妹の進学祝いに、両親は私が四年間貯めたお金を使いました。
大学の卒業式の日、私はとびきり印象に残る「卒業祝い」を受け取った。
スマートフォンに銀行からの通知が届いたのは、式を終えて着替えた直後だった。四年間、アルバイトと奨学金、それに研究室の補助業務でもらった謝金を少しずつ貯めてきた口座から、百五十万円が消えている。
送金したのは、母だった。
その口座は高校生の頃に作ったものだった。当時は母がキャッシュカードや認証の設定を管理していて、大学に入ってからはほとんど私自身が使っていたものの、昔の設定をきちんと変えないままにしていた。
二十二歳になった今、そのことをこんな形で後悔するとは思わなかった。
「美月は第一志望の国立には届かなかったけど、星華大には受かったんだから。受験で一年頑張ったんだし、進学祝いくらいしてあげたいでしょう?」
母は悪びれもしなかった。
「お金はお母さんが借りたことにして。星奈はお姉ちゃんなんだから、こんなときくらい水を差さないでよ」
百五十万円。
深夜のコンビニ、週末の家庭教師、奨学金、研究室の補助業務。四年間かけて貯めたお金だった。
大学院へ進んでからの生活費も、引っ越し代も、入学準備に必要なお金も入っている。
何より、いざというときに自分で逃げられるように用意していたお金だった。
兄の陽介は、私の肩を軽く叩いて笑った。
「星奈は昔からしっかりしてるし、今回は美月に譲ってやれば? 俺もまだ入社したばっかで余裕ないけど、落ち着いたら卒業祝いするからさ」
幼なじみの相沢智也まで、母たちの側についた。
「叔父さんたち、旅行ももう予約してるんだろ? お金のことは帰ってから話せばいいじゃん。せっかくの卒業式なのに、そんな顔して終わるのもったいないよ」
私は、楽しそうに荷物を持って出ていく家族を黙って見送った。
誰も知らない。
私はもう、彼らが帰ってくるのを待つつもりなどなかった。
四年間付き合ってきた恋人、久我蒼士が桐葉市役所の近くで待っている。
婚姻届も、とっくに二人で書き終えていた。
昨日までの私は、大学院が始まって生活が落ち着いてから家を出ようと思っていた。
けれど、もう十分だった。
今日からは、自分の人生を生きる。
藤原家へ戻ることも、もうない。
1
「星奈、美月の部屋も片づけといてね。あの子、慌てて出たから机の上ぐちゃぐちゃなの」
母の真紀は玄関で靴を履きながら、いつもと変わらない調子で言った。
私はリビングの脇に立ったまま返事をしなかった。
さすがに百五十万円は少なくないと思ったのか、母の声が少しだけ柔らかくなる。
「お金のことで、いつまでもそんな顔しないの。第一志望は駄目だったけど、星華大だってちゃんとした大学でしょう? 進学なんだから、家族でお祝いしてあげたいじゃない」
「汐音島の旅行も前から約束してたのよ。お金はそのうち返すから」
父の修一も荷物を玄関へ運びながら口を挟んだ。
「美月だって受験でずっと神経を使ってたんだ。姉なんだから、少しくらい大目に見てやれ」
兄まで笑いながら続ける。
「俺もまだ新人で金ないしさ。来年ボーナス入ったら何か買ってやるよ」
陽介の約束は、いつだって少し先にある。
来年や今度、余裕ができたら。
美月のために何かをするときだけ、その「いつか」が今日になる。
智也は美月のバッグを持ち上げ、私を振り返った。
「卒業おめでとう。旅行のお土産、何か買ってくるよ」
「何を?」
「美月が欲しがってた星と月のネックレス、かわいかったじゃん。星奈にも同じの買ってこようか?」
数秒、返事ができなかった。
それは美月の好みだ。
私は昔からアクセサリーをほとんどつけない。
以前の智也は、少なくとも私が何を好きなのか考えてくれていた。いつの頃からか、私への贈り物はすべて「美月に買うついで」になった。
「お姉ちゃん、行ってくるねー」
新しい靴を履いた美月が、玄関から手を振った。
「留守番よろしく!」
ドアが閉まると、家の中が急に静かになった。
靴箱のほとんどは美月の靴で埋まっている。
私のスニーカー二足は、一番下の隅に押し込まれていた。
銀行アプリを開くと、残高は数百円。
母がお金を勝手に動かしたのは、今回が初めてではない。
去年、美月がスマートフォンのカメラに不満を言い、新機種を欲しがった。
そのときも母は事前に何も言わず、私の口座から二十万円以上を引き出した。
新しいスマートフォンが届いた日、母は美月のために保護フィルムを貼りながら笑っていた。
