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のびして。かがんで。(年の差男女まとめ)

そして肴にされる

作者: 縞々杜々


 小さい頃のことなんて、ぼんやりとしか覚えていない。思い出そうとしても、よぎるのはアルバムに収められた大人の視点ばかりだ。

 バレリーナになるって言ったらしい。

 ケーキ屋になるって言ったらしい。

 ブルーホークになるって言ったらしい。

 叔父と結婚するって言ったらしい。

 懐かしいと、みんな度々口にするけれど、私は全く覚えていない。


 君も、今日を忘れるのかな。

 その小さな頭で、たくさんたくさん考えたこと、全部こぼれていってしまうのかな。

 その大きな目で、たくさんたくさん見つけたもの、全部見えなくなってしまうのかな。

 それを寂しいと思うから、大人は話したがるのかな。


 ***


 風が、冷たさをほほに吹きつけた。交差点に立っていた、10代半ばの少女が、コートの上から自身を抱き締めて体を縮める。なかなか青に変わってくれない信号をにらみながら、マフラーを鼻先まで引き上げる。片手に紙袋がなければ、手をすり合わせていたかもしれない。髪の合間からのぞいている耳が赤くなっている。

 信号に浮かぶシルエットがようやく歩き出したのを見て、少女も白と黒のしま模様へ躍り出た。この道路を越えれば、もう少しだ。

 かわいい顔を思い出して、足取りが軽くなる。


 少女の家と母の実家との距離は、電車で二駅。普段から頻繁に遊びに行っているが、毎年正月は親子三人で泊まりに行っている。祖父の人徳か、年始に客の多い家なので、正月の準備を母が手伝うためでもあった。

 クリスマス後、ツリーを片付けるついでに大掃除を仕上げ、終わり次第母子で実家に移る。父は仕事を終えて合流。というのが、毎年の恒例である。

 しかし、今年はちょっとしたアクシデントが起きた。転んだ拍子に祖母が腕を痛めてしまったのだ。幸い大事には至らなかったが、今年は祖母にご自愛いただこう、ということで少女、咲耶花(さやか)が実家の大掃除に参加することになった。

 先週の土日にも少し手伝って、高校が冬休みに入った今日、再び向かっている。


 母の実家は、祖父が営んでいる自転車屋と隣接していて、叔父もそこで働いている。パンク修理もメンテナンスも面倒を見てくれる、町の自転車屋さん。近所の中学生は、通学用の自転車をここで買う。

 最寄り駅から向かうと店の前を通る。あいさつがてら、咲耶花は中をのぞき込んだ。

 休暇か休憩か、祖父の姿はない。奥の展示の方に大学生くらいの男性がいて、その人を案内していた叔父が、咲耶花に気がついた。大きな手をひらっと振る。咲耶花も振り返した。

 道を曲がって、庭に入る。ジャリジャリ玉砂利を踏んで玄関へ。チャイムを鳴らすとすぐに叔母が出てきた。掃除の途中だったようで、いつも下ろしている髪を後ろでまとめている。


「サヤカちゃん、いらっしゃい。」

「お邪魔します叔母さん。これ、お父さんから。」

「いつものね。お義父さんが喜ぶわ。」


 紙袋を渡すと、さっそく祖父に見せに行くのか、にこにこしながら叔母が廊下の奥に向かった。咲耶花は手洗いうがいのため洗面所に寄ると、手を拭くのもそこそこに急いで叔母の背を追った。

 天気が良いからだろう、外の光がぼんやりと部屋を渡って、廊下に障子の影を落としている。その影を叔母が踏むか踏まないか、という瞬間、パシンっと強い音をたてて障子が開いた。障子を押さえる手だけでなく、足も肩幅に開いた大の字で立っていたのは、7歳になったばかりの少年だった。


