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完結するまで気力が続くか分かりませんが、楽しんでいただけると幸いです。
9/1 漢文の文章を一部訂正しました。
夜空までも焦がしそうなほど高く燃え上がる炎。腰を低くし、手で口元を覆ってユナは足早に出口を目指す。火事の際の主な死亡原因は煙だ、とかつて読んだ書物に書かれていたので、火よりも煙に気をつけながら進む。
既にユナの通ってきた道は火の海で、おそらく同じ部屋にいた奴隷たちは火に包まれただろう、と思うが、特に遺憾の念は抱かない。名前も知らない関係だったのだから。
やっと見えてきた出口に、ユナは急ぐ。間もなく建物全体が火に包まれる。そうなれば無傷での脱出は難しい。
もう煙のことなど考えず、なるべく息を吸わないようにして走る。息が苦しいが、喉が焼けたりするよりは良い。ユナはとにかく走った。
外へ出ると、すぐ側から火の手が上がる。建物の玄関が燃えていて、本当に間一髪のところだった。ほっとため息をつく。
「**、****!」
声をかけられた気がして、ユナは顔を上げた。あくまで気がして、だ。この国の言葉が分からないユナは、呼びかけられても分からない。
ユナはここ西大陸ではなく、東大陸の出だ。今のところ見つけられた大陸は西大陸と東大陸のみ。けれどもどちらの大陸も未だ未開の土地はあり、だから新たな大陸があるかもしれない、と言われている。そうユナは書物で読んだ。
西大陸からして見れば、東大陸を発見したのはつい半世紀近く前だ。東大陸からしてみれば、西大陸から招かれざる客が現れたのが数十年前。それ以来、文化交流や西大陸の発展した技術が東大陸へ与えられ、東大陸からは伝統的な織物や西大陸にはない資源が渡っている。
そしてユナは東大陸から西大陸へと奴隷として渡ってきた。そしてまともな教育も受けないため、一切言葉の通じないまま働くことになったのだ。
「****?*****?」
ユナの前に膝をついて目線を合わせて、男性が何事か言っていた。表情からして心配していると思えた。町人らしくない、軍人のような衣装を着ていることから、この人物はおそらく騎士だろう。
ユナは地面に字を書く。と言っても東大陸の字なので、通じるとは思えないが、東大陸から来たと伝わればいい。
『我不能話』(私は話すことができません)
さて通じたかな、と思って見るが、騎士は顔を歪ませているだけだ。文字を書いたことすら伝わっていないだろう。おそらく騎士からして見れば、幼い子供が変な絵を書いた、と思われているだろう。初めて見る字などは、字だと理解してなければ、他国の人からは絵にしか見えない。それはユナも経験したことだ。
「**、*******?」
また別の騎士が現れた。初めにユナに話しかけた騎士が状況を伝えている、と思われる。その騎士は何故かユナの書いた文字を見て首を傾げていた。
ユナは期待半分で再び文字を書く。
『我来於東大陸』(私は東大陸から来ました)
それを見ると、2人目の騎士は何か理解したのか、慌てて1人目の騎士に言う。その様子から、おそらく東大陸出身だと言うことは伝わっただろう。1人目の騎士も理解したのか、サッと青ざめる。
それはそうだろう。他国から来た人間を奴隷扱いなどしていたら、戦好きの国としては格好の大義名分だ。まあさすがにまだ西大陸に較べて発展していない東大陸の国々が戦争を仕掛けるとは思えないが、後顧の憂いは断つのが良い。
慌てて1人目の騎士が走って行った。代わりに2人目の騎士がユナの横に座る。
『了』(分かった)
おそらく彼はこの字しか分からないのだろう。取り引きではよく使われるので、知っていたと予測できる。それを示すかのように、彼はとても申し訳なさそうな顔をしていた。
ユナは大丈夫、という意味を込めて頷く。彼はほっとした顔をした。
やがて1人目の騎士が誰かを連れてやって来た。騎士たちよりも少し豪華な装いで、おそらく上司だろう。2人の騎士が何事が伝える。上司らしき人物はユナを見ながら話を聞いていた。
話を聞き終わると、すぐに何事か1人目の騎士に伝えていた。1人目の騎士はすぐに返事をして立ち去り、次に2人目の騎士に命令する。2人目もすぐに返事をするが、立ち去らずに、ユナに手を差し伸べた。
「***。********」
騎士の言葉は分からないが、ユナはとりあえずその手を掴んだ。騎士が笑って、ユナを立たせる。ユナが立ち上がるとその手を解き、ぱんぱんとユナの服についた汚れを落とした。
