時始まるか判らない様に、試験時間にはちょっと幅が持たされている。 長柄の武器も壁に掛かってはいるけれど、私には不要。 待機位置で静かに待つのも、侍女の仕事の一つだから、体の力を抜いて、静かにその時を待つ。


 試験場の中では普段の業務と同じようにと、そう申し付かっている。 神経を尖らせすぎるのも、良い事では無い。 普段の業務と同じように、周囲を確認しつつ、その時を待つ。 気になるのは、この部屋のお掃除具合とか、調度の設えのちょっとした歪み。 窓の汚れとか、そんな事ばかり。


 普段通り、その気に成る部分の清掃や修正をしながら、その時を待っていたの。



 ―――――突然、御部屋の扉が開く。



 猛然と立ち入る国軍兵士。 自動反射的に纏っている【認識阻害】の魔法の強度を上げ、その方の傍に近寄る。 足音さえも気付かれる要因になるので、静かに素早く近寄る。 きょろきょろと周りを見回す国軍の兵隊さん。 その様子では、私の姿が見えない様。 それを嘲る様な無様はしない。 だって、想定戦場が違うもの。 国軍の兵は戦野を駆けるモノであって、室内の戦闘には長けてはいないわ。


 そっと、鞘から短突剣を抜き放ち、一気に間合いを詰める。


 声も無く、右斜め後ろに位置取り、肩を掴み、短突剣を背に押し当てる。 兵の耳元でそっと決められた「言葉」を口にする。



「このまま押し込むと、心の臓に刺さります」


「ま、まいった。 当職は死亡致しました」



 すぐに数名の王国兵と王宮女官様がいらっしゃって、体術試験の終了を告げられた。 結果は、追って通知するとの事で、通常業務に復帰したわ。 いつも変わらない、いつもの業務。 そうね…… 「まいった」って、言葉にされたから…… きっと、合格のお印は頂けると思うの。


 少しだけ、誇らしかった。 


 少しだけ…… 母に近寄れたと思った。 それが、母の想いとは違っても…… なんだか、これで、もっと母を知る事が出来ると、そう思えたから。


     § ―――――― § ―――――― §


 登用試験の結果は、総王宮女官長様の執務室で聞かされた。 今回の登用試験の合格者と一緒に。 何名が受けたのか判らないけれど、合格者の皆さんが私よりも年上であるのは見て取れた。 とても、凛々しく矜持高いお顔の方々であったのは、間違いない。 貴族の誇りに溢れる方々であるわ。 私も頑張らないといけない。 侍女職に付いたら、下女達の管理監督もその職掌に含まれる。 誰だって無様な上司の元では働きたくは無いもの。


 だから、より良いお手本になるべく精進を続けなければならない。 たとえ、この登用試験に合格しても、その任に非ずと判断されたならば容赦なく、侍女としての地位は、剥奪されるんですものね。 


 総王宮女官長様が執務室に入室された。 以前は判らなかった【認識阻害】の魔法を纏った女官の方々が五名と、その上、女官ではない男性が三名。 その他にあるかないか、かなり微妙だけど、二名の気配が察せられたの。 その方々が、総王宮女官長様に付き従い入室された。 侍女登用試験合格者の皆さんと一緒に私は、深々と(こうべ)を垂れ、お言葉を待つ。



「頭を御上げなさい。 登用試験ご苦労様でした。 貴女方は本日より、王宮侍女として国に仕える事と成りました。 配属先を決める前に、一つ質問を致します。 心して応えなさい。 この部屋に、新任の王宮侍女の他に何名の者が居るかを答えなさい」



 静かにそう問われる総王宮女官様。 皆、一様に目だけで執務室を見回す。 最初に応えるのは、高位の貴族家が生家の人。 生家の階位順に次々とお応えに成り始めた。



「総王宮女官様を含め、六名です」


「同じく、六名の方々です」


「わたくしには五名の方々に見受けられます」


「四名の方々です」



 おおむね、皆さんは女官の方々のお姿は見えているか、その気配を感じていらっしゃるわ。 【認識阻害】の魔法を纏っている女官の方々。 その強度ははっきり言えば、違いがあるから、その結果になるの。 強く纏っていらっしゃる方が二名。 業務で常に纏っているくらいの方が二名。 そして、極弱くしか纏ってらっしゃらない方が一名。


 でも、男性の方は、そんなものでは無かったの。 強い強い【認識阻害】の魔法を身に纏っている。 その姿を確認できたのは、三名の方々。 でも、姿は見えないけれども、もうあと二方が居られる。 うっすらと、影のように総王宮女官長様に付き従っておられるのよ。


 王宮で役に立つと思った、色々な魔法の内の一つを習得出来たのが、彼らを見つけ出す事が出来た理由なの。 【魔法術式感応】魔法。 近くに魔法を使っている方がいらっしゃるならば、その方を感知する魔法なのよ。 必須の習得魔法という訳では無いんだけれど、有った方が好ましいって…… そう業務教本にあったから、必死になって習得したの。


 やっと、私の番になった。



「わたくし達”新任の者以外”でありますれば、総王宮女官長様、王宮侍女様五名、護衛職の男性三名、そして、総王宮女官長様付きのお方二名 合計十一名とお見受けいたします」



 周囲の目が、何を言っているのか? って、そんな感じの視線を私に投げかけてきたわ。 そうね、だって、彼女達には感じられないんだものね。 正直に話せって言われたから、そうしただけなんだけれど…… 私達の答えを聞きつつ、何か書き物をされて居た総王宮女官長様が、お言葉を発せられた。



「判りました。 追って配属先の部署を通知します。 皆の献身を求めます。 王宮内に於いて、侍女職は大変重要な職務です。 心して職務に当たり、以て王国の安寧に勤めなさい」


「「「「はいっ!」」」


「では、下がりなさい。 サリー、貴女は残りなさい」


「はい……」



 皆の視線が痛い。 ” 馬鹿言って、早速のお叱りを受けるんだ…… ” って視線よね、これって。 でも、見えていたんですもの、仕方ないじゃないですか。 他の任官試験合格者の皆さんが執務室から退出されて、私一人だけが取り残された。 その上、五名いらっしゃった王宮女官様の内三名の方が退出された。 三名の男性も一緒に出て行かれたの。



 残っているのは、二名の王宮女官様、総王宮女官長様、それと護衛官らしき二名の気配。 



「貴女方は、どう思われますか? 上級王宮女官としての意見は?」



 突然…… 言葉を崩される総王宮女官長様。 それまで眉一つ動かされなかった、女官の方々。 そんな方々が急に破顔されて、眩しい笑顔を浮かべられる。



「座学、実務の両試験に於いて、伝説となっている、サンドラ様と同様に高い能力をお示しになった。 間違いなく、あの方の愛娘と云えましょう。 後、必要なのは……」


「ええ、そうですわね。 ねぇ、サリーさん。 貴女の事は、調べました、 生家、旧グランパス上級伯爵家に於いて領地経営の実務も学んでいたとの事でしたが?」



 えっ? そ、それは…… 生家の事は、この場でお話すべきことではないのでは? なぜ、生家の事が話題になるの? それに私はもう、貴族でも無いのよ? 訥々と、困惑した心情と共に、言葉にする私の本心。 疑問と、懸念が絡み、紡ぐ言葉が震える。



「なんとも、申し上げにくい事ですが…… 父に教えを受けていた事は間違い御座いません。 ただ、父の手慰みと申しますか……」


「そんな事は無いでしょ? 聞き及んでおりますもの。 サンドラ様がとても自慢しておいでに御座いましたわ。 上級伯爵家の継嗣としての資質は、伴侶が厳しく見極めたうえ教育を施していると。 サンドラ様が領地の経営を気にせず王宮にてお仕え出来るのも、伴侶たる者の献身と、娘たる貴女の努力の賜物であると。 そう、お聞きしておりますわ。 ならば、総王宮女官長様へ進言いたします。 彼女を国府 内務局に於いて研修に出向する事を強く進言いたしますわ」


「研修期間を過ぎれば、わたくし達が彼女を王宮女官に推挙いたしますわ。 研修の結果いかんでは、一足飛びに、彼女を上級女官として。 これだけの登用試験の成績を収めた者を、ただの王宮侍女として登用する事は、王国にとっても損失となりましょう。 ここは、彼女に研修を受けさせるべきに御座いましょう。 「影」の方々も、そう思われるのでは? 貴方方の存在に気が付くような王宮侍女が居りますでしょうか? 男性官吏の方々でも、なかなかに難しい事では御座いません事?」



 総王宮女官長様の背後に揺らぐ影が実態を以て表に現れた。 渋いお顔のお二人だった。 透徹した視線が私を貫く。 そこに何らかの意思の光が見て取れた。 これは…… 多分…… 疑惑。 私の出自を知っておいでで、その為に私が何らかの意図を以て王宮に勤めていると疑っている視線。


 その事に気が付くのは、若輩の私だけではないわ。 当然、女官様方も気が付かれる。 強い視線をその方々に投げかけ、朗らかだったお顔が厳しい物に変化する。 執務机に座っておられる総王宮女官長様が、苦笑しておられるわ。



「王家の「影」にとっては、警戒するに十分な過去を背負った少女です。 納得すべき部分も多々あります。 大切な母親を王家に依って奪われ、さらに庇護されるべき娘が市井に放り出されるような事態。 ……王家、そして貴族社会に対し不穏な考えを持っていると、そうお思いになられるのも無理はないでしょう。 さらに、此処にいる上級女官の推挙を以て、彼女が上級王宮女官に任命されたとしたら、王家の方々に近づく可能性は更に増大する。 彼女の体技は、外敵に対しては強い盾となるが、その牙が内側に向けば…… との、ご懸念でしょ? 大丈夫です。 サンドラが娘は素直で純朴な乙女です。 さらに、境遇からどの派閥にも属しては居りません。 考えが有ります。 彼女が研修を恙なく終了すれば、久しく増員していない宮に送り込む事となるでしょう。 それは、王家の意思にも反しない。 その時が来れば、彼女にも貴方方の”お手伝い”を、命じてもよろしいのです。 ならば…… でございましょう?」


「総王宮女官長殿。 ……どちらに転んでもと?」


「あら、王宮はそう云った場所に御座いますわよ、「影」殿?」


「ふむ…… 報告に上がっております、彼女の為人は当方でも十分に吟味されております。 女官庁の思惑もあれば、それに協力するも、吝かでは御座いません。 が、監視は付けます」


「宜しくてよ。 何分と、難しい立場になりますでしょ? 護衛の傍ら、監視すれば宜しいのではなくて?」


「御意に」



 私の目の前で交わされる数々の言葉。 私には理解できない。 いや、したくないと云うのが本音。 優しくはしてもらっているけれど、そこに様々な思惑も絡んでいる。 そう受け取れる。 そして、これから起こるべき事態に、私はやはり、たった一人で立ち向かわなければならないんだと…… ちょっと、悲しくなったの。



「貴方達の進言を受け入れます。 サリー。 手配を開始します。 追って連絡が齎さるでしょう。 その時に貴女が選択できるように、拒否権を与えます。 宜しいですね」


「拒否権? に、ございますか?」


「ええ、このまま王宮侍女として勤めるか、それとも、母であるアレクサンドラ様の背を追いかけるのか。 そこは貴女に任せます。 無理強いしても上手くいく事ではないのですから。 仮辞令です。 貴女に対し、国府内務局に於いて、研修期間を設けます。 主に実務関連のお手伝いではありますが、内務局に於いてこの国の実態を理解しなさい。 王家の存在意義。 貴族の在り方。 大切な国民がどのような状態にあるのか。 色々と見えてくるものが有るでしょう。 そして、その知見を以て、王家に仕えるのが上級王宮女官といえます。 貴女がどの様な思いを持っているのかは、他からでは見えません。 よって、この判断が悪しきモノになるやもしれません。 ですが、アレクサンドラの朋として、貴女には期待せずにはいられません。 総王宮女官長としては、甚だ不味いのですが…… ね。 よって、貴女には選択肢を与えます。 この仮辞令を拒否する事も可能です。 熟考しなさい。 期間はこちらの準備が整うまで。 本辞令発令を以て、貴女の判断を聞きましょう。 今日はご苦労でした。 退出を許可します」


「はい…… 『お話』承りました。 御前、失礼いたします」



 深々と淑女の礼を捧げ、総王宮女官長様の執務室を退出する。 考えろ…… 考えろ…… 人生の…… 私が私であるために…… 誇りに思う、『お母様』の娘であると、胸を張って言える私であるために。 深く愛して下さったお父様の娘であるのだと、言い切る為に。


 身分は失っても、心から貴族の誇りを、そして、矜持を示すのは、私自身だと、そう仰って下さったお父様の言葉を…… 私は、覚えている。


     考えろ、考えろ…… 


 女官庁から正式な辞令が降りたのは、それから一週間後。 私が私らしく生きて行く為には、必要な事。 上級職を得る機会があれば、それに挑戦する事は、選択肢が増える事に他ならない。 だから、私は『拒否』なんてしない。


 自身の選択を総王宮女官長様に伝えると『辞令』の通り、国府内務局に於いての研修を受ける事になった。


§―――――§


 研修は、かって上級伯爵領で勉強した事の繰り返しとも云えたわ。 提出されている書面を精査して、区分けして、内容を簡潔にまとめ、上申する。 提出されている書面の量もそんなには多くない。 いくつもある部署の内の一つだしね。


 あとは、配属された場所のお掃除とか、同僚さん達へお茶を淹れる事とか、守秘義務も課されるから、何処に行っても、張り付けた笑顔で交わす事。 若輩の私が王宮の食堂で内務局の官吏の皆さんと一緒にご飯を食べているのは、ちょっと珍しい光景かもしれない。


 色んな人にお声掛けして頂いたし、晩餐に誘ってくださる方もいらっしゃったわ。 でも、私にも予定ややる事がたくさんあるんだもの、受けられないわ。 笑顔を基本にして、その数々のお誘いをはぐらかしていったの。


 見目の良い高位の貴族の方は、ちょっと憤慨された様でもあったのだけど、私の所属が王宮女官庁と云う事もあり、強くは出てこなかった。 そういう意味では、(かつ)ての寄り親である、侯爵家御連枝の方々からの接触は気が重いの一言に尽きる。 嘗てそうであったように、当たり前のように機密に指定されている事柄を聞き出そうとしてくる。


 本当になんだって、そうなるのよ。 貴方達に見捨てられた私が、自分の職務に於いて、守秘義務がある事柄を、お教えする訳ないじゃない。


 困惑と嫌悪に眉を顰めると、更に高圧的になって、力でどうにかしようとしてくる。 本当に横暴ね。 だから、習い覚えた体技でちょっと反撃もしたわ。 衛兵さん達が見ている前でね。 その理由を大きな声で話しながら。



「国の機密を、その開示命令書も持たぬ者にお教えする訳は御座いますまい! 内容をお聞きになりたければ、正式に申請書を出し、御許可を御貰いになるべきに御座います。 何故、わたくしにお聞きになるか、その存念はどこに有るのかは、お聞きはしません。 しかし、これ以降、貴方の御訪問はお断りいたします。 この事は上司に伝えますので、しかるべく対応される事に御座いましょう!」


「このっ、下手に出ていればいい気になって!! 大逆犯罪人の娘ごときがッ!」



 手を出したのはあちら。 それを迎え撃ったのみ。 掴みかかった腕を捩じり、体を躱し、後ろ手に関節を決めて、膝裏を蹴り込み倒す。 膝で背中を抑え鎮圧態勢に成りつつ、腕を捩じる。 私の膝下で呻き声をあげる不審者を抑えつつ、慌てて近寄ってきた衛兵さんに申し上げるの。



「王宮内でのこのような蛮行を行う方が、いらっしゃるのですか! 由々しき問題に御座います。 衛兵様へご進言申し上げます。 城内の治安維持を鑑み、この方の登城制限を願います。 内務局出向者としてではなく、本来の所属である、王宮女官庁の侍女職を拝命する者として、ご進言いたします」


「了解した。 この愚か者の事は任せなさい。 きちんと処罰いたします。 本職の名誉に掛けまして、お約束いたしましょう。 どうぞ、御心安らかに」


「ありがとうございます。 では、良しなに」



 なんて事もあったのよ。 お叱りを受けるかなって思っていたんだけど、内務局の上司の方にはとても褒められたわ。 この事は緘口令が敷かれたけれども、それ以降 不埒な考えを持つ人が私の傍には来なかった事を考えると…… 噂話にはなったって事ね。


 予定研修期間は半年だったわ。 でも、なんだかんだで、もう半年伸びてしまったの。 きっと、私の能力が足りないせい。 一生懸命にお手伝いしたんだけど、きっと、能力的に問題があって、集中的に教えて下さったんだと思うの。 最初の一か月とはまるで違う、かなり機密度の高い文書の作成まで、回されたんですもの。 


 予算関連の文書も、そして、王族様方の予定すらも。 


 守秘義務を徹底して護る私の事を信用して下さったのかもしれない。 もし、私ではない者が、この研修を受けたならば、きっと、もっと早い段階で到達していたのかもしれないわ。 結局、大罪人(側妃様)関与した者(義理立てて毒を煽った)の娘と云うのが、その辺りの事情なのかもしれないわ。 ちょっと感傷的に成ってしまった。


 ――――― でも、いいの。


 最終的には、お認め下さったんだもの。 機密度の高い文書の閲覧、作成にも携われたし、その後ろ側にある理由にも触れる事が出来た。 思考する方法とか、それを文書に落とし込む技術とか、そう云った、文官が必要とされる能力の獲得にも大いに役に立ったと思えるようになったわ。


 一年に及ぶ研修期間を終え、やっと王宮女官庁に戻る事になった。 派遣先の内務局の上司は、とても残念そうなお顔をされていた。 何かを言おうとしたけれど、グッとそれを我慢された感じで、私を見てから仰ったの。



「一年の献身に感謝する。 君が抜けるのは、本当に残念な事だが、取り決めでは致し方ない。 もし…… 万が一、王宮女官庁で進退に困ったことが有れば、真っ先に連絡をくれ。 なにか役に立てるかと思う。 覚えていて欲しい」


「勿体ないお言葉です。 今後も精進し、与えられる職務に邁進していきます。 一年に及ぶ研修、ご指導ご鞭撻に感謝を」


「あぁ、そうだな。 では、こちらからも感謝を。 今まで、有難う」


「では、失礼いたします」



 殆ど着る機会の無かった王宮侍女のお仕着せを、久しぶりに着込み研修終了の辞令を以て、王宮女官庁の総王宮女官長様の執務室に向かう。 同じ王宮内の内局に有るのだけれど、外局にあたる内務局よりも更に厳しい警備が敷かれているのが、手に取るように理解できた。 これもまた、休養日ごとの体技鍛錬の賜物だと思う。


 今まで、薄っすらとした存在としてしか感知できなかった人たちが、きちんと人として感知できるようにもなったし、個別認識も可能になった。 総王宮女官長様の執務室に入るにあたり、護衛の方であろう二人の人に黙礼を捧げる。