「こら、ミツキ!」


 その姿を認めて、叔母が声を飛ばす。丸みのある幼い顔が上がって、大きなつり目がキッと叔母をにらんだ。その目が、後ろに咲耶花を見つけて見開かれる。

 咲耶花は、少年、魅月(みつき)へひらひらと手を振った。

 いつもの彼なら、ぱっと顔を輝かせて駆け寄って来てくれる。昨日もらったクリスマスプレゼントの報告もしてくれるだろう。いつもなら。

 彼は、きゅっと唇を引き結ぶと顔を伏せた。叔母を突き飛ばすようにして二人とすれ違い、逃げて行ってしまう。どたどたと乱暴に階段を上って行く音がここまで響く。


「え……。」


 咲耶花はぽかんとその小さな背を見送った。叔母も驚いたようで、目をぱちぱちと瞬かせている。はっと、我に返って部屋の中をのぞき込んだ。


「お義父さん、どうしたんですか? ミツキ、何かしました?」


 畳敷きの部屋の中、テレビの前で祖父があぐらをかいていた。座布団が一つテレビ台にぶつかって曲がっている。画面には、少し前にやっていた戦隊ヒーローが映っている。祖父がリモコンを取ると、合体ロボがポーズを取ったまま停止し、厳つい刑事が顔をしかめている絵に変わった。祖父はポリポリとほほをかいている。


「いやぁ、テレビ見ながら話してただけなんだが。急に怒りだしてなぁ。」

「おじいちゃん、また先の話しちゃったんじゃないの?」

「しとらん。これ、一度ミツキが見とったやつだぞ。」


 弁明してから咲耶花に気がつき、祖父がぱっと笑った。手招きする。


「おお、サヤカ。せっかく来たのに帰りおって。じじい不幸者め。」

「学校まだあったんだもん。仕方ないじゃん。」

「俺やミツキより学校が大事なのか。だからミツキが怒ったんだ。」

「ミツキは、今おじいちゃんが怒らせたんでしょ。」


 咲耶花は座布団を拾い上げた。孫その2にフラれた祖父を慰めるため、膨れながらも隣に座る。何かあったかいもの作ってきますね、と叔母が台所へ向かった。


 ***


 深見(ふかみ)咲耶花(さやか)は、母方の祖父母の初孫で、10年間一族の末っ子だった。

 母の弟である叔父は、物心ついた時からずっと咲耶花の”お兄ちゃん”だった。膝に乗せてもらう権利も、肩車してもらう権利も、自分だけのものだと思い込んでいた。

 だから、赤ちゃんのお父さんになってしまった時はとてもショックだった。しかも、初めて会ったイトコは、何だかよく分からない生き物だった。頭が小さくて、それよりもっと体が小さくて、赤くってシワシワしていた。

 赤ちゃんって、もっとふっくらしてるんじゃないの? これ本当に人間?

 困惑を通り過ぎておびえる咲耶花を置いて、大人達は魅月を囲んで笑っていた。


 次に会った時、魅月はもちもちふっくらに進化していた。「赤ちゃんだ……。」と当たり前のことをつぶやくと、ツボにはまったらしく、父が涙が出るほど笑っていた。

 ぷにぷにでかわいくなったけれど、それでも咲耶花は魅月が嫌いだった。叔父も叔母も、赤ちゃんのものになってしまった。大好きだった祖父母の家にいても、自分がみんなの端っこに除けられてしまったような心地がした。

 けれど、魅月が歩き始めると、そんな気持ちはどこかに行ってしまった。家族総出のお出掛けでは、咲耶花がいつも魅月の手を引いた。自分より高い体温に、一人っ子だった自分にも弟が出来たのだと、うれしくなった。


 咲耶花が魅月を構うほど、彼も咲耶花を好いてくれた。

 咲耶花が座っていると、自分で膝に乗り上げた。お煎餅をあげると、咲耶花自身の真似なのか、口に押し込もうとしてきた。

 言葉を覚えると、あれがイヤ、これがイヤと繰り返すようになった。服を選ぶのも、靴を履くのも、自分でやりたがるようになって、大人の手から逃げた。それでも、出掛ける時に咲耶花が手を差し出すと、ちゃんと握り返してくれた。


 ある二月の夜、叔母から電話がかかってきた。叔母はすぐに魅月と替わった。彼の第一声は「チョコ!」だった。行ったり来たりする話をまとめると、咲耶花は魅月にチョコレートを渡さないといけないのだ、ということだった。幼稚園でバレンタインデーの存在を知り、いてもたってもいられなくなったらしい。


