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第五十四話

久しぶりに戻ったこの世界での実家は、それなりの月日を放置されて人の気配など無くなってしまっていた。

唯でさえ転がる不気味な品々のせいですっかり趣は呪いの館である。

それをどうにか元の少々近寄りがたい魔術師の家に戻し終えたその日、ようやく私はまともに自分の感情に直視する機会を得た。

椅子に座り、苦い味しかしない茶の類を啜りながら考える。

この世界に対し、私が抱える感情は複雑だ。

好きだとか嫌いだとか、一色の感情で答えられるものではない。

始まりは、そう、何にも持っていなかった。

この世界になんの期待も無く。赤子のように未来に期待を抱くには、私は既にある程度老成し過ぎていた。

生きる事の意味が分からなくなった。食事をとる意味も消えた。

そこに恨みや悲しみがあったかも分からない。

全ては大きな喪失感に埋め尽くされ、手を動かすことすら億劫だった。

小さな家の中にある私に与えられた小さな部屋。

木の匂いと湿った土の香りがして朝になれば鳥が鳴く。

人が横になれるだけの寝台は、使い古された布が張られただけの質素な物。

その部屋で流れる時間は、私を置き去りに瞬く間に過ぎて行ったように思う。

「どうか」

耳によく馴染んだ声がする。この家にはまだあの人が色濃く残され、私の脳裏に彼を甦らせた。

長い間使われて固く曲がった、皺のある老人の手が此方に向かって伸ばされた。

「これを」

掌の上に乗せられていたのは歪な木の塊だった。

その正体に見当もつかなくて、首をかしげる。

削られて作られたらしきそれは、小刀で荒々しく作られたのだろう。

それでもその無骨な道具で精一杯丁寧な作りをしようとした努力の跡が見受けられた。

「どうかこれを君の傍に置いてくれないか。

みっともない出来だとは分かっている。

けれど努めるよ。君の世界を此処に作るから」

白髪の髪と少しの髭を蓄え、目には木肌のような皺が出来ていた。

しかし一方、その目は子供のように若々しい。

今にして思えばそれは異界への尽きぬ好奇心故に違いない。

その無邪気さが私をこのような有様へと突き落としたのだが。

少し話を聞いてみる気になったのは、その目に悪意が無かったからだ。

「すまない。

後悔は、…本当にどうにもならないね。

私は君にこうして顔を合わせる事さえ許されないと思う。

けれどどうか…、ああ」

アロルドは自分の都合のいい勝手な願いを私に言おうとして、口を止めた。

言えなかったのだった。

この世界で生きて欲しい。結局はそんな内容だったに違いない。

けれどその一言すら、罪深さを自覚している為に私に言う事が出来なかったのだった。

そこで口に出してしまえるような人間だったら、私は未だこの世に居ただろうか。

その躊躇にほんの少し、救われた気がした。

改めてその差し出された木の塊を見る。歪なその物体の正体はやはり分からなかった。

「…それは、何です?」

漸く返した私の反応に目を見開いてアロルドは驚いた。

この機を逃すまいと、慌てながら彼は言った。

「これは、以前話してくれた『木彫りの熊』だよ。

寒いところの土産なのだろう?此処にも、雪が降るから」

熊。…熊!?

