一学期の終わり、夏休みの始まり[改]
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を多少改稿したものです。中途が大きく変更されているので、どちらも残しておこうと思い改訂版として上げ直すことにしました。
多分、良くなっているはず(笑)
P.S
電車に乗ってからの文章は一字一句同じです。
ーー終わった!!
夏休み前の最後の授業が終わったことを告げるチャイムが教室に鳴り響く。
乱暴に鞄を手にとった私は教室を飛び出し、脱兎のごとく階段を三段飛ばしで降りていく。
「ホームルームなんか知るかー」
私は無意識に叫んでいた。熱された大気を震わせるその声は真夏の蜃気楼のように消えていった。
先生が私がいないことに気がついたとしても明日は夏休みなので私は登校しない。次に登校するのは夏休み明けだが、一ヶ月も空いてしまえば今日のことなんて先生は忘れてしまうに決まっている。担任が定年間際の世界史教師であるなら尚更だ。
下駄箱で靴を履き替えると、閉ざされていた正面扉をよじ登って乗り越える。警務所さながらの厳しい校則に縛られたこの監獄から誰よりも早く抜け出したという達成感がこみ上げてくる。
ミンミンと蝉が鳴いている。それに呼応するかのように名も知らぬ虫が鳴いており、それを狙って百舌が集まってきた。視界の端で雑草がカサカサと音をたてるのが聞こえる。
心臓の鼓動がなかなか収まらない。胸に手を当て、緊張をほぐそうとするが上手くいかない。
透明な汗が額から滴り落ちる前に腕でそっと拭った。
とうとう私はやってのけたのだ 。同じことの繰り返しの毎日に私は辟易していた。慣れというものは恐ろしい。中学生の時はあんなに眩しく見えた高校生活は半年も経たないうちに鈍色にくすんでしまっていた。
こんな生活をぶっ壊してみたい。いつしか私はそう思うようになっていた。かといって夜中に学校に忍び込んで窓ガラスを破壊するのは躊躇われた。そんなことをしたら停学は免れないし、下手をしたら退学だ。
だから駐在所のお爺さんの厄介にはならない程度の、謝って済むようなことを一発かましてやろうと思っていた。
そこで選ばれたのが学校を抜け出すということだったが、これも良心の呵責からなかなか実行に移すことができずにいた。学校をサボってはいけないという当たり前の常識が私を縛り、躊躇させるのだ。
だから私はこの大脱走を成功させるために入念に計画を立てた。
計画において最も大事な点は、実行直前になって躊躇してしまわないかということだった。どんなに完璧に策を練っても実行できなければ全く意味がない。米を研いで炊飯器にかけたはいいが、ボタンを押し忘れるのと同じくらいに意味がない。
この大脱走にあたって、学校をサボってはいけないという理性を超えるような学校をサボるべき理由を与える必要があった。
そのために学校をサボらなくては間に合わないような用事を入れることにした。
数日前にたまたま目に入った求人広告は夏休み前だったのでたくさんの募集があり、その中から私は海の家での一週間の泊まり込みのアルバイトを選択した。
他にも選択肢は山のようにあったが、どうせなら夏を体験できるところにしたかった。
「ちょっとあんた何やってるのよー!」
遠くから声が聞こえた。
振り返ると腰まで乗り出した友人が窓から手を振っている。
ーーもうすぐホームルームはじまるよ!
きっとそんなことを言うのだろう。
「大事な用事があるの!」
友人に向けて叫び返す。でもその声は届かなかったようだった。
「な・ん・て・?」
一文字ずつ強調するように叫ぶ友人。
「だ・い・じ・な・よ・う・じ・!」
同じように返事をした。今度は聞こえたようだ。
呼吸を整えた私は返事が来る前に駅までの坂道を全力で駆けだした。吹き付ける風が腰ほどまである長い髪をふわりと浮き上がらせる。耳をくすぐる風の音で蝉の鳴き声は聞こえなくなっていた。
昨日の雨でぬかるんだ地面は真夏の太陽に熱せられ、いつも以上に空気がじめじめしている。
口を開けて呼吸をすると、濃密な自然の匂いと相まってまるで水中で息をしているのではないかと勘違いするほどの息苦しさを感じた。
田圃沿いの細い田舎道を走っていると、たまにすれ違った人が驚いたような声を上げている。
ーー脚を止めるな!
