第三十話
人混みを避けて庭園の方に移動すると、ようやく周囲の目も無い一息つける場所を見つける事が出来た。
友人と話し始めたハンナさんと分かれたリカルドが、私達の方向へ人が来ないか見張ってくれている。
大きく深呼吸すると、慣れない姿勢と緊張による体の強ばりをようやく解くことが出来た。
「ああ、疲れる」
開口一番、口から出てしまった率直な感想にセラフィさんが微笑した。
「とても堂々としてご立派でしたわ。
エイガーベル卿への挨拶もしっかりなされておりましたし、このような場に初めて出席された方とは誰も思わないでしょう」
「セラフィさんは私を嬉しくさせるのがお上手でいらっしゃる」
「私は本当にそう思っているんですの。人に慣れていないという事は、思っていらっしゃる以上に分かりやすいものですから」
セラフィさんはそう言ってくれるが、本当は緊張して震えそうだった私の心の支えとなったのは隣にいるセラフィさんとリカルドの存在だった。
私が何か失敗しそうな兆候が見られたら、彼らが素早く的確に手助けしてくれただけである。そして私はその安心感で辛うじて見栄を張るだけの気力を持つことが出来た。
「セラフィさんのお陰です。隣に居て下さったお陰で随分気が楽になりました。ありがとうございます」
「お礼を言われるほどの事はしておりませんわ」
そう微笑んで謙遜するが、いくら感謝しても足りないぐらいだった。
冷たい夜風が興奮と緊張で火照った体に当たって心地いい。何時までも此処で休んでいたいが、そういう訳にもいかないだろう。
「暫くしたら戻らなくてはなりませんね。
・・・『みんなジャガイモ』もあてには出来ませんし」
独り言として言ったのだが、不思議な響きの言葉に感じたらしいセラフィさんが首を傾げた。
「ジャガ・・・何の事ですの?」
「野菜の名前です。心の中でその言葉を繰り返し唱えていると、周りにいる人が不思議とその野菜に見えてきて緊張しなくなるという他愛もないまじないです」
意味を理解したセラフィさんは口元を押さえ、小さな声で笑った。
「まあ、まあ!ではハルカさんの目には、アグネスタ閣下も、ローヘディ閣下も、エイガーベル卿もみんな野菜に映っていらしたのね!」
とても楽しいことを知ったとばかりに目を輝かせるセラフィさんに、広間での凛とした姿は遠く普通の少女のようだった。
調子に乗った私は人差し指を口元にあて、勿体ぶって付け加えた。
「これは大変な秘術です。決して誰にも言ってはなりませんよ」
「勿論。誰にも言いませんわ!誓って」
セラフィさんが身分の壁も作らず接して下さるので、私は年下の友人が出来たようで嬉しく思った。二人で顔を寄せ、そんな些細な事で笑うととても気分が良い。
「こんな場所に居たのか。探したぞ」
聞き慣れない男の声が聞こえ、振り返ると今日の主役であるエイガーベル卿がリカルドに話しかけていた。
「グラハムこそ、こんな所で油を売っていていいのか?」
エイガーベル卿と話すリカルドは普段より随分砕けた口調である。
本人は交流があると言っていただけだったが、様子を見るに友人であるようだ。
身分の違いがあるにも関わらず、若干の荒々しささえあるリカルドのエイガーベル卿に対する扱いに驚く。
「二人は随分仲がいいのですね」
「ええ。騎士を目指されてその道に入ってからのお付き合いらしく、兄弟のように親しくされているそうですわ」
エイガーベル卿は浅黒い日に焼けた肌と緑がかった目を持つ青年だった。
豹のような、或いはしなやかな鋼のような。鍛え上げられた体からそんな印象を受ける。
「リカルドさんの昔話でもお聞きになってはいかがかしら。
気さくな方ですから、きっと喜んでお話になって下さるかと思いますわ」
