第五十七話
溢れだした私の心は、次から次へと流れ出して止まらない。
みっともなく頬を濡らして、見苦しいほどだった。
強くなければいけないと思った。
強くなければ生きていけないと思った。
でも、本当は。
「いまさら、あなたが、それをいうのですか?」
「すみません」
「どうして。私が女だからと?」
「私は愚かにも、ハルカが女性であると知って初めて貴女のか弱さに気づいたのです。
そして、心惹かれ続けていた自分にも。
あなたを抱きしめたくなった。これ以上の重荷を負わせるものかと。
私は今、自分の手が届くよう、貴女が弱い人であって欲しいと望んでいる」
一つずつ、丁寧にリカルドは言葉を紡ぐ。間違えないように、噛みしめるように。
「どうにも我慢ならないこの奥底から溢れる感情を表す言葉を、私は知りません」
リカルドは私の顔を自分の肩に押しつけ、私の涙で震える体を支えた。
「泣いてください。あなたの悲しみが流れるように」
本当は。
こうして誰かに手を差し伸べて欲しかった。
「酷い。そんな事を言われたら」
「お願いします」
高い壁が脆くも突き崩されて、弱い心をその言葉に許してしまう。
切り捨てようとされていた遥が、ハルカを越えて大きくなる。
泣いたのは忘れるほど昔の話だったのに、私は一瞬前の自分を忘れたように泣いていた。
「私は欲深にも、その取り繕わない貴女が欲しい」
優しく見守る瞳がやさしく私を促す。既に感情が駆け出して止まらないのだから、後はそのまま感情に身を任せた。
この世界に来てから起きた全てが胸の内に去来する。
何もかも失った事、人を信じた事、この場所でも人は同じように生きていた事、守りたいと思った事、命をかけて敵対した事、この人と出会った事、仮初めの安寧を得た事、誰かも知らない人たちの私を呼ぶ声を知った事、覚悟という行為の重さを感じた事。語りつくせない。
どうして。どうして。私が、この運命に。他の誰でもよかったではないか。もっと全てを簡単に受け入れられて生きていける器用な人など、私の他に沢山いたのではないか。
現実は無言で私に結果だけを突き付ける。仮定も過程も意味が無いと理解させられる。
拳を握り、振りあげて彼の胸板に叩きつけた。
「どうして、私はここに連れて来られた!」
子供の癇癪のように、騒々しい声を上げて。
「こんな私の知るものが何もない、誰もいない所に!」
何度も繰り返して叩いても、泣いて震える手では全く意味をなさない。
「誰も、誰も知らない!私の事を!」
全部決着をつけられた筈の感情が、ただ心の奥に眠らされていただけだと知る。
「私が受け入れない、私を受け入れない。嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ!」
思いつくままに言葉を発した。
「悲しい」
吐き出すように、私は声の限りに叫んで泣いて。
「寂しい」
彼の青い瞳を見た。そこには一つ漏らさず抱えようとする強い光があった。
「この掌には何もない。幻でも掴んでいなければ、生きていく事など出来やしない」
私の悲哀と苦悩を自分の身に移そうと。
「常識が崩壊する。正気か狂気かも分からない。夢か現か。在るのは痛みと空白だけで」
いつだったか私も誉めそやした、その美しさよりもさらなる雄々しさをもって。
リカルドは私を誘惑したのだった。
だから私は、今まで決して口にできなかったその言葉を発する事が出来た。
「助けて、リカルド」
この身を蝕む絶え間ない虚無感から。
間違いない強さで彼が言う。
「ええ…私の全てで。必ず。ハルカに心からの安寧を」
リカルドは力強く答えると、あやすように私に軽く口づけた。
そうするのが当然のように私も瞼を閉じて受け入れた。
触れ合う体温がこんなにも私の心を慰める。信じられないほど、甘く惑わされる。
こぼれる涙が赤い舌に掬われていった。
動物的な慰め方に、百万の言葉よりも何よりも魂の近さを感じた。
一人ではないと思わせてくれる確かな強さがあった。
それは私の弱さを支え、許してくれる強さだった。
「傍にいて。何よりも傍に」
懇願すれば僅かな隙間も許さぬほどきつく抱きしめられ、雄弁な熱さが私を癒す。
誰よりも近く、しかし決して手が届かないと思っていたリカルドの鍛えられた体躯に包まれたいと人知れず望んでいた。
それが叶い、リカルドも同じ思いを抱いてくれていると知って、これ以上の幸福など私は知らない。
私は彼に背中ばかり向けて前を進んできた。
顔を隠して、後に続く彼に背中がなるべく大きく見えるように願いながら。
しかし今、向き合い顔を見合わせて。リカルドが私を知ると同時に、私もリカルドを知ったのだった。
想いが溢れ出す。
ようやく巡り会えたと。
長い長い旅路の末に、故郷へと辿り着いたかのような安堵感があった。
それは久方ぶりの真綿でくるまれたような、柔らかで懐かしい心の穏やかさ。
二人の人間として生まれて、一つの存在になるのが当然の事のように思えた。
彼が私を求め、私が彼を求める心があった。
そうだったかと、唐突に気づく。
私の運命は此処にあった。こんなにも傍に。
随分回り道をしたように見えたが、私は一歩も道を逸れずに正しく歩んで来たのかもしれない。
ずっと追い求めていた私の存在理由はすぐ近くにあった。
愛しいと思った。
この体温を分け与えてくれる人の事を。
「リカルド」
「はい」
「リカルド」
「ええ」
「リカルド…」
「此処に居ます。ハルカの隣に」
木々の囁きに紛れそうな小さな私の呼びかけにも、リカルドは確かに答えを返してくれる。
凝り固まった心が解き解され、彼の背中に手をまわした。
答える力強さがあれば、私は何者にもなれると思った。
薄暗く続くはずだった時間の先に、色鮮やかな未来を見た。
「共に生きましょう。互いが交わるほど近くで」
私は答える代わりに彼のことを強く抱きしめた。
きっと全てを忘れる日などこないだろう。昔のように無垢のまま笑える日がくるとも思えない。
けれど、隣にリカルドがある限り、私は満たされているに違いない。
私は感じる一瞬の中に、全てを確信した。
「ありがとう」
万感の思いのこもったその言葉を聞いて、リカルドは安堵の溜息をついた。
伸ばした手が届いたのだと、互いに理解したのだった。