後編
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
翌日の午後。今日は土曜。休みである。
僕は昨日に引き続きショッピングモールへ来る羽目になっていた。というのも、買ったボールペンがどうやら不良品のようだったからである。まあ、休みだからと言って特に用事があるわけでもないので、構わないのだが面倒ではある。
無事、交換を終えて、駐輪場から自転車を走らせる。
昨日の事が頭をかすめる。彼女に聞けなかった事。答えが出ないのは分かってても考えてしまう。
「おーい!」
遠くから声が聞こえる。
声の方を振り向くと、こっちに向かって走ってくる彼女が見えた。
「もうっ。何度も呼んだのにっ」
頬を膨らました彼女が目の前にやってきた。
「え? ごめん。全然気づかなかった」
どうやら、考え事に夢中になり過ぎていたようだ。
「ひどーい! それに、そんなんじゃ、事故に遭うよ」
「ごめん、ごめん」
二人で並んで他愛もない話をしながら歩く。
彼女は部活帰りのようで、今日は調子が良かったとか、明日の練習予定とか、大きな目を輝かせながら話してくる。いつもの事だが、僕はもっぱら、聞き役である。
途中、公園の前に差し掛かった時、彼女の足が止まった。
「どうした?」
「ね、ちょっと寄っていこう。久々にブランコに乗りたくなっちゃった」
「はぁ?」
小さい頃はよく公園で遊んだ記憶があるが、さすがにこの年になって公園で遊びたいとは思わない。
「ね、ね。ちょっとだけだからさ。いいじゃない」
「わかったよ」
まあ、予定があるわけでもない。それに、彼女と一緒にいられるなら悪くない。
もしかしたら、昨日の彼の話を聞けるチャンスもあるかもしれない。でも、それを聞いて僕はどうするのだろうという思いもあった。
二人で公園に入る。小さなどこにでもある公園である。
彼女はお目当てのブランコに腰掛けると、ゆっくりと漕ぎ始めた。
「うわあ。久しぶり」
彼女の楽しそうな笑顔を見て、僕も楽しい気持ちになってくる。
自転車を止めると、僕も彼女の隣のブランコに腰掛けた。
「あれえ。あんまり乗り気じゃなかったのに」
悪戯っ子の笑顔を見せる。
彼女の笑顔のバリエーションは本当に豊富だ。
「突っ立ってても暇だからな」
久々に乗ってみたものの、前後の動きに少し気分が悪くなってきた。これ以上はやばい。僕は動きを止める。
横を見ると彼女はまだ、楽しそうにブランコに揺られている。
「えー、もう終わり?」
僕が止まったのを見て、彼女は笑う。
「これ以上やってたら、気分悪くなりそうだ」
「だらしないなあ」
そう言いながら、彼女もブランコを止める。
「……あのさあ」
ブランコに腰掛けたまま、彼女にしては少しトーンが低めの声を出した。
「ん?」
「昨日なんだけどね……」
僕の心臓の鼓動が早くなっていくのが分かる。
「昨日がどうした?」
彼の事だろうか? まさか、彼氏が出来たって話だろうか? 聞きたかった事なのに、聞きたくない。
緊張に包まれるが、それを悟られないように努めて平静を装う。
「うん、あのね、私、付き合って欲しいって言われて……」
ちらりと横目で彼女を見るが、俯いていて、表情は分からない。
「へー。そうなんだ」
ぶっきら棒な答え方ではないかと心配になるような、返事をした。そして、彼女が出した結果を聞くのが怖い。
「うん。でさ、断ったんだけどね、相手に悪くなかったかなあ……」
彼女は僕の不安をあっさりと打ち砕く。
人はほっとすると力が抜けるのか、と思うくらい全身から力が抜けていくのが、自分でもわかる。座っているのがブランコで良かった。両脇のチェーンを掴んでいなかったら、ブランコからずり落ちているところだ。
「かと言って、その気もないのに付き合えないしね。なるべく気を使って断ったつもりだけど、大丈夫かな」
「そうか……」
何と言っていいかわからない。
「うん。それにさ、私はまだ彼氏とかそんなの考えた事ないし、何より、今は部活の方が楽しいし」
彼女の言葉は、昨日の彼の告白に向けられたものだ。
