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幻影  作者: 光闇居士


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第9章:バニラと錆の特異点――未来を撃ち抜くための恋

挿絵(By みてみん)

「帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから」

「ああ。必ず帰る」


【しおの】

足立区の裏通りに佇む印刷工場は、深夜の深い静寂と、澱んだ有機溶剤の臭いの中に沈んでいた。

 パイプ椅子に腰掛け、安い缶ビールの冷たさを掌に感じながら、私はただ無言でその男の背中を見つめていた。

 輪転機の駆動音はとうに止んでいる。工場の主である松崎という男がシャッターを下ろして姿を消して以来、この薄暗い仮眠室を支配しているのは、卓上旋盤のモーターが発する低い唸り声と、金属が削り出される甲高い切削音だけだった。


「……こいつは、ただの精密機械じゃない」


サトルがぽつりと呟いた。左目に嵌めたルーペを外し、充血した目を乱暴に擦る。

「ミクロン単位の精度が出ているくせに、わざと『歪み』が残されている箇所がある。機械加工のミスじゃない。意図的な、有機的な『揺らぎ』だ。まるで、呼吸をしているみたいに」


その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を冷たい悪寒と、それを凌駕するほどの戦慄が駆け抜けた。

 ――この男、ただの指を欠損した町工場のオッサンじゃない。

 サトルが直感的に見抜いた「有機的な揺らぎ」。それは、私の生きた時代……ここから遠く離れた未来の超高度AIでさえ完全には再現不可能な、人間の手による「究極の暗号エラー」だった。あの金型がなぜ、時空を超えてまで狙われるのか。それは、この時代の、この男の不器用な指先からしか生み出せない「熱」が内包されているからに他ならない。


ウィィィン、という音とともに、再びサトルが旋盤に向かう。

 私は息を呑んだ。彼の左手には、親指しか残っていない。あとの四本は、プレス機に食いちぎられた無残な縫合跡があるだけだ。だというのに、虚空を掴むその欠損した手が、まるで目に見えない五本の指を揃えているかのように、滑らかに、そして恐ろしいほどの精度で旋盤のハンドルを操っている。

 失われた指先の「幻肢痛」が、空間の歪みや金属の硬度を読み取る極限の生体センサーへと変貌しているのだ。


油と汗にまみれ、ただ一点の狂いも許さぬ眼差しで鉄と向き合うその横顔。

 昼間、私を抱えてゴミ山に飛び込み、無様に逃げ惑っていた底辺の中年男の面影は、そこには微塵もなかった。ただひたすらに崇高で、恐ろしいほどに美しい「職人」の顔が、そこにあった。


ドクン、と。

 私の胸の奥底にある、冷たく凍りついていたはずのコアが、奇妙な熱を持って跳ねた。

 私は、1億クレジットという莫大な報酬のためにこの時代へ潜入したエージェントだ。ターゲットであるサトルを手なずけ、金型を奪取するためなら、体を使うことも、安い同情を引く嘘を吐くことも、すべては計算された「ゲーム」の範疇だった。

 けれど、今、目の前で命を削るように鉄と向き合うこの男の純粋な熱量が、私の構築してきた冷徹な殻を、内側から容赦なく溶かしていくのを感じていた。


この不器用で、どうしようもなく真っ直ぐな男に、抱かれたい。

 昨夜のような、絶望と狂気に任せた暴力的な蹂躙ではなく。今度は私の方から、この男のすべてを狂わせ、その熱の奥底まで触れてみたい。

 それは、未来の仮想現実では決して味わえない、血と汗と、錆の匂いがする「本物」の感情だった。


深夜二時過ぎ。サトルが深く荒い息を吐き、旋盤のスイッチを切った。

 作業台の上には、本物と寸分違わぬ――しかし、決定的なバグが仕込まれた「偽の金型」が、鈍い金色の光を放っていた。


「……できた」


彼が疲労に顔を歪めて立ち上がった瞬間、私は意図的に、自身の生体インプラントから濃密な「バニラの香り」を分泌させた。


「お疲れ様、おじさん」


背後から声をかけながら、私は肩紐をずらし、意図的に白い肌を露わにした。安いドレスのチープな質感は、男の劣等感を刺激し、同時に支配欲を掻き立てるための偽装だ。

 サトルが振り向くより早く、私は彼の分厚い首に腕を回し、その強張った唇を塞いだ。

 昨夜の彼からの一方的なキスとは違う。私の方から求める、粘り気を帯びた深い口づけ。鉄の錆びた味と、タバコのヤニ、そして濃密なバニラの匂いが、私たちの間で激しく混ざり合う。


