忘却
その一言で、先に続く言葉が出すことが出来なくなっていた
想定していた言葉とはまるで別の、それどころか聞くはずの無い言葉が飛んできたのだ
「どなたって...貴方の息子、雄大君の友達ですよ、何度かここに遊びに来てますし、今日の昼にも一度来ましたよ?」
とりあえず冷静に、ここに昼にも一度来た事を説明しておくことにした
しかし昼に来た時にはすぐに分かってくれていたというのに、これは一体どういうことなのだろう
「雄大...雄大...」
思い出そうとしているのだろうか、それとも聞きなれない言葉に困惑しているのだろうか
息子の友人だからとしても、こんな悪ふざけはやめてもらいたい
知っている雄大の母親はそんな事をする人だった記憶は無いけれど
「本当にどうしちゃったんですか?どこか、具合悪かったりするんですか?」
「ごめんなさい...何か引っかかりがあるのだけれど、どうしても思い出せないの」
待ちきれずに声をかけると謝られてしまった、そんなつもりは無かったのに
本当に申し訳なさそうに、目の前に居るその人は謝っているのだ
傍から見たら女性を泣かせている悪い男に見えるかもしれない
...この状況であっても、自分にそんな事を考える程度の余裕はあるらしい
今にも泣き出しそうな表情を見ていても、まだ信じる事が出来ない
少なくとも普通は、自分の息子の事を忘れる事などありえないのだから
「今日は...帰ってくれないかしら、さっきから頭が痛くてたまらないの」
「え...でも」
「お願い...貴方の事を知っている気はするのだけど、思い出せないわ...おかしいとは思うの、明日また話を聞くから...今日は帰ってちょうだい...」
絞りだしたような声だった、きっと頭が痛いというのは本当なのだろう
これ以上無理に問い続けるのは無理なんだろうな、と思った
あんなに必死に言われてしまったなら、帰るしか無いじゃないか...
「わかりました、じゃあ...明日また来ますね?」
「ええ...ごめんね、さっきまでは平気だったのだけど」
「お大事に」
最後に一言かけてから、大貫家を後にする
しかし、何故こんなに急に...?
色々な疑問ばかりが浮かぶ
何故こんなに悪い事ばかり次々と起こるのか...何か悪い事でもしてしまって、天罰でも受けているような気分だ
「大丈夫?昴」
隣から声をかけられた、そうだ...今は佐藤さんが居るのだ、あまり暗い事を考えているわけにはいかない
「大丈夫だよ、そうだな...今日は家に帰ろうと思うけど、一緒に来るか?」
「そうだね...どうせ誰にも見えないだろうし」
「そうか...」
暗いことを考えないつもりが、思いきり暗い話題を引いてしまった
夕日も落ちてきていて、そろそろ暗くなろうとしている
夏休みが明けたと言っても、まだ暑さは抜けない
今日は色々ありすぎて、そんな事さえ忘れてしまっていた
空が暗くなっても、気分は落ち込まないようにしよう、せめて今だけでも
今、彼女の声を聞く事が出来るのは自分だけなのだから
「ここで立ち止まっていてもしょうがないしな、帰ろうか」
「うん」
相変わらず人通りの無いこの道を通り、自宅へと向かう
一人と、誰にも見えない一人の、二人で