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序 絶海の孤島
本州の南東、千九百キロ。硫黄島から、東へさらに千二百キロ。
太平洋プレートの只中に、たった一つだけ、日本の旗を立てた島がある。南鳥島。一辺およそ二キロの正三角形。面積一・四七平方キロ。最高標高、わずか九メートル。
サンゴ礁が長い年月をかけて隆起した、卓礁型の島である。環礁のような穏やかなラグーンを持たない。島の周囲は浅瀬のサンゴ礁が裾を引き、その外側はいきなり水深千メートルの断崖となって、深海へ落ちている。泳ぐことは禁じられている。潮の流れが速く、サメも多い。
夜になれば、島は完全な闇に沈む。本土の灯は、波の彼方どころか、地球の曲率の向こう側にある。聞こえるのは、サンゴ礁を洗う波音と、ディーゼル発電機の遠いハミングだけだ。
日本最東端――そう書かれた標柱が一本、滑走路の北側に立っている。標柱の根元から東を見れば、もうそこは外洋である。日付変更線まで、五百キロもない。
ここは、日本の朝が最初にやってくる場所である。
一 二〇〇六年・イオケ
その年、ハワイ沖で生まれた一つの熱帯低気圧が、日付変更線を西に越え、東経域に入った瞬間に呼び名を変える。ハリケーン・イオケが、台風第十二号になった。
サファ・シンプソンスケールのカテゴリー5。最大風速七十メートルに迫る、地球規模の渦である。中心の眼は、衛星画像の中で、宇宙から見下ろす生き物の瞳のように整っていた。その瞳が、真っ直ぐ南鳥島を見ていた。
八月の終わり。島にいた気象庁、海上自衛隊、海上保安庁、各庁の職員あわせて二十数名は、戦後初の選択を迫られる。全島避難。
C-130が硫黄島から飛来。誰もが、最低限の私物と、観測データのバックアップを抱えて機内に駆け込んだ。気象レーダーのレドームは、その時すでに不気味な音を立てて軋み始めている。ラジオゾンデを上げるための水素タンクを、自衛隊員たちが必死で固縛していた。
九月一日。機体は離陸し、硫黄島へ向かった。窓から見下ろした南鳥島は、まだ青い海の中の白い三角形である。それが彼らの目に焼きついた、無傷の南鳥島の最後の姿となった。
二日後、衛星画像の中の、その三角形は、完全に消失している。
イオケは島の真上を通過した。気象レーダーのレドームは引きちぎられ、水素タンクは横倒しになり、潮位計は海に流された。サンゴ礁の外洋部分が暴風で破砕され、数十センチから一メートルに及ぶサンゴ礫が、島の内部にまで打ち上げられる。滑走路は瓦礫の絨毯と化した。観測施設は、ほぼ全滅。
イオケという国際名は、その年限りで使用中止が決まる。次の順番からはイオパと呼ぶ。あまりに甚大な被害を出した名前は、地球から退役するのである。
帰島できたのは、九月の半ばを過ぎてからのことだった。
その翌々年、二〇〇九年八月、台風第十号が再び南鳥島へ向かって北上した時、職員たちはためらわなかった。前日のうちに荷物をまとめ、C-130に乗る。「イオケのときよりはマシだ」と、誰かが乾いた声で笑ったという。
イオケの記憶は、それから二十年、島の壁の中に染み込んだままになっている。
二 朝のゾンデ
その夏の、ある朝。
午前九時の少し前、西野拓海は、白い水素ガスの容器のバルブを慎重に開けた。
直径一メートル半ほどの薄いゴム気球が、ゆっくりと膨らんでいく。気球の下には、観測装置――ラジオゾンデが、細い紐で吊られている。気温、湿度、気圧、風向、風速。これから上空三万メートルまで、五秒ごとにデータを送り続ける小さな箱である。
拓海は、入庁五年目、二十七歳。気象庁地球環境・海洋部、南鳥島気象観測所への赴任は二年目になる。本土の婚約者には、次の交代で帰ったら籍を入れる、と告げてあった。あと三か月であった。
「西野、放球場の風、確認したか」
背後から、低い声がした。
「北北東、三・二メートル毎秒。視程二十キロ。問題ありません」
振り返らずに拓海は答える。声の主、篠原紘一は、入庁三十五年のベテランで、観測所の次席を務めている。背は低く、顎にうっすらと無精髭。表情はいつも、波の音を聞いているように静かだ。
「よし、上げろ」
拓海は紐を解いた。気球は迷う素振りもなく真上に昇っていく。ラジオゾンデが、糸の先で軽く揺れる。空は晴れている。雲量、二割。
毎日、午前九時と午後九時。日本時間の九時と二十一時に、世界中の気象観測所が、同じ時刻に同じ作業を行なっている。地球の大気を、針の先で立体に切り取る作業。北極から赤道まで、約八〇〇か所の観測点が同期している。その針の先端の一つが、ここである。
放球を終えると、拓海は隣の大気バックグラウンド汚染観測棟へ歩いた。
