第五十三話
私の胸には先ほどの話が重苦しくのしかかっていた。
借りている山小屋に戻り、錆び付いた音の鳴る椅子に座って静かに腕を組んだ。
彼女に償いをしなければ。
そんな思いが私を支配していた。
私がそれをしなければならないという、直接的な関わりはない。
アーノルドの失敗に私は何ら関係していない。けれど、同じ世界の人間の過ちだ。
此処で私が耳をふさぎ、口を閉じてしまえばイチトセさんに降り懸かった災難を知る者は他にいなくなる。
アーノルドが亡くなった今。この世界で、その秘密を知りうる者は私とハルカ様のみ。
であるなら、知ってしまった私が行動しなくて、他に誰が行動するというのだ。
・・・いや。それは建前だ。
誰も知らない困難を抱えていたことを、私しか知らないとしても。
他の人間だったら私は自ら飛び込んでなど行かない。
ハルカ様と共に暮らしていた彼女を、私は心を砕くに足る相手だと判断し、同情したのだ。
ただの他人を哀れだと思い、その傷を慰め、現状が少しでも良いものであるようにと願っている。
それを裏付けるように心の中で自分の声が小さく響いた。
この人里離れた場所でイチトセさんは、身を隠すように生活しながら老いていくのだろうか。
まだ、うら若い女性であるのに。
彼女の心の揺れを感じる度、差し伸べそうになる手を何度押さえただろう。
自分の気持ちが把握できない。私は目を瞑り、深く沈み込む。
どうすればよい。私に、何が出来る。
彼女は、ハルカ様とどのように過ごして来たのだろう。
イチトセさんはハルカ様について何も話さなかった。
あのハルカ様がそのような目にあった彼女を放っておくだろうか。
そんな筈はない。あの方ならば誰よりも真摯に接しているに違いない。
それは単にイチトセさんが語っていた召喚されたばかりの時期には、アーノルドとハルカ様がまだ出会っていなかったのか、たまたまその時期にハルカ様が離れていたのか。
そもそもそんな愚かさのあるアーノルドに、ハルカ様は何故入門したのだろう。
今や召喚とはこの国において大いなる罪と同意義である。その魔術師の元に何故。
事情があってそうするしか無かったとして。何処から来て、どんな理由でアーノルドの元へ来たのだろう。
ああ、私は、本当に何も知らないのだ。
ハルカ様はアーノルドの二回の過ちを現在まで知らなかったのかもしれない。
それならあの清いハルカ様の入門も有りうるかとも思ったが、すぐに否定した。
イチトセさんの行う馴染みのない習慣をハルカ様も同じように行っていた。
特に隠さずそのような行動をしているなら、いつか気づくに違いない。
イチトセさんとしても私に伝えて、ハルカ様に伝えないなどあり得ない。
あの会場での出来事を思い出す。ハルカさまはサモラに怪物の召喚について、あの場で教わったのだ。
そう。ハルカ様が知っていたアーノルドの過ちは一回だけ。
イチトセさんの召喚を知っていて、それに関しては受け入れて入門した。
だからか。
私はようやくあの日のハルカ様の怒りについて理解した。
イチトセさんの事を知っていたからこそ、それ以前に学習すべきだった大きな失敗の事実に怒ったのだ。
多くの人を殺し、今もなお解決していないあの怪物の存在がありながら、何故イチトセさんを召喚してしまったのだと。
あるいは、アーノルドがハルカ様にその事実を伝えていなかった事に怒りを覚えたのかもしれない。
自分が大罪人だと告げないアーノルドの卑怯さに。
サモラに罵られた事が原因などでは無かったのだ。
だからハルカ様は私の何も知らない慰めの言葉にあれ程激高した。
体面など元々ハルカ様にとって取るに足りない事だと、私は知っていたのに。
師匠として以上にハルカ様はアーノルドを慕っていたのだ。
・・・イチトセさんの召喚をしてしまう人物だと知りながら?
どうにも納得できる説明が思い浮かばない。
父のように慕っていたとしたら、あれほど急激に怒りを覚えられるだろうか。
イチトセさんへの非道を知りながら、ハルカ様はアーノルドにそれほど心を許せるのだろうか。
私にはハルカ様がアーノルドに師事せざるを得ない理由があったように思える。
距離を置いた関係があったからこそ、信頼を裏切られて怒りを覚えたのだ。
思い返せば首都でハルカ様が一度もイチトセさんへ連絡を取っているところを見たことがない。
それは彼女の事情が事情であるから仕方のない事であるかもしれないが。
イチトセさんもハルカ様と長い間連絡を取っていなかったにも関わらず、突然現れた私に話してくれるとはハルカ様を余程信頼しているとみえる。
ハルカ様の信頼している人間ならば安心だという事だろう。
いや、それよりも、私と会う前にハルカ様とイチトセさんが会っていたと考える方が自然だろうか。
何にせよ、ハルカ様だ。ハルカ様がいないと始まらない。
私自身も、首都で置いてきた問題も、イチトセさんについても。
それらのどれも軽々しくはなく、少し前まで唯の村人にすぎなかったハルカ様が一人で支えてきたのだ。
望んで抱えた訳でもなく求められるがままに。
胸に再び浮かんだ罪悪感を感じながら今一度、考えをまとめなおしながら視線を彷徨わせた。
玄関の扉の隙間から、薄暗い室内に眩しい太陽の光が差し込んでいる。
外は色の濃い影が草木から落ち、緑の青々とした葉の中に踏みつぶされそうな小さな白い花が咲いていた。
そこに木肌に紛れるような茶色の地味な蝶が羽を閉じて休んでいる。
蛾にも似た質素な色の蝶がその羽を広げると、見違えるような美しい瑠璃色が現れた。
一匹の蝶が不意に見せた華麗な変化に目を奪われる。
そして、頬が強ばっていくのを感じた。
連絡も取らず、家に住む女性。
会話に出てこない弟子。
お互いを熟知したような言動。
ハルカ様。とイチトセさん。
まさか。
いや、ああ。
そうか。そういう事か!
私は衝撃のあまり、ふらつきながらその場に立ち上がった。
その答えは簡単には信じられず。けれど今まで共に過ごしてきた時間が、確信となって真実を告げた。
溢れる思いが言葉にならない声で自分の口から漏れた。
ただ一点の事実が、何よりも固くあった私の誓いを打ち崩していく。
騎士として。そう言って覆い隠してきた本質が晒され、私に逃げる事を許さない。
余りの視点の変わりように、まるで自分が生まれ変わったようだった。
これは俗物的で陳腐ともいえる欲望だろうか。それとも何よりも清らかで尊い、人に許された有様なのか。
理屈を考える前に、衝動が私を支配する。
あの方を男だと信じて疑わなかった時よりももっと強い、焼けつく様な衝動がどうにも私を堪らなくさせた。
私は遠くない距離を、焦がれる気持ちで駆け出した。