残念ながらこの世界にも熊は存在する。

しかしそれは何度見ても、熊どころか四足歩行の動物にすら見えない。

ましてや、北海道の有名なあれには似ても似つかない。

目の前の老魔術師が涙を流して微笑んだから、きっとその時私は笑っていた。

ああ…懐かしい。

多くの経験を重ね、あの時から随分と時間が経ってしまったようだった。

部屋の中をいくら見回しても、居るのは私一人。

あの時抱えていた喪失感に囚われそうになる度、彼がその身で、言葉で、行動で私を引き戻した。

繰り返される真摯な謝罪で、私の理性はアロルドを許し、信頼に足ると認めたのだった。

しかし今。彼の大きな裏切りによって生まれたこの感情を、アロルド自身が止める事は無いのだ。

「馬鹿め」

苦々しい気持ちが沸き起こる。今や定期的に感じる感情の揺れだった。

この世界で死んだ多くの人の嘆きよりも、それを起こした獣を思って。

師には分からなかったのだ。言葉も通じないカナウカレドの感情を。

アロルドを許す事から始めた私のこの世界での歩みは、その信頼を失ったことで再び元に戻ってしまった。

目につくもの全てが煩わしい。

師を信じていた時は、この世界で生きていこうと思えた。

許すことが出来たから。前を向く気持ちも持てた。

しかし結局、私が此処につれて来られた運命の意味など無かったのだ。

突然の知らせに急に何もかもが馬鹿馬鹿しい努力だったと踏みにじられた気がした。

私は全てを奪われた被害者でしかなく、哀れで惨めな存在以上の物ではないと。

詰まりそうな息を、深呼吸して切り替えた。

まだ、私には一つだけ捨てきれない楔のような感情が残っている。

首都に残してきた真っ直ぐに私を見る、私の騎士が。

この重い手が動くようになったら。

この重い足が動くようになったら。

奪われるばかりの私であるが、人を思う気持ちを教えてくれた彼になら、私を費やしてあげるのもそう悪くない。

もう少しだけ休めば仮面の一つも被れるようになるだろう。

私の心はすっかり死んでしまうだろうけど。そんな呟きは聞こえない振りをした。

落ち込んでいると、玄関の扉を叩く音が耳に入った。

一体誰だろう。この家から外出する事もしていない為、村人達は私の帰宅を知らない。

こんな辺鄙な場所に悪事を働きにわざわざ来る者もいない。

ましてや、怪しい物に囲まれたこの家に来る度胸のある者自体が少なかった。

急病人などだったらと思うと無視も出来ず、警戒しながら扉に向かう。

扉を開いた先に居た人物は今ちょうど考えていた人だった。

「どうして・・・」

あの紙に残した伝言に戻ると書いたはず。

きっとそれだけで、彼なら私を一人にさせてくれると思っていた。

離れていたのはほんの少しの期間であるのに、随分久しく感じる。

私を見て彼は困惑した顔をした。しかしそれを直ぐに取り繕うと、私に向かって丁寧に言った。

「初めまして。私はリカルド・メルツァース・ブラムディと申します。

此処に、ハルカ・グラーク様はいらっしゃいますか?

彼を探しているのです」

その言葉で私は自分の姿がリカルドに見せていたものでは無いことを思い出した。

村に戻った時に術を解いていた。今の姿ではリカルドは私だと分からないのだ。

一瞬、どう対応すべきか迷う。

この国にとけ込めない外貌の私こそ、本来の姿であると告白するか。

別人の振りをして騙すか。

彼の望む主である為には、言うべきではないように思えた。

「今は居りません。・・・どのようなご用件でしょうか」

「あの方と話し合いたいのです。

首都にて暫く共に過ごさせていただいたのですが・・・。

私は未熟で、恩あるあの人の事を分かろうとしなかった。

その不足を取り戻したいのです」

私の問いに、リカルドは苦々しい顔をして答えた。

私はその返答の意味が理解出来ない。彼は十分私に良くしてくれた。

不足などあろう筈もない。

そう間接的に伝えると、リカルドは私に不思議そうな顔をして聞いた。

「グラーク様のお住まいにいらっしゃる貴女は一体・・・」

私は師のあとを継いでから使わなくなった名字を名乗る。

しかし、本当にどうして此処に居るのだ。首都で彼を必要としている者も多いだろうに。

「遠くから遙々と来ていただいて申し訳ないですが、どうぞお帰りになって下さい。

あの人はきっと貴方に再び会いに行くと思いますから」

「いえ。この村でハルカ様を待ちます。

私はそうしなければなりません。

また、明日も来ます」

強い意志を宿した目で語られてしまい、考えを変えさせることが出来ないまま彼は来た道を戻っていった。

この家の静かな時間はリカルドにかき乱されるだろう。

それが良いことなのか悪いことなのか、分からなかった。


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