ユナは笑顔で口を動かす。何の音も出なかったが、彼にはそれで伝わったのか、大きく頷いた。
彼が再びユナの手を握り、歩き出した。ユナもその背について行った。
連れて行かれたのは中規模な建物だった。焼けた建物よりは小さく、とても質素だった。門のところで1度止められたもののすぐに解放され、中に入って行く。
中には大柄の男たちが数人いた。彼が何か伝えると、すぐに慌てて駆け出す。おそらく自分の世話だな、と思うとユナは申し訳なかった。
とある部屋に入ると、騎士が手を離して明かりをつけ、小さな本棚へと行く。そこから1つの本を取ると、すぐにこちらへ戻って来た。
手を握り、部屋の半分ほどを占める大きな寝具らしきものへ座らされる。東大陸には無い物で、何故か机のように床から離れていた。彼も横に座った。
彼が本を開く。そこには所々ユナに見慣れた文字があり、辞書だと察しがついた。それにしても、東大陸では高価な本を持っているとは、西大陸はそれほどまで裕福なのか、はたまた彼がお金持ちなのか。
彼が一つの文字を指し示す。そこに書かれていたのは『何』。その後、『来』と『東大陸』という2つを指し示した。つまり、どうして東大陸に来たのか、と問うたのだろう。
ユナは辞書を取り、目当ての文字を探す。そして『被』と『売』を見せた。売られた、ということだ。彼が辞書を受け取り、その部分の説明を読む。すぐに彼は複雑な表情を見せた。
おそらく、戦争の火種にならないことを喜べばいいのか、それとも同情すればいいのか分からないのだろう。ユナは膝立ちになり、騎士の頬に触れた。突然触れたためか、騎士の体が跳ねる。
ユナは両頬に手を当て、思いっきり上に上げた。端正な顔立ちが崩れて、変な顔になる。思わず音もなく笑った。
騎士は目を白黒させる。けれどもユナが笑ったためか、彼も笑った。ユナは気にしていないことが伝わったようで安心した。
突然騎士の手が首に当たる。驚いてユナは思わず離れた。彼は顔を歪めて、ユナの首を見ていた。
ああ、そうか、とユナは納得した。彼はユナの首にある傷を見て、顔を歪ませているのだ。逃げ出してきた時、きっと彼は火のせいで逆光となり、ユナの首まで見えていなかったのだろう。歩いていた時も寝具に座った時も、身長差により首が見えなかった。そして先程、同じ目線になった時、やっと見えたのだろう。
ユナは少し考えて、辞書を奪い取る。彼はあまり抵抗しなかった。そして『不』と『能』と『話』を見せた。話せない。すると彼はより一層顔を歪めた。
そしてユナは彼と目線を合わせ、再び笑う。大丈夫、と口を動かし、ただ笑った。もうあの事故から1年近く経つ。すでに受け入れたことだ。
彼に通じたのか、ふっと笑われ、ユナは抱きしめられた。突然のことにびっくりするも、ぽんぽんと背中を叩かれると安心する。
ユナは久しぶりの人の温もりに、離れたくない、と思って抱きつく。少しだけ叩く間隔が揺れ動いたが、すぐに一定となった。
ユナは安心して、温もりに溺れた。
◇◇◇◇◇
火事の一報が入ったのは日付が間もなく変わろうとした頃だった。騎士団の仕事といえば荒事を諌めることだけだと思われがちだが、この国、フルレシア王国ではむしろそれ以外の方が多い。家の簡単な修理や落とし物探し、道案内、はたまた住民の相談にのるなど、一種の便利屋のようなことをしている。
火事の際も騎士団は出動する。と言っても大きな街には消火団、小さい村では近隣住民が、それぞれの町を守るために消火活動をする。騎士団はその手伝い、もしくは消火団が来るまで住民を近づけさせず、なるべく飛び火しないようにするのが仕事だ。
その晩も、火事のことが伝えられた際、すぐに当番だった騎士団長率いる隊が出動した。その中にユークリース・ハルノルドもいた。ハルノルド侯爵家の三男だ。貴族でありながら平民出身の騎士とも親しく、変わり者であるとも言える。ちなみに、この国では身分に問わず、全ての騎士が1度は必ず王都から離れた街の騎士を数年務めることとなっている。ユークリースはまだ18で騎士学校を卒業したばかり。つまり彼はただ今その期間の真っ最中だ。
火事の現場は街の端の方にある屋敷だった。消火団の本部からは離れており、騎士団の方が早く着いた。野次馬は屋敷の様子を離れた場所から見ており、誰も消火しようとはしない。よく聞くと、どうやらあまりいい印象を持たれていない、貴族の分家の屋敷だったらしい。それでは仕方がない。誰も悪印象を持つ人物のために危険を冒そうとは思わない。
そこで、ユークリースは少女と出会った。
