第三十一話*
始まりは少し前のとある日に遡る。久々に友に呼び出されたのだ。
仕事の合間を縫って、城の一角にある小部屋で我が友リカルドと落ち合う事にする。
やや窶れて細くなったリカルドを見て、俺は何か体調でも悪いのかと心配せずにはいられなかった。
「どうしたんだ。風邪でもひいたのか?」
「大丈夫だ。何の病にもかかっていない」
俺の言葉を一蹴したリカルドは、どう言おうか迷うような落ち着きのない様子で話を切り出す。
「それよりも、グラハム。頼みがある」
頼む。これほど真剣な口調でその単語を彼から聞いたことが嘗てあっただろうか。
リカルドは今まで俺やごく近しい者に頼る前に、自分で全てどうにか解決してきたのだ。
前々から自分を必要とする事があるなら力になろうと決めていた。
俺は襟を正す思いでリカルドに向き合うと、彼もそれを察してくれたらしく深く息を吐いた。
「会ってもらいたい人がいる。
正確に言えば、会うための場を整えて欲しい」
すぐさま近頃彼の挙動をおかしくさせていた例の男の存在が頭に浮かんだ。
俺はいよいよリカルドが本気で例の男と共に人生を歩もうと決意をし、その為の準備をしているのかと想像を巡らせた。
それを裏付けるように、彼は疎遠だった父親との仲を急速に縮めている。
嫌われている筈の父親に自分を認めさせるほどの功績をあげたという事だ。
身を削るように働いているに違いない。窶れて見えるのもおそらくその為だ。
早合点した俺は彼をそこまでさせる人物がどのような人であろうかと、考えずにはいられなかった。
好奇心を多大に刺激され、身を乗り出すようにして尋ねる。
「誰なんだ?」
「誰と一言で表すのは難しい」
しかしあえて言うのならば、と続けた言葉に全く方向性の違う事態なのだと気付かされた。
「我が主」
驚きと不安が俺の胸に生まれて増殖する。リカルドは主と言った。
己を司るもの。我々騎士にとって身近であり、だからこそもっとも遠く尊いもの。
その人が黒と言えば、白すら黒く染めあげる。それが騎士にとっての主という存在だ。
ふさわしい器であれば問題ないが、そうでなければ主の破滅に騎士も巻き込まれるしかない。
リカルドの選んだ存在は果たしてどちらか。俺は今生この男に見合うだけの器量のある人間が現れるとは思っていなかった。
気高い彼の上に立てる人間など居ないと、疑いを抱いた事無く信じていた。
衝撃的な話に頭を抱える思いの俺に対して、リカルドは言葉を選び終えたのか静かに更なる衝撃を告げた。
「我が主は英雄として立つのだと、言われたのだ。
ならば、そうしなければならない」
「英雄だとっ!?」
馬鹿め、この阿呆。何故よりにもよってそんな相手を選んだ!
思わず椅子を倒す勢いで立ち上がった。口元まで出かかった叫び罵る言葉を辛うじて飲み込む。
この時期に思い当たる人物など一人しか居ない。ヘダリオンの英雄。
今軍で噂を聞かぬ日がない、国でも最も注目されている当事者である。
その傍に立つのならばリカルドはどれだけの苦痛を受けるのだろう。簡単に想像がつくではないか。
どうにかしてリカルドを考え直させられないかと、俺は必死に考える。
「何故、どうしてあの彼なんだ?」
食い下がるように尋ねた俺に、困った顔をして落ち着き払った声で答えた。
「他の選択肢は無かった」
決められた運命だったのだと信じているらしい。声に揺るぎは無い。
一瞬騙されているのではと疑ったが、リカルドがその程度見抜けない筈もない。
「彼に助けられたのか。恩でも感じたのか」
「確かに助けられはした。が、恩義だけで忠誠を誓う程、軽いものではないだろう」
色々彼に真意を問う言葉は浮かんだが、彼の答えが聞くより前にわかってしまう。
長いつき合いだからこそどんなに言葉を尽くしても心変わりしないのだと悟ってしまい、俺は力無く椅子に座り直すしか無かった。
「場が欲しい。エイガーベル家の名前を使って、盛大な会場を作ってくれ」
如何なる頼みごとであっても、協力するつもりだった。今もそれは変わらない。
けれども、これほど気が進まなくなるなど思ってもみなかった。
俺はこの友人をどうしようもないくらいに尊敬し敬愛しているのだ。
陛下直々に賜われた誇らしき剣と変わらないほど、俺にとって唯一無二の宝である。
その宝を掠め取った盗人は一体どんな人間であるのか。呻きに近い声で尋ねた。
「名は?」
「ハルカ・グラーク様という」
「グラーク殿は強かったか」
「ああ、目を奪われるほど」
「人格者であるのか」
その人の事を答えながらリカルドの目は溌剌と輝き、小さな笑みを浮かべていた。
「間違いなく」
そう迷いのない声で断言するものだから、俺は彼に評価される者を妬ましく思った。
けれども敬愛の一心だけで人とはここまで恍惚の表情を浮かべるものなのだろうか。
盲目に崇拝する信者のような、或いは・・・恋情に身を焦がす男のような。
恐ろしい仮定に小さく身を震わせた。
もし、もしも、後者であればリカルドはどうするのであろう。
同性の主人に無礼であると知りつつも、己の思いの丈を詳らかに語る日が来るとは想像出来ない。
であるなら彼はずっと胸に抱える痛みと共に過ごす事になる。
俺は曇天のような暗い未来を思い、しかしそれ以上詳しく考えるのを止めた。
この推測は確定的なものではないのだから。
「用意しよう。君の望むそのとおり。不満もないほど完璧に」
リカルドがグラーク殿を慕っていてもいなくても、どちらにしろ俺はその人に完全であることを求めた。
リカルドを射止めたのならそうであってみろと、女々しい感情を押さえきれない。
俺の言質をとり緊張を弛ませたリカルドと分かれた後も、その思いは変わらなかった。
・・・だからこそ、今日大勢の人の中で不慣れなグラーク殿に初めて名乗られた時、知ってしまった僅かな手の震えさえ、俺は許せなかった。