欺瞞航海 ~客船『龍田丸』開戦秘話~
昭和十六年十二月二日、神奈川県横浜市。
この日、一隻の客船が横浜港を出港しようとしていた。
幕末の開国以来、半世紀以上に渡り日本最大級の貿易港として君臨してきた横浜は、同時に多くの海外航路の出発点でもあった。日本郵船、大阪商船などの国内の船会社はもちろん、各国の客船も頻繁に入港し、日本と世界を繋ぐ窓口として活躍している。
その船――『龍田丸』も、そうした船の一隻だった。
『龍田丸』は、日本最大の船会社である日本郵船が所有する、大型客船だ。
総トン数は一万七千トン。二一ノットの快速を誇り、太平洋を二週間ほどで横断する。船の内装も日本を代表する客船に相応しい豪華なもので、姉妹船の『浅間丸』、『鎌倉丸』と共に「太平洋の女王」と呼ばれている。
就役以来、十一年に渡り活躍を続けてきた彼女にとって、太平洋往復はもはや生活の一部と化している。だからといって、気を抜く事はできない。海は日々刻々と表情を変化させ、一瞬たりとて同じ時はない。例え通い慣れた航路であっても、油断は厳禁だ。
しかし、これまで百回を超える航海を行ってきた『龍田丸』をもってしても、今回の航海はこれまでに経験した事がないものだった。
普段ならば見送り人が立錐の余地もないほど集う桟橋は、人影も疎らだ。旅の始まりを彩るカラーテープが舞う事もない。日本有数の豪華客船の出港風景としては、いかにも活気に乏しかった。
何よりも、『龍田丸』自身の姿が通常とは大きく異なっていた。
白と黒に塗り分けられた船体と、社旗を描いた煙突こそいつも通りだが、船体には大きな日章旗が両舷に二カ所ずつ描かれ、日本船籍である事を強調している。その様は、平安時代の貴族が怨霊を避けるために護符を身につけるようであった。
事実、彼女が身に纏う日章旗は、護符のような役割を果たすものだった。そして、その事は彼女がこれから赴く旅が危険をはらんだものである事を示していた。
満州事変に端を発する日本の中国大陸進出による日米関係の悪化は、昭和十年代に入り急激に加速した。
仏印進駐、日独伊三国同盟の締結といった日本の行動はアメリカの対日感情を激しく害し、昭和十六年七月、同国は遂に日本の在米資産を凍結すると発表した。
かねてより緊張の度合いを増していた日米関係は、これを機に急冷、日本郵船が運航する北米航路も休止に追い込まれた。そして、仕事を失った客船たちに対し、政府は各地の在留邦人の引揚げを命じた。
『龍田丸』は、そのような在留邦人に対する引揚船の一隻だった。担当方面は、彼女にとっても馴染み深い北米である。
配船表によれば、『龍田丸』は十二月十四日にロサンゼルスに入港。その後、中米のパナマに足を伸ばし、横浜に帰港するのは年明けの一月十六日となる予定だ。
四基のスクリューで海水を掻き回し、『龍田丸』はゆっくりと桟橋から離れる。その様子を、二等航海士の佐久間貴仁は船橋の見張台から注視していた。
入出港は、船の運航でもっとも神経をつかう場面だ。特に、見張りの航海士は危険を早急に察知するため、目を皿のようにして周囲に気を配る。
無事に桟橋から離れた船は、離岸を手伝ったタグボートに別れを告げて二色の灯台に挟まれた港の出口へ向かう。『龍田丸』の汽笛が三度、長く鳴り、停泊する船たちへ出港の挨拶を送った。
汽笛を聞いた佐久間は、最初の一歩を順調に踏み出した事を知り、僅かに緊張を解く。その時、後ろから彼を呼ぶ声が聞こえた。
「……貴仁」
「ああ、いいぞ」
背中越しの声に、佐久間は前を向いたまま答える。すると、誰かが近づく足音が聞こえ、そして彼の隣で止まった。足音が止まった瞬間、彼はちらと横を見た。