ここで採取される空気は、地球上で最も「綺麗」とされる空気の一つである。本土の工業地帯からも、大陸の都市からも、何千キロも離れている。だからこそ、地球全体の大気組成の変化を、混じり気なく測定できる。二酸化炭素、メタン、フロン類。長い目盛の中で、人類が地球に何をしているかを淡々と記録する場所である。
「西野」
篠原が、また声を低くする。「本庁から、台風情報が入った」
拓海はマスクを下げ、篠原の端末をのぞき込む。
予報円が二つ、画面に並んでいる。
台風第十二号、発生。位置、マリアナ諸島東方海上。
そしてその西南西に、もう一つ。
熱帯低気圧。今夜にも台風第十三号となる見込み。
二つの予報円は、ともに、北上していた。
真っ直ぐ、南鳥島を指して。
拓海は、画面の二つの円を、しばらく無言で見つめていた。
篠原は何も言わない。ただ、白い無精髭の顎を、わずかに撫でた。
三 二つの渦
その日の夕方、本庁から二度目の情報が入る。
台風第十二号、強い勢力。中心気圧九三〇ヘクトパスカル。
台風第十三号、発生。猛烈な勢力に発達する見込み。
夜の九時の放球を、拓海はいつもより慎重に行なった。風はまだ穏やかだ。気球は静かに昇り、データが順調に流れてくる。
だが、上昇開始から十二分後、上空一万メートル付近のデータを見て、拓海は手を止める。
湿度の数字が、異常に高い。
このあたりの高度では、本来、空気は十分に冷え、乾燥している。それが今夜は、対流圏界面のすぐ下まで、湿った空気が押し上げられていた。熱帯対流圏界面が、いつもより、はっきりと、低く垂れている。
「篠原さん」
振り返らずに、拓海は呼ぶ。「圏界面、いつもより、千メートル低いです」
「ああ」
篠原は、観測員席の後ろで、データの流れる画面を見ていた。
「来てる、ということだな」
「はい。――まだ、千二百キロ向こうですが、もう、ここまで届いています」
二人は、しばらく無言で画面を見つめた。
気球が三万メートルで破裂し、観測終了。
拓海は記録を保存し、本庁の上層データベースに送信する。
その翌朝、本庁から臨時観測の要請が入る。
「台風十二号接近に伴い、明朝〇三時、十五時に臨時放球を要請。進路推算用に高層データを追加。当面、一日四回観測に移行」
「三時か」と篠原が、淡々と告げた。「夜中起こされるな」
「やります」
拓海は答えた。
眠さよりも、自分が今、地球大気の動きの最前線にいる、という静かな高揚感の方が強かった。
朝、午前六時。気象観測所の小さな会議室に、二十五人全員が集められる。
気象庁からは所長、次席の篠原、観測員四名。海上自衛隊・南鳥島航空派遣隊からは派遣隊長・沢田茂樹二等海佐以下、十二名。国土交通省関東地方整備局・南鳥島港湾保全管理所から三名。
所長は、プロジェクターに最新の台風進路図を映した。
赤い線が二本、本庁から送られてきた予想進路である。
十二号、二日後の正午、最接近。中心気圧、九二〇ヘクトパスカル。
十三号、その三十時間後、最接近。中心気圧、九一〇ヘクトパスカル。
「九一〇」
会議室の空気が、一拍、凍る。
「観測史上、十回あるかないかの数字です」と所長は淡々と続けた。
「そして、二つの台風の間に、安全な気象の窓は今のところ見えません。十二号の吹き返しが収まる前に、十三号の外側降水帯が入ってくる予想です」
外側降水帯。アウターレインバンド。台風の中心から二百キロから五百キロ離れた距離で、螺旋状に張り付く強い積乱雲の帯のことである。中心の眼壁ほどではないが、突風、横風、低視程をともなう。航空機の運航にとっては、眼の壁雲よりむしろ厄介な存在になることがある。
「避難準備に入ります。本庁にはすでに連絡済みです」
所長はそう告げた。だが、その口調は、避難が確実にできるという声ではなかった。
沢田が、補足する。
「厚木に確認しました。最速で、明日です」
「今日は」
「機体が硫黄島に入っていません。乗員と燃料計画に、一日かかります」
所長は、頷いた。
会議の後、廊下を歩きながら、沢田が篠原に小さく聞いた。
「篠原さん、こういう連続台風って、過去にありましたか」
篠原は、しばらく考えてから、答える。
「いや。少なくとも俺がここに来てからは、初めてだ」
廊下の窓の外、空はまだ青い。
ただ、東の水平線の上に、薄い巻雲が一筋、北西へ向かって流れていた。
台風の、最も外側の、最初の使者である。
四 篠原の語り
その夜、籠城の準備で疲れた拓海は、無線室の奥の小さな給湯室で、ぬるい茶を入れていた。
「二杯、頼む」
入ってきたのは篠原だった。
拓海はもう一つの湯飲みに茶を注ぐ。湯気が小さく揺れる。蛍光灯の青白い光が、二人の影を壁に投げていた。
「篠原さん」
拓海は、湯飲みを差し出しながら、ぽつりと言った。「俺、本土に、結婚を約束した人がいるんです」