でも、同時に彼女のその言葉は、僕に対しても言える事だ。彼女の今の気持ちはその言葉通りなのだろう。
「でね、私今日の午前中の部活の時にたまたま学校ですれ違ったんだけどさ。今まで通りに接したの。それ、間違ってないよね」
どうやら、僕の意見を求めているらしい。
「うーん。どうだろう。その時その相手はどんな様子だった?」
複雑な思いを抱きながらも一応、彼女の相談には乗る。
「普通。前と変わらなかった」
「じゃあ、大丈夫だと思うけどな。きっと、そいつも納得できたんだろうな」
僕ならどうだろうか。彼女に今までのように接する事が出来るだろうか。
「そっか。そうだよね。私の方が気にするのも、かえって悪いしね」
彼女の顔に笑顔が戻る。
この笑顔をこれからも見ていたい。ならば、今の関係が崩れるような事はしたくない。
僕には今まで通りなんて、無理なような気がする。きっと、態度に出てしまうだろう。それを考えると彼を少し、すごいと思う。そして、自分の気持ちを伝える勇気を羨ましくも思う。
僕は臆病だ。でも、それでも、彼女の傍でその笑顔を見れるのならば……。
「でも、もったいなかったかな。もし、この先ずっと、彼氏が出来なかったらどうしよー」
僕に次は少しふざけた笑顔を見せると、再びブランコに揺られ始めた。
大丈夫、僕が傍にいるから――そんな事を臆病者には言えるわけなかった。
次の日。日曜だが、相変わらず僕にはこれといった予定はない。
ベットの上でごろごろとしながら過ごしていた。いつも通りの休日である。
でも、気持ちは晴れない。そして、その理由も分かっている。
彼女が受けた告白を断った事はほっとした。だが、それを知っても僕は気持ちが晴れない。
僕は彼女の笑顔を近くで見ていたい。それだけなら、今のままでも問題はない。
でも、これから先は?
ずっと彼女の笑顔を見ていられるか?
高校を卒業したら?
大学生になったら?
更にその後は?
僕らは必ず年を重ねていく。時は人の意思に関係なく進んでいく。いつか大人になる。その時、僕は彼女の笑顔を見れる場所にいるのだろうか?
彼女は何でも僕に話す。その日にあった事、思った事。だからだろう。告白された事も僕に話したのだろう。彼女にしたら、日常の一コマなのだ。
考えてみれば、初めて会った時からそうだったような気がする。
彼女と初めて会った時の事――。記憶にない。そりゃそうだ。親から聞いた話だと、まだ、生後間もない
頃だったそうだから。
そう、彼女とは、いわゆる幼馴染というやつだ。だからこそ、余計にその関係性を壊す勇気が僕には持てなかった。
だが、そうかと言って彼女の事をずっと小さい頃から思いを寄せていたわけではなかった。
ずっと一緒にいる事が、毎日一緒にいる事が当たり前過ぎたのかもしれない。でも、それが変わったのが、高校入学からだった。彼女が部活動に入ったのだ。中学までは入らなかったクラブに何故か入った。
もちろん、最初は何も思わなかった。入部すると聞いても、そうなんだ、くらいにしか思わなかった。
でも、日が経つにつれ、彼女と会える日が少なくなってから僕は気づいてしまった。
彼女の顔が見れない日、会話を交わせない日、笑顔が見れない日。
僕は彼女に対して、幼馴染としてではなく、特別な感情を抱いている事に気づいてしまった。
それでも、毎日は過ぎていく。何も変わらない彼女と、気づいてしまった僕。今を壊したくない僕と、変化を求める僕。
でも、やっぱり僕は臆病だった。
関係を壊すのを恐れていたのではない。きっと、決断するのが怖かったのだ。
今に満足して、先を考えず、何も決めない。見守る決心もつけず、動く勇気も持たず、ただ、今日の一日のようにだらだらと過ごしていただけ。
彼女が彼と歩いているのを見かけた時。僕はその時から、気づいていたはずだ。気づかないふりをしていても、分かっていたはずだ。今は永遠に続かない、と。
僕は時計を見た。
そろそろ、彼女が部活から帰ってくる時間だ。
僕はベットから立ち上がると、大きく深呼吸を繰り返す。部屋を出て、玄関へと向かう。玄関の扉を開
け、家の前の道に出た。