 驚いた顔をこちらに向けて見られたのは、ちょっとおもしろかった。 


 ノックの後、入室を乞う。 中から総王宮女官長様の入室許可のお言葉。 迷わずノブを回し、入室して巨大な執務机の前に立つ。



「よく全うしました。 困り者の内務局のあの方…… 絶賛しておられましたよ。 近年にない賛辞を戴きました。 もう少し、もう少しと、結局六か月も引き延ばされてしまいました。 女官庁の上級王宮女官の間でも、噂になりましたよ、サリー。 良く頑張りましたね」


「有難いお言葉です、総王宮女官長様。 努力を認めて戴けた事、非才なる我が身には、身に余る光栄に御座います」


「……身に余る光栄…… ですか。 貴女が本来研修を修了するべき六か月前に、貴女も知る、上級王宮女官の”二人”から、貴方を『王宮女官として推挙する』との推挙状が提出されました。 さらに研修期間が延びた理由を以て、研修終了後、貴方を上級王宮女官とするべきだとの進言も受けました。 貴女の研修期間の最終評価を鑑み、わたくしも、貴女の、上級王宮女官への任官に同意しました。 その旨は人事局に提出済みです。 現時点を以て、貴女は最年少の上級王宮女官として、任官される事と成りました」




 当初の目標であった、王宮女官職を通り越して、上級王宮女官…… 職務は主に王族の御側仕えに成る、高位の女官職。 その任に当たるには相当に難しいのは、王宮で勤める者すべてに知れ渡っているわ。 で、でも、私…… 経験も不足しているし、そんな大役…… 全うできる、自信が無かったの。


 困惑の表情を浮かべていると思う。 そして、それは、とりもなおさず総王宮女官長様にも伝播している筈。 ゆっくりと、諭すように頷かれる総王宮女官長様。



「貴女の不安はとても良く理解できます。 貴女には王宮女官としての実務経験が足りません。 それは、理解しております。 その経験不足を補うために、わたくしは、王家の後宮や、王弟殿下の宮にも人員の補給として打診しました。 残念な事に、貴女を受け入れてくれる、王宮女官が務めるべき部署も一か所を除いてありませんでした。 理由は…… 聡い貴女ならば、既に理解しているでしょう」


「わたくしの出自からか、境遇、身分 故に御座いましょう。 理解しました。 では、わたくしの配属先に関しましては、受け入れて頂ける御意思を示された、その”唯一”の場所と成りますのでしょうか? 何処に御座いましょうや?」


「貴女には申し訳ないのだけれど、あの場所に…… 貴女の母であるアレクサンドラがその命をも捧げたともいえる王宮内の宮。 現在はアルクレイド第一王子がお住まいに成っている…… 『離宮』です。 当然、宮の名前は有るのですが、王宮内では貴女も知っての通り、” 離宮 ” で、通用する場所です。 これは、命令ではありません。 貴女には選択肢が有ります」



 総王宮女官長様は、ゆっくりと息を継ぎ、私を見詰めつつ紡がれる言葉。



「貴女に提示できる勤務先は、二つ」



 私に向かって、手を差し出され、二つの指を立てられる。 真剣な面持ちで、真正面から見られる、総王宮女官長様の真摯な視線に、心が震える。



「一つは、このまま王宮女官庁にて勤める事です。 そうする事は、出来ますが…… そこには、上級王宮女官の仕事は有りません。 貴方の資質と献身を捧げる場所としては不適であると云えましょう。 あまりにも惜しいのです。 貴女の示した才と献身が。 王国の為に、貴女の能力を以てするような仕事は有りません。

 もう一つは、王宮女官庁としての意思とも云える、「離宮」勤務です。 それと、これは別部署からの『密命』でも有るのですが、アルクレイド第一王子に関する動向を、私、総王宮女官長に報告してもらう義務も発生します。 重き『役割』です。 あなたも長く王宮に勤める身となりました。 また、様々な事柄もその耳に入っている筈です。 離宮がどんな場所なのかのも。 そして、アルクレイド第一王子の御立場も。 生半可なモノをあの「離宮」に送り込めぬ理由でもあります。 厳しく選別した者でなくては成らないのです。 それが、貴女なのです」


「はい」


「無理にとは…… 申しません。 しかし、あの『離宮』に勤めている者は、何らかの形で側妃様と関わりの有った者達です。 あのアレクサンドラの娘である貴女ならば、暖かく迎え入れてくれる場所に違いありません。 アルクレイド殿下は…… 少々問題の有る方です。 あの離宮からの報告からの推察ではあるのです。 その上、殿下も年頃となります。 侍女や女官に『伽』を命ずる可能性も捨てきれません。 あの宮に居る者たちならば、それも、また……『 是 』と受け入れてしまうかも知れぬのです。 サリー…… 貴女には、難しい場所に成るやもしれません。 サンドラの朋である私には…… 無理強いは、とても出来ぬ場所です」



 目を伏せ、本当に申し訳なさそうになさる、総王宮女官長様。 でも、その御心配とご懸念は必要御座いません。 決めました。 心を決めました。 私の口から紡がれる言葉は、もう決まっているのです。 



「わたくしに選択肢を与えて頂きました事、誠に感謝申し上げます。 『お話』下さった離宮への移動を………… ” 希望 ” 致します。 母が命を賭して勤めた場所です。 そして、わたくしに求められた役割も有るのでしょう。 ならば、この『お話(密命)』、受けさせて戴きます」


「…………ありがとう。 アルクレイド殿下は難しきお方ですが…… 宜しく頼みます」


「はい、側妃様と同様に「道」を外される” 事 ”が無きよう、身命を持ちまして御勤め申し上げます」


「頼みました」


「はい」



 こうして、私は離宮に於いて、アルクレイド第一王子に付き従う、上級王宮女官と成った。 母がかつて勤めていた場所。 何度か王都別邸(タウンハウス)で、お話をして下さった場所。 実際には見た事は無かったけれど…… 母との「会話の思い出」が残る場所に…… 私は勤める事となった。



          § ――――― § ――――― §



 『離宮』……



 そう呼ばれているのは広大な王宮の一角。 本宮とは離れた場所にある、後宮とは別の敷地にある宮殿の事。 本当の名を銀朱宮(ヴァーミリオンパレス)と呼ばれるその宮。 十数代前の国王陛下が、深く愛する側妃の為に立てたと云われる、そんな場所。


 その名の通り、建物の壁と柱は銀朱に塗られ、夕日に照らされるとさながら燃え上がる様に見えるところから、炎上宮とも呼ばれる事が有ったらしい。 しかし、この離宮の主は長い間決まらなかった。 最初の側妃様が身罷った後、その後に入宮された側妃様方が何かと問題行動を起こしたからだった。


 美しい外観と違い、最初の側妃様以外受け付けない『不吉な場所』として、何度も取り壊しの話は出ていたらしい。 しかし、その度に戦争や財政難と云う問題が勃発して、取り壊し計画もまた頓挫し続けて居た場所。


 ―――― そんな、曰く付きの(パレス)


 今代の国王陛下と王妃殿下の間に、御婚姻後、何年も御子が生まれず、重臣たちがヤキモキし始めた時の事。 さらに、王弟殿下が御婚姻が成された。 王弟殿下の元に一年もしない内に、第一子である御子がお生まれになった。 当然、国王陛下を取り巻く重臣たちは焦り始めた。 王弟殿下は、形の上では現国王陛下に臣下の礼を取っていたが、まだ、王宮に棲み、更には王位継承権も返上されていなかった。


 多分に貴族間の確執と権力闘争の痕跡が残る、そんな王家。 王弟殿下を国王にとの声まで上がり、対応に苦慮する重臣達。 日陰の身に置かれていた貴族達が、王弟殿下の意思も確認せぬままに、やれ蜂起だ、やれ禅譲だと騒ぎ立てた。


 このままでは国が二分されてしまう可能性すらあった。 そんな折、前国王の重臣であった、侯爵家の当主が問題に対する解決策として、自身の娘を側妃に上げると、そう提案されたの。


 前国王が治世の(みぎり)、彼の侯爵家の当主は重用され、その権能を大いに振るっていたと云う。 そして、専横が過ぎ、現国王が王太子に立太子された折、自身の妻にと用意されていた侯爵家の娘との婚約を拒否し、王家連枝の公爵家より伴侶を得たの。


 ―――― それが現王妃殿下。


 見目麗しく優しい現王妃殿下に国王陛下は愛を御誓いに成り、前国王陛下に婚約者にと請願を重ね、重臣達をも説得し尽くし、やっとの事で婚約、成婚に漕ぎつけたと、王家の正史にある。 これは秘することが無い事実であり、いまも市井では現国王陛下の愛情溢れるこの話が物語と成り語り継がれている程なの。


 それ程までして、御婚姻された王妃殿下との間に御子が出来ない。 


 そして、王弟殿下を旗頭とする貴族達と、王を護る貴族達との間を取り持つとの言葉を吐いたのが、彼の侯爵家当主だった。 私の生家でもあった、今は無きグランパス上位伯爵家の寄り親の家でもある。 国王陛下としては、何としても排除したかった侯爵家。 そして、その家の御令嬢。


 しかし、政変にまで発展しそうな様相に、苦渋の決断をしたのは、国王陛下だった。


 侯爵家の御令嬢…… つまりは側妃様の受け入れ。 幼いころから国王陛下の妻となるべく教育が徹底されていた側妃様。 そんな側妃様は、国王陛下の愛を一身に受ける王妃殿下への敵愾心は、人一倍あったのだろう。 側妃に迎え入れられると決まった後、彼女は歓喜したと云う。


 そして、専横を振るった侯爵閣下と同じく、野心多き方でもあった。


 そんな彼女の住まいは、国王陛下側でも思案に暮れる。 勿論、王宮に於いて、一緒に暮らす事など愛する王妃に万が一が有れば悔やんでも悔やみきれないと、『不吉な離宮』を宛がう事となった。 当の側妃側も、側妃に上がれるならばと、長く人の棲んで居なかった、その『不吉な離宮(バーミリオンパレス)』を戴く、その提案に頷く。


 驕慢な振る舞いの側妃様。 契りを結んだ後、どうしようもない罪悪感と共に王宮に還り、王妃様の元に通う国王陛下。 苛立ちを隠そうともしない側妃様。 そんな側妃様の御側御用を務める為に選ばれたのが、幼少より彼女の側に居た母を含む数名の者達だった。


 味方の居ない王宮に於いて、侯爵家の息の掛かった者達を護って下さったのが、礼法院時代に共に学んだ今の総王宮女官長様だった。 特に母とは親しかったらしい。 その御話しに付いては、ついぞ母からは聞けなかった。 いつも、宮の事と、側妃様への事と、そして、アルクレイド殿下の話題ばかりだったと今にして思う。


 そう、他の上級王宮女官の方々に伺った。


 離宮に勤めていた、他の女官達もまた、侯爵家の(ゆかり)の者達で固められても居た。 出来る限り…… そう、出来る限り側妃様を諫め、あやし、そして、御心を安んじようとされていたようだった。


 側妃様が御子を設けられたのと同じ年、正妃様もまた御子を天より戴いた。 王弟を担ごうとした一派は、これで何も言えなくなった。 しかし…… また、王宮は火種を抱える結果となる。 側妃様には第一王子。 正妃様には第二王子。 波乱を含んだ貴族の暗闘が別の意味で始まったとも云える。


 その後、第一王女、第三王子を宿された正妃様。 一方で足が遠のくばかりの側妃様。 せっかく側妃として王宮に入宮出来たと云うのに、側妃様は愛に恵まれなかった。 そして、思うままに成らない事に、徐々に黒い想いが募られたと、……王国正史にある。


 生家である侯爵家からは、『第一王子が王太子として立太子するまで待てと、国母と成るその日まで忍辱し、未来の栄誉を思え』 と、そう云われたと、王宮女官の間で伝えられているわ。


 野心深き侯爵様の云いそうな事…… 


 つまりは、彼女も又、貴族の婚姻の犠牲者でもあった。 第一王子が王太子、そして国王に成った時、侯爵家は復権すると、そう侯爵家当主は強く思案を巡らせていた……と、云う事なのよ。 その為に、側妃様に対しアルクレイド第一王子に王太子教育をする様に、強く強く求められたとも。


 御自身の為にも、そして、国王陛下の愛を得るためにも、生家の云う事を聴く側妃様。 それはそれは厳しい王太子教育がアルクレイド第一王子に施されたのだと、王宮女官の方々から『お話』頂いたわ。 ただし、側妃様ご自身はそんなアルクレイド殿下にはさほど興味は無く、心に有るのは国王陛下の愛を乞う事ばかりだったとも。 ……王国正史には、そう記載されている。


 周囲の女官の止めるのも聞かず、常に王宮へ伺候し、国王陛下の国務を阻害したり、王妃殿下への中傷やイヤガラセも度々行っていた。 その都度、王宮の警備は強く厳しくなるばかり。 更に更に、陛下の態度は冷たくなり、疎外感が側妃様の心の中に広がっていく。 更には、王宮後宮に於いて教育されている第二王子殿下の名声が、側妃様に届くようになったの。


 ”焦るのは無理は無かった”と、そう思える『私』は、やはり母の娘ね。


 最初に王宮へ第一王子をとの要請を断り、自らの手元で教育すると言い切った側妃様。 焦りは、アルクレイド殿下に向かったという。 殊更に厳しくなる側妃様。 少しの失敗も許さなくなり、感情的に、厳しく…… 本当に厳しく、アルクレイド第一王子に教育を施して行かれたらしい。


 その様子を当時を知る上級女官様方は、恐ろし気に語って下さった。 アレでは、第一王子が可哀想であると。 しかし、侯爵の威光もある側妃様には、御忠言することも出来ず、更には、教育という大義名分もあり…… 強くは進言できずにいた。


 母の苦悩も王都別邸(タウンハウス)で、聞いた覚えがある。 でも、いつも最後に云われる事があったの。 私の手を取り、真摯な光を瞳に浮かべ、諭すように語られる言葉の数々。


”アルクレイド殿下は大変良く勉強されておられます。 サリーも頑張りなさい。 母はあれ程真摯に学ぶ方を今まで見た事は無いのです。 国を背負う気概…… 王とは何ぞや…… 貴族の義務とは…… そう云った、この国の上層部が念頭に置かねばならない事を常に意識されておられるのです。 貴女も御領の民の為に何が出来るかを、何をすれば民の安寧を護れるのか。 良く学び、グランパス上級伯爵家の矜持を護れる人に成りなさい”


 その時は、” 殿下も大変だな。 でも王子様だから、仕方ないよね ” などと、思っていた事は、今でもお墓の下に眠る母には、伝えられない事。 実態もどんな事が行われていたかも知りもしないで…… 母の苦悩すら良く理解出来ていなかった。 王宮で職を得て、その実態を間近で見聴きした私には、もう何も言えなかった。 そう、なにも…… 言える筈も無かった。


 疑心暗鬼に落ち込まれた側妃様に ”悪魔の囁き” を、耳に入れる不逞の輩が離宮に現れたのはそんな時。 側妃様の礼法院時代のご友人が、この離宮に見えられ第二王子殿下の優秀さを吹聴されたの。 それだけじゃ無くて、多くの貴族が第二王子殿下の即位を望んでいるとも。


 疑心暗鬼は、黒々とした想いを巻き込み育ち、そして、そのご友人(・・・)も又、火に油を注ぎ続けた。 王宮女官の知らない処で、計画は練られ、必要なモノはそのご友人(・・・)経由で離宮に持ち込まれた。 側妃様がご友人(・・・)に渡された金額は莫大なモノと成っていた。


 そのご友人(・・・)も身の安全を確保する為に、側妃様の「毒」と偽って、強壮剤をお渡しになっていたそう。 しかし、不幸な事にそのご友人(・・・)も、側妃様も医薬品についての知識は深くは無かった。 大人に対しては強壮剤で済むその医薬品は、子供が飲むには強すぎた。 心の蔵に極端に負担を掛け、大人でも治癒師の処方無くして服用を禁じられるほどの物だった事。 側妃様は念の為か、通常服用する量の五倍もの量を仕込まれた事。


 そして、ついにその計画は実行される。 正妃様の御子様達に対する暗殺未遂事件。 大逆の罪。 


 茶に仕込まれたそれを、まともに飲めば、本当に正妃様の御子はこの世には居なかった。 狙ったのも、御子様達のお茶会。 アルクレイド殿下には極端な量の「王太子教育」を強いて時間が取れない様にしてらした。 そのお茶会に出席できない様にする為か、それとも、教育を優先させた為なのか…… 今となっては何方とも言えないけれど…… 


 幸いな事に、御子様達のお茶会は、大人のお茶会よりも厳重な警備が敷かれていた事。 事の露見は早く、直ぐに実行犯とその背後に居る者は見つけられた。 主犯は言うまでも無く、側妃様。 そして、(そそのか)したのが、ご友人(・・・)。 実行犯は金銭を受け取った、王宮侍女。


 事態の深刻さに、直ぐに侯爵家は側妃様を切り離し捨てた。 侯爵家に禍を齎す者を許しはしないのが、御家柄。 当然ね。 あのお家(侯爵家)ならば、不要の存在は直ぐに切り捨てるわ。 身をもって知っている。


 事態の重さと、巧妙な遣り口、そして、その悪意から、側妃様は取り調べの上、「断罪の塔」への収監が決まったの。


 でも、其処からが更なる悲劇の始まり。 側妃様は二度と国王陛下の愛を乞えない立場と成った事で、御心を壊された。 そして、「断罪の塔」に於いて毒杯を賜ると言う罰に半狂乱に成られた。 警備のほんの少しの隙を突き、魔法で戒めを解き、王妃殿下の元に向かう。


 自身が愛されないのならば、愛する者の最愛を弑してしまえ、とばかりに、王妃殿下に向かって切りかかったの。 でもね…… 無理よ。 そんな事。 あっさりと護衛騎士が王妃殿下を御守りして、名誉を護られたであろう毒杯を戴く事も無く…… 重犯罪者として、護衛騎士の剣の下に斬り捨てられたわ。


 幸いな事に、この大逆は側妃様とご友人(・・・)の他にはあまり多くの人は関わっていなかった。 御生家でもある侯爵家も、そして、離宮の者達も。 ただ、その凶行を止められなかったという言う自責の念を抱えた一人の上級王宮女官を別にして……


 善良な者も、善良を装う者も、罪には問われなかった。


 こんなにも、大きな出来事であったにも拘わらず、刑死が四名、獄死が二名、そして…… 服毒自殺を成した上級王宮侍女が一名…… 側妃様のご乱心と云う事で、この大逆に関する混乱の幕は引かれた。


 アルクレイド殿下も、全く存じ上げなかった事柄なのよ。 よって、国王陛下は、アルクレイド殿下には何の罪も無いと判断されたわ。 既に、多くの貴族が第二王子殿下の即位に意欲を持ち始めていた当時、アルクレイド第一王子に対しても、廃嫡や、連座にて『毒杯を賜る』事を望む声も多々あったらしい。