篠原は、湯飲みを受け取り、両手で包む。
「ああ。聞いてる」
「次の交代で帰ったら、籍を入れる予定です」
「あと、三か月か」
「はい」
蛍光灯が、わずかに点滅した。
「西野」
篠原は、湯飲みに目を落としたまま、低く言う。「二十年前の話を、してもいいか」
「イオケ、ですか」
拓海は知っていた。庁内で語り継がれている事案である。
「そうだ」篠原は頷いた。「俺はあの時、ここに二年目だった。今のお前と、同じだな」
茶をひと口、すする。
「カテゴリー5だった。地球の反対側から、名前を変えて来やがった。気象衛星の画面の中で、眼が、こっちを真っ直ぐ見ていた。所長は、迷わず避難を決めた。戦後初めてだ。返還されて以来、誰も逃げたことがなかった島から、俺たちは逃げた」
「C-130で、ですよね」
「ああ。硫黄島から飛んできてくれた。乗り込んだ時、誰も口を利かなかった。みんな、観測機器のデータをハードディスクに焼いて、それだけを抱えていた。本土へ持ち帰る荷物の優先順位は、データ、私物、最後に自分自身。そう叩き込まれていたからな」
「俺たちが乗ったC-130が硫黄島に着いた頃、イオケは、ここを通っていった。半月後、俺たちは帰島した。その時、目にしたのが――レーダーのレドームの残骸、横倒しの水素タンク、消えた潮位計、そして、サンゴ礫が絨毯のように覆っていた滑走路だ。あの景色は、忘れられない」
拓海は黙って聞いていた。
「その三年後、二〇〇九年。十号が来た。今度は時間に余裕があった。前日にC-130に乗って、笑いながら逃げた。"イオケに比べりゃ、これは散歩だ"って、所長が、わざとそう言った。気が緩むようにな」
「……今回は」拓海が、思わず口を開く。
篠原は、湯飲みを置いた。
「今回は、わからん」
それだけ言って、ベテランは黙る。
「俺は二回、ここから逃げた。二回とも、間に合った。だが今回は――」
言葉を切って、篠原は窓の外を見る。
「今回は、二つだ」
蛍光灯の点滅が、もう一度、起こった。
発電機が、何かに耐えている。
「西野、お前、本土の婚約者に、何て言ってきた」
「次に帰る時、籍を入れる、と」
「ふん」
篠原は、初めて、わずかに笑う。
「いいな。それは、絶対に、果たすやつだ」
「はい」
「データはな、命より大事だ。だが、それは命があってこその話だ。間違えるなよ」
そして、ベテランは、ぽつりと付け加える。
「帰ろう。お前を、結婚させる」
茶は、いつの間にかすっかり冷めていた。
五 規則の壁
翌日、午前十一時。
気象観測所の端末に、海上自衛隊厚木航空基地・航空集団司令部から、一通の電報が届く。発信元には「第六十一航空隊運航主任」と記されていた。
「南鳥島周辺気象、本日一二〇〇以降急速悪化。十二号の進行速度、予報を上回る。外側降水帯の到達、予報より約六時間早い。視程低下、横風推定二五メートル毎秒。当該条件下では、着陸可能保証を得ること不可能。代替着陸場、半径千キロ圏内に存在せず。よって本日予定の救援運航は、確実な着陸可能性が確認されるまで実施しない」
所長は、その短い電文を、二度読んだ。
そして、無言で、隣に立っていた拓海に渡す。
拓海は、紙を受け取った手が、わずかに冷たくなるのを感じた。
「規則ですか」
口にしてから、自分の声がかすれているのに気づく。
「規則だ」と所長は答えた。「南鳥島運航の絶対則だ。"確実に着陸できる状況でしか飛ばない"。この島には代替地がない。途中で引き返せば、墜ちる」
「ですが」
「西野」
所長は、拓海の言葉を遮る。穏やかな声だった。
「これは、見捨てたんじゃない。墜とせないんだ。同じことだと、思うか?」
拓海は、答えられない。
規則は、人を守るためにある。だが今、その規則が、二十五人を島に閉じ込めようとしていた。
会議室に、二十五人が再び集められる。
所長は、電報の内容を、淡々と読み上げた。誰も声を上げない。沢田が、深く頷いた。彼にも、その規則の重さがわかっていた。彼ら自身が、何度もその規則の中で飛んできた人間だったからである。
「籠城します」
所長は、簡潔にそう告げた。
「最も頑強なのは、本庁舎の二階、内側の中央会議室です。地下は最高標高九メートルのこの島では、高潮で確実に浸水します。十二号通過まで、全員、二階に集結します」
会議が終わったあと、拓海は無線室に残り、本庁との通信回線を確認していた。
篠原が、横に立つ。
「西野」
「はい」
「お前、規則を恨むなよ」
「……恨んでません」
「そうか」
篠原は、淡々と続けた。
「あの規則のお陰で、俺はこの三十五年、一度も同僚を空で失っていない。本土の連中も、命懸けで規則を守ってる。覚えとけ」
拓海は、頷いた。