「星奈なら二十万くらい、またすぐ稼げるでしょう? 妹がスマホ欲しいって言ったくらいで、お姉ちゃんが本気で怒ったりしないわよね?」
私は昔から、この家で「手のかからない子」だった。
高校を卒業すると、すぐにアルバイトを始めた。
大学に入ってから、両親から生活費をもらったことはほとんどない。
当時は、それでいいと思っていた。
自分で稼いでいれば、この家に借りを作らずに済む気がしたからだ。
自分の部屋へ入った。
元々は物置だった場所から荷物をどかし、シングルベッドを置いただけの狭い部屋だ。小さな採光窓しかなく、クローゼットもない。
服は収納ケースの中。
その中にも、美月が飽きて着なくなったものが何枚も混ざっている。
机のライトは陽介のお下がり。
引き出しに入った雑貨も、智也が美月へ何か買うついでに渡してきたものばかりだった。
大きなごみ袋を広げ、もう必要のない物を仕分けた。
リサイクルに出せるものと、処分するもの。
実際に自分が持っていきたい荷物は、驚くほど少なかった。
リビングの壁には、美月の写真や賞状、認定証がずらりと並んでいる。
昔は私のものも飾られていた。
美月が試験で悪い点を取り、私の賞状を見ながら泣いた日から、全部外された。
「美月は今、気持ちが不安定なの。お姉ちゃんの賞状をずっと見せられたらプレッシャーになるでしょ?」
高校に入ってから、私は成績表も賞状も家へ持ち帰らなくなった。
たまに聞かれても、
「普通だったよ」
そう答えるだけ。
両親も、それ以上尋ねなかった。
古い賞状をまとめた段ボール箱は、まだ部屋の隅に残っていた。
少し迷ったあと、それも荷物の中へ入れる。
この家に残しておく理由はない。
私が努力して手に入れたものなのだから。
スマートフォンが震えた。
蒼士からのLINEだった。
「着いたよ。急がなくていいから」
すぐにもう一件届く。
「外、日差し強い。出るとき傘持ってきて」
たった二行を見ただけなのに、胸の奥の力が少し抜けた。
この家を出ることは、思っていたほど怖くなかった。
2
桐葉市役所の前で、蒼士が車にもたれて待っていた。
私のキャリーケースを見ると、自然に持ち上げてトランクへ入れる。
「荷物、これだけ?」
「うん」
トランクを閉めた蒼士は、すぐには歩き出さなかった。
「今日出すって、本当にそれでいい?」
付き合って四年。
結婚については何度も話してきた。
婚姻届もすでに二人で記入してある。
ここまで待ったのは、私が家族のことをきちんと整理してからにしたいと言い続けていたからだ。
家族のLINEを開いた。
空港へ向かう車内らしく、美月が何枚も写真を送っている。母に買ってもらった新しいワンピースを着た美月を陽介が撮り、智也は二つのスーツケースを押していた。
卒業式が終わってから今まで、私がどうしているのか尋ねるメッセージは一件もない。
画面を閉じた。
「今日がいい」
蒼士はそれ以上確認しなかった。
ただ、手を差し出した。
「じゃ、行こうか」
窓口で書類を確認してもらい、婚姻届は無事に受理された。
市役所を出て、階段の途中でふと足を止める。
何か大きな音がしたわけでも、景色が変わったわけでもない。
それでも、自分の人生の境目を一つ越えたことだけは分かった。
隣から声がする。
「奥さん?」
吹き出した。
「気が早くない?」
「四年待ったけど」
蒼士は真顔だった。
「どこが早いの?」
大学一年の頃、私は生活費を稼ぐため、大学から離れた家で夜の家庭教師をしていた。
帰りが遅くなったある日、駅前で酔った男たちに絡まれた。
助けてくれたのが蒼士だった。
そこから少しずつ話すようになり、付き合うことになった。
私がお金をほとんど貯金していることも、家族に何度も持っていかれていることも、彼は知っている。
それでも一度も「どうしてそんな家族の言うことを聞くんだ」と責められたことはなかった。
夜遅くまで働く日は、都合がつけば迎えに来てくれた。
以前、一度だけ聞いたことがある。
「どうして、家を出ろって言わないの?」
蒼士は少し考えてから答えた。
「星奈の人生だから」
「出たいと思ったら一緒に出る。でも、まだ決められないうちは、俺が代わりに決めることじゃないだろ」
あの言葉を、私はずっと覚えていた。
蒼士が連れていってくれたのは、桐葉市中心部の高層マンションだった。
実家が裕福なのは知っていた。
けれど家族について聞くと、彼はいつも、
「まあ、商売やってる」
