第三話
それから暫く、数日の間隔で私に面会人が現れた。
全て私が手当をした者達である。
当時は殆ど正気を無くして治療にあたっていた為どれ程の人数に手当を施したか覚えていないが、この頻度だとどうやら当初想像していたよりも多いようだ。
最初のマルグ殿程ではないにしろ、会う人は誰も誠実であり真摯な態度で礼を尽くされた。有り難いことだった。
今日も同じように面会人が現れたと伝えられ、何時もと同じく寝たきりではあるもののせめて表情だけは引き締めてその人を迎える準備をする。
「失礼します」
声が扉の向こう側から聞こえた。成熟された低い声だ。
一人の男が扉を開いて入ってくる。
その姿に、私は驚かされた。
太陽の光に輝く金糸の髪と、晴天を映した青い瞳。
彫刻よりも整った顔に、彼のために在るような純白を基調とした騎士用の儀礼服。
腰には実用性を妨げないが美しい装飾の施された、一振りの剣が挿してある。
絵に描いたよりもそれらしい、一目で分かる騎士だった。
騎士の位は貴族階級に組み込まれているが、同時に軍事のエリートでもある。
王族に連なる高貴な方々の護衛任務だけでなく、戦時においては華々しく指揮も行う。
しがない一魔術師の私にとって、天上人である。
引き締めた顔も空しく呆けてしまった。
「ハルカ・グラーク様。
私はリカルド・メルツァース・ブラムディと申します」
優雅極まりない一礼を目の前で披露された。
おそらく貴族式だと思われるが、流れるような所作は洗練されていた。
あまり顔を崩し続けるのも失礼かとせめて表の動揺は隠したが、内心は大嵐の直中に居る。
何故この様な方が私に会いに来るのだ。
「ブラムディと申しますと、失礼かも知れませんが伯爵家の方でしょうか?」
「はい。父は伯爵の位を頂いております。
私自身は三男であります上、軍に在籍しているので騎士の位で御座います。
流石、博識でいらっしゃる」
天に祝福された顔が綻ぶ。
それだけで部屋の中が花が咲き乱れたかのような鮮やかさに包まれた。
美人であるということは、微笑みだけで幸福な気持ちにさせてくれるらしい。
目の保養とはこの事か。
「それで、ブラムディ卿は一体どのようなご用件でしょう。
私のような身に、ブラムディ卿の望みが叶えられるとは思えませんが」
困惑を滲ませた声で問うと、彼は首を横に振る。
「いいえグラーク様。他の何人にも出来ない事です。
お忘れでしょうか、貴方様に命を助けて頂いた事を」
ブラムディ卿の顔を見る。
私が手当した者の中に、居ただろうか。
正常な精神状態ではなかったので、見逃した可能性は十分ある。
しかし、これだけ特徴的な顔であれば覚えていそうなものだった。
首を傾げる私に、ブラムディ卿は残念な表情を浮かべた。
「覚えておられないようですね。
・・・仕方ありません、グラーク様は死の淵にいらっしゃった」
倒れる前辺りに手当した者達の誰かだろうか。
それまでは傍目には分からない位動き回っていた記憶がある。
ブラムディ卿は遠い目をした後、その時の事を思い出したのか熱のこもった目で私を見つめた。
「戦場に毅然として在り、死を望むばかりの愚かな私を叱咤激励して導かれた。
あれ程までに心を揺さぶられたことはありません」
叱咤した覚えがある人は一人しかいない。
まさか。いや、顔はどうだっただろう。
土と煤にまみれて、くすんでいた為良く分からなかった気がする。
冷や汗が頬を流れた。
「グラーク様の瞳の奥に、私は生を見いだしたのです。
貴方様が目の前でお倒れになった時は心臓が止まるかと思いました。
その後到着した援軍に、治療を任せたのは私でございます」
間違いない。私が最後に八つ当たりした青年である。
とんでもない事をしてしまった。
伯爵家の三男坊に罵声を浴びせたとは。
牢屋に入れられるかもしれない。