窓の外で、北東の風が、徐々に強さを増している。
昨夜まで青かった空は、灰色の膜に覆われ始めていた。
その夜、午前零時を過ぎた頃、最後のラジオゾンデが上げられる。気球は、わずか三千メートルで横なぐりの風に流され、データの送信が途切れた。
それが、十二号が来る前に、島が世界に向けて発した、最後の声であった。
六 籠城
風の音が、生き物になる。
頑強な鉄筋コンクリートの本庁舎が、低い唸りを上げて軋んでいる。二階、最も内側の中央会議室。窓は内側からベニヤ板で塞ぎ、その上にさらに鉄板で補強してある。だが、それでも、ガラスの向こうから、暴風が掌を叩きつけてくる音が止まらない。
二十五人が、その一室に集まっていた。
非常用照明の赤い光の中で、誰もが押し黙っている。海上自衛隊員たちは、無線機の前に三人交代で座り、本庁および硫黄島との通信を絶やさぬように努めていた。気象庁の観測員たちは、緊急時観測通報装置の自動データ送信を確認し続けている。地上気圧、九五五、九四二、九二八。風速計の数字は、ある瞬間から「振り切れ」を意味するエラー記号に変わった。
午後三時を回った頃、頭上で、何か巨大な金属がねじ切れる音がした。
「気象レーダーのレドームです」と若い観測員が、暗がりの中で呟く。
誰も応じない。
暗がりで、篠原が、低く呟いた。
「二十年前は、俺たちは、この音を聞かずに済んだ」
赤い光の中で、ベテランの横顔が、わずかに揺れる。
「今回は、俺たちが、聞いている」
午後四時、停電。発電機が一度息を切らし、また唸り始める。海上自衛隊の整備員が二人、暗い廊下を走っていく。
午後五時、再停電。今度は復旧まで八分かかった。
「十二号、最接近、現在進行中」と所長が、低い声で告げる。「中心気圧、推定九一八」
予報よりも、二ヘクトパスカル深い。
誰もが、その意味を理解した。
予報を、現実が上回り始めている。
拓海は、暗がりの中で、自分の鞄を抱えていた。中には、ノートPCと、外付けハードディスクが二つ。観測データのバックアップである。
本土の婚約者の顔が、一瞬、浮かぶ。
「西野」
横で篠原が、ぽつりと言った。
「お前、結婚式の日取り、決めたんだったか」
「……まだです。帰ってから、と」
「帰ってからな」
篠原は、目を閉じる。
「帰ろう」
風の音が、頭上を通り過ぎた。
眼の壁雲が、島を直撃している。
午後七時。気象データの自動通報が、ようやく「風速、計測可能範囲内」に戻る。
午後八時。所長が、緊急時観測通報装置の生データを見ながら、絞り出すように告げた。
「眼の壁雲、抜けました」
会議室に、わずかに、息が漏れる。
だが、誰も歓声を上げない。
眼の壁雲を抜けたということは、まだ、後半が残っているということだった。
そして、その「後半」が抜けた頃には、もう一つの渦が、すぐ後ろに迫っているはずである。
七 朝の惨状
夜が明けた。
二十五人が地上に戻った時、風はまだ強い。海上自衛隊員が先に出て、安全を確認した上で、観測員たちが続く。
外に出た拓海は、立ち尽くした。
気象レーダーのレドームは、確かに引きちぎれている。アンテナは、半分、根本から折れていた。観測棟の窓は、全て割れている。本庁舎の北側に建っていた小さな倉庫は、跡形もない。
そして、滑走路だった。
千三百七十メートル。アスファルトの真っ直ぐな帯が、白く、灰色に、所々黒く、まだら模様に覆われている。サンゴ礫だった。一センチに満たないものから、こぶし大、頭ほどの大きさのものまで。島の周囲のサンゴ礁が、暴風と高波で砕かれ、内陸まで吹き飛ばされてきたのである。
滑走路灯は、両側とも、根本から折れていた。灯器の頭は、どこにも見当たらない。ケーブルが、コンクリートの台座から引き出されて、風に揺れている。
篠原が、隣に立つ。
「西野」
「はい」
「半月後に俺たちが帰島した時、目にしたのが、これだった。寸分違わず、同じ景色だ」
ベテランの声が、静かに、風の中に消えた。
「重機を出せ」
沢田が、すぐに指示する。
「滑走路の啓開、最優先だ」
しかし、十分も経たないうちに、整備員の一人が走ってきた。
「隊長、ホイールローダー、横転しています。風で。エンジンルームに浸水」
「もう一台は」
「ブルドーザー、燃料パイプが破断。修理不能」
整備員の額から、汗が落ちる。
「人力か」
沢田は、自分に言い聞かせるように言った。
「人力だな」
ほうき、スコップ、土嚢、リヤカー、軍手。倉庫の奥から、ありったけの道具が引き出される。
二十五人で千三百七十メートルの滑走路を清掃しきれるはずがない。誰もが知っていた。
それでも、誰一人、それを口にしない。
無線室に戻った拓海は、本庁と硫黄島と、両方の回線を開いた。