その程度しか言わなかった。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、「商売」という言葉の規模が自分とは違うらしいと気づいた。
「こっち」
蒼士が一室のドアを開けた。
書斎だった。
壁一面に本棚があり、私の専門分野に関する本がすでに何冊も並んでいる。大きなデスクには性能のいいパソコン、その横には昔一度だけ「使いやすそう」と言った目に優しいデスクライトまで置かれていた。
「……いつ用意したの?」
「結構前」
蒼士がドア枠にもたれて笑う。
「あとは、本人がいつ来てくれるかだけだった」
キッチンの冷蔵庫にも食材が揃っていた。
辛口カレーや辛味調味料、普段なら値段を見て諦めるような食材も入っている。
「これからは好きなもの食べればいいよ」
冷蔵庫を見たまま、鼻の奥がつんとした。
藤原家のカレーは、いつも甘口だった。
美月が辛いものを食べられないから。
麻婆豆腐もほとんど辛くない。
私は魚が好きだったけれど、美月が一度小骨を喉に引っかけてから、家では骨のある魚料理がほとんど出なくなった。
「妹が食べられないんだから、星奈が我慢すればいいでしょう?」
母はいつもそう言った。
長いあいだ、それが普通だと思っていた。
だから今、「好きなものを食べていい」と言われただけで、泣きそうになる。
スマートフォンが何度も震えた。
母からの音声メッセージ。
「星奈、美月の入学前の手続き、ちょっと調べておいてくれない? 履修登録とか、大学で使うものとか。私たちよく分からないから」
続いて智也から。
「勝手にお金動かしたのは、叔母さんも先に言うべきだったと思う」
「でも家族なら、そこまできっちり分けないだろ。美月も受験で大変だったんだし」
「星奈は昔から大人だしさ。帰ってきたらちゃんと話せばいいよ」
少しして、美月のInstagramが更新された。
レストランで家族に囲まれている写真。
智也は隣で、美月のステーキを切ってやっている。
添えられた文字は、
『進学祝い旅行♡ 家族に愛されて幸せ』
私はスマートフォンをサイレントにし、伏せて置いた。
蒼士が隣へ座る。
「返さないの?」
「うん」
自分でも驚くほど簡単に言えた。
「もう返さない」
3
翌朝、美月からLINEが来た。
「お姉ちゃん、パソコン選ぶの手伝ってー。最新のMacBook欲しい!」
「四月から大学だし、授業で使いやすいやつがいいな」
「私も就職したら、お姉ちゃんにいっぱい返すからね!」
昔からこうだった。
甘えるようにお願いして、それが当然のように私の時間やお金を使う。
子どもの頃は、私も美月をかわいがっていた。
お菓子は先に選ばせ、新しい文房具も分けた。
いつの間にか、それが妹にとって「姉とはそうするもの」になっていった。
美月から私へ回ってくるのは、嫌いな味のお菓子や、飽きた服。
「お姉ちゃん、これいる?」
それが彼女なりの優しさだった。
スマートフォンを置こうとすると、今度は母からビデオ通話が入った。
少し迷ってから出る。
画面の向こうで真紀が新しいワンピースを見せていた。
「星奈、これどう? 美月が自分のお年玉で買ってくれたのよ。旅行に連れてきてくれたお礼だって」
しばらく嬉しそうに話したあと、思い出したように尋ねる。
「そういえば、大森さんのところには連絡した?」
父の知人である大森さんは、小さな会社を経営している。
去年の秋、父に強く言われ、私は一度だけ会社の担当者に会った。
その後、契約社員の一般事務として働かないかという話をもらった。月給は十八万円ほど。
私は一度も行くと答えていない。
けれど両親の中では、とっくに私の就職先になっていた。
「もう断ったよ」
母の笑顔が止まる。
「……何を?」
「大森さんの会社。行かないって返事した」
すぐに眉間へしわが寄った。
「何考えてるの? お父さんがわざわざ話をつけてくれたのよ?」
「今、新卒で仕事を見つけるの大変なのに。向こうが来ていいって言ってくれてるんだから、素直に行けばいいでしょう?」
画面が揺れ、陽介にスマートフォンが渡った。
「星奈、お前もう少し大人になれよ」
「親父たちだって、先のこと心配して仕事紹介してくれたんだろ。断るなら断るで、先に言えよ」
そばにいたらしい智也の声も聞こえた。
「まだお金のことで怒ってるの?」
「家のことと就職は分けて考えたほうがいいって。意地になって、自分の予定まで駄目にする必要ないだろ」
みんな、私のために話しているつもりなのだろう。
なのに、誰一人として聞かない。
星奈は、何がしたいの?
