今宵も溺れる —どこかへ行った彼女—
「おはようございます。良い朝ですね」
僕の彼女の朝は、いつも午前八時から始まる。
それも、マンションの一室で。
なぜなら、大学生の僕が家を出るのが八時台だからだ。
けれど今日だけは違う。
今日は彼女が僕より早く出掛けるから、僕の朝も、いつもより一時間早く幕開ける。
「あ。お、おはようございます。朝からお綺麗ですね」
彼女の、一本一本が生糸のように煌めく金髪は、寝起きの手入れ前であっても僕の心を掴んで離さない。
「貴方こそ、朝から世辞が上手ですね」
寝巻きの白いワンピースに身を包みながら、穏やかな笑顔で返してくれる彼女。その桜色の唇から発される言葉は、少しばかり意地悪で。けれども、そのほんの少し嫌み混じりな言葉が、僕にとっては心地よい。
「朝は何を飲まれますか?」
問うと、彼女は藍の瞳で僕をじっと見つめてくる。
「え、あの……えっと?」
「わたしはいつも紅茶だと申し上げているはずですが」
「あ、はい。そうでした……」
「では、それでよろしくお願いします。髪を整えてきますね」
時折棘を挟みつつも、鳥の羽のように柔らかな表情は崩さず、彼女はそのまま洗面所へと歩いていった。
その背中を見ながら思い出す。
彼女と初めて出会った日のことを。
あれは、ある晴れた日だった。
うろ覚えではあるが、確か、月曜日か火曜日だったと思う。大学の授業が休講か何かの加減で早めに終わり、一人、借りているマンションへ帰ろうと道を歩いていて。
そんな途中、道に倒れている彼女に出会った。
正確には、彼女以外にも怪我人はいたのだが、他の数名のことは正直あまり記憶にない。というのも、僕は無意識のうちに、アスファルトの上に倒れ込む彼女に駆け寄っていたのだ。
その時の彼女は、日常の中では滅多に見かけないような白いドレスを身にまとっていた。その姿はまるで、絵本から出てきたお姫様のよう。しかし、そんな上品な美しさとは裏腹に、戦争に行って帰ってきたかのような汚れ方をしていた。
僕はすぐに彼女を病院へ運び込もうとしたが、彼女はそれを拒み、その代わりに住める場所を提供してほしいと頼んできた。
もちろん僕とて怪しみはした。
怪しい者だったら、実は泥棒だったら、と。
けれど、負傷した美しい女性を見捨てるわけにもいかず、ひとまず僕が住んでいるマンションの一室へと連れて帰った。
——以降、彼女はずっとこの部屋にいる。
「髪の手入れが完了しました。……おや?」
出会いを思い返しているうちに、洗面所へ行っていた彼女がリビングへ戻ってきてしまった。
まずい。紅茶がまだ出せていない。
「飲み物はどこですか?」
「あ、す、すみません。実はまだで……」
「いつものことではありますが、遅いですね」
彼女の丁寧に作り上げられたハーフアップ。それはとても美しい。一種の芸術作品のようにも見えるほどだ。
だが、呑気に見つめている暇はない。
早く紅茶を用意しなくては。
「すみません! 座っていて下さい!」
「分かりました。待っていますね」
上品な声で発し、リビングの椅子に腰掛ける彼女。その姿は、昔の西洋の絵画のごとき麗しさで、僕の心を掴んで離さない。もし紅茶を所望されていなければ、いつまでもじっと見つめていたことだろう。
それから僕は、大急ぎで紅茶の用意を始めた。
もちろん、紅茶と言っても大層なものではない。本格的なものではなく、ティーバッグで作る紅茶だ。
けれど、彼女はこの紅茶をなにげに結構気に入っていて。
最初の日に飲んで以来、彼女はずっと、このティーバッグで作る紅茶を愛飲している。
「お待たせしました!」
完成し次第、彼女のもとへダッシュ。
白いティーカップを差し出す。
すると彼女は天使のような優しい笑みで、受け取ってくれた。
「意外と早かったですね」
「遅くなってすみませんでした!」
「いえ。もう慣れています」
さりげない棘が時々胸に突き刺さるようだ。
だが、彼女が僕の遅さに慣れていると言うように、僕も彼女の言葉の棘には慣れてきている。
それゆえ、ちょっとやそっとで心を折られたりはしない。
「そういえば。今日はどこへ行かれるんですか?」
ゆったり紅茶を飲む彼女に、さりげなく尋ねてみる。
すると彼女は、ティーカップの縁を唇につけたまま、こちらへ視線を向けてくる。
「……問いの意図は何ですか」
ふんわりした声なのに、妙に緊張してしまう。
なぜか自然と、悪いことをしているかのような気分になってきた。
「え、あ、いや。普通にっていうか、その、気になったので」
「ぎこちない言い方ですね」
「つまり、悪気はないんです。単に気になって聞いてしまっただけで」