「あや、お前……」


戸惑うサトルの目を見つめ返し、私は妖艶に、そして初めての「本心」を込めて囁いた。

「凄かったわよ、あんたのその目。……ねえ、続き、しよっか」


私は彼の手を引き、仮眠室の軋むパイプベッドへと押し倒した。

 油の染み付いた重たい作業着を、もどかしく引き剥がす。そこに現れたのは、長年の過酷な労働が彫り上げた、岩のように硬く分厚い筋肉の鎧だった。傷だらけで、不格好で、だけどどうしようもなく温かい男の体。


私は彼の股間へと顔を沈め、その猛り狂う熱の塊を、柔らかな粘膜でゆっくりと迎え入れた。

「なっ……! おい、何っ……!」

 女性の扱いに不慣れな彼が抗議の声を上げるが、私はそれを無視して、最も敏感な部分を執拗に舌でなぞり、熱を帯びた口腔の奥深くまで彼を飲み込んだ。

「あっ……! う……ぁっ……」

 彼の口から漏れる、情けないほどの甘い苦悶の声。

 私は男を意のままに操る術を無数に知っている。彼を焦らし、理性を溶かし、完全に私の手のひらの上で踊らせるつもりだった。しかし、彼の肉体から放たれる圧倒的な熱量と、純度百パーセントの欲望が、次第に私自身の計算をも超えて牙を剥き始めた。


「……もう、いいっ!」


サトルは獣のような低い唸り声を上げると、私の肩を乱暴に掴み、天地を引っ繰り返すように私をベッドに組み伏せた。

「きゃっ……! ちょっと、がっつかないでよ……んっ!」

 私の悲鳴など気にも留めず、彼は剥き出しの熱を、私の最も深い奥底へと一気に、容赦なく突き入れた。

「ああっ! ……凄いっ、奥、当たってる……!」

 嘘じゃない。演技でもない。私の内壁が、彼のあまりにも巨大で荒々しい質量に驚き、歓喜するように激しく収縮した。

 そこからは、ただの狂気だった。

 サトルは、昨夜のトラウマを塗り替えるかのように、深く、重く、果てしない力で私を打ち据えた。彼が腰を振るたびに、古いパイプベッドが悲鳴を上げ、私の脳髄が真っ白な光で明滅する。

 計算など、とうに吹き飛んでいた。ミッションも、1億クレジットの報酬も、すべてがどうでもよかった。私はただ、この油と汗に塗れた不器用な男に抱きしめられ、その重みと熱の中で、生まれて初めての「愛の歓喜」に喉を枯らして鳴き続けていた。

 バニラの香りと男の汗が混ざり合う、濃密な官能の底で。私は彼という猛烈な嵐に身を委ね、ただ一人の「女」として、何度も、何度もその絶頂の彼方へと融けていった。


事後の、泥のような甘い微睡み。

 それが唐突に破られたのは、工場の入り口付近で響いた、ガシャンッ!! という無機質な金属音だった。


サトルは弾かれたように跳ね起きた。私も瞬時に「女」から「エージェント」の顔へと切り替わり、ベッドの下から服を引きずり出す。

「……来たわね、ハイエナども」

「誰だ、ヤクザか? それとも公安か?」

 サトルは素早く作業着を羽織り、完成したばかりの「偽物」と「本物」の金型を、それぞれ別の鞄に押し込んだ。


ズズズ……と、重いシャッターがこじ開けられる音。

 薄暗い工場内になだれ込んできたのは、黒のタクティカルギアに身を包んだプロの武装集団だった。サトルは彼らを「外国の工作員」だと思っている。だが、私の目は彼らの装備の違和感を即座に見抜いていた。