気象データの送信を、まず再開しなければならない。
予備のラジオゾンデは、地下倉庫に三十発、無事に残っていた。
水素タンクは、片方が倒れていたが、もう片方は使える状態である。
放球場に立つと、北東からの風が、頬を叩いた。
強い。だが、徐々に、安定し始めている。
「西野!」
篠原が無線室から走ってきた。
「本庁から、更新。十三号、急発達」
八 急発達
「中心気圧、推定八九二」
篠原は、端末を差し出す。
「予報より、二十八時間遅い」
三十三時間後、最接近。
拓海は、画面の数字を確認した。間違いではない。
予報よりも、十八ヘクトパスカル深い。
「眼の直径、二十キロ。眼の壁雲の最大風速、推定七〇メートル毎秒」
所長が会議室で、淡々と告げていた。
「島の上を通る確率、七割」
七割。
言い換えれば、確実に殺される確率が、七割。
「籠城は、二度目だ」と沢田が言った。
「庁舎は、もう一度耐えるか」
「わかりません」と所長が答える。「十二号の段階で、すでに北側の壁にひびが入っています。十三号の眼壁が直撃すれば」
そこで言葉が切れた。
会議室の沈黙の中で、若い自衛隊員が、ぽつりと呟く。
「俺たち、ここで終わるんですかね」
誰も叱らない。
誰も、否定もできなかった。
拓海は、会議室を出た。
無線室の隣、自分の観測席に戻る。
何かをしなければならない。何でもよかった。手を動かしていなければ、頭の中が、暴風になりそうだった。
地上気象観測の生データを、開く。
自動観測装置から、五秒ごとに、気圧、気温、風向、風速が送られてくる。
拓海は、その数字の列を、上から、下へ、目で追う。
――気圧の下降が、緩んでいる。
直近の三十分、毎分〇・〇二ヘクトパスカルの下降が、〇・〇〇五まで落ちていた。
風向も、ほとんど一定になっている。北北東。二八メートル毎秒。微動だにしない。
拓海は、息を止める。
ノートPCを引き寄せ、本庁の気象システムに、緊急回線で接続。
静止気象衛星の最新画像を、呼び出す。
十二号は、すでに島の北東を抜けつつある。
十三号は、まだ南西八〇〇キロ。
その間に、衛星画像の中で、雲が二層に分かれていた。
下の雲帯は、西へ流れる。
上の雲帯は、東へ流れる。
その境目に、薄い、しかし確かな、白い帯のない領域が、生まれかけている。
拓海は、数値予報モデルを、三つ呼び出した。
全球モデル、メソモデル、局地モデル。
三つを、同じ画面に、重ねる。
三つとも、同じ場所で、同じ予報を、出していた。
北東風二〇メートル毎秒、固定。
視程、一〇キロ回復。
継続時間、五〇分から、最大七〇分。
開始時刻は、現在時刻から、ちょうど十一時間後。
拓海は、ディスプレイに、額を寄せた。
三つのモデルの予報が、ぴたりと、重なっている。
――ウインドウだ。
心臓が、一拍、止まった気がした。
拓海は、椅子を蹴って、立ち上がる。
自分のノートPCを、両手で抱えて、会議室へ、走った。
駆け込んだ拓海は、所長と沢田と、二十数人の前に、ノートPCを置く。
「所長、隊長」
自分の声が、上ずっていた。
「――ウインドウが、あります」
二人が、同時に、画面を覗き込む。
数秒。
所長が、顔を上げた。
「間違いない。来てる」
沢田が、続けて呟く。
「十一時間後だな」
会議室の空気が、一秒で、変わった。
九 一時間の隙間
所長は、数値予報の画面を、もう一度、ぴたりと指で押さえる。
「十二号の吹き返しの残気流と、十三号の外側降水帯の最先端の隙間。北東風二〇メートル毎秒で、しばらく固定される。視程は十キロまで回復する」
一瞬、会議室の空気が緩んだ。
だが、それは長くは続かない。
沢田が、立ち上がった。
「所長。窓は、確かにある。だが――」
言いかけて、彼は窓の外を指す。
滑走路の方角だった。
「滑走路が、あれです」
全員の視線が、千三百七十メートルの瓦礫の絨毯の上に注がれた。
「C-130を呼ぶしかありません」と若い観測員が口を開く。「ウインドウがあるなら、ルール上も飛ばせるはずです」
沢田は首を振った。
「C-130Rの陸上着陸距離は、無風で約一〇〇〇メートル。今回の向かい風二〇メートル毎秒を計算に入れても、安全余裕を含めて八〇〇メートルは要る。離陸距離はさらに長い。瓦礫を退けて、滑走路の半分以上を確保する必要がある」
「半分以上――」
「七〇〇メートル以上。それを十時間で、二十五人の人力で、しかも安全率を保って。間に合いません」
沈黙が、落ちた。
重機は壊れている。残されたのは、ほうきとスコップと、人間の手だけだった。
「他に、方法はないのですか」
拓海は、自分でも気づかぬうちに、声を漏らす。
誰も答えない。
その時、これまで会議の隅で黙っていた篠原が、低く口を開いた。
「飛行艇は、どうだ」