僕の家のすぐ隣の家を見上げた。彼女の家だ。
僕の家と彼女の家の丁度、真ん中で彼女の帰りを待つ。
何度も、家に戻ろうという考えが沸き上がってくる。臆病者が思いそうな事だ。僕は必死のその考えを抑えつける。
「何してんの?」
臆病と戦っている僕に声が掛かった。
彼女だ。不思議そうに僕を見ている。
「や、やあ。お帰り」
どうやら、戦いに夢中になていたらしい。僕からしたら、突然現れた彼女に、頭が真っ白になる。
「え? うん、ただいま。それより、そんな所で、一人何してるの?」
「えっと、まあ、その……」
「あっ! もしかして、おばさんに怒られた? また、家、追い出されたの?」
彼女はにやっと笑う。
「ち、違う!」
何、小さい頃の話を持ち出すんだ。小学一年頃の話じゃないか。
「えー、本当に? じゃあ、私におかえりって言う為に待ってたの?」
悪戯心一杯の表情の笑顔である。そう言えば昔、親に怒られて家から閉め出された時も彼女にここで会ったな。
「ああ、そうだよ。待ってたんだよ」
「ははは。そうなんだ。そりゃ、どうもありがと。……で、今日は何しでかしたのよ?」
どうやら、彼女の中では僕が、家から追い出された事で決まりのようである。
「いや、だから、その……」
ここまできても、僕の臆病は元気なようだ。
「ね、私も一緒に謝ってあげるからさ。どうしたの?」
一転して、優しく微笑む。
そうだ。あの時もこうやって彼女が一緒に謝ってくれたんだっけ。
「早くした方がいいんじゃない。でないと、どんどん謝りにくくなっちゃうよ」
彼女はその手で僕の腕を掴んだ。そして、うちの家の方へと僕を誘導する。
「なあ……」
「ん?」
「俺、……ミナの事が……その、す、好きだ。きっと昔から、ずっと……」
彼女の動きがピタリと止まった。
「だからさ、これからもずっと傍で見ていたいんだ。お前の笑ってる顔がさ……」
周囲には誰もいない。静かだ。僕は急に冷静に周りを見渡す事が出来た。
でも、彼女の顔だけは見る事が出来ない。今、どんな顔をしているんだろう。
僕は彼女の、今までに何度も見てきたその顔へ視線を移した。
「その……、返事聞かせてくれないか?」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『返事を聞かせてくれないか?』
そこで、小説は終わっていた。
パソコンに向かっている那美はじっと動けないでいた。ただただ、モニターに映る最後の一文を凝視していた。
目を閉じ、那美は大きく息をする。
心のざわめきも不安も無くなっていた。
「“ミナ”……ね。……本当に捻りがないなぁ」
苦笑した那美は、マウスを握り、動かしていく。
トップページへと戻ると、カーソルをユーザー登録に合わせる。そして、那美はマウスをクリックした。
朝、目が覚めた航平は昨夜、いつの間にか自分が眠っていた事を思い出した。
昨日、那美に小説投稿サイトに自分が投稿した小説を読むように言った航平は夜になって、那美の部屋の明かりが点いている事を何度も確認していた。
那美はあの小説に気づくだろうか、読んだらどう思うのだろうか――
そんな思いを頭の中でループさせ、部屋の明かりを消して落着きなくベットの上で転げまわっているうちに、いつの間にか寝てしまったようだ。
航平は起き上がると、カーテンの隙間から那美の部屋を伺う。那美の部屋のカーテンは閉じられ、中の様子は伺えない。
航平はパソコンを起動させると、小説投稿サイトを開き、ログインした。
すると、彼にとって初めての経験が起きた。彼の書いた小説に感想が書かれた事を示すメッセージが表示されたのだ。航平に緊張が走る。今まで感想など貰った事
がなかったからだ。
航平は初めて貰った感想に嬉しく思いつつも、今はそれどころでは無いという思いだった。今の航平には、那美の反応の方が気になる。
それでも、一応目を通そうと、感想を開く。
『確かに、公平は臆病な男の子だと思いました。でも、“彼女”は鈍感だと思
いました。公平の気持ちにも、そして、自分自信にも……』
感想を書き込んだ人物の名は『nami』とあった。