 しかし、王国の重臣達は、これ以上の騒動は御免被るとばかりに、アルクレイド殿下には何の罪も問わない様に陛下に進言なさったとか……。 王妃殿下が、アルクレイド殿下の境遇に涙し、王妃殿下が後ろ盾となると宣言されたのも、この頃だった。


 しかし、疑心暗鬼は残る。 いくら王妃殿下が後ろ盾に成ると仰っても、陛下の周囲の者達は、アルクレイド殿下の為人も良く知らずにいた。 側妃様が『離宮』に囲われて、殿下の教育に関して何も王宮側に報告されぬ様にされていた事も、殿下の境遇を一層不安定にした事もまた事実。


 どれだけの教育を施しているのかを、第二王子側に知られるのを恐れていたと、そう残っていた離宮の王宮女官達は口々に報告したの。 口止めされていた事を知らさなければ、彼女達も報告義務違反と断罪されかねないから。


 全てが(つまび)らかにされた時には、既に王太子に立太子するまでの予定が、側妃様の元で緻密に組み上げられており、今更変更する事も出来ないまでになっていた。 そして、その予定通りにアルクレイド殿下も又、懸命に努力されていた。


 国王陛下も又、苦渋と云ってよい決断を迫られる。


 それまで家族として遇していなかったアルクレイド殿下にどのように接すればよいか、判らなかったからだった。 そして、恐ろしい事に陛下は、アルクレイド殿下本人に、これから先どの様な処遇をもって接するかの『希望』を、お尋ねになったの。 周囲全てに対し、深い様々な想いを持っていたアルクレイド殿下は、たった一言だけ云われたそう。



「今までのままで。 私はこの離宮にて暮らします。 母がそう仰っておいででしたから」



 その言葉に何かしらの物を感じられたのか、国王陛下はこれ以上第二王子以下の御子達に危害が加えられることを恐れてか…… 今まで通りと云う、アルクレイド殿下の言を受け入れてしまわれたの。


 そして、現在……


 因縁めいたその場所(バーミリオンパレス)に配属された私。 銀朱の外観を備えた、「離宮」の玄関前に佇んでいる。 たしか…… アルクレイド殿下は十五歳。 もうすぐ十六歳に成られると聞いている。 後半年もすれば、礼法院に入院される。 そうなれば…… 立太子の儀まで二年。


 側妃様が断罪された後も、ずっとこの離宮でお暮しに成っているというアルクレイド殿下。 その為人は、尋ねる人毎に違う。 ある人は愚か者と云う。 ある人は驕慢であると云う。 また有る人は、冷徹な人だと云う。


 私は不安を覚えつつも、「離宮」玄関を入って行ったの。 



§ ―――――― §



 初めて殿下の前に伺候し、ご挨拶申し上げた時の殿下の印象は、とても大人びた方と見受けられたわ。 でも、言葉の乱暴さや行動の稚拙さに、情緒的に問題が有るのだと、直ぐに理解できた。 離宮女官長の注意事項もまた、アルクレイド殿下の激しい御気性に付いての注意が多かった。


 厳しすぎると云っても良い「王太子教育」は、今も続けられている。 高位の教育官が早朝から夕暮れ時まで、殿下に教えを与え続けて居る。 さらに、三日に一度は軍から教務官が見えられて、鍛錬場となっている、後庭において実戦さながらの鍛錬を行っておいでだった。


 私は、業務を始める前の注意を思い出していた。


”決して、殿下の邪魔をしない事。 あれだけ体術の鍛錬を積まれた殿下ですから、何らかの御意思の元、行動(・・)されたならば、我々女官では抵抗する事は叶いません。 直ぐに執事長を呼び、然るべき対処を願い出て下さい”


 と、そう告げられる。 執事長はいつもアルクレイド殿下の傍らに居られる青年。 王宮に居られたのならば、きっと王宮侍女達の噂になる程の美しい御顔の方。 でも、私には見知った顔でもあった。 王宮侍女登用試験での体術試験への準備中に、鍛錬場で良く顔を合わせていた人だった。



「サリー。 今後、この離宮で何かあれば、報告を受けるのは私だ」


「はい、ヒエロス様。 ……ヒエロス様の所属は、その……」


「王家から派遣されている。 そう云えば、判るか」


「はい。 理解しました。 今後ともよろしくお願い申し上げます」


「あぁ、此方で集めている情報に関しても、お前に渡す。 王宮女官庁への報告に追加すると良い」


「ありがとうございます。 離宮女官長様とも諮り、滞りなく報告を致します」


「うむ。 まずは良く殿下を見る事だ。 この離宮の女官達は、殿下に甘い。 厳しい判断を迫られる時には、少々不安も有る。 新任のお前は、殿下との交流も無い。 よって、公平な眼で殿下を観察できる。 与えられた役目、慎重にこなせ」


「承りました」



 殿下の日常的な部分を、私は観察する。 先輩方の御話の通り、殿下の気性は激しく、いつご気分が変わるか、判ったモノでは無い。 それに、殿下は過重とも云える「王太子教育」の賜物か、私達離宮の使用人達を、”人”では無く、離宮の備品か何かと思われている節がある。


 例えば、沐浴。


 あの年頃の男の人って、介添えに女官が付くのを嫌う。 それは、後宮の皆さんからも聞いていた。 でも、殿下は違う。 身の回りを世話する侍女も女官も関係なく、沐浴介助をなんの衒いも無く受け入れて居られる。 


 浴槽からお出になって、御身体を清める時も、単にお立ちに成っている。 数名の侍女で一斉に御身体を拭き上げても、平然として居られる。 持ち回りで私もその御役目をこなしたのだけど、不思議なくらい感情を御見せにならない。 まるで、浴槽を出たら、清拭されて着衣を整えられるまで、意識がどこかに行っている様な雰囲気すらあるのよ。


 ある日、侍女の一人が浴室の濡れた床に足を取られ、ずぶ濡れになった事があったの。 沐浴補助用の薄い着衣が濡れて透けていた。 女性の私から見ても、相当に妖しい姿に成っていたのよ。 でも殿下、一瞥を呉れただけ。ある人のアルクレイド殿下の評判が脳裏に浮かぶ。


 ”冷徹な人” 他人はおろか、自分にも冷たい人…… 


 そんな毎日だったけれど、一つだけ…… 一つだけ、”おやっ” って思う事があった。 持ち回りの殿下の御側御用を務める日。 王太子教育の教育官様の交代時。 一時の空白時間。 お疲れの見える殿下に、お茶をお出しした時の事だったわ。


 お茶の淹れ方は、かつて母に厳しく指導されていたから、私の特技の一つにもなっている。 お茶菓子は、厨房方が用意している、”検査済み”の焼き菓子。 それに合う様な、ちょっと渋めのお茶を準備して、御休憩されている殿下の元に向かう。


 テーブルの上に『お茶』を用意し、壁際に下がる。 気配を消して殿下の動向を伺う。 そこに有るのが当たり前…… な感じでお出ししたお茶の用意。 殿下も同じような感じ。 椅子にお座りに成られ、一時の休憩に入られる。


 カップを手に、一口、口を付けられる。 いつもと同じ、いつもの仕草。 でも、そこから、少し変わられた。 カップを置かず、じっとお茶の表面を見詰めていらっしゃる。 何かを思い出そうとされている表情だと思う。



「この茶を淹れた者は?」


「はい、わたくしで御座います」


「……この茶の味、覚えている。 お前…… 誰だ?」



 今まで、この離宮の備品の様にしか思っていなかった者に初めて意識が向いたような表情だった。 頭を垂れ、その問いに応える。



「サリーに御座います」


「……サリーか。 追加で離宮に来た、上級王宮女官だったな」


「左様に御座います。 あの、なにか御不審な点が御座いましたでしょうか?」


「いや、無い。 ただ、懐かしかっただけだ。 …………わたしはこの茶の味を好む。 休憩時の茶はサリーが淹れろ」


「承りました」



 つっと立ち上がる殿下。 カップを持ったまま窓際まで行き、カップに口を付けつつ高い蒼空を見上げていらっしゃった。 殿下が言葉を口にされる。 遠くに居る人に語り掛ける様に、誰にも聞かれない様に、小さく呟く様に。



”馬鹿者め。 何故、自ら死を選ぶ。 死ぬ事で何が変わると云うのか。 本当に馬鹿だ。 わたしはお前の淹れる茶が好きだったのに”



 ドンッと、胸を突かれた感じがした。 この茶の淹れ方は、亡き母にご指導頂いた方法。 茶葉の選定も、その時に教わった事。 疲れ果てたアルクレイド殿下に、母が度々淹れていたお茶と同じモノ…… つまり…… 殿下も覚えておいでだったのか…… 母の事を…… 


 その夜の報告書の作成には、時間が掛かった。 とても、総王宮女官長様に報告できる内容では無かった。 いや、事実記載だけで済まそう。 殿下の休憩時の専任お茶係を指名されたと。 殿下の御宸襟を伺うのは…… まだ、先の事だと思うから……



§ ――――― § ――――― §



 十六歳に成られた殿下は、予定表の通り、礼法院に入院された。 そして、幾つもの公務を第一王子として熟され始めた。 しかし、その公務への向き合い方は、第一王子としてその資質を疑わせるものばかり。 いい加減な計算、いい加減な文書。そして、公務における態度も。


 なげやりで、驕慢且つ傲慢。 王宮の文官たちは皆様、鼻白む。


 ある日、提出する為に文机に置かれた、出来上がった文書に目がとまる。 酷い出来だった。 御側御用を務める上級女官として、執務の補助はその職務に規定されている。 呼ばれれば、何時でもお手伝いは出来る状態にはしているのだが、一度も呼ばれる事は無かった。


 執務机周りの清掃も、上級女官の仕事も一つ。 機密文書を扱うであろう、第一王子の執務机周りの清掃は、普通の王宮侍女には許されない業務でもあったからだ。 執務用に使用されている文机と、その周辺を片付けて見てしまった。


 机の上の文書の出来は確かに酷いモノだった。 しかし、文机の横に設置してあるごみ箱の中に、書き損じが多数放置されていた。 くしゃくしゃに丸められたその紙。 反故は、その記載内容に準じて、処分する必要が有った為、一枚一枚丁寧に広げていく。


 そして、その紙に踊る文面に目を疑った。


 散文形式で、与えられた問題に対する考察。 考察に関する証左となる王国法の条文番号。 問題に対する提案や行動。 その提案を実行した場合に於ける 短期および長期に起こり得る利益と不利益。 それを落とし込んだ、未完の報告書。


 その内容は、高位の文官が作成したモノが霞む程のモノ。 さらに、この部屋には簡易的な王国法典も存在していない。 つまり、全て殿下の頭の中に存在していた…… 驚愕にその場で固まる。 背後に人の気配。



「判ったか。 そうだ、殿下の才は秀でている。 しかし、それを隠そうとされている。 愚か者を演じているとも言える。 コレは執事として配属されている私の主観だ。 報告できる内容では無い。 そして、その事を殿下は良しとされている。 以前、私の主観を交えた報告書を上司に提出した。 お叱りを受けた。 そう云う事だ」


「だ、黙って居るべきなのでしょうか?」


「そこは王宮女官たる君の報告次第だ。 廃棄された反故紙についての報告が、王宮女官庁に必要かどうかは、君が判断すべき問題だ。 私の方は何も報告しない。 表に出る”事実” のみを、報告する」


「左様に御座いますか。 ……よく考えてみます」


「それが良いだろう。 証左も添えるがいい。 この辺りの問題は、まだ、重要なモノでは無いしな。 守秘義務もそこまで厳密では無い問題ばかりだ。 ……王宮の判断に、誤りが有るとは思いたくはない。 事実は多面的でなくては成らない。 君が従う者が必要な、君の判断をするといい」


「ヒエロス様…… 報告の整合性は?」


「無くてもいい。 其々見るべきモノが違うのでな。 では」



 音も無く気配が消える。 超一流と云われる王国の「影」の中でも、ヒエロス様は群を抜いて優秀なのだと思う所以なの。 私が見つけるよりずっと前から、きっと知っていらっしゃったに違いない。 では、何故、殿下はその能力を隠すのか。 その事に思考が傾く。


 いくつもの事実。 いくつもの思惑。 いくつもの噂話。 


 殿下を取り巻く状況は、何も変わっていない。 取扱いに慎重に成らざるを得ない第一王子。 愚かな王に成るならば、廃嫡も視野に入れなければならない存在。 優秀で有能と噂される第二王子の存在。 有力な貴族が誰も側には付かない第一王子。 散りばめられた、それら王宮での風聞は、殿下の耳にも届いて居る筈。


 ヒエロス様は、決して殿下の耳を閉ざそうとはしない。 どんな事を云われているのか、誰が殿下を貶めている言葉を吐いているのか。 噂話が尾鰭をつけて、大きな誤解を生み続けて居るか。 敢えて、そう云う風にしているとしか思えない。


 殿下の御宸襟に触れるのならば……


 殿下は全てに絶望されている。


 そう、強く…… 強く感じてしまった。


 殿下の御乱行は、その後も続く。 礼法院での所業もこちらにうっすらと聞こえてくる。 中でも御婚約者様との冷え冷えとした関係性。 視線すら合わされぬ日々が続いていると云う。 きっと、殿下の御宸襟の内側で、国王陛下が御用意された、現宰相閣下のお嬢様と云う強力な後ろ盾すら…… 疎ましく思っていらっしゃる。


 すべては敵。


 すべては、仇成す者。


 御自身が仮初の王に成るのだと、そして策謀と思惑の中で王位を第二王子に禅譲せざるを得ないのだと……


 心の叫びが…… 響いてくるような、そんな暗い影を、殿下はいつも瞳に浮かべられていた。 観察は続けなければならない。 終わりの日が来るまで。 でも…… そんな殿下を見続ける事が私に出来るのだろうか。 重く、暗い空気が離宮内に立ち込める。 沈んだ顔をする離宮の人々。 淡々と、粛々と…… 日々は積み重ねられる。


 ヒエロス様が苦虫を噛み潰したような顔をなさった日。 殿下の沐浴当番に成った私に、ヒエロス様は仰られた。 



「もう、沐浴当番として女官が、浴室に入る必要は無い。 いや、そうあっては成らない」


「はい? いかな理由で御座いましょうか?」


「殿下は女を知った。 礼法院で殿下の御側に纏わりつく蛆虫が、娼館に連れ出した。 全く…… 度し難い」


「め、名目はッ!」


「市井の市場調査。 女の値段の調査だそうだ」



 吐き出す様にそう答えられるヒエロス様。 その顔には苦渋が見て取れる。 そ、そんな事まで…… 殿下は御自身を何処まで貶める御積りかッ!



「ヒエロス様は御停めしなかったのですかッ!」



 食って掛かる私に、醒めた目を向け、淡々と応えて下さったヒエロス様。 しかし、その御声には、諦観と冷徹な観察者と、そして、なにより「影」の”使命”を見る。



「御止めする訳が無い。 すべては殿下の思召しなのですよ、上級王宮女官殿?」


「…………御意に」



 殿下の御乱行の報告はされる。 ええ、確実に。 殿下の御乱行は、全ての王宮関係者の元に届く。 国王陛下に於かれても、その例外では無い。 そして、幾つかの重要な決断が下されるに決まっているわ。 そう、殿下の行く末を闇に閉ざす決定をね。 溜息すら出ない。 だって、それが殿下の御意思なんですもの。 でも…… 私にはそれを許容する事は出来ない。 


 あんなにも苦しんでいらっしゃる殿下。 御宸襟を見る事は、上級王宮女官たる私では不敬にあたる。 でも…… でもね。 私は知っている。 殿下が如何に努力をされて来たのか。 母の言葉からも、私の見知った事からも、理解出来る。 だから、どうぞ、どうぞ、お願いいたします。 殿下……



 ―――― 未来を諦めないで下さい。



 王宮女官庁への報告書をまとめる。 くしゃくしゃに成っていた、例の反故紙を丁寧に伸ばし、傍証として添付する。 私は…… 私は報告するわ。 決して、殿下は愚かな方ではないと。 そして、殿下の行動には、何かしらの殿下の想いがあるのだと……


§ ――― §


 殿下が十六歳になり、礼法院にて大舞踏会が催された。 今年は国王陛下も王妃殿下も大切な外遊に出て居られ、礼法院の大舞踏会にはご出席に成らなかった。 すべての手配をしなければならない立場の殿下は、何もせず、殿下の周囲の者達が様々な無茶を礼法院側に押し付けている。


 そして、大舞踏会は、歴史に残る惨憺たる結果に終わる。 すべては…… そう、全てはアルクレイド殿下がその職務を放擲した結果の結末。 嘲笑と嘲りの声が、王宮内でも木霊する。 第二王子殿下を王太子にとの声が、其処此処で話される。


 礼法院からも幾つかの『厳重注意』のお知らせを受けた。 離宮の者達は、誰もが溜息を吐き、そのお知らせを殿下に伝える事は無かった。 あまりの行状に、今では殿下の宮である、この離宮の者達すらも、殿下を見放し始めている。 そんな中で、殿下の御側御用をほぼ一手に引き受けるようになった私しか……


 私しか、殿下に苦言を呈する事が出来なくなっている。 母が出来なかった事。 でも、私は為すつもり。


 殿下にそのお手紙を見せる。 力なく笑われる。 もう、何もかも投げ出されているようにしか見えない。 それ故に…… 私は強く殿下に意見する。 非難の言葉。 その言葉は、殿下の御心を抉るだろう。 だとしても…… 言わなければならない事。 そう、色々な隠された「役目」は有ったとしても、私は…… 


  ―――― 私は、殿下の御側勤めをする上級王宮女官(母の意思を継ぐ娘)なのだから。



「このように、礼法院より『お叱りのお手紙』を受け取っております。 何を成さっているのです。 王国の第一王子たる殿下の所業では御座いません。 なんの為の「王太子教育」に御座いましたかッ! お改め下さい」


「うるさいッ! うるさいッ! お前に何が判る!! 控えろ、無礼だッ!」


「控えろと申し付かれば、その様に。 しかし、その御振舞。 なんとしても、お改め頂かないと、下がれませんッ!」


「下がれッ!」


「拒否致しますッ!」



 激昂する殿下。 目には確かに、哀しみの色が伺える。 しかし、ある意味、狂気すら孕んでいるその視線に怯む私の心を叱咤激励する。 殿下が急に私の近くに寄り、グッと腕を握られる。 押し込まれ、壁に打ち付けられる感覚。 近くに殿下を感じてしまった。 ええ、とても近くに。 怒りに燃える殿下の瞳。 その視線をしっかりと見返し、出来るだけ感情を押し殺し…… 伝える。



「殿下の綴られた報告書の反故紙を確認させていただきました。 わたくしは…… 殿下の才を、深き知識も存じております。 殿下の素晴らしい御考えも、深淵たる考察も、存じ上げております。 故に云うのです。 殿下の御行状は、わたくしにとって不可解で有ると。 さながら、ご自身を ” 滅する為 ” の所業の様に思われて仕方ありません。 この宮に勤めている者達も、そして、王宮の者達も…… その事は知り得ません。 しかし…… わたくしは、知っております」


