番外編4
「セレドニオ兄上が私の大切な方を拉致したと聞いた時は、肝が冷えましたよ。勝手な真似はやめていただきたい」
リカルドはそう言い放つと、私へ手を差しだして自分の傍へ来させようとする。
私はそれを拒み、一歩リカルドから遠ざかった。思いもよらない反応だったのだろう、目を大きく開いて驚いたのが分かった。
「リカルド、お願いがあるのです。少しだけ時間をくれませんか」
「……何を言われたのですか」
「昔話を。そして、勝手な願いを抱いてしまった。貴方を傷つけるだけになるかもしれない。
でも、リカルド……ほんのわずかも駄目ですか」
聞いてしまったリカルドの過去を再び思い出し、涙が溢れるのを止められなかった。頬を濡らしながらリカルドを見る。
私が聞いた以上の語られなかった記憶があるはずだ。リカルドの視点から見た過去を知ったら、こんなあつかましい願いを言い出せなかったかもしれない。
けれど、まだ希望を捨てられないのだ。わだかまりが解けるという未来を。
リカルドは真顔で私に近づくと、自分に引き寄せて顔を胸に押しつけた。視界は何も見えなくなった分、頭上でセレドニオ様に対して言うのがよく聞こえた。
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……すまない。泣かせるつもりはなかったのだが」
「まったくです。彼女の涙には月よりも価値がある。それを流させたのだから、無駄にしない方がいいのでは?」
セレドニオ様は大きく息を吐いた。そして服が擦れた音がする。頭を下げたのだろうと思った。
「今まで、すまなかった。父と母の非道を見て見ぬ振りをしてきたこと。理不尽に一方的に関わりを絶ったこと。リカルドがどれほど苦労しようとも、無関心を貫いてきた。全て今更、だろうが」
聞いているリカルドの鼓動が激しく脈打つのが聞こえた。私の頭を胸に押しつける腕に力が入る。
セレドニオ様の言葉を平穏な気持ちでは聞けないのが伝わってきた。それは怒りか、喜びか。
しばらく鼓動の音しか周囲からは聞こえなかった。リカルドが口を開かないのは、深すぎる心の傷があるからだ。
やはり私は、安直にリカルドに願いを言うべきではなかったのかもしれない。次の言葉を迷う長さが、彼の心情の複雑さを示している。
あまりの長い沈黙に不安になり顔を上げようとした時、ようやくリカルドは発言した。
「少なくとも、この場で受け入れることはできないようです。
……時間をかけましょう。いびつに過ごした時間の、倍以上をかけてゆっくりと。
いつかは、貴方のことを信頼できる日がくるかもしれない。今はそれだけで、お許しください」
「ああ、十分だ」
セレドニオ様が頭を上げた音がした。
私はようやくリカルドの腕から解放される。周囲に視線を向けると、リカルドが先ほどより多少穏やかな顔をして私を見下ろしていた。
「帰りましょう」
「はい。……無理な願いを聞いてくれて、ありがとうございました」
リカルドは少しだけ首を横に振った。そして、それ以上はここに滞在することは許されなかった。
彼が私の腕を掴み部屋から連れ出そうとしたので、部屋を出る寸前にセレドニオ様に軽く会釈だけして別れを告げる。
屋敷の前にはリカルドが乗ってきた馬車が止められており、乗り込むと御者がすぐに馬を走らせた。
二人きりになった空間で、私から静かに口を開く。
「ごめんなさい」
「なにを謝るのか。他ならない貴女が私を思ってしてくれたことを許せないほど狭量ではありません」
リカルドは笑みを浮かべ緊張を緩めると、安心させるように私の頬を撫でた。しばらく彼の手が頬を撫でている間に、私も気分が落ち着いてくる。
先ほど抱きしめてやりたいと思ったことを思い出し、リカルドの頭を自分の胸に引き寄せて両手で抱えた。座っているので、これが限界だ。
「ハルカ?」
困惑する声が自分の腕の中からするが、逃れるつもりはないようだ。
「……昔のリカルドを、抱きしめることはできないから」
そう言うと、私が気が済むまでそのままでいてくれた。
しばらくして頭を解放する。顔を上げたリカルドは眉を八の字にしていた。多分、喜びと照れくささだ。
「ハルカがいなければ、聞く気もありませんでした。……けれど兄上と言葉を交わしてみれば、存外に悪い感情ばかりでもなかった」
リカルドは少しだけ晴れやかであるようにみえる。その表情を見て、自分の行動が間違いではなかったと思えた。
これ以上私ができることは、兄弟の関係が修復していくように願うだけだろう。
いつかリカルドが失ったものが、その手の中に戻ってくる日がくればいい。
「不思議です。貴女が隣にいてくれると、少しだけ世界がそう悪いものではないと信じることができる」
私の手を取ると恭しく唇を落とす。そして、リカルドは眉を寄せつつも、口元を緩ませた。
「困ったな。ハルカにできる限りのものを渡そうとしているのに、それ以上を返される。これではいつまでたっても、適わない」
「それは嬉しいです。私もそう思っているのですから」
なんて幸せな二人だろう。
同じ気持ちであることを知れて、溢れる喜びで自然と顔が笑う。リカルドも、私につられて笑みを浮かべていた。
急に肩を抱き寄せられて、誰にも聞かれないように耳元で囁かれた。
「共にいてください。息を止めるその瞬間まで」
私は驚き固まった。これはそういう意味ととらえていいのだろうか。完全に油断していた。
だが、リカルドならばもっと全ての準備を完璧に仕上げてから言うような気もする。それにしても、あまりにも紛らわしい言葉だった。
しばらく考えた後、考えていても結論は出ないと思い聞いてみる。
「それは、プロポーズと受け取っても?」
様子を窺いながらおずおずと聞いてみると、リカルドは目を見開いた後に静かにゆっくりと片手で顔を覆う。
耳が完全に赤くなっているので、多分違ったのだろう。普段は冷静沈着でも秘めるものが溢れだすと止まらない性格だから、誤解しそうな言葉を高ぶる感情のままに言ったに違いない。私が早まって解釈してしまったようだった。
「もっと格好をつけて、言うつもりだったのですが」
「では、今のは聞かなかったことにしましょうか?」
「……ええ。出来れば」
私はその場面を思い描きながら、柔らかく笑ってリカルドの頭を軽く撫でた。
「待っています」
遠くない未来にきっと緊張しきったこの人が、彼なりの準備を終えて再び囁いてくれるだろう。
その時、覚悟などとうにできているから、迷わず笑ってこう返すのだ。
「二人で生きましょう、この先の全てを」