 中学卒業と同時に、咲耶花の友人に彼氏が出来た。話題の半分くらいが彼氏のことになったうえに、遊ぶ頻度が減った。単純な寂しさと、置いてけぼりにされたような悔しさがあった。居間の畳に懐いてぐだぐだ愚痴っていると、小さな手が頭をなでてくれた。「オレがずっと、あそんでやる。」と男らしい宣言を頂いたので、公園に繰り出した。


 魅月は牛乳が苦手だった。ある週末、夕食をごちそうになった後、咲耶花が魅月とくつろいでいると、テレビで歌番組が始まった。デビューしたばかりのアイドルがバク転を披露している。咲耶花はその迫力に驚いた。「あの人、脚が長くてかっこいいね。」次の日から、魅月は頑張って牛乳を飲むようになっていた。


 そんな素直でかわいい魅月が。魅月が自分を無視して逃げて行った。


 先程は、いったい何事かという衝撃の方が強かった。改めて思い返すと、急に心にダメージが入った。

 手に力が入らなくなって、握っていた新聞紙が、ずりぃーっと窓ガラスを滑った。いやいや、と頭を振り、力を込めて窓を磨く。

 大丈夫。祖父とケンカして虫の居所が悪かっただけだ。自分だって小学生の頃は、友達とケンカをすると両親の前でもぶすくれていた。

 だから、クールタイムを挟めば、魅月はいつも通りのはずだ。今は任務を完遂するのだ。


 ***


 途中におやつ休憩を挟みながらも、家中の窓をピカピカに磨き上げ、夜。ツヤツヤほかほかの白いご飯と、醤油の匂い香ばしい生姜焼きを囲んだ夕食。

 魅月は、いつも通り咲耶花の隣に座った。しかし、つーんとした態度で誰とも目を合わせない。ご飯と豚肉、千切りキャベツを黙々と口に詰め込んでいる。

 おやつをもらったハムスターのようだ。


「ごそさま!」


 彼は自分の皿を空にすると巣穴、ではなく自室のある二階へと帰ってしまった。叔父がため息をつく。


「サヤカぁ、お前今度は何言ったの?」

「私っ!? 私じゃないよ、おじいちゃんだよ!」


 叔母や祖母の話を聞くに、午前中の魅月は実に良い子で、クリスマスツリーの片付けを手伝ったという。それが祖父とのビデオ鑑賞を飛び出してからこの態度なのだから、真っ先に咲耶花に理由を求めるのはおかしい。

 叔父の目が、ぽりぽりとピーナッツを食べている祖父に向く。


「親父、何言ったんだよ?」

「普通に話してただけだ。ほら、一緒に何とかファイブを見とったら、記念回だか何とかで、昔サヤカが好きだったのが映ったんだ。」

「ちょっと。」


 嫌な予感に、咲耶花は思わず声をあげた。もちろん、ここで遮ったって祖父が昼間こぼした言葉を回収することは出来ない。


「懐かしかったんでな、サヤカがこの青いのが好きだったって話しただけだ。」

「そ、それだけ?」


 それなら特に問題はない。ほっと胸をなで下ろす。


「ああ。いっつも、咲耶花が青いタオルを首に巻いて遊んでたって。」

「ぐぅ……っ!」

「あら、懐かしいわねぇ。」


 咲耶花がうなる横で、祖母がのほほんと笑みを浮かべる。叔母が続いた。


「ブルーホークね。私はホワイトピジョンやらされたわねー。」

「遊ぶ度に、咲耶花にタオルケット巻かれてたわねぇ。」

「そうなんですよ。でもあれ、すぐ外れちゃうし動きにくかったんで、私、ここにお邪魔する時はカバンに白いポンチョ入れるようになりました。」

「ああ。そういえば、いつの間にか。」

「実家に置いて来ちゃったんですよね。まだあるかしら。」

「今やってるののピンクの子も、似たような服着てるねぇ。」

「サヤカちゃん、着る?」

「着ません。」


 話題がぐりっと返ってきたので、咲耶花は直ぐさま首を横に振った。顔を隠すようにうつむく。まだ両親がいなくて良かったと思う。あの二人も加われば、大人達は延々と咲耶花の歴史を語っただろう。


 覚えていることを語られるのは気分が悪い。自分は何でそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、恥ずかしく思ったりする。