「nami? まさか、那美?」
書き込まれている感想に航平は困惑の色を浮かべる。
この『nami』は那美だろう事は簡単に推測出来る。まさかまったく別の“ナミ”さんが、このタイミ
ングで感想を送ってくるなんて奇跡のような偶然は無いと航平は思う。しかし、確証も持てない。
航平はもう一度、感想に目を通す。
確かに航平は自分でも、小説を書きながら、己の臆病さにはうんざりするくらい自覚している。そして、そんな彼の気持ちにまったく気づかない那美を鈍感であるというのも理解できた。
「でも、自分に鈍感ってどういう意味だ?」
航平は首を捻った。考えてもよく分からない。『nami』が本当のところ、誰であれ、意味が理解でな
い。
その時、机の上のスマホが、音をたてた。通話アプリのメッセージが届いた事を知らせる音が小さく響いた。
『おはよ。もう起きてるかい?』
送り主は那美。
航平は慌てて、窓のカーテンを開けると、隣の幼馴染のいる部屋を見る。
那美の姿が見えた。指で表の方を差している。表に出ろ、という合図である。
航平は頷くと、部屋を出ようとしたが、自分がパジャマのままである事にかろうじて、扉の前で気づいた。慌てて、近くにあった服に着替え、部屋を飛び出した。
航平が外で出た時には、すでに那美は出てきており、塀にもたれ掛かっていた。
「おそーい」
ふくれっ面で、航平を出迎える。
「ご、ごめん」
謝りながら、航平は那美の様子を伺う。少し、寝不足のように思えた。
「あの……」
何と言えばいいのか、分からず航平の言葉は途切れた。
「航平の書いたやつ、読んだ」
「そっか……」
那美は笑顔を見せる事なく、無表情であった。
「あれ、タイトル何だっけ? ファンタジーの。あれ、酷いよ」
「やっぱり、そうか……」
薄々、自分の文才の無さに気づいていた航平であったが、やはり面と向かって酷いと言われるとショックを受ける。
「誤字も多かったよ。あれで、テストは大丈夫か私、心配になったもん」
「お、おう、すまん」
思わず航平は俯いてしまう。
「ああ、あとさ、恋愛……小説も読んだ……」
少しの沈黙が二人の間に生まれた。
「……そ、そうか。あの、そ、それでさ、その……、感想書いたのって……」
航平は那美を直視出来ずに横目で盗み見るように見る。それを、ちらりと那美は一瞥する。
「うん、そう。私。私もユーザー登録だっけ? したんだ」
相変わらず、今朝の那美はまったく感情を顔に出さない。そんな那美に航平は不安を覚えてきていた。
「やっぱり、那美だったか……。でも、あの感想、どういう――」
「ふああ、眠い。昨日、遅くまで、起きてたせいですっかり寝不足だよ」
航平の言葉を遮るように大きなあくびをする那美。
「やっぱり、もうちょっと寝ようかな」
「え? いや、その、那美?」
送られてきた感想の意味も、何故いきなり呼び出されたのかも、そして那美がどう思っているのかも航平は何が何だか分からない。
そんな航平を気にする素振りも見せず、くるりと背を向け、那美は歩き出す。
「あっ、そうだ! 寝る前に書き忘れた感想、送るから」
困惑に包まれている航平をよそに、那美は自分の家へと入っていってしまった。
「……」
航平は訳が分からず、その場に立ち尽くす。那美の無表情な能面のような顔だけが、頭に残る。
書き忘れた感想を送るから――那美の言葉を思い出した航平も、ふらふらと家の中へと戻る。
部屋に戻った航平は再び、投稿サイトをチェックしてみた。感想が届いている。
先程とは違った緊張を感じながら、その感想を開く。
『中途半端な終わり方です。続きは書かないのですか? もし、書けないのな
ら、私が、アイデアを出します。きっと、彼女はこう言うと思います。
「私もです」って……』
航平は椅子を倒す勢いで立ち上がった。そして、もう一度、書かれた文章を読み返した。
窓の側に行き、那美の部屋を見る。やはり彼女はそこにいた。こちらを見て立っていた。それは航平が昔から今まで何度も見てきた光景である。
那美が航平に笑顔を見せる。
その“彼女”の笑顔は航平が今まで見てきた中で、最高の笑顔だった。