「グッ…… お、お前は……」


「サリーに御座います。 殿下の御側御用を務める、上級王宮女官(・・・・・・)に御座います」



 殿下は 厳しい王太子教育を長年に渡って受け続けられた方。 でも、今、私の前に居るのは、只の十六歳の男の子。 感情の高ぶりに身を任せ…… 私を見る。 強い怒りの光を眼に宿したまま。 さらに詰め寄られる。 背中には壁。 押し込まれた身体。


 それでも尚、私は殿下を見つめ続ける。 決して引かないと、意思を込めて。


 着用している、上級王宮女官正装のスカートの裾は踏まれている。 殿下の膝が、身動きの取れない私の足の間に割り込んで来る…… 腕を掴んでいる手を、お外しに成らないまま、反対側の手が私の胸を掴み、怒りの瞳に…… 獣性の光が宿る。



「……殿下、おやめください。 それは、いけません」


「ヒエロスッ! お前ッ‼」


「そこまでです。 サリー下がりなさい」


「……はい」



 ヒエロス様の冴え冴えとした言葉に、殿下の戒めは解けた。 転がる様にその場を離れる。 足に力が入らない。 全身が細かく震える。 固く自分を抱きしめ、その場を辞そうするも、うまく体が動かない。 背後で殿下とヒエロス様が言葉を交わしているのが耳に入る。



「殿下…… もうすぐ、王宮にての茶会の時間です」


「…………行きたくない」


「それは、王命に反する事ですが、宜しいのですか?」


「ならば、命ずる。 随伴にお前と、…………サリーを」


「………………承りました」



 激しい動悸。 青ざめる顔。 フラフラと、やっとの事でその場を辞す。 女官の待機所に向かい、椅子に腰を下ろす。 胸が痛い。 掴まれたからじゃ無く、もっと…… もっと深い部分が痛いの。


 あんなに怒らせてしまった。 あんなに感情を揺らせてしまった。 後悔と悲嘆に思わず顔を手で覆い、強く結んだ口元から嗚咽が零れる。


 悔しかった。 情けなかった。 殿下の愚かな行いを止める事が出来ない私を、私自身が許す事が出来なかった。 一つの気配が、待機所に入って来た。 これは…… ヒエロス様。 椅子に座り、細かく震えながら嗚咽を漏らす私の前に立たれ、言葉を紡がれる。



「無茶をされるな、上級王宮女官(・・・・・・)殿。 殿下の御心は薄氷の上に存在するようなモノ。 容易く、制御を失われると、なぜお判りに成られぬ」


「ヒエロス様。 わたくしは…… 上級王宮女官としては、不適です。 殿下の御宸襟を垣間見、手を出そうとしてしまう者が、御側御用を勤めて良いわけが御座いません」


「……上級王宮女官殿。 貴女は確かに愚かにも、殿下の御宸襟に踏み込まれました。 …………あぁ。 上司が申していた事を思い出しました。 側妃様に心を沿わせた貴女の母君の事を。 母君の献身の甲斐なく御心を狂わせられた側妃様。 悔やみ、思い悩み、御命を絶たれた方。 まさに、貴女は貴女の母君と同じなのだと思える。 良いですか、サリー。 我々は「観察者」なのです。 殿下の言動を観察するのは業務ですが、御宸襟に手を添えるのは、あっては成らない事なのです。 今回は間に合いました。 しかし、このまま行けば……」


「…………解任してください」


「出来ませんね。 この宮に於いて、貴女ほど殿下の御側御用を勤める者は居ません。 貴女が去れば、殿下はもっと、もっと、孤独に陥る事でしょう。 王宮の思惑、重臣方の権謀。 そう云ったモノが完成するまでは、アルクレイド殿下は、第一王子殿下であり続けなければならないのです。 それに貴女ほど…… 殿下の御心に近づいた者は居ない。 その貴方が「離宮」を去れば、どうなるか。 聡い貴女ならば、判らなくも無いでしょう。 幸い、殿下は御心の制御を取り戻された。 貴女にも、王宮茶会の随伴を命じられた。 良いですか、「使命」を思い出しなさい。 貴女は、「観察者」なのです。 その事を心に刻み業務に邁進してください。 これは、殿下の御側御用をしている、執事たる『ヒエロス』からの願いでも有ります」


「ヒエロス様……」



 私は…… 震える身体を両の腕でしっかりと抱きつつ…… 顔も上げる事が出来ないまま、ヒエロス様の御言葉を聞いていた。 私の役目と「使命」と、そして何より、孤独に苛まれる殿下の事を思いつつ…… 私が私で有る為に、この宮に来た事は間違いない。 そして、なによりも母が成し得なかった事を、為す為に来たことも思い出した。 


 でも…… でも……


 こんな私で本当に良いのか? 自問に答えは出ない。



「行きますよ、サリー。 御側御用の貴女が居なくては、殿下が要請された随伴です。 しっかりなさい。 貴女はそれでも、あの優秀(・・・・)な上級王宮女官殿アレクサンドラ(・・・・・・・)様の娘なのですか!」



 耳に届く叱咤激励。 その名を出しては欲しくなかった。 けれど……  俯いていた顔を上げ、ヒエロス様を見る。 優し気な表情に厳しい瞳の光。 期待と逡巡の混ざった視線。 そうか…… ヒエロス様も、悩んでおられるのか。 私を殿下の御側に置く事が、本当に良い事なのかどうか。 でも、ヒエロス様は、私を曲がりなりにも信じて下さっている。 そう、お言葉を戴いた。 ならば、その信頼にお応えせねばならない。


 ” 貴女には、難しい場所に成るやもしれません。 ” との、総王宮女官長様の御言葉が耳の中に木霊する。 私は ”希望”した。 ”側妃様と同様に「道」を外される” 事 ”が無きよう、身命を持ちまして御勤め申し上げます” と誓った。 ならば…… ならば遣り切らねばならない。 それが、私の矜持でも有るのだから。



「はい………… 離宮執事長、ヒエロス様」



§ ――――― §



 「離宮」を出て後宮に向かう。 殿下は【認識阻害】魔法をしっかりと纏い、ゆっくりと後宮に向かわれている。 そこかしこで、囁かれる雑音。 そんな中を殿下は歩かれる。 御耳には入っている筈の雑音に御心を揺らされる事も無く、ただ、黙々と。


 後宮園庭に於いて、開催されている、王家のお茶会。


 第二王子、第一王女、第三王子、王弟殿下の御子息、さらに、第二王子の御婚約者様、そして、殿下の御婚約者様もおいでに成っていた。 強い【認識阻害】を纏ったアルクレイド殿下の耳に、園庭での高貴なる方々のお話が届く。 ヒエロス様は殿下の耳を塞がない。


 交わされる会話は…… この度の礼法院での大舞踏会の事。


 第一王女殿下、第三王子殿下は列席しておられない、そんな準国事とも云える礼法院の大舞踏会のお話がされていた。 史上最低の舞踏会であったと、そう云われたのが殿下の御婚約者。 一つ一つ、殿下の無様をお話されている。


 目を丸くして聞いておられた第一王女殿下と、第三王子殿下。 そして、王弟殿下の御子息。


 アルクレイド殿下が贈られた装飾品も付けずにエスコートを受けられた、御婚約者の侯爵令嬢は、その時のお話をされていた。 嫌悪が滲む口調。 貴族としての礼節により、エスコートを受けた事。 熱の無いファーストダンスの事。 もし、相手が王弟殿下の御子息で在ればと、悩ましい溜息を漏らされる。


 後宮園庭の木陰から、なんの感情も浮かべずに聞くアルクレイド殿下。 


 困った顔の王弟殿下の御子息。 その困惑した顔に、苦笑を以て応えられる侯爵令嬢様。 第二王子のご婚約者様である、上位伯爵家の御令嬢も苦笑して居られる。 第二王子は、その様子を溜息と共にご覧に成り、そっと言葉を紡がれる。



「兄上も、もう少し出来た御方ならばなぁ……」



 何も知らないって云うのッ!! こんなにも苦しんでおられるのにッ!! 第二王子殿下、貴方がそれを仰るのですかッ! 王宮にお暮しになる貴方ならば、王族である貴方ならば、「離宮」に逼塞するようにお暮しに成っている、アルクレイド殿下の事はご存知の筈なのにッ!


 グッと握る拳に力が入る。 怒りに頭がクラクラする。



「なんにせよ、アルクレイド兄上はもうダメです。 貴族達の信任を得る事は無いですよね。 あまりの御行状に、父上も意を決せられるのではないでしょうか? ねぇ、小ぃ兄様」



 第三王子殿下が追い打ちを掛ける様に、そう言葉を紡ぐ。 第一王女殿下も頷かれる。 困った顔をするのは第二王子。 仲睦まし気に、尊き御兄弟が頷きあう。 もう…… 見て居られない…… 感情が揺れて、今にも飛び出してモノ申し上げたくなる。


 そんな私をヒエロス様が手サインで御止めに成る。 



「行くか」



 小声でそう仰るのはアルクレイド殿下。 身に纏う【認識阻害】の強度を低下させ、さも、今来たと言わんばかりに、後宮園庭の低木を鳴らす。 つかつかと、お茶席に向かわれる。 今しがた散々に貶めて居られたご出席の方々が、立ち上がり上位者に対する礼を差し出す。


 ドカリと用意されていた椅子に腰を下ろし、後宮の上級王宮女官が差し出すお茶を受け取り、サラリと口を付ける。



「不味いな。 あぁ、不味い。 とても、飲めたものでは無い」



 そう云いながら、お茶を園庭の芝の上に撒く。 その不作法を見る周囲の目はとても冷たい。 王族に…… それも、王位継承権第一位保持者に向けて良い視線では無い。 沈黙が周囲を埋める。 御婚約者である、侯爵令嬢様が何かを口にしようとした瞬間に、アルクレイド殿下が言葉を紡ぎ出す。



「オラルド。 王太子に成りたいか。 王位が欲しいか。 ならば、奪ってみせよ。 簒奪の謗りを受ける気概が有るのならばな」


「あ、兄上! 何を仰いますかッ!」


「その気概も無い者に、王位は重いぞ? 状況を把握し、全てを制御する気概無くして、王位は継げない。 今のお前ではお飾りになるな。 自身の信念は何処にある。 王と成れば何を成す。 今、この場でお前が成さねば成らぬ事はなんだ。 支える者が、お前を称賛する者ばかりならば、お前に王となる資格など無い」



 で、殿下…… 殿下の本質を知っている者ならば、殿下の言外の言葉は良く聞こえる。 王となる者の覚悟を決めろと、そう仰っている。 自身が愚かな振る舞いをされているのも、悪評に耳を貸されないのも……


 すべては第二王子殿下を王位に付ける為なの。 でも、今の第二王子殿下では、国を率いる為の力と意思は希薄。 それを指摘されている……



「茶会と云うから来てみれば、話す事は噂話の域を出ないか。 呆れ果て、モノも言えない。 こんな場に二度と呼ぶな。 迷惑だ」



 そう云うと、さっさと立ち上がられ、その場を後にされる。 後に残されている尊き方々…… その方々の耳にも心にも、なにも届かない。 知りたい事だけを知り、見たいものだけを見ている。 「愚か者」と揶揄される者の言葉は、決して届かない。


 園庭を去る殿下。 その後ろ姿に言葉が投げられる。



「なんでしょう、アレは。 不作法な。 婚約者として皆様に謝罪申し上げます」


「いやいい。 兄上…… やはり…… 兄上は本当に愚かな人…… で、在りましたか……」



 多分…… 聞こえている。 アルクレイド殿下の肩が少し落ちる。 自分が愚かを装う理由が、彼等には見えない。 そして、こんなにも苦悩されている殿下の事を知ろうともされていない…… とぼとぼと、殿下の後に続き、「離宮」に戻る。



「柄にない事はするべきでは無いな。 忠告はした。 ……サリー、旨い茶を所望する」


「はい」


「ヒエロス」


「ハッ」


「先程は………… 間違いを起こす処であった。 あの方の様に叱ってくれる者が居たとはな。 まぁいい。 少し、頭痛がする。 離宮に帰って休む」


「御意に」



 先を進まれる殿下は、そう小声でお話になり…… 元来た道をお戻りになった。 その夜…… 殿下の体調が崩れ、激しい頭痛を訴えられた。  茶会からお帰りになって、一杯の茶を喫せられた後、お休みに成られた殿下。


 夜半の事だった。


 御側御用を勤める私が、女官待機場所から即座に駆け付け、お声がけする。 意識が朦朧とされている。 無礼を承知で額に手を当てる。 酷い熱が出ていた。 意識を取り戻された。



「殿下! 如何なさいました?! 殿下、殿下!! 薬師を! 王宮薬師を!! 殿下の御様子が!!」



 耳元でのお声がけ。 朦朧とされた殿下は、私の声に反応される。 視線の焦点が合わず、私の顔を認識出来てはいない様に思えた。 切迫した空気に私は怯えを感じる。 このままでは…… このままでは…… 殿下の視線に弱弱しいモノではあったが、力が戻る。 私が誰かお判りに成ったよう。



「うるさい…… 黙れ」



 目を見開いたまま、天井を凝視されている。 思わず怯む。 昼間の事もある。 此処は殿下の寝室。 殿下の御様子からして、とても異常な事が起こっているとしか思えない。 怯む私を叱咤激励しているのは、私の中の母の影。 殿下の手を握り、次の言葉を待つ。



「い、いや、済まない。 少々頭痛がするのだ。 暫くすれば、良くなると思う。 声掛けありがとう。 薬師の件、済まないが頼む。 その間は横に成っている事にする」


「お、仰せのままに。 直ぐに王宮薬師様にご連絡申し上げます」



 とても…… とても優しい視線で私を見た後…… 殿下は苦し気な息の元、私に声を掛けられてた。



「うむ、頼んだ」



 暫く苦し気に、床の天井をにらみ続けた後、静かに瞼をお閉じになった。 ダメだ…… これは、ダメだ。 部屋に残る宿直(とのい)の王宮女官に指示をだし、直ぐに王宮薬師様を呼び出すように伝える。 手は離さない。 ええ、決して放さない。


 だって……


 握り返しされた手からは、力が抜けて居なかったのだもの。 やがて王宮薬師様も到着され、殿下の脈を取られる。 厳しい御顔をされていた。 



「女官殿」


「はい」


「御霊が離れようとしております。 繋がれた手をお放しに成られぬ様。 殿下を押し止めて居るのは、女官殿が握る手なのかもしれません」


「はい…… はい」



 強張る手を握り続ける。 精霊様と神様に祈りを…… 祈りを捧げ続ける。 どうか、どうか、殿下を…… 殿下をお連れに成らないでください……と。 それから一週間。 殿下の意識は戻らなかった。 一時は鼓動も弱くなり、体内魔力すら危険なほど減少した。


 王宮薬師様は経口の体力回復薬を用いて、殿下の状態を安定させようと、様々な手をお尽くしになった。 私は夜も昼もなく、殿下に寄り添い、只々手を握り、祈りを捧げていただけだった。 ヒエロス様がそんな私を心配して、休む様に言われるのだけど、どうしてもそんな気にはなれず、御側を離れなかった。


 でも、わたしは…… 体力の限界を迎え、意識を失ってしまう。 最後まで…… 最後の最後まで…… 握る手を離さなかったと、ヒエロス様にそう告げられたのは、担ぎ込まれた待機所の簡易寝台の上。 やれやれと言わんばかりのヒエロス様。 薬師の方に頂いた、体力回復薬を飲み込んだ。 



「殿下は?」


「峠は越えられた。 意識がお戻りになった」


「そ、そうですか…… 良かった」


「本当に貴女は無茶をなさる。 …………いや、しかし、殿下が御戻りに成られたのは、貴女の献身と祈りのお陰かもしれない」


「えっ?」


「貴女に叱咤激励されたのが効いたのか、()の殿下は、少々性格がお変わりになったと、見受けられる。 あの暗い後ろ向きな所が見受けられぬのだ。 全てを投げ捨てられた、あの様な感じがしないのだ。 不思議なのだ…… まるで…… 人がお変わりに成ったかのように…… しかし、殿下である事には違いがない。 よく観察するべきだと、そう思う。 上級王宮女官殿。 貴女にも手伝ってもらうぞ」



「はい。 離宮執事長様」


「うむ。 身体を休め、任務に耐えられるように、養生せよ。 自室に帰り、そうだな…… ニ三日休養を取る事を命じる」


「…………承りました」



 常に間近で殿下を見続けて居るヒエロス様の御言葉なのだもの。 きっと、その通りなんだと思う。 命じられるまま、私は自室に戻り、身体を休める。 今はそうするべきなのだと、自分に言い聞かせながら。 職務に復帰できたのは、それから四日後の事だった。




  § ――――― § ――――― §




 日常が戻って来た。 いつもの業務。 いつもの仕事。 いつもの観察。 変わった事は、殿下の御様子。 ヒエロス様が仰っていた通り、たしかに殿下は変化した。 いいえ、表面上は変わられていない。 でも、違う事が沢山ある。


 「離宮」に於いて、殿下の存在は恐怖の対象でもあった。 いつご機嫌が悪くなるかも判らない、薄氷を踏む思いでいた者も沢山いる。 少しでも気に入らなければ、食事もお残しになる。 失敗した者に対しては容赦の無い言葉を告げられる。


 でも、あの日からの殿下は違った。


 食事は全て召し上げる。 そして、厨房の者に対しても、厳しいご注文を付けられることが無くなった。 誤って磨いていた窓ガラスを割ってしまった、王宮下女に対し……



「怪我はないか。 もし、怪我をしているようならば、先に手当てをするが良い。 怪我から病に成るやもしれぬからな」



 と、今までならばお叱りを口にする様な事でも、私達使用人の事を気遣った言葉を述べられるの。 今までとは全く違う、その言葉に最初は畏れを感じていた「離宮」の使用人達も、いつまでも変わらぬ状況に、次第に敬愛の念を持つように成って来た。


 「離宮」の使用人たちは、元から側妃様の元で勤めていた者達。 幼少の頃から、殿下を良く知っている者達。 そんな者達の間に、なにかしらホッとした空気が流れ始めた。 今までは、離宮の調度品くらいにしか思っていらっしゃって無かった殿下が、自分たちをちゃんと ”人”として、認識して、更には、殿下への献身に対してキチンと評して下さっていると……


 そう、感じていたから。


 「離宮」の者達は、皆、殿下を敬愛している。 幼いころから、過酷な「王太子教育」を真摯に積み重ね、精神的にも肉体的にも痛めつけられ続けて居た事は、皆知っている。 だから、殿下が無茶を云っても、きつい言葉を投掛けられても、この「離宮」を離れると云う選択はしなかった。


 殿下が、私達使用人を ” 人 ” と認識してくださり、そして、私達にも感情が有るのだと云う事を理解して下さった。 信には信を。 忠誠を誓い、矜持に掛けて勤めていた者達が、やっと、報いられるべき時が来たかのようだった。