そこにいたのは、一人の少女だった。佐久間と同じ日本郵船の船員服に身を包んでいるが、歳はずっと低く、十四、五歳にしか見えない。船員よりも、女学生の格好の方が似合う外見だった。
「珍しいな、龍田丸。当直中に声をかけてくるなんて」
「……ごめん」
「いいや、責めてるわけじゃない。ただ、珍しいと思っただけさ」
済まなさそうにする少女に、佐久間は補いの言葉を入れる。それを聞いた少女が表情を和らげるのを、佐久間は雰囲気から感じ取った。
この光景を端から見る者があれば、さぞかし奇妙に思うことだろう。何しろ、船員の格好をした少女が堂々と船橋に上がり、しかもこの船と同じ名前で呼ばれているのだから。
無論、客船には女性の乗組員も少なからず存在する。『龍田丸』の船員名簿にも、電話手やスチュアーデスの欄に女性の名前がある。しかし、まだ子供と違わない年齢の少女を――それも、高級船員として――雇っているはずは無かった。
だが、そうした事は問題ではなかった。なぜなら、少女は艦魂と呼ばれる、人ならざる身の持ち主だったからだ。
艦魂とは、船乗りの間に語り継がれている伝説の一つである。分かり易く言うならば、それは、船に宿る魂とでも言うべき存在だ。
艦魂はあらゆる船に宿り、その船の誕生と共に生まれ、船が役目を終えた時に消える。その姿は、決まって若い女性であるとされており、彼女たちの存在を認識できる者は一握りしかいないという。
それが、目の前の奇妙な光景を説明する答えである。少女はこの船、『龍田丸』の艦魂であり、佐久間は艦魂が見える珍しい人間だった。
「それで、どうしたんだ? わざわざ当直中に話しかけるって事は、何か大事な用があるんじゃないか?」
佐久間の問いに、龍田丸は僅かに顔を伏せる。言おうか言うまいか、逡巡しているようだった。
龍田丸は普段から佐久間と会話と交わしているが、彼が当直の間は滅多に声をかけない。それは、彼の仕事を邪魔しないようにという、彼女なりの気遣いだった。
その彼女が、敢えて当直中に声をかけてきた。常の彼女を知る佐久間は、重要な用件があるに違いないと感じ、先を促した。
「ほら、話してみろよ。変な話でも笑ったりしないからさ」
龍田丸の頭に手を置いて佐久間が言う。龍田丸はなおも暫し逡巡する様子を見せたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「……嫌な風がする」
「嫌な風?」
清流を思わせる声音で紡がれた言葉に、佐久間は首を傾げる。それに対し、龍田丸はこくりと頷いた。
「それは一体、どういう意味だ?」
「悪い予感。何か、良くない事が起きる気がする……」
元々、龍田丸は口数の多い少女ではない。加えて、どこか勘の鋭いところがあるため、時折このような予言めいた言葉を口にするのだった。
「……まさか。考え過ぎじゃないのか」
殊更に明るい声を出し、佐久間が言う。しかし、龍田丸は表情を変える事なく、彼の目を射抜くように見据えた。
「貴仁も気がついているはず。この航海には、おかしな所が多い」
「…………」
龍田丸の言葉に、佐久間は言い返せない。彼女の言う通り、彼自身、今回の航海には不審に思う部分が幾つもあった。
「……不自然な出発の延期。目的地の追加。政府からの無線禁止命令。……こんなこと、今までなかった」
彼女の話した事は、全て真実だった。そして、それらは皆、佐久間が不審に感じていた事でもあった。
当初、『龍田丸』の出航日は十一月二十日とされ、パナマへの寄港予定もなかった。しかし、急遽目的地にパナマが追加され、それに伴う準備に時間を取られた結果、出航が十二月二日に延期されるという経緯があった。無線の使用禁止に関しても、これまでにそのような命令が下された例は皆無だった。