その質問だけは、一度もなかった。
「ちゃんと自分で決めてるから」
それだけ言って、通話を切った。
午後、桐葉理工大学の教務課へ行った。
婚姻届が受理されたため、大学にも氏名と連絡先の変更を届け出る必要がある。
必要書類を確認していた職員が、画面を見ながら言った。
「では、今後の氏名は久我星奈さんですね。南陵科学技術大学大学院へ送る書類も、こちらの住所に変更しておきます」
「お願いします」
申請書を見る。
藤原星奈。
その下に、新しい名前を書く。
久我星奈。
卒業後、私は就職しない。
進学先は、南陵科学技術大学大学院・先端物質科学研究科の五年一貫制博士課程。
学部時代に取り組んでいた研究と、進学先の指導予定教員のテーマは近い。
給付型奨学金の審査も最終段階まで進んでいた。
事務棟を出ると、蒼士が駐車場の近くにいた。
「終わった?」
「うん。名字も住所も変更した」
「久我星奈さん?」
わざとらしく呼ぶ。
「まだ慣れない」
「そのうち慣れるよ」
蒼士が私の書類袋を受け取った。
「大学院始まるまで少し時間あるけど、どこか行く?」
「どこ?」
「国内でいいなら、静かなところ」
少し考える。
「雪見高原とか?」
「いいね」
今は、誰にも邪魔されずに数日過ごしたかった。
4
その夜も、藤原家からの連絡は続いた。
最初は父だった。
「星奈、仕事のことはいったん置いておく。せめて母さんには返事しろ。家族で旅行してるのに、みんな心配するだろ」
私が電話に出ないと、母も音声メッセージを送ってきた。
「お母さんだって、星奈が嫌な気持ちになったのは分かってる。でもお姉ちゃんなんだから、美月の進学祝いくらい大目に見てあげてもいいでしょう?」
「小さい頃は星奈のことだって大事にしてたじゃない。嫌だったことばかり覚えてたら駄目よ」
美月は「親しい友達」限定のInstagramストーリーズを上げていた。
『昔してもらったことは全部忘れて、ちょっと嫌なことだけずっと根に持つ人っているよね』
陽介と智也は、それを見ていた。
不思議と、もう怒りはあまり湧かなかった。
ただ、疲れていた。
新しいLINEグループを作り、両親と陽介、美月、智也を招待する。
すぐに通知が鳴り始めた。
陽介は「今度は何だよ」と言い、母は「もう意地張らないで」と言った。
智也も相変わらず、「落ち着いて話せばいい」と続けている。
二十二年間、何度も聞いてきた言葉だった。
しばらく待ち、通知が止まったところで二つだけ送った。
「百五十万円は、もう返してもらわなくていい」
「これからは連絡しないで。藤原家にも戻らないから」
送信。
そのままグループを退会し、個人の連絡先もすべてブロックした。
スマートフォンが静かになった。
風呂上がりの蒼士が、髪を拭きながらやってくる。
「終わった?」
「うん」
彼は「やっとか」とも「正解だ」とも言わなかった。
ただ、私の頭を軽く撫でる。
「じゃあ明日から、少し休もう」
翌朝、二人で雪見高原へ向かった。
後になって、莉奈から家族の様子を聞いた。
誰も、本気で私が帰らないとは思っていなかったらしい。
陽介など、
「金なくなったら数日で帰ってくるだろ」
と笑っていたという。
智也も、
「星奈は昔から優しいし、ちょっと落ち着けば戻るよ」
そう言っていたらしい。
まだ誰も、私が本気で戻らないとは考えていなかった。
5
――藤原真紀
翌日、真紀は汐音島のショッピングモールで、美月の香水選びに付き合っていた。
スマートフォンが鳴る。
表示された名前を見て足を止めた。
桐葉理工大学。
「はい」
「久我星奈さんの緊急連絡先として登録されている方でしょうか」
聞き慣れない名字に、一瞬返事が遅れた。
「久我……?」
「昨日、ご本人から氏名変更の届け出が出ています」
真紀の手がこわばった。
「氏名変更って……結婚したってことですか?」
「変更理由については、こちらからご家族へお答えすることはできません」
事務的な返答だった。
真紀は息を詰める。
「私は母です。星奈に何かあったんですか?」
「事故などではありません。卒業後の進学手続きについて、至急本人に確認していただきたい書類がありまして。こちらから連絡が取れなかったので、緊急連絡先へお電話しました」
「進学……?」
「南陵科学技術大学大学院への提出書類です。ご本人と連絡が取れましたら、学校からのメールを確認するようお伝えください」
電話はそれだけだった。
星奈の成績や研究実績について、大学側は何も話さなかった。
それでも真紀は、その場からしばらく動けなかった。
大学院。
それに、氏名変更。
