せめて貴方に伝わるように
久しぶり。と彼女は言った。
それはつまり、俺は彼女に会ったことがあるということになる。
もしかしたら、忘れている記憶に加えてこの懐かしい感覚が関係しているのかもしれない。
それに、どうしてだろうか、俺は彼女には会ったことがあるような気がするのだ。
いつ、どこで、会ったのかは、わからないけれど。
考えが纏まる事はなく、未だ混乱する中、問いかける。
「俺は、どこかで君に会ったことがあるのか?」
彼女は一瞬だけ悲しそうな顔をした後、こちらを向いて。
「会ったことは、あるよ。私は、きっと貴方が私のことを覚えていないということも、知ってるよ。私はちゃんと、覚えてる。
もちろん覚悟はしてたけど、実際にこうしてまた会うと、寂しいよ……。
せっかくこうして、私が私自身として、貴方とまた会うことが出来たのに」
彼女は何を、言っているのだろうか。
それ程までに彼女との関係は良かったのだろうか。
今の俺からすれば、初対面でしかない彼女と。
「そうだ――名前を教えてくれないか?」
もしかしたら、彼女の名前を聞く事で、忘れている記憶が蘇るのではないか、と考えたのだ。
安直な考えかもしれないが、何と呼べばいいのかと困っていた所でもあったし、結局は聞く事になるのだからと、ひとりで納得した。
「私……私の名前はね、佐藤っていうんだよ」
「佐藤か、それは苗字だろう。名前は、なんていうんだ?」
それを聞くと一瞬だけ悩んだ表情を見せた後、自分を佐藤と名乗った彼女はとても良い笑顔で俺の方を向いてきた。
「まだ、昴には教えてあげない、かな」
「なんでだよ! というか今、俺の名前を――」
言いかけた所で、彼女は人差し指で俺の唇を押さえ、言葉を中断させる。
それに加えて、とても顔が近いのだ。息をする音さえ、良く感じられる。
この状況をどうすればいいのか、白く染まりかけている頭を回転させていると、彼女が口を開いた。
「昴、貴方はね、私にひとつ、約束をしたの」
「や、約束?」
「そう、約束。もしそれを貴方が無事に果たしたなら、私は貴方に名前を教えてあげる。もちろん、約束の内容は秘密だけど」
そんな無茶なことを言ってくる彼女はどこか楽しそうで、俺は思わず「分かった」とその言葉に承諾してしまった。
それさえも今の俺には何故か、楽しく感じていた。
未だに何が起こっているのかを理解できていないというのに。
「とりあえず、私をこの部屋の外に連れて行ってくれるかな。起き上がるのはなんとか出来たけど、一人で歩くのはまだ少し難しそうだから」
「――あぁ、分かったよ」
そして俺は彼女を背負って、この小さな部屋から出ていく。
世界一安全なのだと、彼女の父が誇った、この部屋から。
それが本当かは分からないけれど、彼女は守られていたのだ、何か、知り得ない物から。
せめて、宛名すら無い手紙を残した彼女の父の言葉と、彼女の言った約束を、果たせるようにと、願いながら――。