龍田丸は勘の鋭い少女だが、憶測だけでものを語ることは決してしない。必ず、確たる根拠を得てから自論を述べる。
それだけに、彼女の予言めいた言葉には単なる当て推量と一笑に付すことができない真実味がある。先ほど、佐久間が彼女の言葉を殊更に否定してみせようとしたのも、それを知っての行動だった。彼女の言葉を認めてしまうと、それが現実になってしまうような気がしたのだ。
「……この御時世なんだ。多少の混乱は、つきものなんじゃないのか」
「そうかも知れない。でも、それだけならラジオの真空管まで外す必要はない」
佐久間は抵抗を試みるが、彼の反論は瞬く間に退けられる。返す刀で、龍田丸はとどめの一撃を放った。
「なによりも、船橋の海図。一日ごとに航海の限界点が決められてる。まるで何かに合わせるみたいに……。貴仁、こんな事、今までにあった?」
こうなっては、もはや佐久間に抗する術は無かった。彼は両手を挙げて降参の意を示し、首肯した。
「お前の言う通りだ。……けど、今回の予感は当たってほしくないな」
「……私も」
頷いた龍田丸は、何かを訴えるように佐久間の目をじっと見つめる。それに気づいた佐久間は、「どうかしたか?」と問いかけた。
「あ……」
一瞬、龍田丸は口を開くが、すぐに「なんでもない」と首を横に振る。そのまま踵を返す彼女を見送ろうとしていた佐久間は、はっと気づいた様子で彼女を呼び止めた。
「龍田丸!」
「……なに?」
振り返った龍田丸の頭を、佐久間は乱暴に撫でる。驚きの表情で見上げる彼女に、佐久間は笑いかけた。
「あまり気にし過ぎるなよ。先の事を心配しても、どうにもならないからな」
龍田丸は初め目を丸くしたままでいたが、やがてどこか安心したような表情を見せて微笑した。
「……ありがと」
短い言葉を残し、龍田丸はその場を立ち去る。その背中が見えなくなってから、佐久間は苦笑を漏らした。
「あいつも、不安だったんだな」
龍田丸の用件は、言うならば、自身の推測の披露だ。時節柄、緊迫した内容とはいえ、その程度の話ならば当直が終わった後にいくらでもできる。普段の彼女なら、わざわざ仕事の邪魔をしてまで話しに来る事は無かっただろう。
彼女もまた、不安だったのだ。幾つもの確かな根拠に裏付けされた予感。それが現実のものとなってしまう事が怖くて、誰かに「そんな事はない」と言ってもらいたくて、彼女は佐久間の元を訪れたのだ。
佐久間はそれを察し、彼女の不安を減らすための言葉をかけた。もっとも、その事に気づくのはかなり遅かったが。
「……まぁ、ぎりぎり及第点だよな」
言い訳するように呟き、佐久間は海上に視線を戻す。船はもうじき浦賀水道に入る。まだまだ気を抜いてはいられない。彼は気を取り直して見張りの仕事を再開した。
龍田丸の予感とは裏腹に、横浜を出発してからの航海は、平穏無事に進んでいた。
無論、不安が消えたわけではない。佐久間はもちろん、他の船員たちも、常とは大きく異なる航海に不安と緊張を感じている。しかし、船員としての義務を心得た彼らは、内心の動揺をおくびにも出さず日々の業務をこなしていた。
そうして六日が経った十二月二日。『龍田丸』はいよいよ日付変更線を越える辺りに差し掛かった。
その日は朝から風が強く、荒れ気味の天気だった。当直に立つ佐久間は、船の動揺に手を取られないよう気をつけながら海図に航跡を記入していた。
船は現在、ミッドウェー諸島の南西五百キロ程度の地点にある。このまま進めば、午後のうちに日付変更線を越え、日が沈む頃には西半球の海を航行しているはずだった。
普段ならもっと先まで進んでいるのだが、政府から十六ノットの減速運転を指示されているため、航跡の伸びは遅い。いつもの速度を知っている身としては、どうにももどかしい。
