番外編2
さえずり亭の前を横切る道は馬車が通れる道幅ではないので、馬車は広い通りに置いてきている。
帰りは馬車の場所まで歩いてたどり着かなければならなかった。
「美味しいパスタでした。イチトセ様もお気に召しましたようでしたね」
「ええ。以前来た時に、随分美味しそうな匂いだと思っていたのですよ。今回食べれて良かったです」
腹を満たしてそんな会話をしつつグスターと歩く。
名字のイチトセをまるで名前のように使っているのは、女性姿の私をハルカと呼ばれる訳にはいかないからだ。
グスターはすっかり気を緩ませて路上で私をそう呼んでしまったが、今は偽装夫婦なのを忘れているのだろうなぁ。
私は少し呆れながら、気づかれないように小声で警告を発した。
「グスター。あとをつけられている」
「え」
分かりやすく体を硬直させるものだから、相手に気づいていることがばれてしまった。もう少し遅く伝えれば良かったと後悔した。今の場所では馬車に走って逃げるにも距離がある。
隠す気もなくした不審な足音が小走りで接近してきたので、顔を見てやろうと後ろを振り返った。
「・・・・・・貴方ですか」
いたのはさえずり亭で話しかけてきたフリオだった。私達のあとを追ってついてきたようで、運の悪いことに周囲には人通りがない。
恐怖で顔を青くしたグスターへ、馬鹿にした笑いを浮かべて言った。
「そう言うなよ。アンタもそんな頼りない男より、俺の方が楽しめるぜ?」
「遠慮します。他をあたって下さい」
「たまには毛色の違う女を相手にしたくてさあ」
にべもなく断ったのだが、人の話は聞いていないようだった。こういう輩の相手は非常に疲れる。常識が通じないから、言葉をいくら交わしても無駄だろう。
この様子ではグスターを頼るのも酷なようだし、どう対処するべきか。私は声も出ない哀れな使用人を後ろに庇うようにして立った。
彼がもう少しどっしりとした態度でいてくれたならば口先で相手の気を削ぐこともできただろうが、現状は怯えていることで完全に下にみられていて無理な話だった。
グスターが臆病というより、自分に度胸がつきすぎているのかもしれない。命をかけたやりとりや、国王相手に啖呵を切ることに比べれば、世の中の大半は些事である。
「こっち来いよ」
腕を掴もうとしてきたので、半歩さがって避ける。フリオが再び伸ばしてきた手を、今度は受け流すようにたたき落とした。
軍に所属していた時に学んだ体術は、条件反射的に体を動かすまでに染み着いていた。しかしこれは相手の油断あってできたことで、本気でこられたら体力的に逃げ続けるのは難しい。
まさかかわされると思っていなかったのだろう。フリオは苛立ちを露わに、怒声をあげて脅してきた。
「おい・・・・・・ふざけんじゃねぇぞ!」
しかし、耳障りで暴力的な声を冷静に窘める別の声がした。
「ふざけているのは君の方だろう。それ以上はやめておきなさい」
いつの間にか傍に立っていたのは金髪碧眼の身長の高い男性だった。年の頃は30代前半であろうか。格好は町人のものだったが背後に筋肉質な体格の護衛を連れており、察するにお忍び貴族であろう。
護衛の男性が空気を読み、フリオの前に進み出た。触れそうなほど近距離から、腕を組んで相手を見下ろす。
丸太のような腕には血管の筋が浮かび上がり、筋肉が膨れ上がっている。もし殴られたらと、見る者の想像をかき立てる凶暴な武器だった。
グスターには強気に出ていたフリオも、筋肉の塊のような腕に刃向かっていく気概はないようで、冷や汗を額から垂らして顔色を悪くさせた。
「いや・・・・・・酒を飲み過ぎちまったかな、はは」
「そのようだね。まっすぐに、自分の家にかえるといい」
上品な「とっとと消えろ」である。お忍び貴族の言葉にフリオは一目散に逃げ出し、狭い路地に鼠のように素早く姿を眩ました。
辺りに静けさが戻り、私は大きな問題になる前に解決したことにほっとする。
助けてくれたお忍び貴族は真面目そうな印象で、細身であるので文官だろうと推測した。
「ありがとうございます。助けていただかなければ、どうなっていたことか」
深々と頭を下げた私に、彼は快活な笑みを浮かべた。
「いやなに、知っている顔を見れば助けない訳にもいかないからね」
知っている顔?
私が意味が分からず首を傾げたところで、隣にいたグスターが驚きの声をあげた。
「セレドニオ様!」
呼ばれた知っている名前に、思わず貴族の顔を凝視する。確かに口元の形は彼に良く似ていた。気づかなかったのは、より細い輪郭の違いのせいか。
「初めまして。グスターと共にいる貴女は、イチトセさんで合っているかな?」
この人は、間違いなくリカルドの二番目の兄だった。