ぽんぽんと背中を叩いていると、暫くして小さな寝息が聞こえてきて、ユークリースは知らず知らずのうちに笑みを浮かべる。
比較的珍しい黒髪黒目を持つ少女は、東大陸の出身で売られたらしい。髪もそれほど傷んでなく、売られたのはそんなに前ではないことが窺える。年の頃も7、8くらいだろうか。東大陸の者は総じて小さい、と聞くから、もしかしたらそれよりも上かもしれない。
それよりも問題は話せないことだ。首に傷が残っている。それが原因だろう。おかげで意思疎通が難しい。
ユークリースは騎士学校時代に商家出身の者と友人になった。今でも交流のある彼は、東大陸の言葉を話すことができた。東大陸の国々の言葉はそれほど違わないらしく、聞くことだけはユークリースも得意だった。話すことは発声法が異なるためか、なかなかできないが。そのため、彼女が話せたらきっと会話が楽だったのに、と思う。
コンコン、と扉を叩く音がして、ユークリースが返事をした。入って来たのは同僚の騎士で、平民を差別しない部類の貴族だった。少女の身分が分からないため、誰とでも親しくなりやすい彼に頼んだのだろう、と予想できた。
「ユークリース、どうだ?」
彼が持ってきた2人分の水を机に置きながら訊く。訊いたのは少女のことだろう、とは簡単に予想できた。ユークリースは少女を抱き抱えながら答える。
「十中八九東大陸の子だよ。自分から言ったし、辞書を見せたけど、指を指すのは東大陸の文字ばかりだよ」
ユークリースが少女に辞書を見せたのは意思疎通を図るためでもあったが、実際は本当に東大陸の者か確かめる意味合いが強かった。東大陸の出だと騙して、敵国の間者の可能性もあったからだ。けれど少女は辞書を見る際、必ず東大陸の文字ばかりを指さした。西大陸の文字が見えなくなることも気にせず。それが示すのは、東大陸の文字をほぼ完璧にしている、ということだ。つまり、正真正銘東大陸の者か、かなりの高度な教育を施された間者の二択だ。
けれど間者としては、話せないことが致命的で有り得ない。もしかしたらそう思わせるためかもしれないが、少女は間者らしくなかった。間者にしては何も持っておらず、おまけに話せないため、仲間との意思疎通が図れるとは思えない。何か取り決めがあるのかもしれないが、彼女が何も持っていなくて話せない以上、さり気ないコミュニケーションは不可能に近い。
この考えにも幾つか穴があるが、それにしても彼女は間者らしくなく、ユークリースの勘もそうだと言っている。
「ふーん、そっか。他に分かったことは?」
「東大陸では識字率がかなり低いと聞いたことがある。だから読み書きができる彼女は、それなりの身分にいたと思うよ。確か、男児は貴族と商家の一部、女児はそれこそ貴族だけらしい」
「ということは、その子は貴族か」
「多分ね。あと、話せないらしいから、意思伝達は難しいよ。こっちの文字を教えないといけないから、外交官辺りに頼むしかないと思う。私自身、東大陸の言語は聞くことしかできないから、教えることは不可能だしね」
ユークリースがそう言うと、相手はとてもめんどくさそうな顔をした。
「うっわ。彼女を返す選択肢はないの?」
「売られたらしいから、多分血の繋がった家族がいても、また同じように売られるだけだと思う。それなら保護した方がいいよ」
「相変わらずお人好しだな」
彼は肩を竦めてユークリースを見た。その目は冷たく、返した方が楽なのにと語っている。彼は平民を差別しない。けれど贔屓するのは違い、その為人を見て利益があるのかないのかを見極める。
冷たい人だと言えばそれまでだが、ユークリースはそれは違うと思えた。きっと彼は1度懐に入れた人物についてはとても優しいと思える。実際、今現在彼の利益にならない行動をしているユークリースだが、彼はそれを止めない。それが証明のように思えた。
「じゃ、団長が帰ったら伝えておくわ」
「頼んだ。今日は寝たからあまり聞けてないが、明日はもう少し聞いて、それからちゃんと決めよう」
「どうせお前は保護する方針を変えないだろうがね」
ククッと悪そうな笑みを浮かべて、彼は手を振って、あまり音を立てないように出ていった。きっと少女が寝ていると分かっていたからだろう。きっと彼も保護する構えなんだろうな、と思うと笑える。
ユークリースは少女をベッドに寝かせ、彼の置いてった水を飲む。少女の様子が変わらないことを確認して、寝巻きに着替えてから、ソファーに寝そべる。
明日は訓練をサボっても怒られないだろうな、と思うと罪悪感が湧く。少女から色々聞くのも仕事の一環だ、と無理矢理納得させて、ユークリースは目を閉じた。




