第五十六話
大罪人として追われたその人は、今は周りのものと見分けがつかないような苔むした粗末な石の下に眠っている。
誰が見てもこの鬱蒼とした木々に置いてあるこの石が墓であるとは分からないだろう。
私は彼にふさわしいその墓石を冷たい眼差しで見下ろして言った。
「さようなら。もう、二度と戻りません」
足音が聞こえて振り返ると、リカルドが息を切らして背後に立っていた。
険しい山道を駆け上がり乱れきった呼吸を膝に手を着けて整える。
「イ、イチトセ・・・さん」
いつか、黄昏時に見た光景が蘇る。その時もこの様にがむしゃらに彼は走ってきた。
しかし顔を上げて額の汗を拭い、私を見つめるその視線にはかつての縋るような色は全く見えなかった。
それどころか、その突き刺すような捕らえるような強い瞳に私は怯むような感情さえ覚えた。
「戻られるのですか。イチトセ…いえ、ハルカ様。貴女は、ハルカ様でしょう?」
とうとうこの時が来てしまった。いや、私は彼が気づくと何処かで知っていたのかもしれない。
気づかないで欲しいと願う一方で、この場に来てから幾つも導を彼に与えてきてしまった。
不思議なほど落ち着いた気持ちで、私はリカルドに訪ねた。
「失望しましたか?主と仰ぐものが、この得体の知れない女だと知って」
「するはずがない!」
叩きつけるように荒々しく怒鳴りながら彼は否定した。一切の不安を吹き飛ばす勢いだった。
「何処まで、何が真実なのですか」
「全て本当ですよ。私が彼と同一人物であること以外は」
「では、では・・・貴女は・・・」
リカルドは歯を食いしばり眉を寄せ、私の前にひざまづいてそっと手を取った。
「ずっとその秘密を抱えて、ずっと一人で戦ってこられたのですか」
安易に頷くのが難しい質問だった。
秘密は抱えてきたが、一人で戦った自覚はない。
「・・・リカルドが共に居てくれた。それだけで大きな救いでした」
どうしてそうも苦しげな表情をするのだろう。答えを間違えたのだろうか。
そんなに肩を振るわせ、耐えきれないとばかりにきつく目を閉じる様を初めてみた。
「貴方がまだ私を主とおっしゃってくださるなら。
また私を支えてくれますか」
おそるおそる、しかしリカルドなら大丈夫だと確信を持って言った、あくまで確認の為の質問にリカルドは驚くべき返答をした。
「いいえ、・・・出来ません」
それは私の最後の拠り所すら、奪われたも同然だった。
リカルドの反応に呆然として口から問いがこぼれ落ちた。
「何故」
「貴女の他に私の命を使う者はおりません。
けれど、この不埒な騎士をお許しください」
彼は私の手を離さないように強く握りしめた。混乱の余り耳鳴りが頭に鳴り響く。
もう私が此処に居る理由はリカルドでしかないのに。
そのたった一つをリカルドに否定されたなら。もう私は立ち上がれない。
「一体何を言っているのですか」
「どうか…どうか。これ以上立ち上がらないでください。闘わないでください。
私の勝手な願いを、どうか聞き入れて下さい」
「言っている意味が分からない。リカルド。私はあなたの主には相応しくなくなったのですか」
「違います、ハルカ様の他に剣を捧げる人はおりません。
誰より気高く、強く、優しい人であると私は知っています。
何者であっても、それは変わりません。変わったのはこの愚かな私」
言葉を聞いて恐怖した。リカルドの中でどんな変化が起きてしまったのだろうかと。
続きを聞きたくないのに、リカルドは私を目を逸らさせない力強さで見つめてくる。
「貴女の傷つく様を、見てこなかったのです。
こんなにも深く傷つき首都を去らねばならない状況になって尚も。
もう、闘わないでください。ハルカ様が倒れてしまう前に」
「やめてください」
今更そんなことを言い出さないでと、反射的に彼の言葉を遮った。
どれもこれも、自分の選択の結果の内だ。勝手に希望を見出して、現実に打ちのめされて。それだけの話。
希望など何処にもなくなっても、やれることがあるうちは立っていなくては。
「立ち上がれなくなる。言わないでください」
「立ち上がらないでください。どうか」
うるさい。私はまだ闘える。
「やめろと言っている!」