 覚えていないことを語られるのは居心地が悪い。自分は本当にそんな馬鹿なことをしたのだろうかと、疑わしく思ったりする。

 アルバムにたくさん残った写真と、叔父と叔母が大好きだった自分の気持ちから、逃れようのない事実なのだろうと観念している。魅月の目に入る前に、あれらの写真をどこか奥深くに封印するのが咲耶花の目下の野望である。


 撃沈しながら咲耶花が決意を強くしていると、叔父が再び口を開いた。


「したのはその話だけ? サヤカの話だけ?」

「その頃の話を他にもした気がするが、まあ、サヤカの話だったな。」


 祖父がうなずくと、叔父が顔をしかめた。次の黒歴史が掘り返される前にこの場を去ろうと、咲耶花は小鉢のほうれん草をせっせっと口に運んでいた。叔父の顔を見て、首をかしげる。叔父の目がこちらに向いた。


「やっぱ、サヤカが何か言った?」

「言ってないよ。こっち来てすぐあれだったもん。」


 最後の一口を飲み込む。咲耶花はお茶のグラスも空にすると、自分の食器と魅月が残した食器を重ねた。グッと足に力を入れて、イスを押しながら立ち上がる。


「まじかー。じゃあ別件か?」

「何かあったの?」


 叔父ががしがしと頭をかく。祖母のグラスにお茶を注いでいた叔母が、叔父の顔を伺う。その後ろを回って、咲耶花はシンクへ皿を運んだ。


「さっき、店の前をミツキが通ってなぁ。……大嫌いって言われた。」

「え。何を?」


 声に出した叔母だけでなく、咲耶花も祖父母も不思議そうに叔父を見やった。固いピーナッツをかんだように、叔父は顔をゆがめていた。


「俺を。」

「えぇっ!?」

「それは悲しいわねぇ。」


 声をあげたのは咲耶花だ。持ったままだった皿がすれてガチャリと音をたてた。祖母はグラスを軽く傾けたまま、眉をハの字にしている。


 魅月は、言葉にはしないが父親が大好きなはずだ。

 幼稚園の頃に描いた”将来の夢”だって、描かれていたのは自転車とスパナを持った魅月の姿だった。あの自転車は持ち上げていたのか、ただ手の近くに描いてあったのか、未だに判別がつかない。その横には、叔父と祖父がいた。三人とも、首にタオルを掛けて、手袋をして、にこにこ笑っていた。

 彼は真っ直ぐに父親の背中を追っていたはずなのに。


「急にどうしたのかしら。」


 叔母も不思議そうだ。叔父が悲しそうにうめいた。


「うぅ。てっきりサヤカが、ファザコンの男はないわ、とでも言ったのかと思ったのに。」

「いったいどういう話の流れでそうなるのよ。」


 咲耶花はやっとシンクへ皿を置いた。蛇口から細く水を出して手を洗う。


「父ちゃん何かしたか? って聞いても、そのまま走ってっちゃってな。サヤカぁ、理由聞いてきてくれよぉ。」

「うーん。」


 流し下のタオルで手を拭いながら、首をひねる。自分も現在進行形で無視されているのだけれど。怒りの対象が叔父ならば、落ち着いてきたところで口をきいてくれるだろうか。


「まあ、聞けたらね。ごちそうさまでしたー。」


 大人達に頭を下げて、咲耶花はダイニングを出た。


 ***


 ケータイの画面の中には、一筆書きの角張ったハート。指で真ん中をつつっとなぞると線が引かれて、ハートが二分される。

 それで、えーと、次はどこを切れば良いんだ。


 三人掛けのソファに、咲耶花が仰向けに転がっている。片側の肘掛けにフカフカとした厚みのあるクッションを立てかけ、それに頭を預ける。伸ばした脚が交差していた。つま先がリズムを取るようにぷらぷら揺れる。

 父が見れば、だらしがないと叱るだろうが、生憎来るのはまだ先だ。応接用の豪奢なソファとマーブル模様のテーブルも、年明けまで仕事の予定はない。

 ここは小さい頃からのお気に入りの場所。家族はみんな心得ているので、入浴の順番が回ってくれば、呼びに来てくれる。


 ぎゅっと眉を寄せて、手の中の画面をにらむ。迷いを体現するように、右手の人差し指がくるくる回る。夢中になり過ぎていた。敵の接近に気がつかぬほどに。

 どすんっと腹部に重みが掛かった。驚きに緊張した咲耶花の体が、スプリングの反動でぐらぐら揺れた。中途半端に浮かせた自分の腕の間から、咲耶花は相手の姿を認める。くの字に曲がってソファに沈んだ咲耶花の腰に、魅月が伏せるようにしがみついていた。