娘が自分たちの知らないところで何を決めたのか、急に分からなくなった。
ホテルへ戻り、家族に電話の内容を話した。
修一がスマートフォンを取り出し、星奈の名前を検索する。
最初に見つかったのは、桐葉理工大学が数年前に掲載した記事だった。
表彰状を手にした星奈の写真。
『物質材料工学科・藤原星奈さん 学生優秀研究発表賞を受賞』
真紀も自分のスマートフォンを開き、名前を検索した。
スクロールするたび、星奈が出てきた。
成績優秀者向けの給付奨学金、学生研究コンテスト、大学間共同プロジェクト、国際学生研究シンポジウム。
娘から聞いたことなど、一度もない。
いや。
自分が聞こうとしたことがなかったのだ。
星奈は子どもの頃から勉強ができた。
小学生、中学生の頃には、賞状を何枚も持って帰ってきた。
修一も当時は嬉しそうに、親戚へ見せていた。
変わったのは、美月が大きくなってからだ。
一度、試験で悪い点を取った美月が、姉の賞状を見ながら泣いた。
その日から真紀たちは、星奈へ繰り返し言うようになった。
「美月の前で成績の話ばかりしないで」
「妹にプレッシャーかけないであげて」
星奈は本当に話さなくなった。
家に成績表を持ち帰ることも減った。
真紀は、それを問題だと思ったことがなかった。
スマートフォンの中に並ぶ、知らなかった四年間を見るまでは。
「お姉ちゃん……ずっと、こんなにすごかったの?」
美月が小さな声で尋ねた。
誰も答えなかった。
智也は少し離れた場所で、星奈とのLINE履歴を開いていた。
長いあいだ画面を見たあと、ぽつりと呟く。
「昔は、何でも送ってきてたんだな」
大学一年頃の星奈は、研究室の話や食堂のメニュー、アルバイト先であったことを何度も送っている。
智也の返事は短かった。
『うん』
『今忙しい』
『また今度』
年月を追うごとに、星奈からのメッセージは減っていく。
「俺……」
智也の声が掠れた。
「ずっと、星奈はどこにも行かないと思ってた」
真紀の胸の奥に、嫌な予感が広がった。
家族は旅行を切り上げ、その日のうちに桐葉市へ戻った。
深夜、家に着くなり真紀は星奈の部屋へ向かった。
ドアを開き、立ち尽くす。
ベッドには古いマットレスしか残っていない。
収納ケースはすべて消え、机も棚もきれいに片づいていた。洗面所へ行ってみても、星奈の歯ブラシもタオルもコップもない。
賞状をしまっていた段ボール箱もなくなっていた。
二十二年間住んだ娘は、自分の痕跡をほとんど残さず家を出た。
「本当に……出ていったのね」
真紀は、空になったベッドの端へゆっくり腰を下ろした。
翌日から、家族は星奈の知り合いへ片っ端から連絡した。
高校時代の友人も、新しい住所は知らない。
大学の知人から聞けたのは、卒業後も進学するらしいということだけ。
元ルームメイトも、卒業前から荷物を運び出していたと話した。
リビングを何度も往復していた修一が、苛立ったように煙草を灰皿へ押しつけた。
「探すぞ。星奈はうちの娘だ。帰ってこないなんて、そんな勝手が通るか」
真紀は答えられなかった。
スマートフォンには、今日初めて知った娘の実績がまだ表示されている。
今までなら、夫の言葉にすぐうなずいていた。
その日は、何を言えばいいのか分からなかった。
6
その頃、私は蒼士と雪見高原にいた。
昼は近くを散歩し、夜は宿でそれぞれ本を読む。
数日だけの短い旅行を終えても、藤原家へ戻ることはなかった。
南陵市へ移る準備を少しずつ進めた。
大学院への入学前、桐葉理工大学でもう一度確認しなければならない書類があり、一か月ほどして学校へ戻った。
事務棟を出たところで、見覚えのある人たちが目に入った。
「星奈!」
真っ先に走ってきたのは母だった。
一か月前より、かなりやつれて見える。
手を伸ばされたので、一歩下がった。
「お願い。家に帰って」
すぐに涙がこぼれる。
「お母さんたちも悪かった。これからは美月に買うものは、星奈にもちゃんと――」
「そういう話じゃない」
母が言葉を止めた。
「大学院に行くなんて、どうして何も教えてくれなかったの? それに名字まで変わって……何があったの?」
「LINEで言ったと思う」
なるべく平静な声で答えた。
「百五十万円は、もう返してもらわなくていい」
「星奈……」
「その代わり、これから私の生活に口を出さないで」
父も近づいてきた。
昔よりずっと低い声だった。
「親子だぞ。血のつながりは、腹が立ったからって切れるものじゃない」
「今は怒ってるんだろ。それくらい分かってる」
「女の子一人で外に出て、何でも自分だけでやるのは大変だ。家にはいつでも星奈の場所がある」