いや、曲がりなりにも命の恩人なので免れる事は出来るだろうか。
待て待て。冷静になれ。
今のところブラムディ卿は好意的な態度である。
下手に騒いで勘気にふれるより、相手の出方を見るべきだ。
「・・・思い出しましたブラムディ卿。傷の具合はどうでしょうか」
私が思い出したと告げると顔を輝かせた。
この態度を素直に信じるなら報復目的ではなさそうだ。
しかし海千山千の貴族様である。まだ疑いは晴れない。
「血を止めて頂きましたし、後で治癒者に治療させたので支障はありません」
「それは良かった」
この拙なる私にも人様の助けが少しでも出来たなら、社会に居て良いのだと言われた気がする。
思わず頬を緩ませると、何故か顔を凝視されてしまった。
そんなに変な顔でもしていただろうか。
暫く無言のままブラムディ卿は私を見ていたが、私が戸惑いながら見返している事に気づき小さく咳払いをした。
そしてベッドの傍に片膝をついて、視線の高さを同じにする。
目線を合わせる以上の他意はないのだろうが、おとぎ話の姫にでもなった気分だ。
騎士様に膝をつかせる訳にはいかないのでそのまま居て欲しいと懇願しようとしたが、出ようとした声はブラムディ卿の言葉に遮られた。
「賭は成立し、グラーク様は勝者と成りました。
運命の神に祝福された方よ。
どうか証をお受け取りください」
そう厳かに言ったブラムディ卿は、頭を下げて騎士の礼をとる。
間違いなく視線を合わせる姿勢ではない。
騎士が主にするものである。
仰天したまま、ブラムディ卿の言葉の意味を咀嚼する。
かけ、かけとは何だろう。かけ書け欠け駆け賭・・・賭!?
今の今まで忘れていた自分の言葉が朧気ながら思い出される。
私が死んだら好きに死ね。
私が生きていたら、私の為に生きて私の為に死ね。
傲慢で不遜な態度が蘇った。
愚かしい事だ。思い上がりも甚だしい。
何という事だろう。
この青年はそれを生真面目にも実行しに来たのだ!
「受け取れません!」
ひきつった叫びが私の喉から発せられた。
「人が人を征するなど・・・!
私はなんと馬鹿な事を言ったのか。
どうか生き延びたその命、自分の為にお使いください!」
ブラムディ卿は弾けるように顔を上げた。
険しく眉間を寄せた、怒りの表情がそこには在った。
「私は言った筈。
グラーク様の瞳の奥に、生を見いだしたと。
その言葉の意味を知って尚、私を突き放すのですか」
私は誰かに全てを捧げられるほど強い思いなど抱いた事は無い。
ましてや一度会っただけの私にこの様な真似をする彼の正気を疑った。
「時は移ろい、人は変わる。
今感じられているそれは一時の熱病のようなもの。
過ぎれば全て霞むでしょう。
私は一介の魔術師です。よくお考え直しください」
私が言ったのは、至極まともな意見であった。
けれどもブラムディ卿は愕然とした後、もどかしい思いを露わに言い募る。
「何故分かって下さらない。
私がどれだけ歓喜に満ちたか!」
言葉の通じない人間と話しているようだ。
理性的な私の言葉は、彼の感情に全く届かない。
ブラムディ卿に初めて恐怖を感じた。
狂人じみている。
私の心が離れていくのが分かったのだろう、動けない私の右手を徐に布団から掴み出す。
引き戻したかったが、未だに力の入らない無力な腕ではそれも不可能だった。
「騎士は貴族でもっとも下位に当たります。
それも一代限りの儚いもの。
けれども、騎士にのみ許された特権をご存じでしょうか。
今は廃れ知る人も殆ど居ない、禁呪の使用が許されている事を」
そう言って艶やかに笑う。
先ほどの花のようなものではない。毒めいた笑いだった。
彼の話すものに全く心当たりが無かったが、それでも嫌な予感だけはひしひしと感じられた。
「天の益荒男、夜の手弱女。我が誓いをお聞きあれ。
眼前の鵬よ。汝が御霊我が主と定め、幾星霜を経て違うことなし。