全員が、振り返る。
「飛行艇――US-2、ですか」と沢田が、繰り返した。
「硫黄島に、いるはずだ」
沢田は、すぐに通信員に確認する。十秒もしないうちに、答えが戻った。
「海上自衛隊第七十一航空隊US-2二号機、訓練のため硫黄島に展開中。機体、機関ともに健全」
「だが」と所長が、慎重に口を挟む。「US-2は、飛行艇です。当然、最初に検討するのは着水です。しかし――」
所長は、海図を広げた。
「島の周囲は、サンゴ礁の浅瀬。その外側はいきなり水深一〇〇〇メートルの断崖。今、外洋には十二号の余波で波高八メートル超。US-2の着水限界は波高三メートル。着水は、無理です」
「では、陸上か」と沢田が引き取る。
「US-2は、本来、飛行艇だ。だがそれは、同時に、空自のどの輸送機より短い距離で離着陸できるSTOL機でもある」
沢田は、ホワイトボードに向かい、数字を書き始める。
「まず、着陸。US-2の進入対気速度、約三一メートル毎秒。向かい風二〇メートル毎秒。差し引き、対地速度約一一メートル毎秒。自転車並みだ」
全員が、その数字を見つめた。
「接地後、プロペラ逆推力を使う。これにフェザー時の空気抵抗、それと向かい風そのものが加わる。揚力で車輪荷重は減るが、それ以上に空気が機体を減速させる」
「接地から停止まで、計算上、おおよそ一〇〇メートル以内」
沢田は、見取り図に最初の矢印を引いた。
0m → 100m。
「次が、バックだ」
「バック?」と若い観測員が、思わず聞き返す。
「フェザーにしてブレーキを解放する。プロペラは推力ゼロ。機体に当たるのは、二〇メートル毎秒の向かい風。揚力で車輪荷重は機体重量の三割まで減るから、転がり摩擦も小さい。風が押す力の方が、確実に勝つ」
「機体は、自然に、後ろへ動く」と所長が引き取った。
「そう。ゆっくりと、しかし確実に」
沢田は、二本目の矢印を、逆方向に引く。
100m → 0m。
「そして、進入端まで戻ったら、離陸。離陸対気速度、約二三メートル毎秒。向かい風二〇メートル毎秒。地面に対しては、わずか三メートル毎秒まで加速すれば、浮く」
「実効離陸距離、計算上、一五〇メートル以内」
三本目の矢印が、進入端から書かれた。
0m → 150m。
ホワイトボードに、三本の矢印が並ぶ。
「着陸一〇〇、バック一〇〇、離陸一五〇。三つの動作で使う最大の範囲は、進入端から一五〇メートル」
「安全マージン込みで、整地が必要な距離は――」
ホワイトボードに、最終数字が書かれる。
「二〇〇メートル」
沈黙の中で、所長が、初めて笑った。
「間に合います」
「確実に、間に合う」と沢田は応じる。
所長が、立ち上がった。
「隊長。硫黄島に、要請してください」
「了解」
沢田は無線機を握る。
「硫黄島航空基地、こちら南鳥島派遣隊。US-2二号機機長を、直接、出してくれ」
「了解。少々お待ちを」
三十秒ほどの空電のあと、低い声が応答した。
「こちらUS-2二号機機長、藤村。聞こえる」
沢田は、ヘッドセットを握り直した。
「藤村三佐、南鳥島の沢田です。気象観測所長から、要請の前に、運用提案があります。聞いて頂きたい」
――間。
「言ってくれ」
沢田は、提案を、淡々と、しかし正確に伝える。
「ウインドウ、現在時刻から十一時間後、継続最大七〇分。北東風二〇メートル毎秒、固定見込み。視程一〇キロ回復見込み」
「了解」
「滑走路の整地は、二〇〇メートルしかできません」
――長い間。
「二〇〇」
機長の声は、感情を変えない。
「言ってみろ」
沢田は、計算を、一つずつ読み上げた。
「着陸進入、対地速度約一一メートル毎秒。接地後、プロペラ逆推力。一〇〇メートル以内に停止」
「リバース併用、了解」
「停止後、プロペラフェザー、ブレーキ解放。向かい風で機体は自然後退、進入端まで一〇〇メートルバック」
――間。
「……フェザーで、バック」
機長の声の温度が、一段、下がった。
「馬鹿な事を言うな」
沢田は、無線機を握ったまま、動かなかった。
会議室の空気が、凍る。
ベテランの拒絶は、当然である。
US-2は、飛行艇である前に、世界に二機とない繊細な機体だった。地上で機体を風任せに後退させるなど、運用マニュアルのどこにも書かれていない。誰も、考えたことがない使い方である。
拓海は、自分の心臓の音が、ヘッドホン越しに無線機に乗っていくのではないかと、馬鹿げた心配をした。
だが、沢田は、引かなかった。
ヘッドセットに、静かに、しかし確かに応える。
「揚力で、接地荷重は機体重量の三割以下まで落ちます」
「残る摩擦は、風が押す力の、三分の一以下」
「機体は、確実に、ゆっくりと、後退します」
――長い間。
拓海は、自分の心臓の音が、本当に聞こえた。