 半面…… 礼法院からの知らせは悪化するばかり。 殿下の側に立つ貴族の子弟が、本来ならば近寄る事さえ憚れるような下位貴族…… 男爵家の御令嬢を殿下の周囲に招き入れ、在ろうことか殿下の名を呼んでいるとの事。 御婚約者の侯爵令嬢様ですら、殿下のお名前を呼ぶことは無いと云うのに。


 日々送られてくる、礼法院からの懸念の知らせ。 まるで、ご自身の評判など投げ捨てるように、側に居られる方々の好きにさせていらっしゃる。 けれど…… なにか、お考えあっての事なのは、殿下の瞳に浮かぶ光から読み取れた。 殿下は観察していらっしゃる。 私やヒエロス様と同じような「観察者」の光を、殿下の瞳に見る事が多くなったの。


 ある日、王宮からのお呼出しがあり、礼法院から直接王宮に向かわれた殿下。 今日は私は随伴の者の当番ではなかったので、「離宮」に於いて、通常業務をこなしていた。 離宮の正面玄関を掃除して居る時、王宮の外局から二人の高位役職付きの方が見えられた。


 御一方は、薬師院 薬剤局長様。 もう一方は、王宮魔導院筆頭魔導士様。 ヒエロス様と一緒に「離宮」に来訪された。 珍しい。 本当に珍しい事だった。 お二人を「離宮」玄関脇に建つ、控えの場所にご案内して、お待ちいただく様に願う。 快く、その願いを受けて頂けた事で、この方達が殿下に対し強い害意を持っておられない事を理解した。 


 王宮からの御使者と云うから…… 少し、身構えてしまうのは、私も「離宮」の者になったなと、頬に笑みが浮かぶ。 


 殿下が王宮からお戻りになられ、ヒエロス様と私を引き連れ、執務室に戻られる。 早速、お茶の準備を始める。 用意はしておいた方がいい。 きっと、招き入れられる。 



「ヒエロスか。 どうだ、なにか判ったのか?」


「ご報告の前に、この問題を処理しましたる責任者が、アルクレイド殿下に謁見したく参っております。 如何なさいますか?」


「……そうだな。 よし、入って貰え。 サリー、持て成しの準備を」



 ほら来た。 準備を整えている間に、ヒエロス様が控えの建物からお二人をお連れになった。 着席されると同時にお茶をお出しする。 壁際に下がり気配を消し、静かに状況を伺う。 チラリと此方を見られたお二人。 そして口にされる御言葉。




「殿下…… 御人払いを」


「申し訳ないが、それは出来ない。 監視を外し、この場に貴方方のみと対峙する事は、陛下の御心に叶わない。 サリー、ヒエロスは陛下より付けられし者達。 国と王家にとって不利な話を彼等がする事は無い。 よいか」


「…………御意に」



 内密なお話であれば、去れと言われるがまま、待機所に下がったのだけど、殿下はそれを良しとしなかった。 ヒエロス様の方をチラリと見ると、軽く頷かれる。 つまりは、報告の必要性がある会合と云う事ね。 理解した。


 お二人のお話は途轍もない事態を予感させるものに違いなかった。 確実に報告の対象となるべき事案。 禁止麻薬である、アヘンタールを含む焼き菓子を、男爵令嬢が殿下に御渡しになったと云う、誠驚くべき事実の開陳。


 常に殿下に苦情を出されている礼法院は、一体どのような警備を行っているの? 殿下のお口に入るモノは、厳しく管理する事が義務付けられている筈では無いの? そんな事が罷り通っているの? 疑問が疑問を呼ぶ。 自然と眉に皺が寄る。


 ヒエロス様が、そんな私を横目で見て、感情を抑えろと手サインで忠告してくる。 でも、でもッ!


 更には、王宮魔導院筆頭魔導士様が、殿下の【精神汚染鑑定】を求めて来た。 あ、有り得ない。 アレは心の中を覗く様な魔法。 王族の、それも第一王子の御心を覗くというの? そんな、無礼極まりない要請に殿下は ” 必要ならば ” と…… 快諾される。 


 少し前の殿下では、考えられない事…… そこまでお変わりに成られたのか……  【精神汚染鑑定】は恙なく終了し殿下への嫌疑は無くなったと思われた時…… 更に、筆頭魔導士様が非礼を重ねるような言葉を紡がれる……



「左様に御座いましたか。 自らその様な防御を纏っておられたか…… 何からご自身を御守りして居られるのか、お伝え願えても宜しいか?」


「あぁ…… そうだな、いうなれば『不適当な善意』からだ。 俺の立場故、暴走する馬鹿が出ないでもない。 そして、そいつらの主人格の者達が知らぬ間に行動しようとするやもしれん。 忠義厚き者達の正義は、時として主人の罪に成るからな。 顧みて、俺を害そうと試みる者達の主人たちは、この国にとってなくてはならぬ者達であろうな。 つまり、短慮な者達の行いによって、この国にとって大切な者達が罪に問われかねん。 私が第一王子である事によってな。 コレが理由だ。 内々に全てを納めるが為の処置だ」


「成程…… 誰かを陥れるためでは無く、この国に取って有益な者達を守る為…… に御座いますか?」


「俺が死ぬと喜ぶモノも居るであろうが、愚かな第一王子を利用せしめようとする者の方が多いであろう? 担ぐには頭の軽い方が何かとやりやすいと。 それを阻止しようとするのは、判らんでもない。 陛下の重臣殿達も頭の痛い所だな」


「…………殿下」


「殿下、検査の仕儀、お許しください。 あの焼き菓子の下に引いてあったナプキンに、【魅惑】と【好悪反転】の術式が紡がれておりました」


「ほう……」



 顎を指で挟み、考え込まれる殿下。 深く事態を考察されている。 その表情から、男爵令嬢が持ってきた焼き菓子の中に含まれた麻薬と、ナプキンに仕込まれていた 【魅惑】と【好悪反転】の術式について深く思いを巡らせていらっしゃるのであろう事は、「観察者」の私からみれば、明らかなの。 


 殿下はこの所、素直に感情を御見せになる。 訓練されている者ならば、殿下のお考えのある程度は先も見通せる。 そして、明らかにこの問題を処理する為の方策を御考えに成っている。 であれば…… 何かしらの指示は直ぐに出る筈。 身構え、殿下のお言葉を待つ。



「聞いていたなヒエロス。 お前の上司に直ぐに伝え、対処を始めよ。 事は重大だ。 禁止薬物が絡んでいる。 表立って動けば、仕掛けた者達は、『闇の中』に潜り込む。 第二王子以下、主要な者達の身にも危険が及ぶ。 今後も俺は、これまで通りに振舞う。 相手が侮っている俺ならば、俺の篭絡に意識も集中しよう。 その間は第二王子達には手を出さないだろう。 警戒は俺よりも遥かに厳重だろうからな。 それに、あちらは品行方正な上に、正義感も強い。 落とし易きを狙うだろうからな。 まず手始めに男爵家。 そして、その背後に潜む者達。 その中の薬剤関連の利権を持つ者を中心に早々に調べを始めるよう進言する」


「御意に」


「行け、事は一刻の猶予も無い。 初動が遅れれば、国の根幹を揺るがす事に成りかねない」



 軽く頷かれたヒエロス様は、【認識阻害】の魔法を強く身に纏い、報告へと去って行った。 第一級の緊急事態と、認識されたのだろう。 そして、もう一つ。 殿下はヒエロス様が、王家の「影」の一員だと云う事を理解されて、そして、その事を利用し王宮へ警鐘を鳴らされた。 


 つまりは、問題の大きさに殿下の一存では処理しないと、そう明言されたのも同義。 王家の影にとっても、麻薬関連の事柄は重要な緊急事態。 さらに国王陛下の重臣の方々への周知も、王国の安全の為には特に必要な事。 直ぐにその事を理解された殿下の初動は、間違いない物だと思う。


 殿下はさらに思考を巡らせておられた。 暫しの沈黙の後、私に命じられる。 



「サリー、この離宮に持ち込まれる全ての食材に徹底的な検査を実施せよ。 厨房方にも伝えよ。 お前たちの食材もだ。 外で食する時は、【毒物関知魔法】の魔法陣を付与した布を使用し、その結果いかんによっては食する事を禁ずる。 良いか」


「御意に。 通達致します」



 殿下の言葉に薬剤局長は深く頷く。 殿下は直接の攻撃の対象者。 しかし、殿下の周辺の者達も、対象になりかねない。 もし、何らかの意図を持ち、この焼き菓子を男爵令嬢に持たせた者が居るのならば、その敵性の勢力は、確実に殿下を篭絡する為に、外堀とも云うべき「離宮」の人員の危険性は跳ね上がる。 静かに殿下の対応を確認されていた、王宮魔導院筆頭魔導士様は、躊躇いつつ言葉を口にされた。



「周囲を惑わされておられたか…… 愚か者と云う『蓑』を被っておられたか……」



 静かに微笑みを浮かべ、筆頭魔導士様の問い掛けに応えられる殿下。 殿下の口から紡がれる御言葉に、思わず、否定の言葉を吐き出したくなった。 それでは、余りにも…… 余りにも殿下が……



「買被りだ。 私は愚か者だ。 それでよいでは無いか。 有能で慈愛に満ちた第二王子が王位に付くには、わたしは邪魔者でしかない。 人望の無い王子が、疑われ続ける王子が、何故王太子に成らねばならん? それが国法ならば、国法を改正すればよいだけの事。 国は尊き王を戴くのが道理で在ろう? ……それに、私は早逝したくはない。 そんな事は幼少の時より判り切った事だ」


「殿下…… わたくしは、殿下がそれ程の気持ちを抱えて居られたとは…… 存じ上げなかった…… 誠に…… 誠に……」


「わたくしもまた…… そうで有ります。 殿下のお気持ちが…… 何故の愚かな御振舞か…… 理解してはおらなんだ…… 謝罪…… 致します」



 高位の方々が、頭を垂れ、殿下に謝罪されている。 未だかって…… 見た事も聞いた事も無い光景が目の前に広がっている…… 是非とも、是非ともこの事は、ヒエロス様にご報告しなくてはッ!



「顔を上げよ。 今まで通り、私は愚かな行動を続けるだろう。 その責はいずれ取る。 お前たちは、真にこの国の為にその誠意を捧げよ。 そうだ、この国の未来を盤石にするのだ。 良いな」


「「…………御意に」」



 頭を上げ、何かを掴んだような表情を浮かべるお二人。 そんなお二人に殿下は、微笑を以て見送りにと席を立たれる。 今まで、王宮からの御客人など、迎えた事は無かった。


 玄関まで同道される間も、当たり障りのない話題をお話しに成られていた。 私は、殿下の背後に付き、お見送りに同行させて頂いた。 万が一も有るので、気は抜けない。 張り詰めた私をチラリと見た殿下は、ちょっと困った顔をされていた。


 お見送りを終え、お二人が「離宮」の外に出られた事を確認できた辺りで、やっと緊張を解く事が出来た。 調剤局長様は良いのだけれど、筆頭魔導士様は歴戦の魔法兵ともお聞きしている。 万が一…… 万が一が有ればと…… どうしても緊張を解く事が出来なかったの。



「サリー、茶を淹れてくれ。 どうにも疲れるな。 腹の探り合いも、ほどほどにせんとな。 美味い茶を頼む あぁ…… 再度申し付けるが、離宮の皆への通達、しかと頼む」


「承りました」



 殿下の通達は、お見送りに部屋を出る前に、侍女が離宮女官長に、その旨を伝えておりますわよ。 今頃、離宮女官長様にも、殿下の思召しは届いている頃ですわ。 大丈夫です。 殿下のお心遣いは、皆、喜ぶでしょう。 勿論、この私もです。


§ ――――― §


 「離宮」の中からは、事態の推移は見えてこない。 殿下の推測が正しければ、「離宮」の人員にも何らかの接触があるかもしれないと、皆、一様に身構えていたわ。


 殿下の休憩時間にお出しする茶菓子に、それは有った。 何時も利用している、王家御用達の菓子店のモノだったのに……


 外出する侍従、女官、侍女、そして下女が、食事をしなくては成らない時に、注文もしていない食べ物や飲み物がテーブルに並び、さらに男性には女性の、女性には男性の不審者との接触があった。


 皆、殿下の用意された【毒物関知魔法】の魔法陣を付与した布や、ヒエロス様のご同僚の機転により、事無きを得た。


 すべての事柄は逐一ヒエロス様に、ご報告申し上げ、対処を一任する。 そこは、王家の影。 絶対とも云える安心感がある。 少なくとも、王家の影は、この事態を深刻にとらえていると理解できる。 その事は、王宮より急遽増員された執事二人が、証明している。


 「離宮」周辺に関しても、離宮警備隊が増員された。 さらに、殿下が王宮魔導院に依頼をして下さったお陰で、「離宮」周辺に展開されている【耐魔法】系統、及び、【耐物理】系統の防御系魔方陣も刷新され、王宮並みの防御が実現したわ。 殿下は軽く、”筆頭魔導士にお願いしてみた”と、仰っていたけれど…… それは、紛れも無く、殿下が私達「離宮」勤務者を護ると云う意思を感じていた。


 皆、とても有難い事であると、感じ入っている。 不要不急の外出も控え、一連の出来事が収束する日が一日も早く訪れる事を願うばかり。


 ある日、礼法院に同道されたヒエロス様から、礼法院執務室に私を含め五名の王宮女官の出頭を命じられた。 礼法院執務室で執務を取られるとの事。 ちょっと驚いた。 今まで、「離宮」に於いても、殿下は公務の補助を命じられた事は無かったのに……


 慌てて、離宮女官長の元に行き、殿下が御命じに成った事柄を告げ、同行する女官の選定に当たる。 文書管理であろう事は、執務室での作業と云う事で予測は付いた。 その分野に長けた方々に同行を願い出ると共に、離宮女官長の許可も頂く。


 出来るだけ早くと、【認識阻害】魔法もそこそこに、皆で礼法院に出向いた。 礼法院に入ると直ぐに、殿下の御婚約者である侯爵令嬢様に出会ってしまった。 何度かお見受けしていたが、まさか、あちらが覚えていらっしゃったとは思いもしなかったので、初動に躓いた。 侯爵令嬢様は、”何故「離宮」の女官が五名も居るのか”と、そう問われた。


 虚偽をお話しするわけには行かない。 正直に殿下より呼び出しがあり、礼法院執務室に向かっていると、言わざるを得なかった。 ”ちょっとまずいな”と、感じたのは、同行した女官が皆、見目麗しく、良いスタイルの持ち主だった事。 一応、「離宮」勤めなので、何かしらの事情は抱えているのだけれど、それでも…… 


 別の目的で、呼ばれているとも、取れる程に。


 そう云った不埒な噂が、礼法院の中に流れているのは把握していた。 ヒエロス様の苦々しく、その噂が有る事を「離宮」の女官や侍女、そして下女に告げていた。 例の麻薬の件から、「離宮」の者達は、極端に外に出る事が少なくなった事。 殿下自身が、特別(・・)な市場調査に出る事を、幾たびも断られていた事が、要らぬ憶測を生んでいた。


 殿下の側に居る者達が、面白おかしく吹聴した ” 噂 ” なのよ。 殿下も積極的に否定されていない。 ヒエロス様が仰るには、余りに荒唐無稽な事で一笑に付した…… そうなのよ。 それが、また、火に油を注ぐ結果になるとは……


 目の前に居る、殿下の御婚約者様は眼を怒らせて私達を見詰め、礼法院執務室に同行すると言い切ったの。 宜しくお願いしますと、頭を下げるしか無いわ。 誤謬による ” 正義の暴走 ” だと、思ったの。 如何ともし難く、そのまま礼法院執務室に向かう。


 礼法院執務室の扉を勢いよく開ける侯爵令嬢様。 怒りのまま入室したあと、非礼を承知でいきなり言葉を紡がれる。 侯爵令嬢様としては、如何なものかと思えるほどの、無礼な振る舞いだった。



「殿下、あまりもご無体が過ぎます。 離宮では手が出せないと、この様な場所にこの者達を御呼び付けに成るなど…… 殿下の命に従わざるを得ない者達に対し、こんな非道な命令など! コレは幾らなんでも、許せません」


「何を申して居るか、判らぬな。 必要であるから呼んだ。 それだけだ。 なんなら、其方も手伝うか?」



 殿下の言葉に、真っ赤に成って怒りの表情を浮かべる御婚約者様。 完全に礼法院の中に漂う噂話を信じて居られる。 そして、その対象にご自身も含まれると…… そう、思われてしまった、侯爵令嬢様。



「侯爵家の娘たるわたくしに、それほどまで卑しく、浅ましい事を口にする方を、殿下以外には存じ上げません! この事は、父に進言いたします! 殿下の婚約者として、貴女達はこの場を離れるよう、命じますッ! …………貴方なんて、貴方なんて、産まれて来なければよかったのにッ!!」



 踵を返し、憤懣やるかたないって感じで執務室を出て行った、侯爵令嬢様。 あぁ、ダメだ。 完全に誤解されてしまっている。 でも、そんな酷い事を口にされるなんてッ! 仮にも御婚約者様に御座いましょう。 何故もっと良く、殿下の事を知ろうとなさらないのッ! 殿下がヒエロス様と私をご覧に成られた。 


 とても困惑されていた。 ヒエロス様は下を向いて頭を振る。 微かに聞こえる呟きは、”どうして呉れよう、あの蛆虫共 ” だった。  私は、怒りを修め、困惑の表情を浮かべつつ、連れて来た王宮女官達で何をする為にお呼出しになったのかと、殿下に問いかけたの。



「サリー以下五名。 御用命により参りました。 業務内容をお伝えください、殿下」


「あ”~~~  まぁ、いいか。 サリー、すまんが、この書類を手分けして分類してくれ。 一般の申請物と、舞踏会関連。 あとは、陳情書。 ヒエロス。 纏まったら、此方に寄越せ。 申請書から可否を判断する。 舞踏会関連は、離宮に運べ。 陳情書は…… 最後だ。 いいな、かかれ」


「「「 御意に 」」」




 一旦仕事に掛かれば、雑事は意識の外に出る。 見れば山と積まれた幾種類もの申請書と陳情書、要望書。 殿下に指示された通りに仕分けを始める。 私を含め、皆、書類仕事には精通している。 慣れるに従い、その速度も上がる。 


 ある程度仕分けられたら、即座にヒエロス様にお渡しする。 殿下も、ヒエロス様も何も言葉にされる事無く、次々と処理されて行く。 


 紙の上を滑るペンの音。 書類を繰る音。 時折響くのは、重い書類を持って歩く私達の靴音。 静かで濃密な時間が進む。 話し声は、殿下とヒエロス様の声だけ。 確認と、処理。 その二つだけを、淡々とこなされて行った。


  一般の申請書の処理は終わられた様だった。 ヒエロス様と意見が異なったものは、『決闘』の申請書だけだった。 殿下は「是」とされ、ヒエロス様は影響の大きさから「否」とされたモノだった。 印象的な殿下のお言葉が小さく聞こえていた。