涙するならば我が血肉によって恥辱を濯ぐ。
笑い満ちる事あれば我が本望」
「何を・・・!」
朗々と語られる音は紛れもなく呪術のものである。
呪術は魔術とは異なり、どれも顔をしかめるような類のものが多い。
それは魔力を使う魔術とは異なり、呪術は術者の思いを媒介にするからである。
そして正負に寄らず、術者は多大な負担を負う。
その負担の為に、呪術者の研鑽の殆どがそれを逃れる術に費やされる程である。
軽々しく行うものでは決してない。
「止めて下さい!」
悲鳴も空しく、祝詞は止まらない。
「今こそ高らかに言祝ぎを。
永久なる契りを交わさん」
捕まれていた右手の指先に、電流のような痛みが走った。
噛みつかれたのだ。
ブラムディ卿は黄金の睫を震わせて、感極まるとばかりに浮き出た血玉を舌で舐めとった。
青い目は伏せられ、美味しい筈もないのに丹念に指先に口づける。
余りにも絵になる光景に、一瞬全てを忘れて見とれてしまった。
私の右手である事が申し訳ない美しさだった。
しかし、突如としてそれは破られる。
私の血を飲み込んだブラムディ卿の唇から、小虫のように黒々とした何かが這いだして来たのだ。
「・・・っ!」
息を呑んで硬直した。
よく見ると小さな虫のような物はどうやら小さな文字らしかった。
次から次へと溢れ出て、鎖のように列を成して彼の体表を駆け巡る。
それも一つ二つではない。
千や万を思わせる膨大な数に埋め尽くされ、髪の毛一筋すら元の色が分かる場所は無くなった。
すっかり黒に埋まった顔が笑う。瞳の中すら黒く染まっていた。
「これで私の思いが分かっていただけたでしょうか」
無邪気なその声と共に黒い色が溶けて消えた。
後には何もなかったのような、元の美顔が戻っていた。
「ブラムディ卿、一体何をしたのですか!?」
「ご安心下さい。グラーク様の不利益になる事は御座いません。
私の身に、主の名を覚えさせただけのこと」
当然のような口調に目眩を感じた。
つまりこの男は、私に自分の存在を押し売りしたのである。
先ほどの文字は体に溶けて、今後もブラムディ卿を縛り続ける事だろう。
その量から察するに私が命じれば従わずにはいられない、最も強制力のある呪法に違いない。
「呪術の解き方は?」
「在りません。既に時の中に失われました」
それがにこやかに話す内容か。
「どうぞリカルドとお呼び下さい。
私は最早、グラーク様の従僕なのです」
「・・・貴方がここまで強引な方だと来る前に知っていれば、何としても入れなかったものを」
「その場合でも、入れて下さるまで何度も足を運んだことでしょう」
容易に毎日通う姿が想像でき、結局は逃れられない運命だったのかもしれない。
私はそれはもう大きな溜息を吐いた。
「リカルド、私はこの様に体すら満足に動かせない状態です。
下手したら一生このままかもしれません。
貴方に下男のような仕事を任せる事もあるでしょう。
それでも?」
「望む所です」
即答だった。
彼の気持ちは今では疑いようもない。
しかし、やはり問題も幾つか思い浮かぶ。
どう考えても平民の主に貴族の従では矛盾している。
色々第三者が言ってくる事もあるだろう。
彼の実家はどうなのか。
伯爵家にとって非常な不利益だと思われる。
目障りに思われたら殺されるかもしれない。
周囲には黙っているのが賢明だろう。
それだけではなく経済的な問題もある。
「貴族に給料なんて払えませんよ、私・・・」
「構いません。幾つか事業に手を出しております。
有能な人材にそちらの方は任せてありますので、ご安心下さい」
規模が違った。余計なお世話だった。
此処まで頑固な人間に初めて会った。完敗である。
「では私のことは遥と。グラークは師から貰った名前ですから」
「畏まりました、ハルカ様」
嬉しそうに私を仰ぐ人を見て、やはり立場が逆だろうと思わずにはいられなかった。