第五十二話
イチトセさんはコップをぐるぐると回しその水面を眺めていたが、意を決したように顔を上げた。
「私、この世界の人間じゃないんです」
「それ、は・・・」
私は一瞬彼女の言ったことが理解出来なかった。
理解出来ないほど、想像を越えた答えだった。
冗談にしか聞こえないその一言は、しかし冗談と笑い飛ばせない空気で語られた。
今の今まで普通に接していた人なのに、途端その姿が小さく豆粒に見えるほど途方もなく距離が出来たかのようだった。
元々彼女は狂っていたのかとも考えた。
精神に異常を抱え、それ故魔術師の保護を受けているかもしれないと。
理解出来ない。健常者が真面目に答える答えではない。
しかし、かつて此処に住んでいた老魔術師の最も知られる業績を思いだし、愕然とする。
アーノルド・グスマンはカナウカレドを『召喚』したのだ!!
異世界の存在を確信し、研究に没頭するアーノルドを人は嘲った。
そんな事が起きれば奇跡だと。神の行いに等しいと。
余りにも複雑な術式に、誰一人理解出来ず眉を顰めて彼を遠ざけた。
けれど、アーノルドはとうとうやり遂げる。
人知を越えた美しい怪物の召喚という事実をもって、異世界の存在を証明した。
その怪物こそ赤眼のカナウカレド。
ハルベルの地にて召喚されたそれは、恐ろしい悪夢を生み出したのだ。
隣国も巻き込み多くの村を滅ぼし、両国軍をもってしても退治出来ず。
堅い鱗はどんな武器も跳ね返し、空を飛べば逃れるすべも無い。
手に負えぬ怪物は多くの犠牲者の後、どうにも出来ないものとして放置された。
死刑になってもおかしくない罪であったが、その稀な魔術に価値を見いだされ、辺境へと住まうことで命をつないだ。
その過去は、此処に住むイチトセさんへと繋げられたのだ。
私は、目の前の女性に何を言えば良いのか分からなかった。
それが真実だとすれば、アーノルドの業は深く。
イチトセさんは全てを失う絶望を覗いたに違いない。
「疑いますか?」
「・・・いえ」
それだけ返すのが精一杯だった。
私は覚悟をもって過去を尋ねたつもりだったが、その深さに思わず後悔した。
「あの日は、学校の帰り道でした。目眩がしたと思ったんです。
くらくらして、私はその場に座り込みました。
そして気分の落ち着くまでそうしていて…顔を上げたら、全てが変わっていた」
体験した人の口から聞く言葉は、どうしてこうも重苦しく耳に届くのだろう。
彼女はカナウカレドと同じように全く想像もつかない、別の世界から来た。
本来であれば出会うことも無かったこの人に、こうして出会ってしまったのはどんな因果によるものか。
イチトセさんが生まれてその眼で見てきた世界を私は生涯見る事が出来ない場所であると理解したら、現実感が遠のいた。
自分もこの部屋も、本の中にでも迷い込んだかのように。
「それで、貴方はどうしたのですか」
「言葉も分からなくて、最初は自分に何が起きたのかも理解していませんでした。
森の中で召喚されて。その場にいた老人がとてもとても驚いた顔をしていたのをよく覚えています。
その人が教える通りに言葉を覚え、必死に帰れると思っていろいろな事を努めました。
そして全てを知って、絶望した」
絶望という言葉の意味を、よく知っているつもりだった。
それどころか、つい最近までそれに浸っていた気分でいたのだ。
人の中に居ながらにして孤独を感じ、己の生きる意味が分からず惑い、手に入らねば嘆いた。
自分に何の価値があろうかと、神に問うていた。
けれどその程度。私は彼女に比べれば、思い上がりも甚だしい。
全てを失うとは一体どういう事か。私が知ることはないのだ。
「死のうとは思わなかったです。でも、何をする気も起きなくて、食事も喉を通らなくなりました。
何もしようとは思えなかったのです」
「老人は」
「老人は私を召喚したアロルド・グラークという魔術師だと名乗りました。
あの人は私を召喚した事を悔いていた。
今なら分かる気がします。ただ、ただ、純粋にあの人は異なる世界に憧れていただけだったのです。
自分の未知なる物への知的好奇心が、私から全てを奪ったことを目の当たりにして、罪を犯したことを知った。
私が全てを放棄する様を見て、打ちのめされたようでした」
アーノルドは悪い人ではなかったのかもしれない。しかしその行動がどんな結果をもたらすか、想像力に欠けていた。
そして一度カナウカレドで大きな過ちを犯して起きながら、再び犯す未熟さも持っていた。
召喚されたのが再び手におえない怪物だったのなら、我が国に甚大な被害をもたらされていたはずだ。
彼はやはり、一度目の時に命をもって贖わなければならなかったのだ。
イチトセさんは遠い眼をして、当時を語る。
「夜は眠れず、昼は白昼夢の中に居るような私に、アロルドは歪な木彫りの人形を持ってきました。
これは何かと尋ねれば、君が言っていたあちらの世界の物を作ってみたと。
余りの不出来さに、思わず笑ってしまいました」
イチトセさんはそう言いながら、不気味な木彫りの人形らしきものを指差した。
「あれらはよく勘違いされますけど、ちっとも魔道具なんかじゃないんです。
殆どはあの人が作った、私の世界の道具なんですよ。
私が僅かに笑ったのをみて、あの人が次々と作ったんです」
「恨まなかったのですか」
「どうでしょう。その時は、どうでもよかったです。
勿論良い感情も持っていませんでしたが。
でも、そんなふうに不器用に私の機嫌を取りに来る人を、嫌い続ける事が私には出来なかったんです」
積み上げられた不格好で不気味な物の数が、そのまま彼の深い後悔と懺悔の心を現している。
全てを恨んで嘆いてしまえれば楽であっただろうに。
アーノルドは過ちを気づける人間だった。
そしてイチトセさんは人間的すぎる情け深さ故に絆されたのだと。
「あの人から『すまない』と、幾度聞いたでしょう。
もう鬱陶しいぐらい。魂を削るように。
だから、私、言いました。
『きっと私が呼ばれた意味があるのでしょう。』
そんな慰めにもならない言葉を、何より信じたいのは私かもしれません。」
決して多くない言葉の裏に、長く深く苦しんだに違いない過去が少しだけ見えた気がした。
「長くなっていましましたが、私が此処に居るのはそんな理由からです」
私は何も言うことが出来なかった。
不用意な言葉を選びたくない一心で考えを巡らせたが、嘗て自死を望んでいた私が言える言葉は無かった。
イチトセさんとハルカ様が重なった。情を知り、どこまでも誠実で。
私などより余程生きている。
己がどんな人間か分かっていて、不器用な程曲げられない。
時々見えるその内面に、私は惹き付けられずにはいられない。
「私が何者か、分かっていただけましたでしょうか」
「・・・はい」
この話を誰かにしても、信じるものなど殆どいないだろう。
信じたところで、広まれば彼女がどんな恐ろしい危険に晒されるか分かったものではない。
そうと分かっていながらも、イチトセさんが私に話してくれたという意味はとても大きい。
私だけは安易に彼女の話を否定するという愚を犯してはならないのだ。
最後に一つだけどうしても気になる事を聞いた。
「ハルカ様を、イチトセさんはどう思っているのですか」
「・・・さあ、どうでしょう」
イチトセさんは微笑むだけで、質問には答えなかった。