思わず笑ってしまった。
「私の場所?」
父の表情が止まる。
「靴二足も置けない靴箱の隅?」
「美月の好みにしか合わせてもらえない食卓?」
「それとも、物置を片づけただけのあの部屋?」
誰もすぐには答えなかった。
ずっと俯いていた美月が、ようやく口を開く。
「お姉ちゃん、ごめん。もう勝手に物もらったりしないから……帰ってきてよ」
それ以上、言い争う気にはなれなかった。
家族の横を通り抜け、校門へ向かう。
「星奈!」
後ろから陽介の声がした。
会社を抜けてきたらしく、早足でこちらへ向かってくる。
「待てって!」
肩へ伸びてきた手を、別の手が止めた。
蒼士だった。
私の横に立ち、陽介の腕を遮る。
「触らないでください」
陽介が顔をしかめる。
「誰だよ、お前」
「久我蒼士です」
蒼士が私を見る。
「星奈の夫です」
周囲の空気が固まった。
母は涙を拭くことすら忘れている。
陽介が目を見開いた。
「夫? お前、結婚したのか?」
「うん」
私はうなずいた。
驚きは、すぐに怒りへ変わった。
「何考えてんだよ。卒業したばっかりで勝手に結婚して」
「親父たちにあれだけ世話になっといて、男ができた途端に家族捨てんのか?」
「蒼士とは四年付き合ってる」
まっすぐ兄を見る。
「結婚したのも、自分で決めたこと」
陽介はなおも食い下がった。
「俺だって子どもの頃、お前に菓子とか買ってやっただろ。全部忘れたのかよ」
「美月が嫌いだったオレンジ味を、私に渡してただけでしょう」
陽介が黙った。
「陽介は、陽介が大切にしたい人を大切にすればいい」
「私も、自分の人生を生きるから」
顔を歪めた陽介が、またこちらへ手を伸ばした。
蒼士が一歩前へ出て、スマートフォンを取り出す。
「次に触ったら警察を呼びます」
陽介はしばらく彼を睨んでいたが、結局手を引いた。
そのとき、陽介のスマートフォンが鳴った。
画面を見た瞬間、顔色が変わる。
外回りの顧客訪問だと会社へ伝えて出てきたらしい。
電話の相手は上司だった。
「……はい。すみません、今すぐ戻ります」
短いやり取りを終え、陽介は険しい顔でこちらを見た。
それでも、もう何もしてこなかった。
蒼士が私の持っていた書類袋を受け取る。
「帰ろう」
「うん」
誰かが前に立ってくれることは、自分が弱くなることではなかった。
一人で受け止めなくてもいいものまで、全部抱える必要はない。
ようやく、そう思えた。
7
後になって莉奈から聞いた話では、私が結婚したと知った母は「騙されているに違いない」とかなり騒いだらしい。
父は知人を頼って蒼士について調べ始め、智也はしばらく何も言わなかったという。
ある晩、酒に酔った智也が、
「俺、星奈とは最後に結婚するんだと思ってた」
そう零したとも聞いた。
私は一度も、待っていると約束したことなどないのに。
藤原家はどこからか私たちのマンションを突き止めた。
二日続けて、エントランス近くで待っていたという。
三日目の夕方、蒼士と散歩から戻ると、母が私を見つけた途端に泣き出した。
「星奈、お願い。家に帰って」
「この人のこと、本当に分かってるの? お金持ちの家なんて、星奈が思ってるほど簡単じゃないのよ」
「お母さんも反省してるから。帰ってきたら、昔好きだった辛めの麻婆豆腐作ってあげる」
父も前に出た。
「今まで星奈のことをちゃんと見てこなかった。それは悪かった」
「でも、結婚したって俺たちの娘には変わりないだろ。家族でいつまでもこんなことしてどうする」
ひどく遠い話を聞いている気がした。
「百五十万円を勝手に使ったときは、家族のこと考えなかったの?」
「私が辛いもの食べたいって言うたび、美月が無理だから我慢しろって言ったよね」
「美月の服も、スマホも、靴も、いつもちゃんと選んで買ってた」
一度言葉を切る。
「私のものは?」
返事はなかった。
「親戚からもらったお年玉だって、ほとんど美月の塾代に使ったでしょう」
「それでも私は、何も言わなかった」
「今は自分で稼いだお金で、自分の暮らしをして、自分が選んだ人と結婚した」
「何が駄目なの?」
最後に智也を見る。
目が赤かった。
「星奈……何も言わないで結婚するなんて。俺が――」
「知らない」
言葉を遮った。
「智也、今さらそんな顔しないで」
「私と美月が何かあるたび、ずっと言ってたよね。『姉なんだから譲れ』って」
智也の唇が動く。
「智也が好きだったのって、たぶん私じゃなくて、“いつでも待ってる星奈”だったんじゃない?」
何も返ってこなかった。
マンションの管理スタッフと警備員が出てきた。