 あれは現代の軍隊じゃない。時空の歪みを縫って現れた、未来の『機構』が放った猟犬クリーナーたちだ。歴史のバグであるサトルを消去し、金型を回収するために送り込まれた暗殺者。


「逃げるわよ、裏口から!」

 私はサトルの手を引き、輪転機の影を縫うようにして工場の奥へ走った。だが、非常扉を開けた瞬間、そこにはすでに冷たい銃口が待ち構えていた。

 前後を完全に塞がれた絶体絶命の包囲網。

「ターゲット確認。金型を確保し、両名とも排除せよ」

 冷徹なリーダーの声とともに、五つの銃口が私たちに向けられる。

 サトルは丸腰のまま私を背に庇い、作業台から掴み取ったモンキーレンチを構えた。あんな鉄屑で、未来の電磁加速銃に勝てるはずがない。

 ――バカな男。死ぬのはあんたじゃない。


「撃て」

 リーダーの命令が下った瞬間。

 私はサトルの背中に隠れたまま、ドレスの裾に隠し持っていた「重力制御デバイス(グラビティ・リパルサー)」のスイッチを、不可視の出力で弾き飛ばした。


――ヒュンッ。

 空気を切り裂くような異音。直後、先頭で銃を構えていた男二人が、見えない巨大なハンマーで真横から殴り飛ばされたかのように、十メートル近く後方へと吹き飛んだ。彼らの肉体は資材置き場に激突し、鉄骨の山が轟音とともに崩れ落ちる。


「なっ……!? 何が起きた!?」

 サトルが驚愕に目を見開く。残りの猟犬たちが動揺し、陣形が崩れた。

 神の気まぐれか、見えざる奇跡か。サトルはそう思っただろう。それでいい。彼に私の正体を明かすわけにはいかない。

「今よ! ボーッとしてないで走れ!!」

 私が怒号を飛ばすと、サトルは我に返り、混乱の隙を突いて非常口へと突進した。背後で銃声が響くが、私が密かに展開した位相シールドが、すべての弾道を僅かに逸らしていた。


夜明け前の冷たい路地裏へと転がり出る。

 奇跡的な脱出。だが、安堵する間もなく、サトルの作業着のポケットで携帯電話が震え出した。松崎の携帯への、非通知設定の着信。

 サトルが電話に出た瞬間、彼の空気が凍りつくのを、私は隣で肌を通して感じた。


『……場所は湾岸の第4スクラップ工場だ。一時間以内に本物の金型を持って一人で来い。警察や他の連中を連れてきたら、この女の綺麗な顔がどうなるか、分かるな?』


漏れ聞こえる男の声。佐島だ。公安のトップであり、サトルの初恋の女、結衣の夫。

 通話が切れた後、サトルは携帯電話を握りしめたまま、白み始めた東の空を見上げた。その横顔には、さっきまで私を狂おしく抱いていた男の熱情はなく、ただ己の過去という呪縛に立ち向かおうとする、悲壮な決意だけが張り付いていた。


ああ、そうか。

 この男の心の最も深い場所には、今もあの「結衣」という女が住み着いているのだ。

 胸の奥が、ギリッと痛んだ。1億クレジットの報酬を失うことよりも、未来の歴史が変わってしまうことよりも、たった今、サトルの心が私ではない別の女のために死地へ向かおうとしている事実が、私の内臓を焼け焦がすような激しい嫉妬と絶望で満たした。


「……行くのね?」

 震える声を押し殺して尋ねた私に、サトルは無言で頷いた。

 そして彼は、肩から提げていた二つの鞄のうち、ずっしりと重い「本物の金型」が入った鞄を、無造作に私の胸へと押し付けた。


「……えっ? ちょっと、何これ」

「お前が持っていけ」

 彼は、偽物の金型が入った軽い鞄を握り直す。

「これを売り払って、三千万作れ。施設にいる妹を迎えに行って、二人でまともな人生をやり直せ」

「はぁ!? バカ言わないでよ! これがあいつらの狙いなんでしょ!? 本物置いてったら、あんた手ぶらで殺されに行くようなもんじゃない!」


私は本気で怒鳴っていた。妹の話など、私が彼の同情を引くためにでっち上げた真っ赤な嘘だ。だというのに、この底抜けに不器用なお人好しは、出会って二日も経たない、ゆすりたかりの売女の嘘を丸ごと信じ込み、己の命より重い「本物」を託そうとしているのだ。