 押しつけられたほほと、シャツを握る手から、ぽかぽかといつもより高い体温が伝わってくる。着ているのはパジャマだ。水色の地に、丸っこい自動車があちこち走っている。


 魅月が風呂から上がったのなら、そろそろ咲耶花の番のはずだが、呼びに来たにしては様子がおかしい。口をききたくないから、タックルしたのだろうか。

 画面を見ると、先程の弾みで触れたのだろう、変なところに線が引かれていた。やり直しボタンを押して、一つ前の手順に戻す。魅月の、まだ湿っぽい頭をなでた。動く気配がない。咲耶花が上半身を起こすと、小さな手にぎゅうっとさらに力が込められた。

 咲耶花はわざと唇をとがらせた。


「ちょっとー。お姉ちゃん、立てないでしょー?」


 魅月は、不満があればすぐ言う子だ。それでも要望が通らなければ、じぃっとにらんでくる。今日は、最初の驚いた目を見て以降、全然目が合わない。


「いったいどうしちゃったの。ちゃんと言葉にしてくれないと、お姉ちゃんもパパも分からないよ。」


 パパ、という言葉に魅月の頭がかすかに揺れる。しばらく待つが、反応がない。咲耶花は、ケータイをテーブルの上に伏せた。


「とーちゃんなんて、だいっきらいだ。」


 ぽつりと、小さな声が落とされた。不満そうな響きは、前髪の奥にぶすくれた顔を想像させる。


「そう? じゃあ、お姉ちゃんがパパもらっちゃおうかな。」


 咲耶花のからかいに、ぱっと魅月の顔が上がった。ぎゅうっと口をへの字に曲げていた。眉にも、まぶたにも、顔の全体に力が込められている。

 アルバムの中で、自分も同じ顔をしていた。赤ん坊の魅月と、それを抱いた叔父の隣で。

 ぐぐっと眉を寄せたまま、魅月が再び口を開いた。


「とーちゃんは、すいようび、ずっとごろごろしてるぞ。」


 叔父と祖父は交代で休みを取っているが、水曜日は店の定休日だ。部品など何かの取り引きがなければ、祖父は祖母を連れて買い物に行く。


「そうだね、お休みだもんね。」


 咲耶花がうなずくと、魅月はさらに眉を寄せた。眉間にしわが刻まれている。


「よる、かーちゃんにかくれて、ラーメンたべてたっ。」

「おにぎり食べてたこともあるよ。」

「ビールのむと、うざい!」

「それはうちのお母さんも一緒だねー。」


 なぜ急に父親のネガキャンを始めたのだろう。不思議に思いながらも、取りあえず思いつくまま咲耶花は打ち返す。

 指先が白くなるほど力を込めて、魅月がぎゅうぎゅうとシャツを引っ張った。


「オレらと やすみちがうから、けっこんしても、いっしょに でかけらんないぞ!」

「結婚?」


 内容が急に変な方向に曲がった。受けきれず、ついオウム返しになってしまう。咲耶花が眉をひそめたからだろう、反対に、ぱっと魅月の顔が明るくなる。


「そう! とーちゃんと、けっこんしないほうがいい!」

「ひどいこと言うなぁ。」


 苦笑する。叔母が聞いたらどう思うのやら。案外けらけら笑うのだろうか。


「パパにはママがいるでしょ。他の人と結婚したりしないよ。」


 一体全体、どこからそんな心配が持ち上がってきたのやら。

 魅月の勢いが削がれる。しゅんっと眉尻が下がる。


「でも、じーちゃんが……。」

「おじいちゃん?」

「……ねーちゃんは、とーちゃんがすきだって。」


 咲耶花はぱちぱちと目を瞬かせた。

 確かに、叔父のことは好きだ。父や母と同じくらい。だって、本当にたくさんたくさん遊んでもらったのだ。

 幼い頃の記憶にはいつも叔父がいる。シマウマに餌を握ったまま渡したために、手をはまれた時も。子供用のジェットコースターに何回も乗りたがって、大人達をグロッキーにさせた時も。