今一つ、『龍田丸』の動きを制約しているものがあった。海図に書かれた赤線――航海限界点の存在だ。一日ごとに細かく定められたそれは、鎖に繋ぐようにして『龍田丸』の自由な航海を阻んでいた。
しかし、多少不如意な部分はあるものの、航海自体は平穏そのものだった。出航前の不吉な予感など嘘のような穏やかな航海。日が重なるうちに、佐久間は、自分の不安が杞憂に終わるのではないかと感じ始めていた。
きっとそうに違いない。そうと分かれば、早く龍田丸にもそれを教えて、不安を晴らしてやろう。佐久間がそんな事を思った時、同僚の話し声が耳に入った。
「なあ。このままだと、日本はアメリカと戦争になるんじゃないか?」
「戦争だって? そんなバカな」
話を切り出した乗組員に、別の乗組員が答える。口火を切った乗組員は、「考えてもみろよ」と若干興奮した様子で言った。
「日本の在米資産凍結に、在住邦人の引揚げ。今や、日米関係は一触即発だ」
「架空戦記の読みすぎじゃないか? 昨日の夜、『太平洋大戦争』でも一気読みしたんだろ」
「からかうなよ。俺は真面目に言ってるんだ。この船にだって、宛先も用途も分からない灰色のペンキ缶が大量に積み込まれてる。万一の時は、すぐに船体を塗り返られるようにするために違いない」
「はいはい。そうかもな」
熱っぽく語る一方とは別に、もう一人の乗組員は冷めた様子で話を受け流す。佐久間は、二人の会話を聞きながら海図に目を落とした。
彼の視線の先には、ミッドウェー諸島と、その東に位置するハワイ諸島がある。そういえば、ハワイの真珠湾にはアメリカ太平洋艦隊の根拠地があったな――胸中で呟いた佐久間は、次の瞬間、はっとして顔を上げた。
真珠湾。佐久間はその地名に聞き覚えがあった。それも、あまり良くない記憶を伴って。
以前にも一度、『龍田丸』は引揚船として北米に派遣された事があった。その時、『龍田丸』は北方から真珠湾に接近するコースを辿るよう、海軍から指示されたのだ。
どのような意図でその指示が出されたのかは分からない。しかし、船には事務員に扮した海軍士官が乗り込み、『龍田丸』が潮流に流された風を装って真珠湾に近づく様子を細かに観察していた。佐久間も、自分が記入した海図を熱心に見入る士官の姿を覚えている。まるで、何かの下見をしているかのようだった。
その事を思い出すと同時に、彼の思考は急回転を始めた。今や霧散しかけた不安は再び勢いを増し、靄のように心を覆おうとしていた。その中を、これまで耳にしてきた断片的な情報が飛び交う。
何かを見計らうような出航延期と航海限界点の設定。無線通信の徹底的な禁止。大量の灰色のペンキ。そして、以前の航海での、何かの下見とも取れる航路指定――それらの要素に日米戦争の可能性を加えた結果、導かれた答えに佐久間は背筋を凍らせた。
「済まない。少しここを頼む!」
同僚に海図台を預けた佐久間は、船橋を飛び出して電話室へと向かった。
無線を禁じられ、ラジオの真空管も抜かれている現在、『龍田丸』と外の世界を繋ぐものは、船内に設置された電話一本だ。恐らく、電話室には彼の予想する情報が既に入っているだろう。
佐久間は滑るように階段を下り、電話室のあるデッキに着く。そのまま廊下の角を曲がろうとした時、彼は慌てた様子の龍田丸と鉢合わせた。
「貴仁っ……!」
佐久間の姿を認めた龍田丸は、掠れた声で彼の名を呼んだ。彼女の顔から血の気が失せているのを見た佐久間は、自分の予想が的中した事を悟った。
「さっき、電話室に……。日本が、アメリカと……開戦したって……」
「……っ」
最悪の予想が現実のものとなった事に、佐久間は表情を強ばらせる。その様子を見た龍田丸は、彼の顔を見上げて尋ねた。
「……分かってたの?」