強張ったような少しおかしな話し方になってしまったところを突っ込まれ、心なしか胸の奥が痛む。が、挫けずに話を続ける。
「はっきりとした意図はないということですね」
「は、はい!」
「分かりました。では、少しだけお話します」
そう言って、彼女はティーカップをテーブルに置く。その時には、カップは既に空になっていた。一気に飲み干したようだ。
「わたしは戦場へ参ります」
「え?」
彼女の口から出た言葉に、耳を疑わずにはいられなかった。
「少しだけお話しました。ではこれにて。着替えが完了し次第、わたしは行って参ります」
彼女は椅子から立ち上がり、僕に背中を向けて、部屋の方へ戻っていく。恐らく、今から着替えるのだろう。
覗きなんて卑怯は真似はしない。
ただ、先ほど彼女が言った言葉が、僕には理解できなくて。
着替えを終えた彼女が、再びリビングへ戻ってくる。
唇と同じ桜色のブラウスに、紺のジャケット。そして、ブラウスに似た色のフレアスカート。
彼女が着ていたのは、僕が以前贈った、衣服一式だった。
同居し始めてまもない頃、土のような茶や血のような黒と赤がこびりついたドレスしか持っていなかった彼女のために、僕が近所のショッピングモールへ行って買ってきた服。
当時、僕は友人がほとんどおらず、それゆえ外出することも少なかった。大学からマンションまでを行き来するのと、週末趣味に関係する店へ行くの以外で、外出することはほとんどなくて。そんな暮らしを数年続けていた僕が、急遽ショッピングモールへ行くことになった時、どうしようと大変焦った。
今彼女が着ているのは、そんな僕の思い出がびっしり詰まった服たちだ。
「では、そろそろ行ってきますね」
「あ、それ……着て下さってありがとうございます」
「いえ。サイズが少し小さいですが、着られないことはないです」
言ってから、彼女は微笑む。
「これまでお世話になりました」
どうしてそんな言い方を。
これじゃまるで、永遠の別れみたいではないか。
僕はそんな風に思いながらも、玄関に向かって歩いてゆく彼女の背に声をかけることはできなかった。
何も言ってはならないような、そんな気がして。
そして、ついに玄関に着く。
「では、行ってきます」
玄関で振り返る彼女。
その輪郭は細く、今にも消えてしまいそうだった。
「あの……本当は、その、どこへ?」
僕は持てる限りすべての勇気を集結させて、問いを絞り出した。
だが、頑張りも虚しく。
「今は話せません」
彼女ははっきりそう言った。
ただ、付け加えもあった。
「いつの日か、わたしはここへ帰ってきます。もしその日が来たら……わたしは貴方に、すべてをお話できるでしょう」
先日、今日の外出について彼女から聞いた時は、何も思わなかった。ただのちょっとした外出なのだろうと、当たり前のようにそう思っていて。だから反対はしなかったし、むしろ外出する気になったのは良いことだというくらいに考えていた。
だが、彼女の外出は、僕が思っていた外出とはまったく違ったもののようである。
「待っていて下さいますか」
「……はい。もちろん」
「分かりました。ありがとうございます」
今思えば、確かに、彼女には不審な点が多かった。出会ったあの時の状況だけでも十分に不自然だし、秘密が多いところも明らかに一般人ではなさそうで。
でも、もう一年近く、彼女と二人で暮らしてきたのだ。
共に暮らしてきたが、人柄的には信頼できる女性だった。
だからこそ、僕はこう言う。
「いつまでも待っています。だからどうか、いつか必ず帰ってきて下さい」
以降、彼女は帰ってこなくなった。
数日で帰ってくるかもと思っていたけれど、そんな上手くはいかず。
借りている部屋は、僕一人で使うには広すぎる。以前は一人で使っていたのだから、一人だと困るということはないはずで。なのに、彼女と暮らしてしまったからか、一人で過ごす時間は辛い。
ちなみに、僕は今、四十七歳。
地元へは戻らず、大学の近くで就職し、会社員としてそれなりの日々を送っている。
苦労がないと言えば嘘になるかもしれないが、嫌な毎日ではない。給料もそれなりに貰えているし、親しい同僚もいる。飲み会にも、時折は参加する。
ただ、夜が来るたび、彼女に会いたいと思ってしまう。
運命的な出会いを果たし、突然別れることになってしまった、あの女性。紅茶を淹れるのが遅いと文句を言ってきた、彼女。
今でも僕は、彼女を求めている。
もし彼女が帰ってきたら、何と言って迎えようか。
それを考える楽しみに、今宵も溺れる。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。