 そこまで思いを巡らせて、咲耶花はふと思い出した。大人達が一二を争うほど繰り返す、あのエピソードを。


「もしかして、私が叔父さんと結婚するって言った話?」


 魅月がまた唇を引き結んだ。くっつきそうな程眉を寄せて、じぃーっと咲耶花を見つめている。真実を見透かそうとしている。

 真剣なその目を見つめ返しているうちに、咲耶花の口元が緩んだ。ぶふっと息がもれる。大きなつり目がぱちりと瞬く。それをのぞき込みながら、咲耶花は口を手で覆った。


「やだ、真に受けたの? それで、お姉ちゃんが本当にパパを取っちゃうと思ったんだ?」


 笑っちゃいけないと思うのに、抑えられない。くくくっと肩が揺れた。


「それね、小さい頃の話だよ。ミツキが生まれるずーっと前。ふふっ。本当に好きだったわけないじゃない。まだ5歳だったんだから。」


 つり目が大きく見開かれる。それまで不思議そうにしていた幼い顔が強張った。唇も、ほほも、握ったままの手も、微動だにしないなか、瞳だけが揺れている。


「ミツキ?」


 咲耶花の指先が、ふっくらした手の甲に触れる。

 ぱっと、膝に掛かっていた重みがなくなる。魅月が身を離したのだ。小さく薄い体がひるがえったと思ったら、ぼすんっと胸元に何かぶつけられた。


「ねーちゃんのバカ!」


 転げるように膝の上に落ちたのは、クッションだった。ソファの反対側に寄せらていたもので、ネコのシルエットが刺繍されている。魅月はもう一つ手に取ると、それを振りかぶった。


「こら! やめなさいミツキ!」


 開いていたドアから叔母が駆け込んでくる。魅月の腕をつかもうとするが、彼はひらりとかわした。クッションが床に落ちる。


「バーカバーカ! かーちゃんもバーカ!」


 捨て台詞を残して、魅月は廊下へ飛び出した。足音が遠ざかり、ドカドカと階段を上がる音に変わる。叔母は追いかけようと一度ドアから身を乗り出したが、放心している咲耶花を振り返って留まった。駆け寄って、ソファの傍らに膝をつく。


「サヤカちゃん? 大丈夫?」

「ああ、うん。」

「ごめんね。後でよく叱っておくから。」

「ううん。私が悪いの。なんか、怒らせちゃったみたいで。」

「怒ったからって、お姉ちゃんに物をぶつけて良い理由にはならないわ。本当にごめんね。」


 申し訳なさそうに眉を八の字にする叔母に、こちらも申し訳ない気持ちになる。咲耶花が頭を下げると、叔母はバスタオルを渡してくれた。


「よくあったまってくるのよ。」


 風呂から上がった後、部屋の前まで行って中に呼びかけてみたが、イトコは返事をしてくれなかった。


 ***


 次の日、渋い顔をした魅月が、叔母によって朝食の席に連れてこられた。昨日と同じく、黙々と食事を口に運ぶ。

 大人達は普段と変わりなく朝食を食べているが、咲耶花は居心地の悪さを感じていた。

 昨日のケンカは、咲耶花が悪い。多分。だから、謝るべきだ。しかし、何がいけなかったのかが咲耶花には分からない。笑ったことがいけなかったのかと、寝る前に謝ってみたが、不正解だったようだ。

 答えが出る前に完食し、咲耶花は皿を片付け始めた。


 ***


 お昼過ぎに母がやって来た。おやつに食べようと、焼いてきたのだろうチーズタルトを叔母に渡している。娘に会うなり、視線を腰辺りに下げた。


「あれ、みぃ君は?」


 そこにいて当然、という母の態度に叔母が笑いをかみ殺している。


「ミツキはちょっと、ご機嫌斜めなんです。」

「やだ、サヤカ。何したのよ。」

「ノータイムで私を疑わないでよ。」

「あんたが原因じゃなかったら、あんたに張り付いてるでしょうよ。」


 ……自分もよく、両親に怒られては叔父や叔母に張り付いていたので、否定できない。

 咲耶花は口をへの字に曲げると、ダイニングから続いている居間へ移った。お茶を飲んでいる祖母の隣に座ると、咲耶花の分も入れてくれた。叔父と祖父は、今日は店で自転車や工具の整理をしている。