「こちらは居住者専用の敷地です。住民の方から、これ以上エントランス付近で待機しないでほしいとの申し出がありました」
「本日はお引き取りください。今後も長時間滞在される場合は、警察への相談も検討いたします」
母の顔が強張る。
蒼士は何も言わず、私の手を取った。
「帰ろう」
「うん」
その後、父が蒼士の家について調べていたことも、莉奈から聞いた。
久我家は、国内でも有数の企業グループKGSの創業家だった。
蒼士は家の話を自分からほとんどしないし、私生活で家の力を使うこともない。
私自身、結婚してから少しずつ知ったことのほうが多い。
父はその事実を知ったあと、しばらく言葉を失っていたらしい。
けれど、もうどうでもよかった。
私が蒼士を選んだのは、久我家の名前を知る前だった。
8
半年が過ぎた。
私は南陵科学技術大学大学院・先端物質科学研究科の五年一貫制博士課程に進んだ。
実験をして、研究室のミーティングに出て、空いた時間には論文を読む。
忙しかったけれど、不思議なくらい気持ちは穏やかだった。
蒼士もKGSグループで仕事をしている。
毎日迎えに来るような生活ではない。
二人とも忙しい日は、それぞれ電車で帰る。
時間が合えば、彼が大学の近くまで来て一緒に帰る。
自分の時間があり、相手にも相手の生活がある。
それでも家へ帰れば、同じ食卓に座る人がいる。
私には、そのくらいの距離がちょうどよかった。
藤原家からの連絡を弁護士経由にするようになってから、向こうの事情も断片的に耳に入ってくるようになった。
父の会社は仕入れの判断を誤り、大量の在庫を抱えたらしい。融資の返済も苦しくなり、自宅まで担保に入れたという。
陽介も顧客案件でミスが重なり、役職も給与も下がったと聞いた。
美月は私立の星華大学へ進学した。
学費は安くない。
以前のように、欲しいものを何でも買ってもらえる余裕はなくなっていた。
父の会社がいよいよ立ち行かなくなると、家族はまた私へ連絡を取ろうとした。
親戚を通したり、KGSの本社付近へ来たりもしたらしい。
蒼士から紹介された弁護士事務所へ正式に依頼し、それ以降の連絡はすべてそちらを通してもらうことにした。
ある日、両親から「一度だけ会いたい」と申し出があった。
本当は断るつもりだった。
その夜、蒼士が隣で私の手を握った。
「会いたいなら会えばいい」
「嫌なら、誰のためにも会わなくていい」
少し考えた。
「……会ってくる」
最後に言っておきたいことが、自分の中にも残っていた。
待ち合わせは、街中の普通のカフェにした。
私と弁護士が着いたとき、両親はすでに奥の席に座っていた。
半年ぶりに見る二人は、一気に老けたように見えた。
父の髪には白いものが増え、母のコートも以前よりくたびれている。
私を見るなり、母の目から涙が落ちた。
「星奈、もう家、本当に駄目なの」
「お父さんの会社が借金だらけになって、家までなくなるかもしれない」
テーブルの縁をつかむ。
「星奈は今ちゃんと暮らせてるでしょう? 家族がばらばらになるの、黙って見てられる?」
声が震えた。
「お願い。一回だけ助けて」
父も頭を下げた。
「今まで悪かった」
「俺たちは美月ばかり優先して、星奈のことを見てなかった」
そこまで認めた父を見るのは初めてだった。
「今回だけ助けてくれたら、もう星奈の生活には口を出さない」
私は二人の話を最後まで聞いた。
「百万円なら渡す」
母が顔を上げる。
「星奈……?」
「これで最後」
同席していた弁護士が、用意していた書類をテーブルへ置いた。
「今後の連絡方法と接触についての合意書です」
父が書類へ目を落とす。
「久我さんから、今回の解決金として百万円をお支払いします」
「その代わり、今後はご本人の自宅や大学、その他の生活場所への直接訪問、親族や知人を介した繰り返しの連絡はお控えください」
「必要な連絡がある場合は、当事務所を通してください」
母が慌てたように顔を上げた。
「これにサインしたら、もう親子じゃなくなるんですか?」
弁護士は首を横に振った。
「法的な親子関係が、この合意書で消えることはありません」
「今後どのように連絡を取るか、そのルールを決める書面です」
私は母を見た。
「私も、血がつながってないことにできるなんて思ってないよ」
「ただ、それを理由に私の人生を決められるのは、もう終わりにしたい」
母の涙がテーブルへ落ちた。
「こんなに時間が経っても……まだ、お母さんのこと許せない?」
少しだけ考えた。
「お母さんたちが好きだったのは、言うことを聞く私だったんだと思う」
「我慢して、譲って、何をされても怒らない私」
母が唇を噛む。
「それをやめたら、私は急にわがままな娘になった」
