第四十七話
暗闇の中、燭台の明かりだけで物を確認していく。
夜もふけたこの時間では、誰の物音もしないのでよけいに自分の音に気を使った。
まとめた荷物は自分でも驚くほど少なく、小さな鞄に全て収まってしまった。
どうにか片づけた部屋では、昼間の様子から考えると大分元通りになったように見える。
これならば使用人の人たちの手間は殆どないだろう。
来た当初は高級な品々に怖じ気付きながら生活し、慣れることはないと思っていたが。
暮らしてみたこの短い時間の内に、思い返せば随分慣れ親しんでしまった。
私には此処から離れ、向き合う時間が必要だろう。
衝動的な怒りの波は何とか押さえているが、平常心は未だ戻らない。
今も彼に問い続けている。何故、何故、何故と。
思考の迷宮を抜けるには、目を凝らすように過去と向き合わなくては。
この場所で成すべき事があるのは重々承知だが、そんな事にかまっていられないというのが正直な今の気持ちである。
優先すべきは私のこの感情の制御の方法だ。それが無くては全てが始まらない。
もしも、それが出来なければ・・・。
私は頭を振って、一瞬浮かんだ最悪の未来を打ち消した。
机の前に立ち、紙を一枚取り出してペンを持つ。
面と向かってリカルドに会うと何を言い出すか分からない自分がいるので、こうして紙に残しておいた方が良い。
さて何と書こうか。
どう書いたところで、逃げ出すように思われるのは間違いない。
居場所を書いて追ってこられても困る。長い文を書いても、尚更別れの言葉のようになるだけだ。
であるならば、一番短く伝えたいことだけを書き残そう。
私は『必ず戻る』とだけ書いてペンを置いた。
準備した鞄を手に持ち、魔術で自分の姿を隠す。
誰も起こさないように音を立てず扉を開け、その隙間から体をそっと滑り込ませた。
廊下を足音を消して忍びながら歩く。角を曲がったところで驚いた。
アルフレドが私の部屋からは見えない位置で壁によりかかり、見張りをしていたからだ。
まさかアルフレドだけで毎日夜番をしてはいないだろうから、他の者と交替で行っているのだろう。
今日が彼の番だったとは都合が悪い。
今の私の姿が見えていない筈でも、その鋭い勘で存在が分かってしまうのではないかと緊張する。
アルフレドも認めた姿隠しの魔術を使っているのだから大丈夫だろうと思いながらも、息を止めて体を動かした。
どうにかそっと目の前を通り過ぎ、うつむいたままの恰好でアルフレドが動かないのを見て安心しかけた時だった。
静かな声が廊下に落ちた。
「モール橋の近くにある赤い屋根の商家は、金さえ渡せば出自を問わず馬車を出してくれるだろう」
気づかれていた事に驚いて彼を見ると、俯いたその姿のまま床を見るように目を開いて動かないでいた。
彫像のように微動だにしないまま、淡々と語る。
「何処へ行こうと、此処へ戻らなくても。自分で決めたなら構わない」
返事を求めていないような、独り言のような語り方だった。
本当に私がここに存在しているのかアルフレドには確信がないのかもしれない。
立ち去ることを止められる様子もないので、私は静かにその続きを聞いた。
「それよりもあなたがこのまま此処で腐るのは、俺は勿体無いと思う。
何物にも束縛されない強さがあるのに、自ら望んで鎖に繋がれるのは、俺には少々受け入れがたい思考だ。
だから、もし…」
皆が寝静まった二人だけの空間であるにも関わらず、アルフレドは更に声を低くして提案した。
「もし、地を定めない生活を受け入れてくれるのなら。共に行かないか」
まるで結婚を申し込まれているかのような提案だった。
私はアルフレドが自分について何処まで知っているのかと疑った。
男として相棒を頼んでいるようでもあり、女として伴侶を求めているようにも聞こえた。
暗がりに照らし出された彼の顔は真剣で彼自身の深さはそこからは読み取れないほど深い。
多くの戦場を渡り歩いて来た実力者が、私を認めてくれている。
それは浮かれるほど嬉しい。
けれど、私はアルフレドの読み取れない心の底に手が届く気がしなかった。
有能な傭兵。気の利く家人。人当たりのよい、男の人。
どれも彼の一面だろうけども、もっと分からない何かを持っている。
その深さは、女性であれば惹かれる陰りであった。
アルフレドと共に過ごして、いつか全てを覗かせてくれる日がくるのではないか。
そう思ってしまう程に彼は私の近くにさりげなく存在してくれた。
そこまで考えて、ふと気づく。本当に私が男だと思っているなら、そもそもこんな提案をしてくるだろうか。
…恐らくその可能性は低い。明言しないでくれている私への気遣いを感じた。
どちらも私が選べるように、あえて触れないのだ。
少しばかり彼を選んだ未来を想像する。
私は今彼と共に行けば、全てをかけて守ってくれ、共に戦ってくれる確信があった。
誰よりも覚悟と言葉の重さを知っているから。
先のことなど本当は誰にも分からないけれど、きっとアルフレドは叶う限り傍にいてくれる。
とてもとても、魅力的な提案だった。
しかし。
私は、その場を無言のまま立ち去った。
他に考えられないぐらい、望むのはたった一人しかいない。
だから私はこうして今も戦う意志を持てるのだ。
振り払うように、足を暗闇へと進めていった。必ずリカルドの傍に戻ると強く思いながら。
暫く時間が経過した後、アルフレドは揺らりと体重をかけていた壁から背中を離した。
半開きになった扉を開き中の部屋の様子を確認する。
そこには彼の予想通りに誰も居なかった。
その事が想像以上に自分にとって衝撃的であった事に驚きながら足を踏み入れた。
長期間戻ってこないつもりなのだろう。
綺麗に片づけられた部屋の中、机の上に置かれた書置きが目に留まる。
しばしその紙を眺めた後、呟いた。
「あの方は…本当に、ハルカ様に相応しいのだろうか」
その呟きに答える者は誰も居ない。
最も近くで二人を見続けてきたからこその疑問であった。
「彼女に気づきもしない、あの方が」
隠していた本音が、仕事だからと作っていた厚く高い心の壁から零れた。
残されたその紙を丁寧に折りたたみ、自分の懐にしまいこむ。
自分が行ったことの意味を考えながら、アルフレドは朝を待った。