 湯呑みへ息を吹き込んで、若葉色の水面を揺らす。母が向かいに座った。半眼でこちらをにらんでいる。咲耶花は湯呑みごと両手を胸へ引き寄せた。


「なに?」

「サヤカが悪い。」

「はぁ?」


 言われなくてもそんなことは分かっているが、急になんだ。ダイニングへ目を向けると、両手を合わせた叔母が小首をかしげた。話したのか、というか昨日のを聞いていたのか。

 祖母が母にもお茶を入れる。行儀悪く頰づえをついたまま、母がそれをすする。


「小さい頃のあんたは本気で、結婚するって言ってたと思うわよ。」

「えー。」


 叔父と? 今では考えられない。そもそも出来ないが。

 籠に積んであったミカンを母が手に取る。小ぶりで平べったい、おいしそうなやつだ。


「まあ、問題はそこではなくて。あんたはもう少し、みぃ君の気持ちを考えるべきだったわよ。」

「ミツキの気持ち?」


 聞き返す咲耶花を見る目がいささか冷たい。使う公式を教えてもらっても、答えを出せないやつを見る目に似ている。

 母はミカンを一房口に入れようとして、大きな筋が気になったのか、指で摘まんでピーッとむいた。細かいものはそのままにして、ぽいっと口に入れる。


「……あの子はずぅーっと、あんたのこと好きだって言ってるじゃない。幼稚園に入ったばっかりの頃から。」



 バレンタインデーに、ココアクッキーを焼いた。大小2種類のハート型に抜いて。100円ショップで買った白と赤のかわいい袋に、ピンクのリボンを結んだ。

 男の子なのだから嫌がるのではないかと、渡す直前に気がついた。

 魅月は受け取った。まあるいほほを赤く染めて、「ありがとう。」とはにかんだ。彼は5歳になったばかり。青いタオルを巻いていた咲耶花と同じ歳。



「本人は、至って本気で言ってるのよ。」


 くっついた三房のミカンを、母はそのまま口に放り込んだ。


 ***


 小さい頃の自分は、あれになる、これになると毎日の様に宣言していた。


 お母さんが大好きなチーズケーキ、いっぱい食べさせてあげたいなぁ。そうだ!

「サヤカ、ケーキやさんになる!」


 お父さんを困らせる部長さんは、きっと悪者に違いない。やっつけなきゃ。そうだ!

「サヤカ、ブルーホークになる!」


 叔父さんともっと遊びたいなぁ。もっと一緒にいられたら良いなぁ。そうだ!

「サヤカ、おじちゃんとけっこんする!」


 どんどん増える、なりたいもの、やりたいこと。

 幼い言動を振り回していたものは、何だったろう。恥ずかしい過去だと、逃げ回っているうちに失ってしまった。


 ***


 仲直りは早いうちに。小学生の時学んだ教訓だ。

 玄関を確認すると、小さな赤いスニーカーがかかとをこちらに向けて並んでいた。今日は家にいるようだ。咲耶花は二階に上がった。並んだドアの、手前のものの前に立つ。


「ミツキ?」


 返答はない。聞こえていた電子音が止まった。カラカラっという軽い音は、イスの脚のタイヤだ。

 居留守や立てこもりなど無意味である。この家で鍵がかかる個室は、トイレと風呂場だけだ。


「入るよー?」


 無駄な疑問形で声をかけ、ドアを開ける。

 正面に勉強机があった。メニュー画面にしただけのゲーム機が放り出されている。横のカラーボックスに本が並び、その上にランドセルが寝そべっている。右に寄せられたベッドは、起きた時のままシーツが乱れている。反対側のクローゼットの横、蓋のない箱が並んでいて、その中におもちゃが押し込まれていた。上にでんとボールが乗っている。