自分の身体に鞭を打ち、ますます速度を上げた。筋肉に疲労がたまり始めていたが気にしている暇はなかった。
バイト先には今日の三時に着くと伝えてしまっている。店長は到着次第シフトに入ってもらうと言われている。遅刻は許されない。
ホームルームに出席したら遅刻するのだから、欠席はやむを得ない。
それが私が私を納得させる理由だった。
遅刻は断じて許される行為ではない。待ち合わせ相手の時間を消費させることになるのだ。時間を無駄にさせること、これが如何に邪悪で非生産的であるかは以外に知られていない。
例えば超一流の有名人は分単位でタイムスケジュールが決まっているという。予定されたイベントなどに遅れた場合、スポンサーを含めてどれほどの損失がでるかわからないからだ。
だからこそマネージャーはスケジューリングに細心の注意を払う。一分一秒の遅延も許されない。
助走を付けて小気味よく水たまりをジャンプする。驚いた蛙が小さく跳ねた。
私は着地を決めると、再び走りだす。
――じゃあ私は?
私は有名人でもないし、時間通りに動かなければいけないほど画一化された人間ではない。
それでも時間は守らなければいけない。
もし私が電車に乗り遅れたとしよう。すると本来は埋まっていたはずの座席に誰かが座るかもしれない。その席に着いた男性は隣の席の女性に恋をするかもしれない。二人の間に子供が産まれ、その子が総理大臣にでもなってどこかの国に戦争でも仕掛けて、相手国が滅んでもしたらそれこそ世界が歪んでしまう。
そんなトンデモバタフライ効果が起きるとしたら、私の行動はもはや世界の運命を左右するほどの重要案件ではないか。
シークレットサービス社は私を逐一護衛しなければならないし、都市伝説上の存在である信号機を自由に操作するスイッチを使ってでも私の時間は厳守されなければならない。
でも実際にはそうなっていない。おかしいな。
よく考えれば当たり前の話である。先ほどは私は六十億に一人の存在であるという仮定の下に、世界を変質させる力をもつという結論が導かれたのである。
しかし同様の考えをすれば世界中の誰もが同じ力を持っていることになる。
みんな同じ力をもっているなら私だけ特別扱いするわけにはいかない。だから屈強な黒服の男は私を警護しないのだ。
なるほど納得。
数学教師の授業が終わるのは十二時ジャストと決まっていた。
一時間に一本しかない特急電車の発車時刻は十二時二五分。走れば間に合う計算だった。
新品のローファーが脱げそうなくらいに脚を回転させた。普段は挨拶を交わす商店街のおばちゃんも今日ばかりは素通りだ。
「そんなに急いでどこいくの」
商店街の誰かがそんなことを言った。言葉の代わりに手を振って返す。
一本松の下を走り抜ければその先は見慣れた無人駅だ。目を凝らすと一両編成のぼろぼろのディーゼル車が止まっているのが見えた。
ーーいそげ、いそげ、いそげ!
自分の限界を超えて更に速度を上げる。身体の隅々にまで神経が行き渡って操っているような、今まで感じたことのない疾走感に包まれていく。今ならカールルイスにでも勝てそうな気がした、勝てないけど。
発車を知らせるベルが小さく鳴っている。
私は最後の力を振り絞って駅前の小さな階段をひとっ飛びすると切符も買わずに電車に駆け込んだ。
直後扉が閉まり、電車は静かに動き出した。
ガンガンに効いた冷房に火照った身体の熱が急速に奪われていく。
シートにだらんと腰掛けた私はスカートのポケットからハンカチを取り出して全身の汗を拭いていった。
このまま終点まで一時間。運転士以外誰もいない車内で私はいつの間にか眠りに落ちていた。
「お嬢さん、終点ですよ」
肩を叩く駅員の声で目を覚ました。
ぽかんと空いた口元からよだれが垂れていないかを確認する。よし、大丈夫。
無人駅から乗ってきたことを告げ、運賃を払って下車する。
手動で扉を開けると潮の匂いが鼻腔をくすぐった。続いて周期的な波の音が鼓膜を響かせる。空を見上げるとカモメが数羽飛んでいた。
五感に受ける刺激から海を見てもいないのに海にきたという事実が確信に近づいていく。これではまるでヘンペルの烏だ。
携帯電話を開いて時間を確認すると二時半を少し過ぎたあたりだった。
店長によれば駅から十分も歩けば店に着くらしい。
知らない土地で道はわからなかったが、方角は海が教えてくれた。潮風が吹き付ける方向に海があるはずだから。
五分も歩くと広い砂浜にでた。テレビでしか見たことがなかった海は、まるで神様が洗面器をひっくり返してしまったかのように広大で、打ち寄せる波は想像していたのよりも遙かに静かだった。火曜サスペンス劇場を見すぎたためか、絶壁に打ち寄せる荒々しい波ばかりを想像していたので少し拍子抜けしたが、あんなに荒れた海では海水浴などとてもできるわけがない。
海沿いの砂浜は埋め尽くされんばかりの大勢の人間でひしめき合っている。平日だったがちらほらと家族連れの姿も見られた。
「お嬢ちゃんが今日からバイトしてくれる子かな」
海を見ながら惚けていると後ろから突然声をかけられた。振り返ると真っ黒に焼けた肌とは対照的なシミひとつない白いシャツを着た中年の男性が立っていた。中肉中背でこれといった特徴はなかったが、無精髭を剃ったばかりなのか潮風でボサボサの髪に対して顎のあたりが妙に綺麗だった。使い古されたボロボロのサンダルは砂まみれで、半ズボンから覗く筋肉質の引き締まった足は丁寧に処理されていた。
「えっ…あ、は、はい。よろしくお願いします」
なぜ私がバイトの子だとわかったのだろう。ひょっとしてエスパー!?
