第六十一話
険しい山肌の裾野に常緑樹の木々が広がっている。
この時期極めて雨が多く、まして山間ともなれば不安定なのは常であった。
雨後で湿った空気の中、風の合間に雲が晴れる。
視認出来る限界の距離で、彼の巣が見えた。
森の中でその周辺だけ木は押し倒され、開けた場所になっている。
そこに出来た窪みに体を丸めて見えるのは、鮮やかな虹色の羽だった。
私は緊張して自分の鼓動が聞こえそうな胸に手をあてる。
木の頂上付近で枝に隠れるように私は座っていた。
準備は整えてあって、後は私の覚悟さえあればいつでも始められる状況だった。
手には散々改良を重ねた比翼機があり、それと取り出しやすいように足に括られた瓶を改めて確認した。
持ち物自体は不安になるほど少ない。重くては飛ぶことが出来ないから、吟味を重ねた上でのこの格好だった。
目が覚めたのかカナウカレドがその巨大な身をゆっくりと起こした。
金色に輝く目映い鱗。それに彩られた体は飛ぶものにしては重量のありそうな見た目で、私の知る範囲外の原理でおそらく空を飛んでいるのだろうと思った。
牡牛のような力強い筋肉が、ぞっとするほど太い手足を作り出していた。
背中の玉虫に似た光沢のある虹色の羽が、寝起きに獣が体をのばすように広げられる。
巨大な口を短くしたワニのような頭は、噛みつかれた時の絶望を容易に想像させる。
その耳の付け根にあたる部分には、その威容にふさわしい捻れた角が二つついていた。
なんて猛々しく美しい。不謹慎にも思ってしまった。
ほんの僅か、この獣を見た師がたまらず二回目の召喚を行った理由が分かってしまった。
この世界の人は彼を飛ぶ事から怪鳥と呼んだり、あるいは鱗から大蜥蜴と呼んだりしていたが、何よりも適切な呼称がかつての世界に存在した。
「ドラゴン・・・!」
いよいよ差し迫った本番の高揚感で、私は呟かずにはいられなかった。
全く英雄に相応しい仕事ではないか。ドラゴン退治など。
相応しすぎて泣けてくる。思い通りにいくことなどこの人生何一つとして無かったのに、今誰かに誂えられたように私は彼に対峙する。
いや。私は、自分の意志で選択したのだ。多くの選択を重ねてきた過去があって、この現在に辿り着いたのだ。
舞台は覚悟に見合うよう後からついてきただけで。運命を自分の手で、切り開く。その為に。
私とカナウカレドは、切り取られたようにこの世界で二人きりだった。
音は嵐の静けさの前のように静かで、乾いた布が湿度だけで不快に感じるほど湿り気を帯びた。
鳥も獣もこの一帯では決して鳴かない。
カナウカレドは目の届く範囲に己の敵とする者が存在しないか紅玉の様な瞳を横に滑らせ、囚人を見張る看守のように油断ない警戒を見せると、私に気づくことなく満足したのか再び首を丸めて瞼を閉じた。
情報を集め観察したところ、彼は生き物を殆ど食物として口にすることは無かった。
あらゆる絶命の理由は、単に目に留まったからというだけである。
羽根もあり飛べるくせに、見た目の重さ通りに多大な労力を使うのか実際は低い高度を短い距離飛ぶだけで、余り移動をしない。
寝て起きて、再び眠る。その生態は私の知識にあるこの世界とあの世界のどの生き物にも当てはまらない。
カナウカレドが災害だと言われる理由の一つは、その生き物らしくなさにあるのかも知れなかった。
「はじめようか。同胞」
私の声はこれから命のやりとりをする相手にかけるものとは思えないほど信愛に満ちたものだった。
比翼機に乗って魔力を込めると、風のように虚空を走る。
背の高い木に隠れながら接近すると、カナウカレドの巨大さが徐々に明確になって視界に映った。
牛や馬よりも大きく、陸上最大の象すらも軽く越える。家ほどの大きさだった。
小山のようなカナウカレドに気づかれないよう近寄ると、高度を落として地面に降り立つ。