「いいえ!」
怒鳴り合いになって、互いの意見を主張した。
敵に向けるような鋭い視線を彼に向け、私は彼を詰問する。
「何故ですかリカルド!何故邪魔をする?お前の主はそれほどまでにか弱いか!?」
こうも強固に意見を主張するなど今まで無かった。
私は卑怯にも、怒りに我を忘れたかのように振る舞った。そうすれば従順な彼は大人しくなるだろうと計算して。
しかしリカルドは立ち上がり、私に立ちふさがる様に見下ろしてきた。
「ご自分がどんな目をしているか、気づいていないのですか」
「可笑しな事をいうな。私は変わらない。いや、『元に』戻るのだ」
「何を犠牲にするつもりですか。それは、本当のハルカ様自身ではないのですか」
真っ直ぐすぎるその言葉に私は視線をそらさずには居られなかった。
「ハルカ様が、どんな生活を望んでいたのか忘れた事はありません。
師と仰ぐ人が貴方を絶望させた事を知って、再び戻ろうとする理由に気づかないほど愚かではない!」
侮っていた。この人は私よりもずっと頭が良かった。ああ、海のように空のように、無償の愛を捧げようと思っていたが。
この人はそれすら許してくれそうになかった。
「リカルド・・・」
「我が主。貴女は強い。私は守っているようでいて、常に守られていた。
理想の主で居て下さった。私の救いそのものだった」
「ならば今のままで。私はそれで十分なのだから」
「いいえ!ハルカ様。十分な筈がない!」
リカルドは懺悔するように或いは後悔するように頭を横に振る。
彼は私の中で決着をつけられたと思った事たちを、全て覆していく。
支えると言ったその口で、私に何もするなと懇願する。
縋っていたその眼で、私を力強く射抜いて動けなくする。
「貴女が強いのは、貴女が何も持たないからだ。
何もないからこそ、何かを掴もうと必死にもがいて。
ようやく知ったのです。いまさら気づいたのです。
本当の孤独の海に沈む前に、どうか私に間に合ったと思わせてください!」
リカルドは強引なほどに私の気持ちを暴こうとした。
そうしなければ手が届かなくなるのを知っているかのように非常な焦りを持って。
「リカルド・・・。ならばどうしろと?
貴方の主として以外の私に、価値など無いのに」
「いいえ。自分自身を切り捨てないでください。
ハルカ様はハルカ様のままでいいのです。私が知りたいのはありのままの貴女だ」
私は混乱していた。何よりも分かりやすく私にそうであれと願ったのはリカルドであったというのに。
全く違うことを言うので、外見はそのままであるのに別人のように見えた。
「強く優しい私の主。けれど私が何者よりも近くにありたいと願う理由は、それだけではもはやないのです。
もっと率直な欲望なのです」
何を言うのか。何を伝えるのか。
彼の一言釘付けられ、息をのんで彼の真意を待つ。
「愚かしいと知りながらあえて伝えることをお許しください」
やめて。こわい。なにを。ききたくない。ああ。でも。どうか。きかせて。
浮き沈みする思考にとどめを刺すように。
そして、とうとう、言った。
「貴女が女性であると知ってしまった。
ならば、私は、私は・・・貴女を・・・」
一瞬の出来事だった。
言葉で補えない距離を、体で示そうとしたのか。
気づけば私は彼の腕の中に閉じ込められていた。
長い間共に生活してきても、これほど触れ合ったことは無い。
リカルドの体温と、香りに包まれる。何が起きたか理解できなかった。
「慕わずにはいられない・・・!」
抱きしめられていると認識して、じわじわと彼の言葉が染み込んだ。
私にとってリカルドは一方的に愛を捧げるべき人で、同時に守るべき人だ。
その常識が打ち壊され、私は自分の立ち位置を見失った。
「何を、」
「信じて頂けないのも無理のない事です。ここまで鈍感に何も気づかない私ですから。
けれど慕う人を守りたい」
彼は見えない何かから私を庇うように抱きしめた。強く、強く。
「ハルカ、どうか」
はじめて名前を呼び捨てにされた。初めて彼に『私』を認識してもらった気がした。
「本当のあなたを私に見せてください」
勝手な言い分だ。全部、勝手な言い分だ。
ぽたりと涙が私の目から流れ落ちた。