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筆が進まない

作者: non2

 私は筆が進まずに旅館の部屋を抜け出して、ただあてもなく歩き呆けていた。


 執筆活動に支障をきたし環境を変えてみたのだが、そう簡単に治ることはなかった。古臭い自室と違って、客室は真新しい畳の香り。日の入りがやさしく、木のテーブルがほどよく光沢を作り出す。そんな部屋を見せられて私の心も綺麗に変わったように思えたが、三日もすれば特別には思えなくなった。そうして筆を起こしては原稿用紙をぐしゃぐしゃにして投げ捨てるを繰り返し、自暴自棄になって飛び出したわけだ。


 旅館は山の少し高いところにあり、暇つぶしを求めていくなら必然的に下ることになる。逃げ出したことに物理的な抵抗がなかったのが幸か不幸か。少なくともその時は楽を求めていた。

 下った先にあるのは栄えた温泉街である。源泉から段々に落ちていくことでちょうどよい温度まで下げられた温泉もあったりする。ぼうっと眺めているのも乙ではあったが、多くの人はその沿線に栄えた様々な屋台に夢中になっている。家族連れやカップルといった人生行楽者であふれる中、私は肩身狭く進んでいく。道中の娯楽に時折興味を持つが、困ったことがあった。

なんせ旅館を飛び出すのに準備などしておらず、身なりは浴衣で銭を手にしていない。だから虚しくも立ち去るほかない。

またもあてなく歩き呆けた。次第に人が減っていくのが分かった。はずれのほうにまで来たんだろう。当然ながら明かりもまばらになっていく。今夜は曇っていたから尚更に明暗が際立つ。それからまた歩く。自分の下駄がじゃりを蹴る音だけが耳に入る。すっかり誰もいなくなった。そして夜風が体をなでる。


 もう帰ろうか。軟弱な思考が訴えかける。結局何も得ないまま戻ることになってしまうが。

肺のあたりがむずかゆくなり、咄嗟にくしゃみが出る。どうも体が悲鳴を上げたらしい。なら抵抗する必要もないだろう。私は道を引き返した。じゃりの音が何度か耳を通り抜ける。逆から見た景色は大して面白く変わることはなく、そのままであれば無事帰路につき、また進まない執筆に悩まされていたのだろう。だが一つあるものが目に入ったことで状況が変わった。

 人がほとんどいない道である店ののぼりが下がるのを偶然目にした。それが変なものであったから。


 お茶ならあります。


 そこまで弱気な謳い文句を見たものだから、好奇心が働き思わず店に入ってしまった。

「失礼、まだやっているか?」

 単刀直入に言えばいいものの、なぜか気をつかう。

「店じまいするつもりでしたが、よろしければどうぞ」

 店内は暗いままで女店主らしき人の顔が良く見えなかった。

「あののぼりは何なんなのだ? こちらにはお茶しかないのか?」

「ええ、そうです」

 女の返答に何故だか苛立って少しばかり説教をたれる。

「そんなんでは店を守っていくことができないだろうに。そんないい加減ならやめたほうがよい」

 しばらく沈黙があり、女が口を開く。

「ですが私はここを続けないといけないのです」

 小さな声で言うものだから、こちらも冷静になった。

「なら話を聞こう。お茶を出せ」

 ずるがしこく、便乗してお茶お奢らせようとする。女は気がついていないのか、窓際の席に案内をして温かいお茶を出した。

「どうして続ける必要があるのだ? お茶しかない茶屋などいらんだろう」

 何もひねりのない正論を叩きつけた。ついでに一気にお茶を飲み干す。やけどしてしまいそうだったが、弱いところを見せるのは許せなかったので我慢して耐えた。

 そんなこともつゆ知らず女は重々しく口を開く。

「実はこの店は以前まで父がやっていました。ですが急逝して私が継ぐことになったのです。でもここに戻ってきたのは久しぶりで、メニューとして出せるのはほとんどなく、唯一出せたのがお茶だけでした」

 女は境遇を話し言い訳をする。だが私は引くことはしなかった。

「つらかっただろうが、だからと言って続けていけるわけではない。だからさっさと閉めたほうがよい」

 女はしっかりとした返事はせずに、泣き出してしまった。少しばかりやりすぎたかと反省もしたが、自身が悪とも捉えていないので適当に逃げ出そうと考え始め、席を立った。だがすぐさまに離れることができなかった。

 そこで雲が開けたのか、月明かりが女を照らす。そこで見た女の泣き顔がひどく美しいもので思わず立ちすくんだ。

「申し訳ないのだが茶代は持ち合わせておらず払えない」

 気を取り戻した私は頭を振り、とうとう泣いている女を置き去りにした。

「だから、また来た時にでも払おう」

 それから茶屋を出た。泣き声はやや収まっていたと思う。

 その帰りは夜なのに不思議と寒さを感じなかった。だが後に、温かいお茶を飲んだのであったと思い出した。


 客室に戻ると部屋の中の原稿は綺麗に広げられて、机の上に丁寧に置かれていた。どうやら従業員が勝手にやったらしい。だが別に何とも思わなかった。テーブルに新しい原稿用紙を出し、向き合う。僅かながら今夜の散策で話のネタになるようなものがあり、早速筆を走らせようとしたかったから。


 だが、彼女のことを想うとまた筆が進まないのだ。



 筆が進まないときの暇つぶしに執しました。

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