書類を少し前へ押した。
「お金は使って」
「でも、これで終わりにして」
父は長いあいだペンを握ったままだった。
やがて、ゆっくり自分の名前を書く。
百万円で親子関係が消えるわけではない。
二十二年間を買い戻すこともできない。
ただ、私と家族の間に、これ以上越えてほしくない線を引くことはできる。
それで十分だった。
9
一年後。
博士課程二年目になった私は、南陵科学技術大学大学院と海外の複数大学が共催する若手研究者シンポジウムに参加していた。
自分が担当しているサブテーマが、英語の口頭発表に選ばれた。
演台へ立つ。
背後のスクリーンには、実験結果とグラフ。
客席には国内外の研究者が並んでいる。
最初は指先が少し冷たかったが、自分が何度も考え、何度も失敗した研究の話に入ると、自然に呼吸が落ち着いた。
発表が終わり、拍手が聞こえる。
最前列には指導教員がいた。
会場を出る途中、海外の研究者と話す声が耳に入った。
「まだ博士課程の前半ですが、研究計画の組み立てがしっかりしている学生です」
「問題が起きても粘り強い。研究への向き合い方もいい」
この一年、ほとんどの時間を実験と投稿、研究会に使ってきた。
指導教員が進める大型研究プロジェクトでは、一つのサブテーマを任せてもらっている。
今回の発表では、若手研究者優秀発表賞も受賞した。
少しずつ進めている。
今は、それでいい。
会場を出ると、すぐに蒼士を見つけた。
人混みの少し外側で、向日葵の花束を抱えている。
私に気づくと笑った。
「久我先生、お疲れさま」
「先生じゃないって」
「じゃあ、博士号取るまで保留」
吹き出した。
「何それ」
笑いながら花束を受け取る。
「でも、さっき格好よかった」
「学会発表に格好いいとかある?」
「俺にはある」
そんなことを平然と言う。
私は彼の腕に自分の腕を絡めた。
昔は、誰かに必要とされるためには、自分が役に立ち続けなければならないと思っていた。
今は違う。
何かを証明し続けなくても、帰る場所はなくならない。
10
その後も、藤原家の話はたまに耳に入った。
父は私から受け取った百万円と、会社の残った資産を処分した金で借金の一部を返した。
結局会社は畳み、地元へ戻った。
今は親戚の助けを借りて、小さな商店を営んでいるらしい。
陽介は翠川テクノロジーに残った。
特別出世することもなく、営業として取引先を回っている。
昔あれほど誇っていた「いい会社に入った」という肩書きも、今では普通の生活の一部になった。
美月は星華大学へ通い続けている。
両親は今も美月をかわいがっているようだ。
ただ、欲しいものを何でも買ってもらえる暮らしではなくなった。
少しは人の顔色を見るようになったと聞いた。
研究会での発表や受賞、論文の掲載などで、大学のウェブサイトに私の名前が載ることも増えた。
家族がそれを見ることもあるらしい。
けれど、もう直接連絡が来ることはなかった。
智也も、その後紹介された女性と結婚した。
穏やかに暮らしているという。
莉奈から、
「高校の近く通ると、たまに校門の前で止まってるらしいよ」
と聞いたことがある。
何を思い出しているのかは知らない。
もう私には関係のない話だった。
十月。
私と蒼士は北欧の海辺にいた。
婚姻届を出してから一年以上経って、ようやく二人だけの結婚式を挙げることにした。
藤原家には知らせなかった。
参加してくれたのは、蒼士の家族、私の指導教員、研究室で仲のいい友人たち、それから莉奈。
本当に小さな式だった。
海風がドレスの裾を揺らす。
蒼士が私の左手を取った。
入籍したときとは別に用意してくれた指輪を、ゆっくり薬指へ通す。
「星奈って昔、誰かに好かれるには、先に相手を満足させなきゃいけないって思ってた?」
顔を上げた。
「……たぶんね」
蒼士が少し笑う。
「もうしなくていいよ」
私の手を握ったまま続けた。
「少なくとも、俺には」
視線を海へ向ける。
十八歳の誕生日を思い出した。
あの日、美月は大事な試験を終えたばかりだった。
家族は美月を囲んでケーキを食べ、私は食卓の端で、少し冷めたうどんを食べていた。
当時は、もっと聞き分けのいい子になれば、もっと何も欲しがらなければ、少しは私のことも大切にしてもらえると思っていた。
今なら分かる。
自分を削り続けて手に入れたものを、愛と呼ぶ必要はなかった。
波が静かに岸へ寄せる。
隣には蒼士がいる。
私は、自分から彼の手を握り返した。
過去の自分を、もう誰かに認めさせる必要はない。
振り返って説明する必要もない。
私が行きたい場所は、これから先にある。