そこからは慎重に緊張のあまり冷や汗を垂らしながら、一歩また一歩と足を進めた。
雨の後に出来た小さな湖のような大きい水たまりが巣の間近に出来ていたので、私は鼠のような臆病さで息を押さえながら近寄った。
ずっと待っていたのは、この天候で状況が整うのを見計らっていたからだ。
水に手を沈め、魔術を発動させる。
水は流される力により水素と酸素に分離され、爆鳴気となって周囲に漂った。
ヘダリオンで、行使した魔術と同じことをしようとしているのである。
ただし、こちらは己の魔術ではなく水を原料として気体を作っているので、時間と手間が事前にかかる分、消費される魔力は少ない。
私はこの一撃で殺し切るつもりで許す限りの水を分離する。
大きな水たまりが姿を消し切るころ、空気の異変に気付いたのか再びカナウカレドは首を擡げた。
気体が逃げないように不自然に風を防いでいるのを、敏感に察したのかもしれなかった。
首が周辺を見回して私を発見する前に、引き時を見極めて急いでその場から駆け足で遠ざかった。
その尾の一振りで命を失う危険を隣に感じながら、必死で走る。
自分の身にその威力が届かない場所に逃げた後、指先からカナウカレドに向かって小さい火花を散らした。
瞬間、視界が焼かれる。
鼓膜が破れそうな爆音が自分の体を包むように響き、土煙を上げて大地とカナウカレドを焦がした。
木々は頼りなくへし折れ吹き飛び、遠くの山々はその振動で山肌から岩が転げ落ちた。
今生で二度目となる肺を押しつぶすような圧迫感を耐えて、あの時の魔術よりも大きな威力でそれが発動した事を知る。
私は眩む眼を擦り、最速の動きで体制を直すと凝らしてカナウカレドを見た。
倒せただろうか。どんな生き物でもあの爆発の中心では耐えられないはず。これで全てが終われば良い。
羽根に覆われた姿は今、土煙の中煤と土砂に塗れている。そのせいでどのような事になってるのか分かりづらい。
私はどんな変化も見逃さないようにその塊を凝視した。
カナウカレドの影がゆらりと動いた。体に乗った土砂が雨のように下に落ちていく。
見えずらかった土砂の色が剥がれ、それと共にカナウカレドの本来の色が現れた。
角が片方折れていた。瞳も片方潰れていた。後肢の指先の半分は元とは違う方向に向かって曲がっていた。
それでも、カナウカレドは怯むことなく。
ただ恨みと憎しみを残された片方の瞳に宿し、憤怒の咆哮を天に向かって叫んだ。
「オォォオオオォオオオン!!!」
自分の体の痛みなど全く意に介する事無く怒りに呑まれる様は、生物として逸脱してしまっている。
怪物カナウカレド。その恐ろしさを、刺さる様な怒りを、肌で感じた。
◆
カナウカレドは自分の身に起きた事態を把握すると、それを起こした敵を見つけだそうと首を伸ばした。
私は手にしていた比翼機に乗り、魔力を込めて木々の間から飛び出して空へ躍り出る。
カナウカレドの大きさから比較すると自分は、小鳥ほどの大きさだった。
私は目障りに思うほど堂々とカナウカレドの周りを挑発的に飛んだ。
さあ来い。全部、終わらせるから。
同時にカナウカレドも私を見つけ、敵と認識したに違いなかった。
顔周りを飛ぶ私の存在を目で捕らえると、巨大な口を使って噛み砕こうとしてくる。
歯が合わさる音が響くほどの大きさですぐ間近に聞こえたのを冷や汗をかきながら聞いた。
ほんの少しでもかすれば、比翼機ごとバラバラにされる。
逃げ出したくなるのをこらえ、風を切ってカナウカレドを挑発し続けていると、それを執念深く首が追ってくる。
再び、カナウカレドの容赦ない牙の音が周囲に響きわたった。
それでも素早く逃げ回る私の姿に苛立ち、そのやり取りに飽きた怪物は体勢を変えた。
大地を踏みしめ、背を仰け反らせ、首を向けて大きく口を開く。
来るか!