「…………恥を以て死するか? バカバカしい。 そんな事では、この国の剣となり、盾と成らん事は不可能だ。 弱ければ鍛え、乗り越えよ。 …………これは、貴族の誇りを懸けたモノ。 それを横からとやかく云う事は、誇りを侮辱するも同義だ。 …………唯一心を砕く事は、互いに死せぬ事。 勝敗が決まった後、負けた者に道を見せる事。 重要なのはこの二点。 …………場所は…… そうだな、血生臭い決闘は、この礼法院にはそぐわないか…… では、離宮の鍛錬場とする。 あの場は密閉されている…………」



 微かに聞こえる言葉は、その形を失い、耳に届くのは僅かな単語。 業務中でもあるので、耳をそばだてる訳にも行かない。 ヒエロス様が何かを仰ったあと、殿下の声が少々大きくなり、ハッキリと殿下の言葉が耳に届く。



「悪評は受けとめる。 徒に貴族間に波風を起こすと、そう云われようと、問題は無い。 強く意識しなければならぬのは、当事者の心情であるからな。 この決闘を一度で済ますつもりもない。 もし、必要ならば何度でも要請するがいいと、双方に伝えよ。 ただし、間違っても私闘を許す事は無いとも。 互いの家は、この国にとって掛け替えの無い物であると、厳重に申し伝えよ」



 殿下は貴族の誇りや矜持を良く理解されている。 誰にも曲げられぬ金剛石の様な硬い意志と自分が何者であるかを示すモノ。 その矜持がどれ程 貴族の生き方を縛っているか。 御自身に当て嵌められ、否定できるようなモノでは無いとご判断されたと思うの。


 そして何より、殿下は人をご覧になる。 「決闘」を実施する事により、蟠りを解き、双方の誇りを護り、さらに自分が何者であるかを思い出させようとされている。 御自身の悪評を隠れ蓑に……


 やるせない感情が私の中で渦を巻く。 どうして、そんなにも…… その思いは口にする事は無い。 無い分、心の中のモヤモヤは増大するばかりだった。 でも、そんな言葉を口にされた殿下は、気分がよさそう。


 良かった。 殿下の気分はとても良さそう。 舞踏会関連の申請書は、離宮に送ったわ。 きっと今夜、殿下がじっくり見分されるのでしょうね。 そう云う方だもの…… ちゃんとお休みして欲しいのは、私の小さな希望。


 最後に殿下が着手されるのは、三つの山に分類した大量の「陳情書」 これは、礼法院に届けられた物の写しね。 殿下は、” 何故「陳情書」の山が三つも有るんだ? ” とでも言葉にされそうな表情で私を見られたの。 しっかりとお応えする。



「一番小さい束は、貴族の方々の間でのいざこざに起因する物。 既に、礼法院と各々のお家で処理済みに御座います。 二番の山は…… 殿下に対する物に御座います。 署名から第二王子殿下の御側近や御連枝、および、下位の貴族様が主ですが、中にはどんな派閥にも入らないと有名なお家の方も居られます」


「例えば?」


「はい、西部辺境伯家の御令嬢から、かなり強く……」


「ボケ王子なんとかならんか? くらいか?」


「……いえ、その……」


「廃嫡せよ? そんな事なら言われ慣れている」


「し、しかし!」


「いいんだよ。 私自身がそう思うくらいなんだ。 不敬とか云うなよ? 礼法院の対応は?」


「握りつぶしておいでです」


「さもありなん。 いくら力強き辺境伯家とは言え、直接的文言は身を亡ぼす。 かなりのお転婆と見受けられるな」


「御意に……」


「観察を始めよ。 ……ん? ちょっと待て。 その御令嬢、私の側近の一人の御婚約者ではないか?」


「えっと……」



 私が戸惑う中、ヒエロス様が代わりにお応えされたわ。 殿下の疑問に大きく頷きながらも、同意される。 流石に「王家の影」ね。 殿下の事だけでは無く、殿下の側に居られる方々の事もしっかりと調べ上げているわ。 まぁ、それも、別の御役目の一つなんだろうな。 私には出来ない事ね。



「左様に御座います。 殿下の御朋友御一方の御婚約者に御座います」


「そうか…… ならば、国王陛下にご奏上申し上げる案件だな」


「はっ? それは……」


「西部辺境伯家に対し、彼の御令嬢の婚約者を早急に変更するべきであると。 麻薬に狂った男を辺境伯に等もっての外。 王家の「影」からの進言として、陛下に奏上申しあげ、辺境伯に伝えろ。 状況が逼迫する前に」


「……御意に」



 そんなことまで? 事態は相当深刻なのね。 殿下のお側に御付に成っている方々にまで、魔の手が伸び篭絡されていると云う事なの? 危険な事。 どんどんと心配事が増えていき、私の胸を締め付ける。 殿下はヒエロス様を通して、国王陛下に働きかけるとの思召し。 ……もう既に、側にいらっしゃる方を切り捨てて居られるご様子。 冷徹な一面が垣間見られるわ。 ちょっと、怖いと思う部分なの。


 殿下は私の方に向き直り、”最後の山は?”と言わんばかりの眼で、最後に残った陳情書の山を見ながら、お言葉を紡がれる。



「サリーこの話は置いておく。 陛下におすがりする案件だ。 最後の大きな山は何だ」


「……申し上げ難い事に御座いますが、あの男爵令嬢についてで御座います。 様々な方々がお困りに成っておられるようで」


「成程な。 ほぼすべての女性と、大多数の男性か。 彼の令嬢が誘惑した人員と、彼の令嬢が仲間内が、これで確定したぞ」


「はっ? えっ? そ、それは?」


「令嬢に明確な目的が有ると判明した。 俺を篭絡したならば、これ程の反感を買ってもおつりが来ると、そう睨んでいる。 反応をしていない子息令嬢は、それだけで、二つに分類できる。 一つは、仲間。 一つは我関せずの日和見。 それとな、激しく何度も書き連ねている者も記憶しておかねばならない」


「……韜晦する為に御座いますか」


「その通りだよ、ヒエロス。 非難を強く印象付けて、万が一の場合に備える。 侯爵家、伯爵家の者だろう? 声を上げていない家と、激しく声を上げている家を抽出し、王家の「影」に於いて調査せよ。 その結果は、私では無く重臣の方々と陛下に。 良いな」


「御意に」



 ここでもまた、私の眼から鱗が落ちる様な気がする。 洞察と考察を頭の中でどう組上げていらっしゃるのかしら?  殿下の眼には、何が映っているのかしら? 何処まで予測されているのかしら? 小さな事実を組上げ、拾い上げ、思考し、推定され、対処方法を編み出されて行く。 厳しい「王太子教育」の賜物か、それとも生来の才覚か?


 そんな殿下に尊崇の念を抱く。 この方に成らば私は心の底からお仕えできる。 ええ、私の全てを懸けてお仕えする事が出来るわ。


 その日一日で、山と積まれた書類は消滅した。 既に舞踏会関連の陳情書は「離宮」に送った。 時間を見れば、もう真夜中。 殿下を先頭に「離宮」に帰る。 帰ったら厨房方になにか軽く摘めるものを用意してもらおう。 美味しいお茶も用意しよう。


 お疲れにならなければ良いのだけど……


 今晩は、私が宿直(とのい)の業務だったわ。 殿下と同じ時間を共に出来る事を、少しだけ…… ほんの少しだけ、嬉しく思ってしまう自分に、ちょっと慌てた。 私達女官に、労いの言葉を戴けた。 素直に嬉しかった。 


 「離宮」の玄関の大扉を抜け、殿下のお部屋に向かう。 下女に厨房方への依頼を告げ、私は女官待機所に入る。 少し荒れた身形を整え、殿下に御茶を供し、お呼びが掛かるまで、待機する。 待機所で日報をしたため、そして、王宮女官庁へ送る報告書を書き上げる。


 一つ隠し事をした。 どうしても…… 書けなかった。


 それは、殿下の御婚約者の言葉。 あんな酷い言葉を私は報告書に書く事は出来はしなかった。 殿下の御宸襟には手を触れない。 そして、殿下の事以外も書かない。 だから、あんな酷い言葉を書くつもりは無い。 胸の奥が痛い。 とても痛いの……


§ ――――― §


 本日の殿下の装いは、第一王子、第一種正装。 侍女達と一緒になって精一杯お勤めしたわ。 数日前から殿下に本日の装いに付いて先触れを戴いていた。 十分な時間を取って、全てにおいて万全の状態に持って行った。 


 白の詰襟と金色の糸で組まれたモールが、胸の前に付いた上着。 真っ白のスラックス。 足の横に第一王子の証である、青のラインがピシリと決まっているわ。 直線を出すのに、衣装方と何度も何度も相談したの。 第一種正装には帽子は無いわ。 御髪を整えるのも、専門の侍女がいる。 私は手出しが出来ない。 そこは少し残念なの。 ただし、サッシュはある。 抜けるような青のサッシュ。 其処に吊るす勲章の類は全くないのが悔やまれる。


 もう少し、殿下自身が意識さえすれば、国王陛下は様々な理由を付けて、叙勲される筈なのに……


 本日の行き先は、この離宮の鍛錬場となる。 いつも殿下が戦闘訓練並みの鍛錬を行っておられる場所。 先日の礼法院執務室でお話しになられていた「決闘」の会場となる。 既に幾人もの方々が鍛練場に御到着されている。 そちらには私では無い女官と、ヒエロス様以下数名の執事の方が詰められている。


 私は「離宮」内で殿下の御帰還を待つだけ。 通常業務に忙しくしてるの。 装いのお手伝いが出来ただけでも、満足よ。 だから、仕事には手を抜かない。 抜ける筈も無いもの。


 ―――――


 殿下は午後のお茶の時間に、お帰りに成られた。 酷くお疲れに成っているように見受けられる。 この所、何かとお声を掛けて頂けたのだけれども、午後のお茶を供した時にだけ、軽くお話ししただけ。  ただ、美味しそうにお茶を飲まれたので、私は満足していた。


 第一種正装をお解きになり、お部屋着に御召し替えされた。 午後のお茶からは、公務の時間として、王宮から回ってきている書類に目を通されている。 たまに深い溜息を落とされる。 お部屋の片隅に立ち、お声が掛かるまでジッと立っている。


 なにか、お手伝いできることが有れば良いのだけれども……


 殿下の手に有る資料は、全て黄色の紙に書かれている。 遠目にも判る通り、全て極秘扱いの資料。 いかな上級王宮女官とはいえ、極秘扱いの資料には携わる事が出来ない。 この離宮で唯一携われる資格を持つ人は、ヒエロス様以外には居ない。


 これは多分、その情報を知る者を局限化する為の処置。 もし、私が知り、私が敵性人物に拉致された場合、相手はどんな手を使っても情報を引き出すに決まっている。 「離宮」の上級王宮女官と云うだけで、相当に危ないと、ヒエロス様には告げられている。 


 ヒエロス様は云うの。 



「これ以上、君達に危険な道を歩んでは貰いたくない。 ただでさえ標的に成っている可能性は高いのだから。 それに、此れは殿下の御意思でもある。 今以上の負担を王宮女官を始め、女性にはさせるべきでは無いと、そう仰られている。 特に、サリー。 君の事だ。 常に殿下に付き従い、長時間の勤務も忌避せず引き受ける。 サリー、君は先月何日休みを取った?」


「えっ…… えっと……」


「半休を含め、僅かに二日だ。 宿直(とのい)に至っては、既定の日数を遥かに超えている。 殿下よりのお言葉だ。 休め。 いざと云う時に一番頼りになる御側勤めを簡単に消耗させる訳にはいかないとの思召しだ」


「あ、有難く存じますが…… わたくしは、業務を遂行している方が気が楽なのです」


「だから、其処を注意されているのだ。 息を抜け。 張り詰めるばかりでは、本当に消耗してしまうぞ」


「はい……」



 頷いてはいるけれども、納得はしていない。 殿下が御休みに成られないのならば、私に休むなんて選択肢はないわ。 何時御呼びになられるか…… その時に万全を持って、御要求に応えられるのか。 それだけが、私の中で一杯なんですもの。


 ヒエロス様が深い溜息を吐かれる。 ポンポンと頭を叩かれた。 



「いいから、自室に戻って、寝台に寝て眼を瞑れ。 お前は限界まで走らないと倒れない、ネメリア(魔鼠)か何かか? いいな、一旦、部屋に戻る様に」



 そう離宮執事長に申し付かってしまった。 もう、撤回はされないだろうな…… 仕方ない…… 自室に戻るしかない……


 後ろ髪を引かれる思いで、自室に戻る。 ヒエロス様の仰る通り、身体は疲れている。 制服を脱ぎ、薄絹に着替える。 ベッドに潜って、言われた通りに目を瞑る。 瞼の裏側に、今も尚、懸命に書類と格闘されている殿下のお姿が浮かび上がる。 


 もっと…… もっと、能力が有れば…… 


 臍を噛む様に、憔悴感が競り上がる。 眠れる時に眠らなければと思うのだけど…… 瞼の裏に浮かぶ殿下の姿を見ると、ぎゅっと心が締め付けられるのよ。 お役に立てなくて、本当に申し訳御座いません。


 悶々としているうちに、いつの間にか眠ってしまった。


 時間も相当経っている。 自室に戻った時には、柔らかな陽の光が窓に差していたというのに、今は星空が見える。 しまったッ! と、ベッドから飛び起き、慌てて身繕いを済ませる。 殿下のお側御用担当としては、失格だッ!


 殿下は常に幾つかの魔法を纏われている。 それも強い強度の物を。 【魔法術式感応】魔法を最大領域で展開する。 幾つかの反応が帰って来るわ。 でも、その中でも最大の物を探す。 食堂? こんな時間に? 


 足早に食堂に向かう。 【認識阻害】魔法を纏い、強度を強くして食堂に入る。 そこには遅い晩餐を取られている殿下がおいでになった。 よかった…… 食後のお茶は、淹れる事が出来るわ。 食堂の中を眼だけで見わたすと、数名の侍女と女官が居られた。


 交代要員と云う事ね。 判った。


 一人の王宮女官の側により、遅参した事を謝罪する。



「ヒエロス様から、サリー様は本日はもう業務を上がられたと、そうお聞きしましたが?」


「いえ、それは…… 交代いたします。 本来の業務時間ですので」


「そう…… なのですか? 宜しいのですか?」


「はい。 大丈夫です」


「…………無理はしないで。 お気に入りの貴女が居なくては、殿下の御機嫌が悪くなるもの」


「えっ? ええ、まぁ……」



 同僚で先輩の上級王宮女官は、心配そうに私を見た後、ニコリと微笑んで交代して行った。 ”頑張りなさい” って、そう呟かれてから。 そ、そうか…… 殿下…… 気に入って下さっているのかぁ…… 嬉しいと云う気持ちがせり上がり、ちょっとだけ頬に熱を持った。


 一人きりで晩餐を取られている殿下。 その場所に、外から食堂に入ってこられたヒエロス様が言葉を掛けられたの。 なんでも、今日「決闘」をされた方々の家の家長様方が丁重に礼を述べられたいと、お願いされたらしい。  ” それは、それは、丁重に ” と、珍しく感情を顕わにしてヒエロス様がそう仰られた。 不思議そうな御顔をされた殿下。  殿下の表情に浮かぶ疑問に答える様に、ヒエロス様は言葉を紡がれた。




「殿下の遣り様は少々荒っぽいモノではありましたが、有効でした。 双方の御当主様方から、改めて礼を述べる機会をお与え下さいますよう、お願いを申し受けました」


「それは、必要な事なのか? 戯れに、「決闘」を許可し、貴族間に要らぬ騒動を起こしたと、陛下に於かれては、大層の御怒りを戴いたのだが?」


「ええ、それは、そうなので御座いましょう。 しかし、互いに相手に対し暴言を吐き、家名を侮辱したと、双方が謝罪いたしました。 さらに、両家が定期的にこういった、武技、剣技の披露の場を設けると云う事に合意されたのです。 互いが良き好敵手であり、同じ王国の藩屏たる朋友として…… だ、そうです」


「なら、今回のバカ騒ぎも、無駄じゃ無かったか。 あぁ、面倒だった。 多少のガス抜きには成ったか」


「…………それ以上だと、思われますが?」


「ん? 何か言ったか?」


「いえ、なにも。 それで、各御当主様方へのお返事は如何いたしましょうか?」


「必要無い。 王家の…… いや、国の御盾として、研鑽に励めと、伝えてくれ」


「御意」



 晩餐を終えられた殿下に、食後のお茶を提供する。 一口すすり、満足そうに微笑まれる。 その御顔を見て、何故だかホッとする。 壁際に下がり、待機する。 そんな私に殿下はお声を掛けて下さったの。



「サリー。 私も今日は早くに眠る。 君も早々に自室に戻り休む様に。 宿直(とのい)は、誰か他の者にさせるから。 目の下に隈が出来ている。 その隈が取れるまで、休養だな」



 そう云われると、眩しい笑顔を向けて下さった。 思わず頭を下げる。 そう、まともに見れなかったから。 満足そうに笑われると、食堂を出て行かれた。 


 案の定…… ヒエロス様にはお叱りを受けた。



  § ―――― § ―――― §



 私の知らない処で、殿下が離宮女官長様に、要請された事があったの。 御側仕えの女官以外の【認識阻害】を得手とする人員を以て、礼法院で学ぶ者達が何を噂しあっているのかを拾えとの御命令だった。 殿下の御側勤めの女官は既に何度か礼法院に登院している為、そのほかの人員を以て、収集に当たる事とそう命じられたらしい。


 離宮女官長様から、殿下に離宮の中でも【認識阻害】の魔法の強度を強く発現出来る私も参加させるべきだと、上申された様なのだけれど、それはヒエロス離宮侍従長様が止められたと、お聞きした。 離宮女官長としては、現場での指揮者に私をと思われたらしいのだけど、余りにも私の顔が礼法院側に知られている為、私の身にある程度以上(・・・・・・)の危険が予測されると却下されたと、お聞きした。


 実際に「離宮」に仕える者達は、外部からの接触を受けている。 もし、王宮の女官や侍女ならば、容易くはないだろうが篭絡されるであろう。 そんな悪質な手口が見受けられた。 離宮執事長様は、殿下の指示で離宮に勤める全員の関係者を保護している。 そんな事が出来るのは、やはりヒエロス様が「王家の影」の中でも、特に影響力を持つ方だからだと思う。


 日々の業務については、いつも通り。 そして、噂話の収集に努める女官達からの報告も入って来た。 離宮女官長から、その情報の取り纏めを指示され、それを殿下に報告するようにと、命じられた。 殿下への誹謗中傷はいつもの事だったが、それよりも、気に成る噂話が広く出回っている。



”第一王子の御婚約者が、男爵令嬢に嫌がらせをしている ”

”第一王子に冷たく当たられ、嫉妬に狂っている”

”男爵令嬢の持ち物が何者かに奪われたり壊されたりしている。 どうも犯人は……”

”男爵令嬢が、街で何者かに傷つけらそうになった。 同道していた準伯爵家の四男が辛くも撃退された”