「ファックスでもらった履歴書と全く同じ顔の子が店の前に突っ立ってるからすぐにわかったよ。あんたべっぴんさんだからたくさんお客を呼んでくれそうだ。まあ、先ずはあがりな」
店長らしき男性に案内されて店の奥に入る。昼飯時は過ぎていたが、日差しを避けるように店内に逃げ込んだ大勢の海水浴客がかき氷を食べていた。
テーブル席の奥の小さな段差の上の暖簾をくぐると職員用の客間があった。四畳のスペースに小さな机と冷蔵庫があるだけだったが、軽く冷房がかかっているため快適な空間だった。
「さてと、そこに座んな。まずは簡単な挨拶といこうか。俺はこの店の店長でこの家の家主も兼任してる。妻は今入院中で高校生と中学生になる娘が二人。二人とも夏休みはここで仕事を手伝ってくれている。あんたを招いたのは妻の分だけ労働力が減ってしまったからだな」
「奥さんは大丈夫なんでしょうか」
聞いて良いものかと思ったが、気になってついつい口からこぼれてしまった。
店長は少しの間驚いたようにこちらを見つめていたが、やがてハハハと軽く笑いながら言った。
「止めとけっていったのに重い荷物を持ち上げて腰を痛めて軽く検査入院するだけだから大丈夫さ。お嬢ちゃんに余計な心配かけて悪かったな」
大したことはないようでほっと胸をなでおろす。
「ところでお嬢ちゃんはなんでこんな遠いところまで働きに来たんだい?家は山の方なんだろう」
なんと答えようかと幾ばくか悩んだ。しかし私の答えは決まっていた。
「お金を稼ぐためです!」
手のひらを机に叩きつけて、店長の方に身を乗り出しながら答えた。
呆気にとられる店長。沈黙が流れる。ひょっとしてやりすぎた?
「ははははっ。社会経験が積みたいとか海が好きだからとか言う連中はいたがそこまでストレートな志望動機を言う子は初めてだ」
「あ、でもお金だけじゃないですよ。寝床に三食付きというのも個人的にはイチオシポイントでした。あとは山に囲まれてばかりで、海に行ってみたかったというのもあります。ここでお金を貯めたら太平洋側の海も行こうと思っています」
店長さんはお腹を抱えて大げさに笑っている。よほど私の答えがトンチンカンだったのだろうか。うーんおかしい、念密に計算して最高の返事をしたはずなのに。
「お嬢ちゃん、気に入った。なんなら一週間と言わず夏が終わるまでいてくれたっていいんだぜ。えーっと確か名前はーー」
私は名前を伝えると店長とがっしりと握手を交わした。男と男の友情の証のような固い絆を感じた。私は女だったけど。
店長の手にはいくつも豆ができており、ゴツゴツとした感触がした。うちの父親の打ち上げられた河豚のような掴みがいのない手とは全く違っていた。
私は店長の男気に初恋のような淡い憧れを抱いていたのかもしれない。
「よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げる。
「こちらこそよろしく頼む」
続けて店長も軽く頭を下げる。
「おとーさーん。バイトのお手伝いさん来たのー?」
入り口から女の子の声がする。恐らく店長の娘さんなのだろう。
きっと仲良くなれる。会わなくても私は直感的に何故だかそう感じていた。
私の夏休みは始まったばかりだ。
どちらがお好みでしたでしょうか。感想を頂けると非常に喜ばしい限りです。