「それはいい案ですね。私は彼の事を知っているかのように当たり前に傍に居りますが、ほとんど何も知らないのです」
「お知りになりたいのなら、今からでも知れば宜しいのですわ」
「・・・そうですね」
会話に頷いていると風に紛れて会場の賑やかな声が耳に届く。ほんの少し離れただけであるのに、ここは会場と違って随分薄暗く感じる。
「不思議なものです。あれだけきらびやかだったのに」
「あの場所は舞台の上ですもの」
はっきり言い切ったセラフィさんの喩えは実に的確だと思った。
「皆それぞれの役を演じているだけの舞台の上ですわ。
けれどその裏はこの国の全てに繋がっていく。
見えぬ場所を見通せなければ、知らずの内に喜劇や悲劇を演じさせられてしまうかもしれません。
或いは全てを手の内に踊らせることも」
セラフィさんは何の感慨も込めず、淡々と事実だけを述べた。
「セラフィさんは演じる側か演じさせる側、どちらですか?」
「脚本すら自分の意志で変えさせる、とびきりの女優を目指しておりますの」
それなら既に達成しているように私には見受けられる。しかし、こちらはようやく舞台に立つことを許された新米の身である。
未熟な目には見通せないほど広く深い世界があるに違いない。
セラフィさんの話を自分の中で静かに反芻していると、私たちの話のきりが良くなるのを見計らっていたのかそれまで離れていたエイガーベル卿が近づいてきた。
「夜会は楽しんでいただけていますか」
「ええ。勿論です」
「それは良かった。先程広間でお会いしたときは、ゆっくりお話する時間などありませんでしたから」
「わざわざお探しに?」
「ちょうど私も少し休もうと思っていた所だったのですよ。リカルドが見えたのでこちらへ来てみたらお二人の姿もありましたので、間に入らせていただきました」
楽しげに笑って言う様子から親しみやすい人柄を感じた。
「改めてご招待の御礼申し上げます」
「こちらこそ、リカルドの恩人ともなれば私は一番にお招きしなければなりません。ご出席いただけて嬉しいです」
リカルドはエイガーベル卿の隣で否定も肯定もせず私たちの会話を聞いている。
私が今日出席できたのも、彼がリカルドの友人だからだった。
エイガーベル卿は近衛騎士という名誉ある職に就いているため首都から動けない状態であったが、リカルドが戦場に行ってからずっと気にかけてくれていたそうだ。
「セラフィーナ嬢もお久しぶりです」
「楽しませていただいておりますわ」
彼はセラフィさんへと視線を移し彼女の顔を見てから、思い出したように言った。
「そうそう。お会いしたら是非言おうと思っていたのです。
セラフィーナ嬢が以前見たいと言っていた金孔雀の剥製が今父の手元にあるようです。ご覧になりますか?」
金孔雀とは遠い異国に生息している尾羽に美しい金色を持つという、この地域では見られない珍しい鳥である。
セラフィさんは本当にその鳥に興味があったようで、その話に目を輝かせた。
「まあ、本当ですの?是非、拝見させていただきたいですわ」
「見応えがありますよ」
喜ぶ彼女の反応に気を良くしていたエイガーベル卿だったが、何かに思い当たったようで表情を曇らせた。
「ああ、・・・困りました。少し離れた奥の部屋に飾ってあるのです。
私は此処を抜けることが出来ませんから・・・リカルド、頼めるか?
見たことがあっただろう」
リカルドはエイガーベル卿の顔をじっと見てから、セラフィさんを導く事を了承した。
「構わないが」
「頼む」
「では、こちらへ」
セラフィさんは足取りも軽く上機嫌にリカルドの後に続く。
それに自然とついていこうとした私を、エイガーベル卿の腕が引き留めた。
「グラーク殿は此処に。私にもう少し付き合って下さい」
彼の口は笑んでいる。しかしその目は驚くほどの凍てつく冷たさを宿しているように思えた。