払暁
誰しもが英雄の事を話題にする日々がようやく落ち着き、ゆっくりと愛すべき平凡な日常へと戻った頃。
リカルドの屋敷には見知らぬはずなのに、やけに馴染んでいる女性の姿があった。
当然ながら私の事である。
屋敷の家人達は執事などのとりまとめ役を除き、詳しい事情を説明しなかったが、殆ど暗黙の了解のように察しているらしかった。
それでも特に騒がれもしないので、彼らの口のかたさとリカルドの人選には感心するばかりである。
アルフレドも当然気づいていただろうが、形ばかりにリカルドから伝えられた。
自分自身もこの姿の生活に馴染んできた今だからこそ、私を取り巻く環境は変わろうとしていた。
「暇をもらおうかと思っています」
自室で書架より本を手に取っていた私は、アルフレドが静かに切り出した言葉に動揺する。
思わず彼の顔色をうかがうが、そこに不満や嫌悪といった感情は見えない。
なぜ、と問いだそうとする思いと同時に、そうだろうなと悟り受け入れる自分がいた。
アルフレドは硬直する私に、微笑みさえ浮かべて説明する。
「もう、この国で戦乱は当分おきそうにありませんので。
本業を思うと、そろそろ活動拠点を変えねばなりません」
「そう・・・ですか」
「ええ。居心地が良くて、随分と長居してしまいました」
確かに平和な国では傭兵は仕事など無い。
一介の家人として暮らす道も当然あるだろうが、彼に限ってそんな生活を受け入れるとは思えなかった。
彼の本質は、かつて垣間見た戦場の中の喜悦にこそあるのだろう。
だから寂しく思うが、申し出があった事には納得した。
飲み込みきれない惜別の感情を持て余しながら、アルフレドを見やる。
「随分と・・・本当に、随分とお世話になってしまいました。
いつ頃の予定なんでしょうか」
「季節が変わる前には」
それでは、残された時間は本当に多くなかった。
飛行機もないこの世界で、長旅は一生の別れでもある。
気軽に人に会うためだけに行き来も出来なければ、彼の場合戦地なのだからより命の危険を伴うだろう。
「何かして欲しい事などはありませんか?」
「では一つ」
そこで一瞬間をおいて、アルフレドは私に静かに聞いた。
「私と共に来ていただけませんか」
予想外の言葉に思わず目を見開く。
よっぽど間抜けな顔をしていたのだろう。笑いながらアルフレドは言った。
「はは!冗談です。
そんな想像もしていないという顔をされては、図々しくもなれません」
その言葉を聞いて、私は本当に彼に申し訳なく思った。
どうやったって感謝することぐらいしか、出来ないけれども。
「せめてとっとと姿を消す事ぐらいしか、私には出来ませんよ。
あなたが誰かの隣で誓う様を、見れるほど強くないんです」
アルフレドはそう言って、静かに騎士の如く恭しく一礼した。
「どうか、お幸せに。この僅かの時間、貴方のそばにあれたこと。
私の何よりの幸福でした。
・・・これ以上は扉の向こうで、聞き耳を立てている方にお譲りいたしましょう」
「え、」
思わず扉に視線を向けると、決まり悪そうにゆっくり入室してくるリカルドがいた。
それをふ、と吐息だけで笑い口角をあげると、アルフレドは入れ違いに頭を下げてから退室する。
リカルドは盗み聞きしてしまった罪悪感からか、うろうろと視線をさまよわせていたが、アルフレドの足音が遠ざかったところで私を見つめた。
「・・・よかったのですか。申し出を断って。
いえ、そんなことを私が受け入れられるはずもないのですが」
そう言って不安げに眉をよせる。私の為に、嫉妬している。
なんだろう。このかわいい人は!
「ふふ」
その様がたまらなく愛おしく思えて、思わず笑ってしまった。
ますます眉が情けなく八の字を描く。
夢みたいだ。いつか貴方の主君として、婚姻を結ぶリカルドとどこかの美しい娘を祝福しなければならないと苦しんでいた日々が、今では遠い。
この人は私だけの騎士。私だけの、恋しい人。
「・・・かないません。いつまでもハルカには。
そんなふうに笑われては、微塵も疑えるはずがない」
そこでようやく微笑んで私の頭に片手を添え、唇を食むように口づけした。
恋しいと伝えるような優しい口づけに酔いしれる。
そっと離れた顔に向かって、少し意地悪に質問した。
「リカルドこそ。私でいいのですか?」
「ええ。貴方でなくては」
「本当に?」
「勿論」
こうして何度も確かめずにはいられない。
リカルドを疑うはずもないが、どうしても繰り返し聞いてしまう。
だってこの姿の私には何の栄光もとりえもないのだから。
ありのままの自分の姿が鏡に映る瞬間に、はっと拭い切れない不安がよぎる。
そんな感情を見透かして、私が安心するように優しく笑って、リカルドは何度も言ってくれる。
「貴女が何者であったとしても。
貴女こそが私の夜を払う暁の光。
いつでも変わらない真実を、何度でも繰り返し伝えましょう」
そうして落ちてきた唇に慰められる。
受け入れて、泣きそうになるぐらい、幸せだった。
窓から光が暗い部屋へ差し込む。今までと同じように照らし出していく。
彼と共に歩む日々を、今日も私は生きていく。