「……物理は、否定できない」
機長の声は、わずかに、柔らかくなっている。
「続けろ」
「バック完了後、同方向で離陸。対地三メートル毎秒で浮上。実効離陸距離一五〇メートル以内」
「了解」
沢田は、深く息を吸う。
「藤村三佐、お訊ねします。本日の南鳥島運用、機長として、引き受けて頂けますか」
会議室の二十数人全員が、無線機を見つめた。
拓海も、息を止める。
――沈黙。
三秒、五秒、十秒。
機長の声が、戻ってきた。
「沢田二佐」
初めて、機長が、相手の名を呼んだ。
「もう一度、確認させてくれ。整地、二〇〇メートル。これは、確実に、二〇〇メートル全面、瓦礫ゼロの状態で、ウインドウ開始時に、保証されるか」
沢田は、所長を見た。所長は、頷く。沢田は、ホワイトボードの「二〇〇」の数字に、指を当てた。
「保証します。ウインドウ開始時刻までに、二〇〇メートル、瓦礫ゼロ、整地完了状態にします。我々の責任で」
「もう一つ」
「はい」
「滑走路灯は」
「全滅です」
「――」
「非常用滑走路灯を置きます。進入端から二〇〇メートル、両側に四基ずつ、六〇メートル間隔。白の不動光」
「二〇〇メートルで、切れるな」
「切れます」
「光っているところが、全部だな」
「全部です」
――間。
「了解した」
機長は、続けた。
「進入は、私の判断で中止する場合がある。最終決定は、私にある。それでいいか」
「当然です」と沢田は答える。「それが、規則です」
「了解。離陸する」
――それだけだった。
沢田は、無線機を、静かに、置いた。
拓海は、知らぬうちに、握っていた拳を、解く。
篠原が、横で、低く呟いた。
「藤村さんか。あの人なら、降りる」
午後一時。
全員が、滑走路の北東端に集結する。
ほうき、スコップ、土嚢、リヤカー、そして人力で運ぶ大型のサンゴ礫を入れるための、自衛隊の支給品の頑丈な布袋。
二十五人が、滑走路の幅四四メートルに、横一列に並ぶ。
誰も号令をかけない。
ただ、それぞれが、最も近い瓦礫に手を伸ばした。
風はまだ強い。雨も、時折、横なぐりに降ってくる。だが、確かに、北東から安定してきていた。
拓海は、こぶし大のサンゴ礫を両手で持ち、布袋に放り込む。サンゴの断面は鋭く、軍手の上からでも、皮膚を切るように冷たい。布袋がいっぱいになると、若い自衛隊員が走ってきて、それを担いで運んでいった。
時計を見る余裕はない。
息を切らす余裕も、なかった。
午後三時、雨が止む。
午後四時、空の北東側に、一筋の青が見えた。
午後五時、進入端から一〇〇メートル、清掃完了。日が落ちた。
めいめいが、手持ちの作業灯を提げる。
午後六時、一五〇メートル。
午後七時、二〇〇メートル。
整地を終えた者から、灯器を運ぶ。両側に四基ずつ、六〇メートル間隔で据える。
白い光が、二列、進入端から二〇〇メートルだけ並んだ。
その先は、何もない。
ぎりぎり、間に合った。
会議室に戻った所長は、無線機に向かって、短く伝える。
「南鳥島、整地二〇〇メートル、完了。ウインドウ開始時刻、変更なし。どうぞ」
硫黄島からの応答は、すぐに来た。
「US-2、離陸する」
十 静止する翼
午後十一時四十分。
拓海は、観測所の屋上に立っていた。手には、自動観測装置のハンディ端末。
風は、所長の予測通り、北東から二〇メートル毎秒、ぴたりと安定している。空には、雲が二層に分かれて流れていた。下の雲は西へ、上の雲は東へ。台風と台風の境界面が、ちょうど島の真上で互いに押し合っている。
その境界の隙間から、奇跡のような、星明かりが落ちていた。
「視程、目視で一二キロ」
拓海は、無線に告げる。
「北東風、二〇、固定。気圧の下降、ほぼ停止」
滑走路の北東端に、白い光が二列。
二〇〇メートルで、途切れている。
その先は、島も、海も、区別がつかない。
「了解」と藤村の声が応えた。「進入を開始する」
午後十一時五十二分。
南西の空に、四つの白い光が現れる。
US-2。海上自衛隊救難飛行艇。
四発のターボプロップの音が、風の音の中に、ゆっくりと混じってきた。
「南鳥島、こちらUS-2機長」と無線に声が入る。「接地と同時に、プロペラを逆推力。停止後、フェザーに切り替えてバックする。ブレーキは、最後まで使わない。向かい風で全部を制御する」
「了解」と沢田が応える。「灯火、二〇〇メートル。光っているところが、全部だ」
機体は、ゆっくりと、降りてきた。
向かい風の中で、US-2は、まるで吊り下げられた模型のように、空中で静止しているように見える。実際にはもちろん、対気速度は時速百キロを超えている。だが、地面に対しては、自転車を漕ぐような速さでしか進んでいなかった。
接地。
車輪が、整地された滑走路を、ゆっくりと噛む。