 一見すると誰もいないように見える。が、イスの奥、机の下の影から、靴下に包まれた小さな足がのぞいているのを見逃す者はいないだろう。オオカミだって見つけるはずだ。

 咲耶花は部屋の中に入ると、カラーボックスの前に座った。ドアの方、魅月と同じ方向を向く。あのね、と声をかける。


「大きくなるとね、好きの形が違う形で見えてくるんだよ。お母さんを好きな気持ちと、友達を好きな気持ちは違う形をしてるんだ。結婚相手への好きもね。」


 上級生に憧れを抱いたことこそあるが、咲耶花はまだ恋愛をしたことがない。だから、本当のところは分からない。でも、家族間ですら、両親を想う気持ちと魅月を想う気持ちは違うのだから、そうだと思う。


「叔父さんを好きな気持ちは、お母さんを好きな気持ちと同じ形なんだ。恋人の好きじゃなかった。それでも、本当に好きだったのは確かなのに。思ってた形と違うから本当じゃなかったなんて、おかしいよね。ごめんね。」


 咲耶花はとんっとボックスに背を預けた。こぼれそうになったため息を飲み込む。


「ずぅーっとさ、ちっちゃい頃の私ってバカだなぁって思ってたけど、今でも充分おバカだったね、私。」


 魅月を馬鹿にしたつもりなんてなかったし、慕ってくれる気持ちを軽んじたつもりもなかった。そのつもりなしにやらかしたのだから、余計に質が悪いと自分でも思う。

 もしかしたら、このまま一生許されないかも。一抹の不安が胸をよぎる。

 咲耶花が口を閉ざすと、部屋に沈黙が降りた。

 ごそごそと布ずれの音がして、まず机の前のイスが押しやられた。続いて、ぴょこっと小さな頭が飛び出る。両手をついた体勢で、魅月が顔を上げる。きゅっとつり上がった目が、咲耶花の顔をのぞき込んだ。


「じゃあ、いまも……とーちゃんのこと、すき?」

「……気になるのはそこなの?」


 昔の好きイコール本当の好きとしか伝わっていないのだろうか。

 思わず苦笑をこぼすと、むっと魅月が唇を引き結んだ。

 このままでは、また叔父がかわいい愛息子から大嫌いと言われてしまう。

 咲耶花は、ぽんぽんと魅月の頭をなでた。


「今は、ミツキが一番好きだよ。」


 今の自分がもし、何かになりたいと、そう強く思うのなら、きっとこの子が理由だ。

 小さな唇にぐぐっと力がこもる。まあるいほほがじわじわと赤くなる。魅月は咲耶花の手をぺいっと払うと、再び机の下に引っ込んだ。


「……オレも……きらいじゃないし。」

「うん、ありがと。」


 ぽそぽそと小さな声が聞こえる。もう一度、頭をなでたいと思ったが、これ以上突くと出てこなくなりそうなので我慢する。

 咲耶花は立ち上がると、ベッドの枕元に置かれた時計を見た。丸っこいそれは、白黒を組み合わせたサッカーボールを模してある。


「おやつにしようよ。お母さんがチーズタルト作ったからさ。」

「ん。」


 咲耶花が戸口に立つと、ぱたたっと小さく、階段を降りて行く音がした。廊下に出てすぐ、咲耶花は下をのぞき込む。逃げて行く誰かさんの足を見た。

 また立ち聞きか、似た者夫婦め。いや、きっと心配してくれたのだろう。そういうことにしておく。


 ***


 小学一年生の時の記憶も、咲耶花にはもう遠く、ほとんどのことはぼやけている。

 10年後、魅月はこのケンカを覚えているだろうか。

 すっかり忘れていて、何だその話は、と困惑するだろうか。

 うっすら覚えていて、それ以上はやめろ、と怒るだろうか。


 居間に入ると、座卓についた叔父がニヤニヤしていた。皿に乗っているチーズタルトを喜んでいるわけではない。咲耶花はため息をついた。

 その横を魅月がすり抜ける。叔父の前に立った。腰に両手を当てて、ふんぞり返る。


「ねーちゃんは、とーちゃんより オレのほうがすきだって!!」


 母と叔母が笑いを耐えているのが、視界の端に映る。


 かわいい魅月。

 そのかわいさを、お姉ちゃんは一生忘れられそうにありません。

 できるだけ吹聴しないよう気をつけるので、どうか許してください。



 END

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