「ついさっき、閃いた。確認するために電話室に行く途中だったが……その必要は無くなったようだ」
呻くように言った佐久間は、「詳しい事は分かるか?」と聞いた。
「日本が米、英、蘭に宣戦布告して、海軍が真珠湾を奇襲したって……それ以外には、なにも」
「そうか……」
目を閉じた佐久間を、龍田丸は不安気に見つめた。
「貴仁……私たち、どうすれば……」
「引き返すしかないだろうな」
目を開いた佐久間が答える。
「軍のお偉いさん方も、そのために出航を先延ばしにしてくれたんだからな」
「……どういうこと?」
「海軍は、俺たちを囮に使ったんだよ」苦い顔をして、佐久間は言った。
「アメリカ領のすぐ近くを日本の商船が航行していれば、アメリカは日本が攻撃してくる事は無いと考える。そんな状態で戦争を始めれば、その船はすぐに敵に沈められてしまうからな。そうやって油断させ、奇襲をかける作戦だったんだ。もちろん、囮に危険が及ぶ可能性は承知の上で」
「そんな……」
龍田丸は、血の気が引いた顔をさらに青くさせる。今にも倒れそうな彼女の肩を支え、佐久間は言葉を継ぐ。
「けど、海軍さんも俺たちを完全な捨て駒にするつもりは無いらしい。この船はまだ、アメリカの勢力圏からは離れた場所にいる。恐らく、これも海軍さんの計画通りだろう」
「それじゃあ……出航日の延期や、航海限界点は……」
「相手を欺きつつ、できるだけ囮役の危険を減らすための措置さ。準備段階から貢献してきた奇襲成功の立役者を、開戦直後に沈めるわけにはいかないからな」
「え……?」
佐久間の言葉に、龍田丸は思わず声を漏らす。
「……立役者? 私が?」
「ああ。前回の邦人引揚に行った時のこと、覚えてるか?」
「うん……。あっ!」
「気がついたか」
龍田丸の表情の変化を見て取った佐久間は、微かな笑みを浮かべて言った。
「あの時、海軍の人が乗ってきて、偶然を装って真珠湾に近づくコースを取るように言った……あれは、今日の下見だった……?」
「多分、な。俺はそう思ってる」
「知らなかった……」
知らぬ間に自分が海軍の作戦に組み込まれていた事を知り、龍田丸は大きな衝撃を受ける。そんな彼女の肩を叩き、佐久間が言う。
「とにかく、まずは船長に伝えよう。一緒に来るか?」
「……うん」
龍田丸を連れて船橋に戻った佐久間は、船長室で休息をとっていた船長に、日米開戦の報を伝えた。それを聞いた船長は、ただちに手空きの全乗組員を集めた。
「……諸君。先ほど、日本が米英蘭に宣戦布告したとの情報が入った。そのため本船は予定の航海を急遽中止し、横浜に引き返す」
船長の言葉を聞いた乗組員は、一様に驚愕の表情を示した。すぐさま、一人の乗組員が信じられない様子で口を開いた。
「船長……間違いではないのですか?」
「残念ながら、本当だ。日本とアメリカは、今日を境に敵同士となった」
力強く、そしてどこか寂しげな船長の声に、質問した乗組員は開戦の情報が真実である事を知る。船長は他に発言を求める者がいない事を確かめると、話を続けた。
「戦争が始まった以上、敵の攻撃を避けるため、なるべく目立たぬようにしなくてはならない。本船の船倉には、灰色の塗料が二千缶ほど収容されている。これを使い、船体を塗り返る。手の合いている者は早速作業にかかれ」
「はっ!」
命令を受けた乗組員が通る声で返事をする。解散を命じる前に、船長は「最後に一つ」と付け加えた。
「事務長と相談した結果、無用の混乱を防ぐため、開戦の情報は乗客には知らせない事にした。諸君らは、乗客に不安を抱かせる一切の言動を慎むよう、十分に注意するように。以上、解散!」
船長の号令と共に、乗組員はそれぞれの持ち場へ戻る。海図台の前に戻った佐久間は、早速、現在地の測定と横浜までの最短航路の計算を始めた。