”暴漢を取り調べた衛兵からの情報で、その暴漢を雇ったのが第一王子の御婚約者たる侯爵令嬢だった” 


 

 事実のみを羅列した報告書を殿下に提出する。 その御顔に疑念の表情が浮かぶ。 そうだろうなと、私も思う。 こんな噂話が、礼法院内で囁かれている理由が判らない。 もし、王宮でこんな噂を流そうものならば、たちどころに王宮衛士がその根源を見つけ出し、厳しい叱責なり処罰を与える筈。


 王宮内、特に後宮に於いて、殿下の御婚約者様が殿下を嫌っている事は広く知れ渡っている。 無様な第一王子が火遊びをしたところで、御婚約者様は冷たく見られるだけだと、誰もが知っている。 その噂の根拠が判らない。 侯爵令嬢様がそうする事によって、何を得るのかも判らない。 第一王子妃、そして、王太子妃、さらには、王妃となるべく、厳しい教育を受けて居られる侯爵令嬢様にそんな時間が有るとも思えない。


 よって、この噂には裏側が有るのだろうと判断できる。 それが何かは、私には調べる術はない。 しかし、殿下は何か予測をたてられたようだった。 幾つかの疑問は残るけれども、おおむね間違いはないだろう他人の思惑。 久しぶりに見た、殿下の黒々とした笑みに、背筋に冷たいモノが流れ落ちた。


 何日か後、殿下の執務室に於いて、殿下より一つの命令が下ったの。 それは、私にも予測が出来なかったモノであり、驚きに声が出なかった。



「あ”~ サリー。 済まないがドレスを一着用意してくれ」


「ドレスに…… 御座いますか? 大舞踏会に際し、御婚約者様に贈られるのでしょうか? 先日、装飾品一式を贈られたばかりでは?」


「あぁ、あれね。 アレは、突き返されたよ。 今はヒエロスに保管してもらっている」


「えっ? そ、それで此度はドレスなのでしょうか? 短期間に侯爵令嬢様へのオーダーメイドと成ると、金銭の問題では無いのですが?」


「いや、そっちじゃない。 ちょっと頼まれてな。 側近達と共にいる男爵令嬢への贈り物だ。 ただし、ちょっとした意趣を込める」


「はい? 少々混乱しております。 お許しください。 今、なんと?」


「あぁ…… まぁ、そうなるな。 何も寵愛の徴とか云う、馬鹿げたモノじゃない。 どうも、魔法を良く使う輩らしいから、それの対策なのだ。 男爵令嬢のサイズは既に手に入れてある。 まぁ、おせっかいな奴らが、恥も外聞も無く私に知らせたのが真実だがな」


「はしたない……」


「なっ、サリーもそう思うだろ? 私だって、最初に聞いた時には、驚きで声が出なかったよ。 そこでな、ちょっとした仕掛けを施す事にした。 大掛かりな極秘作戦が始まっている。 その助けにも成るからな。 条件は…… 色は青。 私の色と変えてくれ。 青と云う色味であればよい。 私からと云う事であるけれど、予算の関係上最低限、王家の体面が保たれる程度の生地で。 もう一つは、流行りのドレススタイルで有る事。 目をデザインに向けるためだから出来るだけ派手に。 そして、此れは必須なのだが、リボンや腹帯に鋼線…… 魔力を良く流せる銀線でも良いので縫込んで置く事。」


「…………【捕縛魔法】を使用されるのですか?」


「まぁ、そうなるかも知れないからな。 念の為だよ、サリー。 念の為。 使わなかったらそれでもいいんだ。 済まないね。 時間も押している事だし、早速取り掛かってくれ」


「承知いたしました」



 衣装部の人達と、殿下の下知された条件を元にドレスの制作に取り掛かる。 寸法表は殿下自ら渡して下さった。 特に問題がある部分も無い。 しかし、こんな寸法表…… よく殿下に御渡しされたわ。 全くもって不快な事。 


 衣装部の方々と打ち合わせを繰り返し、選定した色と、デザインでの縫製に掛かる。 王家の体面を保つための最低限の仕様では有るのだけど、それでも、腕の良いお針子の皆さんに掛かると…… トルソーに掛かる、そのドレスを見て、少しだけ…… ええ、少しだけ羨ましく思ったのは、内緒。 


 殿下より頂けるものならば…… なんて、不敬な事すら考えてしまう。 あまり、時間も無い事から、早々に箱に梱包し、通常の手順をもって、指定の男爵家に届く様に手配した。 ちょっとした意地悪なんだけど、大舞踏会直前に届く様にね。


 殿下にその旨をご報告したら、苦笑と共に、



「良くやった。 フフフ…… ハハハ…… アハハハ! うん、良くやった。 サリー、 満点だよ」



 と、驚くほどご機嫌に成られた。 私の小さな嫉妬心を敏感に感じられ、叱責されると思っていたのだけど…… 反対に殿下のご機嫌な姿に、驚きと畏れを感じてしまった。


 宿直(とのい)の当番で在った日。 もうすぐ大舞踏会だと云うのに、夜遅くまで執務室に籠られている殿下の元に、お忍びで宰相閣下が尋ねてこられた。 此れが初めてでも無い。 あくまでも私的なお忍びと、そう申し付かっていた。 宰相閣下は、王宮女官庁の上級組織である、宮内省の長官も兼任されておられる。


 宰相閣下の命に否を唱えられる、王宮に出仕する者は居ない。 恭しく首を下げ、お出迎えした後、殿下の元に案内する。 本来ならば、侍従や執事がその役目を負うのだが、お忍びでの来訪と云う事で、私がその任に当たる事に成った。


 執務室にご案内し、先触れを口にする。 部屋の中から、待っていたかのように、入室許可が出る。 扉を開ける。 宰相閣下は何事も無いようにお進みに成られ、私は扉を閉めた後、簡易的に施錠をする。 お忍びの際にお話しされる事は、ごく当たり前の事ではあるけれど、極秘となるから。

 

 簡易施錠は、このお部屋に仕込まれている、防御目的の魔法の起動鍵に直結している。 一旦、施錠すれば、外から盗聴する事はおろか、魔法攻撃にも騎馬吶喊にも耐えうる防御力を発揮する。 防御的な魔法陣群が一斉に発動したことを確かめた後、お茶の準備に向かう。 茶葉は夜と云うも事あり、鎮静効果の高いハーブティーを選択した。


 カップをサーブし、何時もの位置に下がる。 会話の内容を漏れ聞く様に、耳を澄ます。 殿下に対する御譴責という訳ではないわ。 酷く重要な御打ち合わせ…… 


 かなり大掛かりな事が進んでいるのが、理解出来た。


 最近ヒエロス様の表情が硬いのも、侍従様方の姿が時折減るのも…… きっと、なにか大きな事が起こる前触れなのね。 「離宮」の皆も、心を引き締める。 せめて、殿下にだけはこの「離宮」で心安らかにお過ごし頂きたいと…… それは、私だけでなく、この離宮に勤める者、全ての総意でもあった。


 ―――――


 そして、礼法院大舞踏会当日。


 本日をもって、殿下も礼法院をご卒業になられる。


 早朝から殿下は礼法院からの知らせを受けた。 なにやら、様々な事柄に不具合が出ているとの事。 準備を怠らぬ様に、何時でも殿下の用意が出来る様にと、努力を重ねて居た為、そんな早朝でもお出ましの用意は滞る事無く始まる。


 宿直(とのい)は、私の当直だった。 ちょっと嬉しかった。 本来ならば、朝の当直の女官が殿下の準備をするはずだったのだが、まだ交代時間には至っていない。 礼法院の正装は、完璧に仕上がっている。 着衣のお手伝い。


 そっと肩に手を載せ、最終確認を終わる。



「サリー有難う。 ……まぁ、後で判る事なんだが…… 今まで本当に有難う。 君達の…… サリーの献身は、身に染みて判っている。 サリーの未来に光あらん事を」


「何を仰っておいでになるのですか? 万全を期するのはわたくし達に課せられた、神聖な業務ですわ。 そんな事を仰るなんて…… 何か、不穏な事でも有るのでしょうか?」


「上手く行けば、いいんだ。 ただ、失敗すれば…… だから、今、感謝を述べて置く。 いつも旨い茶を淹れてくれたな。 サリーの母譲りなんだね。 最近、思い出したよ。 まったく、俺は、いつもこうだ。 済まない。 そして、有難う。 時間だ」


「???? はい。 お気を付けて」



 爽やかで、心に沁み渡る様な微笑みを一つ、私に下さった。 踵を返し、片腕上げ左右に振られる。 そんな手サイン、見た事が無い。 何を意味するのか、暫し…… 思案してしまった。 その間に殿下は、「離宮」をお離れになり……


         殿下は 決戦の地に赴かれた



 § ―――――― § ―――――― §



 「離宮」に衝撃が走る。 殿下はコレを画策されていたのかと、そう納得した。 でも、全く納得できない事があった。 舞踏会で、殿下が宣下された御言葉は、この「離宮」の者達の心を強く強く揺さぶった。


” 王位継承権を返納し、王族籍を自ら陛下に、お返しいたす所存である ”


 つまり、殿下は自ら市井に下ると宣言したのも同様。 外国の公子、外務官様方が居られる、そんな重要な場所で、その様に宣下されてしまったら……


 第二王子殿下に全てを託し、沙汰あるまで「離宮」にて蟄居すると。 舞踏会からのお早いお帰りと、衝撃的な事実に、「離宮」の使用人達もどうして良いのか判らずにいた。 殿下は自室に籠られ、内側から簡易施錠をしてしまわれた。


 お声がけしても、”暫く一人で居たい。 食事時には顔を出す 国王陛下が国に帰着して何らの裁定が下るまでは、ゆっくりさせて貰いたい” と、そう仰るばかり。 離宮女官長も、離宮侍従長のヒエロス様も困惑しきり。 各上位組織にお伺いを立てるべく、上位者はそれぞれの部署へ走り出した。


 各上位組織も、殿下の言葉に混乱が生じている。 国王陛下が国外に居られる今、その名代とされるのは、貴族家の代表である宰相閣下と、王家の第一王位継承権者たる王太子殿下。 両輪をもって、国王陛下と王妃殿下揃っての外遊時には、対応すると王国法に記載されている。 しかし、アルクレイド王子はまだ、第一王子であって、王太子殿下では無い。


 王族関係者の中の最高位であるというだけ。 つまりは緊急回避法として、宰相閣下と貴族院のみで、国政に当たる。 アルクレイド殿下が、第二王子であるオラルド殿下に全てをお渡しになり、ご自身は王族籍を返上されると宣言された。 王国政務を鑑みると、宰相閣下、及び 王国貴族院での決定事項に許諾を与えられる王族は、オラルド殿下しかいらっしゃらない…… となる。


 幸い、オラルド殿下は、アルクレイド殿下より、半年生まれが遅いだけで、同じ十七歳。 そして、”予備”として、長らく王太子教育も受け続けられていた事が、混乱を最小限に抑えられた。 オラルド殿下も、良く宰相閣下とご相談なされ、国王陛下と王妃殿下が王国へ御帰着に成るまで、擾乱されてしまった王国を良く護られた。


 流石は、オラルド殿下だと、貴族院の方々も殿下の統率力に一目を置く。 ……でも、私には、何かしらの違和感があったの。 ええ、とても強い違和感が。 半面アルクレイド殿下は、大多数の貴族の方から、責任を取った事だけは評価されているけれど、蔑みの眼を向けられている。


 国王陛下の裁定待ちとは云え、王宮女官庁も動かざるを得ない。


 「離宮」に勤めていた、比較的『事情』の少ない者から、引き抜かれて行った。 一旦、王宮女官庁に預かるとの事。 侍従職の方も多くが引き抜かれ、そして、執事職の方も。 驚いたのは、ヒエロス様が居なくなった事。 でも、ちょっとしてから、納得も出来た。


 もう、王族籍に無い者ならば、「王家の影」がお側に侍る必要も無いわ。 ちょっと…… 寂しく感じた。 いよいよ、「離宮」も人が少なくなる。 使っていない場所は、次々と封鎖されて、扉には封印が刻まれる。 国王陛下と王妃殿下が御帰国された後も、事態の混乱は続いていた。


 多くの貴族家が消滅し、その中にはかつての寄り親である侯爵家も含まれていた。 と云うより、首謀者の一人として、断罪され処刑された。 暗澹たる気持ちになる。 父は…… どうなったのだろうか。 ひっそりとでも良いの。 生きていてくれさえいれば……


 私もまた、王宮女官庁からの呼び出しを受けた。


 総王宮女官長様に、一つの提案をされた。 とても…… 受け入れ難い提案だった。



「サリー。 貴女の能力と献身はとても高く評価できます。 また、離宮女官長からも、高い評定を受けています。 ……「離宮」は、閉鎖されます。 ええ、今までの「不吉な離宮」は、もう必要ないと、そう決断が下されました。 しかし、建物を取り壊す事は有りません。 「離宮」を改築する事が決定しました。 今後、あの「離宮」は、「白銀宮(ラルジャンパレス)」と、呼ばれます。 王家の連枝の方で、王位継承権をお持ちの方がお住まいになる予定です」


「はい」


「聡い貴女になら、誰の事を云っているのか判りますね」


「王弟殿下の御子息…… に御座いましょうか」


「そうです。 現離宮女官長が、貴女を次の女官長にと…… 「白銀宮(ラルジャンパレス)」の女官長にと推薦しております。 どうですか、最年少で(パレス)の女官長に成るのです」


「…………思召しは有難いのですが、わたくしは…… わたくしは……」




 思うように声が出なかった。 殿下の居ない場所で、女官長など…… 勤められそうにも無い。 熱意が保てない。 まして、殿下の元御婚約者と、王弟殿下の御子息が入られる(パレス)になんて…… 心が激しく拒絶する。 辛うじて、言葉に出来たのは……



「わたくしでは、勤まりません。 わたくしが心よりお仕えしたい方は……」



 後は言葉に出来なかった。 総王宮女官長様は、苦く笑う。 私をジッと見詰め、問いかける様な視線を投掛けてこられる。 でも、言えない。 もう、殿下は殿下の御立場を失うのだから。



「サリー。 内々ですが、貴女には知らせた方が良いでしょう。 アルクレイド殿下は、その身分を失い、王領シュバルツ=シュタット、湖畔のノイエ=シュタット城に置かれます。 まだ、仔細は詰められて居ませんが、その場所に送られる事だけは決定しました」


「はい」


「ノイエ=シュタット城は長く放置された城。 城代も居らず、領を管理する代官は別の場所に居ます。 さぞや薄汚れている事でしょう」


「総王宮女官長様?」



 総王宮女官長様は、執務机を離れられる。 立ち上がり、腰の後ろに手を組み、背中を向けられる。 暫しの間。 痛いほどの沈黙が、執務室の中を占める。 やがて、ポツリと御言葉を紡がれる。



「離宮女官長を含め、四名の上級女官が職を辞します。 とても有能な、そして、多くの事情を抱えた者達です。 ……残念な事にね。 職を辞し、王宮を出て、庶民として生きて行くと云うのです。 そして、行き先は王領シュバルツ=シュタットだと。 貴女には賢明な判断をして欲しい。 サンドラの娘が不幸になるのは、とても容認できるものでは無いわ。 時間を取ります。 良く御考えなさい。 退出を許可します」


「はい……」



 つまり、先輩方はついて行かれるの? そうなの? ならば、私も殿下の御側に居られる? 当初私は…… 生きて行く為に王宮に来た。 でも、今、私には生きて行く『目的』ができた。 どんな状況でも…… どんな事があっても……


 あの方の御側に仕えると云う、目的が……


 静かに(こうべ)を下げ、総王宮女官長様の執務室を出る。


 

  ―――― そして、私の心は決まった。



 殿下の処遇が決まったらしい。 殿下に対してのお呼出しが、王宮よりの使者によってもたらされた。 時は二日後。 未だ、殿下は怠惰に過ごされている。 過重な重圧が有ったに違いないわ。 あれほど消耗されていた殿下を見た事が無かったのだもの。 でも、王宮 謁見の間へのお呼出しがあった。その事は伝えなくてはならない。


 殿下の寝室に出向き、その旨を伝えようとしたの。 殿下はベッドの上で、寝転がり足を組み、頭の後ろに手を組んで、ぼんやりとベッド上の天井を見ていらした。 



「殿下。 怠惰が過ぎます。 起きて下さい」


「あぁ…… なんか、怠いんだ…… もうちょっと…… いいだろ?」


「よくありません! 明日には、国王陛下との謁見が有るのです。 シャキッとしてください。 お願いですからぁ……」


「う~ん、サリーのお願いだったら、仕方ないか。 明日は、礼法院の制服でいいよね」


「ダメです! きちんと礼装を着用してください!」


「だって、もう、第一王子じゃないんだよ? それに王籍も返納するって皆の前で言い切ったし」


「ダメです! まだ、陛下より宣下されていません! …………宣下されるまでは、 …………アルクレイド王子は……  王子は……  まだ、私達の…… 第一王子なんですもの……」



 泣けてきた。 こんなにも疲れ切った殿下。 どうしても、どうしても、声が震える。 苦笑しながらも、私を見る殿下の優しい眼差しが、私の胸の痛みを大きくする。 どうにかして…… いいえ、何としても、殿下の御側に侍りたい。 私の生きて行く『目的』なの。 ええ、見つけたのよ。 私の心の在処を。



§ ―――― §



 最後の…… 第一王子として、最後のご用意。 殿下が着用しているのは、第一種正装。 白の詰襟と金色の糸で組まれたモール付きの上着。 真っ白のスラックス。 足の横に第一王子の証である、青のラインが入ったモノ。 いつもと違うのは、サッシュを着用していない事。 抜けるような青のサッシュは、銀盆にのせ、ワゴンに積んだ。


 第一王子の徽章も、下賜された宝飾品も、第一王子を証すべき物は全て銀盆にのせた上で、ワゴンに積んだ。 殿下はそう指示された。 だから…… それに従った。 もう成す術はない。 だから…… だから…… 殿下の御言葉に従った。


 最後まで、殿下の傍に付いたのは、王宮女官五名と侍従三名。 王宮謁見の間に向かう随行員だった。 「離宮」を出立してしまえば、この場所は殿下の御住まいになる場所では無くなる。 私達が出ると直ぐに、殿下の御荷物は纏められ、殿下の馬車に積み込まれる。


 その事を知っている、離宮の皆さん。 その皆さんが玄関ホールに集まっていた。 最後のお目見えをする為に。 心より敬愛する殿下に御別れを告げる為に。 離宮警備隊長が代表して、殿下に言葉を紡がれる。