私は全速力でカナウカレドの体の周りを円を描くように全力で回避する。
大きな口に、風が吸い込まれていく。それと共に吸い込んだ空気が、卵を飲み込んだ蛇のような柔軟さで大きな袋を彼の喉元に作り出した。
そしてそのため込んだ空気を私をめがけて一気に放出させた。
ただ息を吐いただけとは言い難い威力のその技は、この怪物が持つ最大の武器だろう。
巨大な体から一瞬で吹き出された空気が、木々すらまとめてねじ折り一直線に土をめくりあがらせた。
私が作り上げた爆発の中心地の爆風をごく狭い一方向に集中させたとして、この破壊力に及ぶだろうか。
人が直撃すれば体が引きちぎられるだろう。ましてや比翼機ともなれば、砂を吹き飛ばすようなものだ。
炎を吐かないこの生き物は、この吐息だけで十分に圧倒的な強者だった。
文献と目撃者にて事前に知っていた行動だったが、目の当たりにすると想像以上と言う他なかった。
それを間一髪で回避し、命をつなぐ。もっと近ければ風に巻き込まれていた。
必殺の攻撃が避けられ、苛立ちを示すように尾で地面を叩く。
そして、今度こそ私に当てようと再び同じように背を仰け反らせた。
私は必殺の吐息を自分の目で確認する為に、一度はあえて見逃したのだった。
再び同じ行動をするのを、期待して待っていた。
失敗の許されない機会を逃さぬよう、素早く足に括りつけていた瓶を取り出しカナウカレドの眼前に放り投げる。
その瓶に魔術の一撃を当てて割れさせると、中身の金属片が空中に弾けて広がった。
絶妙のタイミングで広がったそれを、カナウカレドは空気ごとその喉に収めてしまった。
「ガッアァアアアッ!」
鋭く尖った金属片に喉を引き裂かれ、鮮血を口から垂らしてカナウカレドは悶え苦しむ。
凄まじい勢いで吸い込む風に紛れた刃は、思い通りにカナウカレドの最大の武器を封じてくれたようだった。
吐き出そうと乾いた咳を何度も繰り返すが、傷ついた喉はもう二度と使えまい。
新しく生まれた喉の傷の痛みを抱えたまま、カナウカレドは隻眼を私に向ける。
最初の爆発で負った傷も相まって、それはそれは痛ましい姿に見えた。
「ごめん」
届かないと知りながら、私は同胞へ謝罪を送る。全く意味のない行為だった。
そんな私の自己満足など吹き飛ばすように、カナウカレドは傷ついた分さらに怒りを増幅させ、炎のように赤い目を使って私を睨みつける。
その巨体を使い私を羽虫の如く押しつぶそうと、今まで使わずにいた背に持つ虹色の翼を動かした。
轟々と強風が吹きすさぶ。
大地を蹴りだし私を追って、怪物は空にゆっくりと飛びだした。
カナウカレドは空を飛ぶことは得意ではない。
それでも巨体である有利さは翼を一度上下に動かしただけで、私に追いつきそうな速度を作り出した。
私は山脈に沿って、カナウカレドを誘い出す。
空を飛んで数分もしない内、目印に赤い布を枝に巻いた木の上空を通り過ぎた。
事前に仕掛けていた罠の目印である。怒りに任せてひたすら攻撃するという事は、一方で罠などに対する警戒心を失ってしまっているという事だ。
カナウカレドがその真上に来るのを見計らって、私は再び小さな火花を後方に向かって繰り出した。
その直後に来るだろう衝撃に備え、比翼機をしっかりと握りしめて。
再び閃光がカナウカレドを包み込んだ。
私は爆風にバランスを奪われ、なんとか離さずに済んだ比翼機ごと木々の枝の中に墜落した。
近くではカナウカレドが地面に落ちる大きな音がする。木を根本から折って落下し、怪物は動きを止めた。
事前にあの地点に溜められた爆鳴気は先程のものと同じほどの量である。
今度こそ無力化出来ただろう。
私は地面からカナウカレドに駆け寄ると、浅く呼吸を繰り返すだけで少しも動かない。
私は比翼機の動力と、自分への身体強化の術で魔力が殆ど無くなったのを疲労感として感じた。
状況は私の一方的な攻撃に終始しているようでいて、実は魔力切れとの非常に厳しい戦いだった。
手も足も鉛のように重たく感じる。それを意志の力で無理矢理動かし、予め近くの地面に置いてあった鉄線を引きずりだした。
用意していた鉄線には鉤爪がいくつもつけられている。ここに用意していたのも、重すぎて空を飛ぶには持ち運べなかったからだ。
非常に重量のある鉄線を私はカナウカレドの翼に対して絡ませた。
鉤爪がカナウカレドの翼と鉄線同士に強く絡まりあい、私の適当な拘束を抜けられない強固な物にする。
太い手足や危険な口よりも、繊細で危険の少ない場所の翼をまず奪う事で行動力を奪おうとしたのだった。
空を飛べなければ、最悪でも逃げる事が出来るはずだった。
周囲は雲が囲むように山を駆けあがっていて、私とカナウカレドは雲と雲の隙間にいる。
雲に取り巻かれる前に息を止めようと、顔の前に立ち口の中から頭を貫通させるつもりで最後の魔術を唱え始めた。
他の場所では鱗に阻まれて攻撃が通らないのである。それこそ先程のような巨大な爆発でもなければ。
しかし、爆発させる力はもう残ってなかった。
密度の濃い雲から辺りに雨が降り出したのを、雨音を聞いて知った。
「さよなら」
止めをさすその瞬間、私の体を怪物の腕が横凪ぎに弾き飛ばした。