「俺は、俺の過去にケリをつけてくるだけだ」

 サトルは、私の顔を真っ直ぐに見下ろした。

「あや。お前の言う通り、俺はどうしようもないバカだ。結衣のことも救えなかった。……でもな、お前が妹と笑って暮らせる未来だけは、俺のこの手で、確実に作ってやりたいんだよ」


――ああ、もう、ダメだ。

 私の世界が、完全に崩壊した瞬間だった。

 幾千の未来のテクノロジーも、冷徹な計算も、この男のたった一言の前に塵芥のように吹き飛んだ。打算の鎧は溶け落ち、私はただ、サトルという男を心の底から愛してしまった一人の無力な女として、そこに取り残されていた。


私は鞄を強く抱きしめたまま、背伸びをして彼の首に腕を回した。

 唇と唇が触れ合う。それは欲望の果てのキスではなく、魂の奥底に刻み込むような、祈りの口づけだった。サトルの強張った唇に、私の涙の塩辛さと、バニラの匂いが染み込んでいく。


「……バカ。三千万じゃ足りないって言ったでしょ」

 唇を離し、私は必死にいつもの悪びれた笑みを作った。

「帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから」

「ああ。必ず帰る」


サトルは短く答え、朝焼けの迫る路地を、一人で歩き出した。

 血と泥に汚れたその背中が、角を曲がって見えなくなるまで、私はただ静かに見送った。


足音が完全に消え、路地裏に静寂が戻った瞬間。

 私は抱えていた鞄を足元に置き、深く、冷たい息を吐き出した。

 瞼を閉じ、再び目を開いた時、私の瞳には「底辺の売女」の怯えた光は一切なかった。そこに宿っていたのは、電子の瞬きを宿した、極寒の捕食者の光。


サトルの向かうお台場には、佐島という過去の亡霊が待っているだろう。だが、それはサトル自身がケリをつけるべき表舞台の戦いだ。

 私が守るべき戦場は、ここにある。

 先ほどの奇跡的な逃亡で、未来の『機構』が諦めるはずがない。ターゲットのサトルとお台場へ向かわず、本物の金型とともにこの印刷工場に残った私を、彼らは時空の歪みを最大出力にして必ず総攻撃を仕掛けてくる。

 狙いは、金型と私の抹殺だ。


私はドレスの胸元を引き裂き、肌に埋め込まれた生体コンソールを起動した。青白いホログラムが空間に浮かび上がり、工場の設計図と周囲の熱源反応を瞬時に解析していく。


『……空間歪曲率、臨界点突破。多数の高エネルギー体、接近中』


インプラントから無機質な警告音が響く。

 私は足元の「本物の金型」を見下ろした。

 あの不器用な男が、命を懸けて私の「未来」のために残してくれた、この時代で最も尊い鉄の塊。

 彼が私の嘘の未来を守ってくれると言うのなら。私は、私のすべてを懸けて、彼が生きるこの時代の「現在」を、未来の亡霊どもから死守してみせる。


空気がビリビリと震え、オゾンの強烈な臭いが路地裏に立ち込めた。空間が裂け、重装甲に身を包んだ未来からの追手たちが、次々とその姿を現し始める。

 私は床に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、口元に冷酷な笑みを浮かべた。


「さあ、来なさい。未来の亡霊ども」

 私は誰にともなく、しかし絶対的な決意を込めて宣言した。

「この金型も、あの男の命も……すべては、私のものよ」


新宿を逃げ惑った逃避行の果て。バニラと錆の匂いが交差するこの場所で、表の世界では知る由もない、時空を超えた壮絶な愛の戦いが、今、幕を開けようとしていた。

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