「殿下、この宮を離れられるとの事。 長らくお疲れさまでした。 ここに居並ぶ者達は、皆殿下の本質をよく理解しております。 最後の日まで、我ら一同誠意を尽くし、この宮を護る事を誓います。 思えば、離宮は異常な場所に御座いました。 常に監視の目が付きまとい、殿下に於かれましては、多くの不自由を強いてまいりました事、お許しください。 しかし、わたくし共は殿下の御心の《在りか》を感じておりました。 我々の安全をも王宮に進言された事、この離宮独自の安全策を模索された事、有難く感謝しております。 その殿下が、王族籍を離れると…… 離宮を離れると…… そう、仰いました。 第一王子の責務を全うできなかったと、そう申されました。 しかし! しかし、我らはそうは思いません。 殿下の思し召しにより、この離宮は纏まりを持ち、安寧に御座いました。 この離宮は殿下の王籍離脱を以て閉鎖される事と相成りました。 万感の思いを込め、殿下に奏上いたします。 殿下…… アルクレイド殿下…… 有難うございました。 殿下の行く先に光あらんことを」


「そうか。 皆は、この宮で勤める事に誇りを持ってくれていたのか…… そうか…… ならば、良い。 己が責務を全うし続ける事を、わたしは期待する。 そして、これからも、研鑽を積むことを希望する。 皆の者、今までこの宮を維持し続けてくれた事に感謝する。 皆の行く末に光あらんことを」



 殿下は…… アルクレイド殿下は…… 玄関の扉の前で振り返り胸に手を挙げ、皆に対し敬礼を送られている。


 皆の、すすり泣く声が聞こえる。 私もそのすすり泣きをする方々に目を向ける。 清掃担当の侍女、 頭を下げ震えて、クラウン帽を握りしめているのは厨房長、見事な答礼をしつつ、両の眼から滂沱の涙を拭おうともしないのは、離宮警備隊長。 皆さんが、別れを…… 別れを惜しんでらっしゃる。



 殿下は、そんな皆を見詰め…… 敬礼を解き、踵を返し、扉を抜ける。 その後に続く私達随行員。 「離宮」から出ると、眩い光を視界を覆う。 蒼い蒼穹が…… 光溢れる離宮の庭が…… まるで旅立ちを祝うが如く……  


      ――――

  


「殿下、国王陛下、王妃殿下が玉座にお座りです。 その傍には宰相閣下。 反対側には王弟殿下。 更に、内務卿、軍務卿、外務卿、法務卿、財務卿の重臣の方々が、謁見の間に御集りに成っておられます」


「仰々しい事だな。 それも又…… 王族の責務か」



 呟かれるアルクレイド殿下。 でもご機嫌は悪くないわ。 清々しい表情でそう応えられた。


 謁見の間に続く小部屋に入って、扉の傍らに居る侍従と女官に目配せをする。 王宮侍従長と、王宮総女官長が、音も無く近寄る。 式部局の者と一緒に。 



「総侍従長、総女官長。 私の徽章の一切はこのワゴンにある。 目録を添えておいた。 受け取ってくれ。 式部局に於いて、保管されることになるだろうから、手落ちが在ってはならない。 別室に於いて精査される事、推奨する」


「御意に」


「サリー、総女官長殿と同道し精査の確認の補助を」


「いえ、アルクレイド殿下、それには及びません。 殿下付きの上級王宮女官は全て謁見の間に入ります」


「ん? 総女官長、なにかあるのか?」


「ここで、予てより殿下の御傍を務めた女官を退席する訳には参りません」


「……そうか。 陛下に問い質したい事でもあるのか。 まぁ、そう云う事ならば良きに計らえ」


「御意に」



 礼を交わし、その小部屋を抜ける。 いよいよ、謁見の間に入る事になる。 私は謁見の間の壁際に。 王宮女官の正式な立ち位置に。 見ています、殿下。 貴方が王族である、最後の姿を。 この目で見、この耳で聞くのです。 最後まで…… ええ、最後まで。



「お呼び出しにより、臣アルクレイド、罷り越しました」


「ふむ。 直言許可を与える。 近くに」


「はっ」


 

 国王陛下が殿下に問いかけられる。 数々の事柄が表に表される。 陛下の問い掛けは、まさしく殿下の行った事。 でも…… この場に参集した、高位の貴族の方々の殆どが御存じなかった。 陛下が一つ問いかけられる度に、静かな驚愕が広がる。 それを丁寧に丁寧に一つ、また一つと否定される殿下。


 名誉は他の者に。 悪名は御自身の物に。 


 そして、最後に紡がれる陛下の言葉と、それをも否定される殿下。



「短慮な……」


「熟考した故の言葉に御座います」



 陛下や宰相様がどう云おうと、最早、殿下の処遇…… 市井に降りられると云う事は、覆らない。 その道しか、殿下は望まれなかった。 高位の方々も、陛下と殿下の遣り取りで、その事は理解された様だった。 擾乱を抑えたのは、殿下の智謀。 実際に動かれたのが宰相閣下だった事を、皆様方は理解された……


 渦巻く、不穏な空気。 殿下を見詰める皆様の眼の色が変わっている。


 でも…… もう、遅い。 何もかも、遅いのよ。



「アルクレイド。 まずは立て」



 殿下は陛下の言葉通り、立ち上がる。 国王陛下と王妃殿下が『玉座』から立ち上がられた。 背後に控えていた式部官が白地に金糸で王国の紋章が綴られたマントと宝冠、それと、剣を捧げて持たれた。 王国法には、第一王子を直ぐに廃嫡する規定や条文は無い。 


 国法では、どんな愚かな行動をとった第一王子も、全てはそう成さしめた周囲の教師、側仕え、側近の者達の責任であり、王子には責が無いとされる。 王家の権威を護る為にそれだけは許してはいない。 でも…… 愚か者には王位は渡せない。 だから…… こんな茶番をするのよッ!



「第一王子を、いきなり廃嫡には出来ない。 国法をもって、お前の身を処す場合、どうしても行わなければならぬ事がある」


「はい」


「これを」



 差し出されるのは、王太子の証である、マント。 胸の前の飾り紐が止められ、頭に宝冠が乗せられる。 凛々しい御姿。 離宮の者達が、今では夢に見る程に切望した御姿。 私だってその例外では無いわ。 



「跪け。 頭を垂れよ」


「…………」



 王妃殿下がアルクレイド殿下の前に進まれる。 そして、国王陛下より剣を受け取り、鞘から抜く。 キラリと刀身が眩く、謁見の間の魔法灯火に反射していた。 高貴で真摯な表情の王妃殿下が、殿下の前に立ち、御手にされている『宝剣』の峰を殿下の肩に当てる。



「この国にその身を捧げ、以て王国の安寧に尽くすか」



 ―――― それは、まさしく「立太子の義」に於ける、王妃殿下の宣誓。



「この身、果てるまで、王国に尽くします」


「王国の民を率い、この国に害するものを排除し、王国の発展に寄与する事を誓うか」


「我が身にある、権能、権益、全ては民よりの預かりしモノ。 王国の未来を切り開き、もって、光溢るる国と成す事を誓い奉る」


「ここに、アルクレイド第一王子を、王太子として立太子したことを宣する」



 トントンと二度肩に宝剣の峰が打ち当てられる。 国王陛下の元に王妃殿下が戻り、宝剣を差し出す。 陛下はその宝剣を受け取り、鞘に収納する。 そして、陛下は宣下される。



「ここに、アルクレイドが王太子として立太子した。 皆、良いな」



 一斉に膝を付く謁見の間に居た重臣や、この国にとって重要な人々。 殿下はその陛下の御言葉を受け、陛下の御前に向かう。 陛下は、手に持った『宝剣』を差し出される。 殿下は恭しく、両手でその宝剣を受け取られ、腰にする。 その姿は、誠、この国の王太子殿下だったわ。 


 直後、陛下は苦し気に言葉を発した。



「アルクレイド王太子。 その剣を抜いて、差し出せ」


「…………」



 なんの気負いもなく、さもそれが当たり前だと云うように殿下は、国王陛下の御言葉通り『宝剣』を抜き、” 抜き身 ” を、陛下に両手で差し出す。 陛下は、差し出された剣を受け取ると、刀身と柄を握り、【身体強化魔法】で体を覆ったのち……


 ―――― 一気に刀身を折られた。



「アルクレイド王太子は、王太子の任にあらず。 よって、この者の身分を剥奪し、廃太子と成す。 余りにも多くの、王家、王国の秘事を受け継ぎし身なれば、その身を王領シュバルツ=シュタット、湖畔のノイエ=シュタット城に置く。

 王太子の誓いは、廃太子となりし後も有効である。 彼の地に於いて、王国と民の為に尽くせ。 爵位は無く、廃太子と称せ。 王領シュバルツ=シュタットは、これを公爵領と同等と成し、以後、廃太子アルクレイドの管轄下に置くこととする。

 尚、廃太子アルクレイドは我が国、王家の籍は抜かれるが、以後準王族として取り扱うこととする。 貴族籍もこの者には与えぬ。 お前を市井に放逐する事は、王家の秘事を市井に流すのと同義。 コレはこの国の王としては看過し得ない。 

 王領シュバルツ=シュタットは、公領シュバルツ=シュタットとなし、領を差配するは、廃太子アルクレイドとする。 準王族と成った廃太子は貴族に有らず。 よって、公領には、王国の法は適用せず。 周囲の王領には、常備軍を配置し、コレを監視する事とする。

 もう一つ。 アルクレイドの伴侶に関しては、王家、貴族院の了承を得ず望むがままとする。 貴族でも平民でも無い、廃太子アルクレイド…… 良く公領を治めよ。 良いな」


「はい、国王陛下。 ご温情誠にありがたく」


「最後まで…… 父とは、呼ばなんだな」


「畏れ多い事なれば」


「皆の者、良いか。 本日只今より、この者を廃太子アルクレイドと呼称する様に。 第一王子としての責務を放棄した、アルクレイドに対する罰である。 以上だ……」


 折れた『宝剣』を片手に持たれた陛下は、今にも泣き崩れそうな王妃殿下の肩を抱いて、奥の間に下がられる。 シンと静まり返った「謁見の間」 一つ、大きく息を漏らされ、殿下はその場で踵を返し、謁見の間を後にされた。



§ ―――― § ―――― §



 騒めく「謁見の間」 驚きを隠せない、高位の貴族の方々。 立ち竦む私に王宮侍女が近寄り、”総王宮女官長様がお呼びです”と、告げる。 私の選択を…… 気持ちをお伝えする時が来た。 お仕着せの懐に忍ばせた、一通の書状。 その重みを感じつつ、総王宮女官長様の執務室に足早に向かう。


 執務室で、総王宮女官長様は、執務机の向こう側に立って待ってらした。 伺候した私に、背を向けたまま、総王宮女官長様は問いかけられる。



「気持ちは定まりましたか?」


「はい。 コレを……」



 そう口にして、懐から出すのは、私の綴った「退職願」の書状。 私の決心。 そっと執務机の上に置く。 チラリとその書状を見られ、大きく溜息を漏らされる総王宮女官長様。 突然、聞き覚えのある男の人の声が、執務室に響く。



「言ったでしょう、総女官長。 サリーは出て行くって。 出て行って、何が何でもアルクレイド殿下の元に向かうって」


「…………貴方がそうで有るように? 「王家の影」の方では大層な騒動になったと聞き及びますわ」


「抜けるのが、私を含め五人もいるのですから、そうなりましょうね。 サリー、殿下は今夕出立される。 それまでに準備をしなさい。 総女官長は、その書状を受け取らざるを得ないんですから」


「ヒエロス殿ッ!」


「早くしないと、間に合いませんよ? 私は先に早馬で向かいます。 向こうでまたご一緒出来れば嬉しいですね。 あぁ、ちょっと立場が変わるかもしれませんが」



 忍び笑いをされるヒエロス様。 その御姿は強い強い【認識阻害】によって、見る事も感じる事も出来ないの。 やはり、ヒエロス様は超一級の王家の影だったのね。 その方が抜ける…… 確かに大変な事ね。


 私は、もう荷物はまとめてあるわ。 後は、出立する殿下を見送るだけ。 その後、そっと王宮を出るだけなのに。 それだけなのに、間に合わない? どういう意味かしら?



「離宮で貴女を待っている者達がいる。 万事、その者達に任せなさい。 君は、君の気持ちの儘、素直に殿下に同行を乞えばいい」


「で、でも……」


「いいですか? 離宮の者達は貴女の事を、見ているだけで手に取る様に判っているのです。 ちょっとばかり、意地悪な先輩もいらっしゃいますが、皆、応援しているのですよ。 判っていないのは、貴女だけですよ、サリー。 真摯に殿下を見詰める瞳。 殿下が心地よいように、先に先に気を回し、自身の時間をことごとく殿下に注ぎ込む。 その気持ちの根源に、貴女は気が付いていない。 ならば、その気持ちに”名”を、付けてあげましょう。 それは”愛”です。 殿下を愛しているのです。 それも、途轍もなく、深く。 貴女の全身全霊を持って……ね。 その気持ちを素直に出して、殿下に同行を乞いなさい。 あの朴念仁も、気が付くでしょう」


「…………」



 カッと熱くなる顔。 いたたまれない気持ち。 でも…… 認めなければ。 私は、殿下を愛してしまっていると。 



「…………親友の娘の幸せは、この王宮には無いのですか、仕方ないですね。 退出を許します。 早く、「離宮」にお戻り為さい」



 総王宮女官長様は背を向けたまま、そう仰られる。 深々と頭を下げ、今までの御恩情に感謝を捧げた。 どうか、総王宮女官長様の未来にも、光あらん事を。 そして、私は「離宮」にむけて、精一杯の速さで戻ったの。


   ―――――


 離宮で待ち受けて居たのは、「離宮」に残っていた皆さん。 いきなり、衣裳部屋に連れ込まれた。 衣装部の下女たちに手早く女官服を脱がされ、ドレスを着せられた。 殿下の御色である、深い青のドレス。 侍女達に髪を編み込まれ、化粧を施される。 


 あっという間だった。


 そして、残っていた執事の方が、宝飾品を入れるケースを差し出される。



「アレクサンドラ様の形見の品だそうです。 父君が総王宮女官長様に、サリー様が唯一を見つけられた時に渡して欲しいと、そう託された品です」



 差し出されたケースの蓋が開けられる。 お母様が ”婚姻式の時に付けたのよ”、と仰っていた、大粒の真珠の首飾りと、耳飾りが入っていた。 王宮侍女が恭しくそれを手に取り、私の首と耳に付けてくれる……


 離宮女官長と、先輩女官の方々が別の小箱を差し出されるの。



「髪飾りを貴女に。 サリー、貴女の本気を知りたかったの。 ごめんなさいね」



 そう云って、にこやかに笑うのは、離宮女官長。 差し出された小箱から出てきたのは、花をモチーフとした髪飾り。 小さな宝石がキラキラと魔法灯火に照らし出されている。



「あの方は、朴念仁(・・・)な所はありますが、王太子教育に於いて、花言葉も習得されている筈です。 王宮に於いて、仕草や作法と言ったモノだけでなく、その装いにも意味を持ちますから。 このモチーフで、いいでしょ? きっと、そうなのだと、私達で考えたのですけれど?」



 悪戯猫の様な御顔をされた。 「ベゴニア(愛の告白)」と「イキシア(誇り高く、秘めたる恋)」 真っ赤に成りながらも、頷くのは私。 心を告げるには、今しかない。 そう、この時しか、無いんだもの。



「有難うございます。 皆様のお気持ちが、痛いほど胸に去来します。 感謝申し上げます」


「いいのよ、そんなに改まらなくたって。 さぁ、行って。 時間も無いわ。 殿下が出立されてしまうわ」


「はい。 はいッ!!」



 急ぎ、玄関に向かう。 もう、殿下は出立の準備も終えられ、馬車の扉も開けられようとしていたわ。 急ぎ足で、殿下の元に向かう。



「殿下! アルクレイド殿下!」



 上気した私の呼びかけに、殿下が振り向かれる。 私を最初は認識されなかった。 じっと顔を見詰められていた。 ややあって、私がサリーだと、認識される。



「サリー‼ 見違えたよ。 見送りに来てくれたのかい?」


「いいえ、いいえッ! 違いますッ! 殿下に、お願いが御座います」


「願い? なんだろうか? もう、殿下と呼ばれる資格は無いし、サリーの願いを叶える権能も放棄してしまったのだけど?」


「わたくしにとっては大きな願いです。 ですが、殿下ならば叶える事が出来る願いに御座います。 どうか、どうか、わたくしの同道をお許しください」


「同道? 公領に追放される俺と一緒に行くと云うのかい? ん~~。 そんな場所に行っても、君は幸せになれないよ? そんなに美しいのだし、良き出会いも……」


「願いを…… 願いを…… 心は決めて参りました。 どんな場所でも、何が有っても、殿下の御側に……」



 必死に言い募る私。 そんな私をジッと見詰める殿下。 その視線は、足元から、頭の先まで。 困惑の表情が御顔に浮かび上がるの。 ご迷惑…… なのかしら? やはり、思いは……



「君の装い…… それは、君の意思なのか?」


「はい」


「そうか…… そうなのか。  …………また、俺はやらかす処だったんだ。 髪飾りは、君の想いか?」


「はいッ!」


「一つ、聞くよ」


「何なりと」


「俺は庶民でも無く、王族でも無く、貴族でも無い。 厄介な場所を押し付けられた、王家の飼い殺しだぞ? それでも、俺と共に歩むというのか?」


「真に敬愛する方が、何者であろうと、わたくしは付いて行きます。 私の生きる「理由」と成りました。 家名を奪われ、生きる望みも失われた時に見出した、私が私として決めた、私の生きる「理由」なのです」


「なかなかに…… 重い理由だな。 これは、全力を以て応えねばならぬな。 判った。 同道を許そう。 この先、何が有ろうと、側を離れぬと誓えるならば……な」


「はいッ! 決して、決して、御側を離れません!」


「では、行こうか。 我らの行く先に、『光』紡がん…… だな」



 困惑の表情が溶け崩れ、柔らかい素敵な笑顔が浮かび上がる。 そっと、手を差し出され、その手に私は手を載せる。 暖かい…… とても、暖かい手だった。 殿下の最後の一言に、全身が熱く燃え上がりそうになる。


 ” 我らの行く先に、『光』紡がん ”


 婚姻式の最後に神に捧げる言葉。 神の御前にて『愛』を交歓する、宣誓の言葉。 繋いだ手に、殿下は口づけを一つ落とす。 そして、手を引かれ、馬車に乗せられる。


 素敵な笑顔を私に向ける殿下。


 深謀の為人で、民を、貴族を、王家の方々を、国を…… 慈しもうと努力される殿下。


 暗い感情も、激しい怒りも、哀しい表情すらも、何もかもが愛おしい…………





 ―――― そんな貴方は、廃太子。




 アルクレイド様、心よりお慕いしております。




                           fin.

長文読了、お疲れさまでした。 貴方の男気に感謝!

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― 新着の感想 ―
今騎士の本懐を最新話まで読み終わって、こちらを読み返しに来ました。 こちらのシリーズは結構前に出会ったのですが、定期的に読み返しに来ます。 3つともとても好きです。
連投失礼します、「騎士の本懐」のお方でしたか、道理で登場人物が揺るぎなく、お話も骨太で味わい深かったわけですね。どの作品も読み込ませていただいております、いつもありがとうございます。
一気に、3作読みました。 もっと読みたいです…
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