第十三話
顔の上半分にかけられた冷水で絞った布が不快さを拭ってくれる。
椅子を並べて作ってもらった台の上で、私は横になっていた。
目では何も見えない代わりに、耳からは酒気を帯びた飲み屋の声が大きく聞こえた。
「マリ、災難だったなあ」
「全くだわ!
最近視線が気持ち悪かったから、気をつけていたんだけど」
「ゾイの野郎も馬鹿やったもんだ。今度という今度は見逃せねぇ」
「見かけたら仇を取ってやるよ」
「もう良いわ、バシューさん。魔術師さんに助けてもらったから」
常連客と助けた彼女との会話に耳を傾けていると、話の矛先がこちらに向かってきた。
どうやら彼女はマリという名前らしい。
「魔術師さん!俺達の看板娘をありがとうよ!」
「小さいのに凄いんだなぁ、あんた」
顔にかけられていた布を取り視線を向ければ、酒に酔った人の良さそうな人達の顔が見える。
小さい店ながらも地元の人に愛されている様子から、不思議と懐かしい雰囲気を感じた。
「いえいえ、それほどの事でも」
つい癖で謙遜してしまうと、マリさんのお父さんである強面な店の主人が静かに否定した。
「でもあんたのお陰でマリは何とも無かった。すまないね。
本当なら酒の一杯でも奢ってやる所だ。
しかし、その体調だと余計に悪化させちまうなぁ。」
「・・・では今度、何かまた美味しいものでも食べに来ますから。
その時にお願いします」
「はは、しっかりしてる。・・・分かった。その時には鱈腹食わせてやるさ」
「此処の親父がそんな事言うなんて珍しい。
魔術師さん、いつもこうだって勘違いしちゃいけないぜ」
「なんだと?おい、今度からお前さんだけ割り増し料金だ」
「そりゃひどい!」
会話が自然と逸れていったので、私はまた布を顔にかけ直し視界を閉ざした。まだまだ体調は回復しない。
胃の辺りに残る気持ち悪さを堪え、気を紛らわせる為に耳だけ澄ませて周囲の会話を拾った。
何処の誰の息子が戦場から帰って来た、何の値段が上がって買い辛い、
町に増えた人のせいで問題が起こった、まだ、いつ隣国との緊張が高まるか分からない等々、日常の話をしているようでも皆があの戦いの事を気にしている事が伺えた。
けれど自国の軍が見事敵国を押し返し撤退させた事から、曇天の雰囲気を持ちつつもどこかしら明るさが存在している。
これからもっと良くなる。皆、そう信じていた。
従軍していた私は尚更この国の人が希望を持てた事に心が温まった。
戦った甲斐、とは違う気がするが自分の起こした結果が誰かの幸福に繋がる事は純粋に喜ばしい。
そのまま聞いていると、彼らの内の一人が馴染み深い単語を言った。
「聞いたか?ヘダリオンの英雄の話を」
「・・・ああ、そういえば隣の家の息子が言ってたな」
ヘダリオン樹海とは自分が戦っていた場所の名前である。しかし英雄とは勇ましい。
上官達の中には戦場において勇名を轟かす者も居たから彼らの中の一人に違いない。
「俺は知らん。誰だそれ」
「なんでもあのヘダリオン樹海での戦いで、敵兵を撫で斬りにした猛者だと。噂じゃ、その人を恐れてヘリオットもこっちに手が出せなくなったらしい」
誰の事だろう。幾人か該当しそうな人間を思い浮かべるが、市井の人までも噂するほどではない。
戦いが収束して落ち着きを取り戻した今になって、無名だった人の業績が認められたのか。それとも単に私が知らなかっただけなのか。
一人腕の立つ傭兵の噂を聞いたが、傭兵を英雄に祭り上げはしないだろう。
「撫で斬り?俺は魔術師で、空を真っ赤に染めあげたって聞いたぜ。敵兵の血と炎でよ」
「俺の聞いた話じゃ、大剣を持った大男だって聞いたぞ。魔法剣士として一万の屍の山を築いた大男」
「いやちょっと待て。戦術でヘリオットを翻弄した軍師じゃないのか」
随分と情報が錯綜していた。
情報の伝達が人伝しか無いにしても、ここまでばらける事も早々無い。
余りにも意見が食い違うので、仕舞には彼らが互いにどちらが真実味があるか競いだした。
不思議なのは二人ほど戦地から帰ってきた人から直接聞いたという者が居たにも関わらず、その二人の意見も違っていたことだ。
結局彼らは何人もの[英雄]が存在し、誤って一人の人物だと広まってしまったのだろうと結論づけた。無難な考え方だと私も一人心中で同意する。
彼らの意見を興味深く聞いている間に、窓から覗く空が次第に陰っている事に気づく。
体も大分調子が良くなったしそろそろ帰らなければ屋敷の方達に心配させてしまう。
私は椅子の台の上で体を起こし、顔にかけてもらっていた布を店の主人に返した。
「もう大丈夫なのかい?」
「ええ。暗くなってきましたので、お暇させてもらいます」
「そうか・・・俺はトマス。魔術師さんの名前を教えてくれないか」
そう言えば、名乗っていなかった。危うく名も告げずに去るところ立ったと、今更ながら自己紹介する。
「私は遥と申します」
「ハルカさん。また店に来てくれよ」
「是非」
「ハルカさん、またな!」
「ええ」
私はトマスさんと常連客のみなさんに軽く頭を下げた。扉のベルを鳴らし外へ出る。
気持ちの良い店だったのでまた機会があれば遊びに来よう。
そんなことを考えながら、冷えてきた夕方の町へ一人歩きだした。
「丁寧な少年だったな」
「ああ、親御さんの教育が良いんだろう」
ハルカが去っていった扉を眺めつつ、客達がそんな感想を述べる。
トマスは娘のマリの様子がおかしい事に気付いた。
盆を持ったまま視線を下に向けて考えに耽っている。
「おいマリ。どうした?」
「え?あ、・・・ううん、何でもない。きっと気のせいだから」
「ふーん?」
娘は一人で自己完結してしまったらしいので、トマスもそれ以上追求しなかった。
絶望的な我々を救ったのは、天地を舐める巨大な閃光。
群がる悉くを尽滅させた力は正しく驚異。
その後も力尽きるまで傷病者を治癒し続けた高潔な人物は
・・・たった一人の、少年のような魔術師だった。
マリは首を振って考え直した。あの戦地に関する話は何故か皆が色々な事を話す。
だからきっと、この前聞いたこれもそんな噂話の一つに過ぎないのだ。
ましてや、その人が目の前に現れるのはどれほど低い確率だろう。
あり得るはずがないと自分を納得させ、マリはその事について考えることを止めた。