「両舷全速、取舵一杯。全速力で帰還するぞ」
船長の命令を復唱し、操舵手が舵輪を左に回す。同時に、軽快な鈴の音と共にテレグラフの針が動き、船底の機関室に命令を伝える。
『龍田丸』の船体が右に傾き、左に旋回する。船首を西に向けた『龍田丸』は、一路横浜を目指して速度を上げた。
フルスピードで航行を続けた『龍田丸』は、開戦から六日後の十二月十四日、横浜港に帰着した。
突然の航海中止に乗客たちは当初困惑の色を見せたが、乗組員の冷静な対応もあり、幸いにも大きな混乱に発展する事はなかった。懸念された敵からの攻撃も、『龍田丸』が開戦後すぐに引き返したためか発生しなかった。
危険な航海から生還した『龍田丸』を、海軍は盛大に歓迎した。軍艦の先導で横浜港に入港した『龍田丸』は、上部構造物を灰色に塗った船体を大桟橋に横付けた。
乗船していた人々がタラップを伝って続々と船を下りていく。入港時の見張りをしていた佐久間は、乗客全員を無事に連れて帰れた事に安堵の息を漏らした。
「……お疲れ、貴仁」
「お前もな」
労いの言葉をかける龍田丸に、佐久間が答える。
「……結局、お前の悪い予感が当たっちまったな」
「……うん」
頷いた龍田丸は、佐久間と同じように下船する人の流れを見る。それを辿った先にある街では、開戦以来の相次ぐ勝報に対する祝賀行列が練り歩いていた。
「賑やかだな」
「……うん」
佐久間の言葉に対し、龍田丸が二度目の首肯を返す。
「これなら、先の展開にも少しは期待が持てるかもな」
「……ううん」
龍田丸は、今度は頷かなかった。
「楽しいのは、今だけ。次は、もっと悪い風がくる」
「……また、何か理由があるのか?」
背筋に冷たいものを感じながら、佐久間は龍田丸を見る。彼女は街を見つめたまま、ゆるゆると首を横に振った。
「ない……。でも、きっとくる。もっと、もっと悪いものが……」
佐久間は、何も言えなかった。例え根拠が無くとも、今や彼にとって、彼女の言葉は予言そのものとなっていた。
佐久間は、再び街を見る。そこでは、戦勝祝いの行列が大通りを練り歩き、陽気な音楽を港にまで届かせている。しかし、今の彼には、その光景が空しい空騒ぎにしか見えなくなっていた。
昭和十六年十二月十四日。それが、これから一年二ヶ月に渡る、客船『龍田丸』の戦争の始まりだった。
十月の『瑞鶴』に続けての短編作品です。如何でしたでしょうか。
今回の作品の主役は、日本郵船の客船『龍田丸』です。
作中でも紹介しましたが、『龍田丸』は昭和五年に竣工した、浅間丸型客船の二番船です。一万七千トンの船体と二一ノットの快速を持ち、エンプレス級、プレジデント級といった英米のライバル客船とも互角に戦える力を持っていました。
そんな彼女が戦前に活躍したのは、サンフランシスコ航路です。。この航路はシアトル航路と並ぶ太平洋の代表的な航路で、日米英の客船が熾烈な競争を繰り広げていました。
それを制するために建造されたのが『龍田丸』を含む浅間丸型客船でした。ちなみに、シアトル航路には拙作「蒼海の天使」の主役である『氷川丸』が投入され、同様に米英の客船としのぎを削りました。
囮航海の内容は作中の通りなので省略しますが、この作品を通して一人でも多くの方に『龍田丸』の事を知って頂けると嬉しいです。ご意見・ご感想あれば、遠慮なくお寄せ下さい。
それでは、またの機会にお会いしましょう。
P.S.
なお、囮航海を終えた『龍田丸』は、その後、海軍に徴用されて輸送船となりました。一時、日英交換船として互いの国の自国民を交換する任務をこなした後に再び徴用。そして、昭和十八年二月、御蔵島の東方で雷撃を受けて沈没。生存者は、一人もいませんでした。