四発のプロペラが、瞬時に逆推力に入った。機体に当たる相対風と、リバースの推力が、機体を強く押し戻す。
機体は、わずか八十メートル弱で、ぴたりと停止した。
「停止、確認」と藤村の声。
「これから、バックする」
プロペラがフェザーに入り、回転は続けたまま、推力がゼロになる。ブレーキが解放された。
機体は、しばらく、何もしない。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと、滑走路の上を、後退し始めた。
四十数トンの飛行艇が、向かい風だけに押されて、自分の意志で、後ろへ動いていく。
拓海は、息を呑んだ。
屋上から見下ろした光景は、これまで航空写真でも、映像でも、見たことのない景色である。
向かい風で、巨大な機体が、自然に、滑走路を歩いていく。
物理だった。
ただの、物理である。
そして、それが、二十五人を救おうとしていた。
三十秒、六十秒。機体は、滑走路の北東端ぎりぎりまで、自然な動きで戻ってくる。
プロペラが、フェザーから戻り、最小推力に切り替わった。機体は、ぴたりと停止する。
「乗れ!」
沢田が叫んだ。
エンジンは、止めない。
止められない、と言うべきだった。
二〇メートル毎秒の向かい風は、機体に対しては、もう離陸可能な気流である。BLCを効かせた翼は、地面の上でも、すでに揚力を発生していた。エンジンを止めれば、機体は浮き上がり、後ろへ滑り出す。
プロペラは、最小推力で回ったまま、左舷前部の扉が開いた。機内から、梯子が降りてくる。
二十五人が、次々に梯子を上がる。
気象観測員は、ノートPCとハードディスクを入れたケースを、胸に抱いていた。海上自衛隊員は、暗号書類の入った金属箱を、両手で持っている。港湾保全管理所の三人が、最後に乗り込んだ。
拓海は、機体の中で、振り返る。
篠原が、最後の一人として、梯子を上がってきていた。
ベテランは、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、機内に踏み込む。そして、振り返り、暗い島を、一秒だけ、見つめた。
その目が何を見ていたのか、拓海には、わからなかった。
午後十一時五十七分。扉閉鎖。
午後十一時五十八分。US-2、離陸滑走を開始。
向かい風二〇メートル毎秒。
機体は、わずか百四十メートルで、滑走路から浮かび上がる。
午後十一時五十九分。離陸完了。
機体は、急角度で、上昇していった。
雲海が、たちまち足の下に流れる。
そして、その雲海の南西、すぐ後ろに、十三号の白い壁が、すでに見えていた。
終 雲海の青
US-2は、高度六〇〇〇メートルで、雲海を抜けた。
機内の照明は、最低限の青い保安灯だけである。
丸窓の外に、宇宙のような濃紺の空が広がっていた。月は、雲のずっと向こうにある。だが、その光は、雲海の表面を青白く照らしている。
拓海は、丸窓に額を寄せた。
そして、息を止める。
南南西の方角に、白い渦が見えた。
台風第十三号。
直径二〇キロの、整った眼。その眼の周囲に、純白の壁雲が立ち上がっている。雲のてっぺんは、月光を浴びて、宝石のように輝いていた。
その壁雲の真ん中に、ぽっかりと、闇が空いている。
眼の底だった。
拓海は、膝の上のノートPCのケースに、手をやる。
中の、外付けハードディスク二つを、確かめた。
七二時間ぶんの、地上気象観測。
四八時間ぶんの、大気バックグラウンド汚染観測。
そして、最後の一発の、臨時放球のラジオゾンデのデータ。
地球の朝が最初に来る場所からの、最後の声が、確かに、ここにある。
「西野」
横で篠原が、丸窓を覗いていた。「見えるか」
「見えます」
「綺麗だな」
「綺麗です」
二人は、しばらく、何も言わなかった。
ベテランは、ぽつりと、つけ加える。
「三度目だ」
「はい」
「三度目だが、――間に合った」
機体は、北西へ、針路を取っていた。
硫黄島まで、約三時間。
そこから本土まで、さらに、三時間半。
拓海は、丸窓から目を離した。
ノートPCを膝の上で開く。
液晶の青白い光の中で、観測データが、整然と、行と列に並んでいた。
小数点以下、第二位まで、整っている。
データの一番下に、自分が今朝、本庁に送信した最後のラジオゾンデの記録があった。
気球は三万メートルで破裂し、観測終了。送信者欄に、自分の名前が、記されている。
西野拓海。
その名前を、しばらく、見つめていた。
本土の婚約者の顔が、また、浮かぶ。
帰ったら、必ず、籍を入れる。
機体の振動が、安定してきた。
台風の壁雲は、もう、後ろにある。
US-2は、雲海の青の中を、まっすぐ、北西へ飛んでいった。
日の出には、まだ、間に合うはずである。
――了




