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幻影  作者: 光闇居士


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8/10

第8章:甘い幻影と、運命の咆哮

挿絵(By みてみん)

「……バカ。死ぬわよ、あんた」


【しおの】

非常階段から転がり込んだ先は、けばけばしい紫色のネオンが点滅する、場末のラブホテルの一室だった。 

 オートロックの重い扉が閉まる音とともに、世界の喧騒は一切、消えた。私は濡れた黒髪をゆっくりとかき上げ、ベッドの端に腰を下ろした。目の前で荒い息を吐く中年男——サトル——の視線が、私の全身を熱く捉えているのを、正確に感じ取っていた。 (……完璧。このタイミングで独占できるなんて、計算通りすぎるわ。一億クレジット。妹をあの病室から引きずり出すための、ただそれだけ。) 

 サトルは血と泥に塗れた左手を壁に突き、掠れた声で問うた。

「……で、いくらだ」 

 私はわざと擦れた笑みを浮かべ、商売女の仮面を貼り付けた。

「いくら出せるのよ、おじさん。こっちは商売あがったりなんだけど」 

 その言葉が、彼の内側に燻っていたものを一瞬で爆発させた。獣のような唸り声とともに、彼は私をキングサイズのベッドへと押し倒した。血の味のする荒々しい抱擁。抗うふりをしながらも、私は細い腕を彼の背中に回した。

 

計算の上でのこと。バニラの香りを、ゆっくりと、濃く、部屋中に溶け込ませていく。激しい夜の記憶は、私の体をただの道具として差し出しながらも、彼の狂気を優しく、深く、飲み込んでいった。 やがてサトルは、私の胸に顔を埋めたまま、無邪気な少年のような寝息を立て始めた。バニラの甘い霧が、彼の脳を、魂を、静かに溶かした証拠だった。私は疲れ果てたように腕を回し、血まみれの中年男の背中を、そっとあやすように抱きしめた。 

 目を閉じる直前、私の瞳は一瞬だけ、彼の寝顔と床に落ちた「金型」を捉えた。冷涼な、底知れぬ深さの視線。売女のものではない。特務機関のスパイとしての、未来からの刺客としての、冷徹な計算。だがその光は、すぐに瞼の裏へと隠された。 

 あれさえ手に入れれば、私には1億クレジットという莫大な報酬が約束されている。常に死と隣り合わせの裏世界で、他人の感情を弄ぶ恋愛ゲームのような任務を繰り返してきた私にとって、彼はただの「上質な獲物」だった。……ほんの数分前までは。


 朝の白々しい光が小窓から差し込む頃、私はわざと冷たい声を響かせた。

「……ちょっとおじさん、何それ」 

 目を覚ましたサトルは、自身の行いに猛烈な自己嫌悪を抱き、震える手で全財産の二万数千円を差し出してきた。

 私はシーツを胸に引き寄せ、底辺を這いずる強欲な売女を完璧に演じきった。慰謝料として三百万を要求し、金型を奪い取ろうと掴みかかる。彼をこの場から素早く動かすための、計算し尽くされた挑発だ。

 

その瞬間、分厚い扉の鍵穴が内側へ吹き飛んだ。

サプレッサー越しの銃撃。踏み込んできた黒のタクティカルギアの男たちを見て、私は即座に状況を理解した。彼が「外国人スパイ」と勘違いするであろうあの部隊は、私の棲む裏世界――1億クレジットの懸賞金を嗅ぎつけた『機構』のプロの掃除屋クリーナーたちだ。目撃者は生かしておかない。


――来る。

私がシーツの下で隠し持った小型ナイフのグリップを握りしめた、その時だった。


「しがみついてろ!!」


サトルは弾かれたように飛び出し、丸腰のまま私を庇ってベッドごと床へ転がり込んだ。直後、私のいた空間を無数の銃弾が引き裂く。

信じられなかった。数秒前まで自分をゆすり、罵倒していた女を、彼は文字通り身を挺して守ったのだ。

サトルは凄まじい気迫で灰皿を投擲し、私の服をひったくって窓ガラスを割り、二階からゴミの山へと飛び降りた。


そこからの逃走劇は、大新宿を舞台にした狂気の沙汰だった。

大通りを塞ぐのは、表の顔を持つ公安の裏部隊。追ってくるのはアジア系マフィアの残党と、先ほどの精鋭クリーナーたち。国家権力と裏社会が、この男と金型を巡って完全に交差していた。

彼らの装備も、組織の背景も、私はすべて把握している。サトルには到底理解しえない、圧倒的な死の包囲網。普通の人間なら腰を抜かして終わりだ。


だが、サトルは違った。

欠損したはずの左手の四本の指――彼が時折顔を歪めるその「幻指」が、まるで見えない触角のように空間の死角と殺気を読み取っていく。

ヤクザの凶刃を紙一重で躱し、圧倒的な暴力で道を切り開くその背中に、私は息を呑んだ。盗んだワンボックスカーでの逃走中もそうだ。私は助手席で「免許がない」と騒ぎ立て、パニックに陥った女を演じていたが、内心では彼の神懸かったドライビングテクニックに戦慄していた。

幻の左手が空間を掌握し、血まみれの右手が限界を超えてハンドルを制御する。それは職人として0.01ミリの誤差を見抜いてきた男の、命のやり取りにおける究極の覚醒だった。


そして、ただの「ミッションの対象」だったはずの彼の不器用な善性が、どうしようもなく私の心を揺さぶり始めていた。


追っ手を振り切り、彼が逃げ込んだのは油とインクの匂いが澱む、足立区の古びた印刷工場だった。

「痛っ……! ちょっと、消毒液しみるんだけど!」

私はわざとらしく文句を言いながら、彼の左手の縫合跡に包帯を巻いていった。ツンと鼻を突く有機溶剤と、鉄の錆びた匂い。それに私の纏うバニラの香りが混ざり合う。

「……お前こそ、なんであんな路地裏で体なんか売ってたんだ」

ぽつりとこぼした彼の問いに、私はあらかじめ用意していた「妹を施設から引き取るため」という架空の身の上話を語った。いつもなら息をするように吐ける嘘。なのに、どうしてだろう。彼の真っ直ぐな視線を受けていると、その嘘に私自身の本当の孤独が溶け出していくような錯覚に陥った。


サトルは無言で立ち上がると、ルーペを取り出し、蛍光灯の下で「金型」を調べ始めた。

「偽物を作って逃げるだけじゃない。こいつの構造を完全に把握して……この金型を狙ってる連中すべてを、佐島も含めて、俺が逆に『ゆすって』やるんだ」

彼は振り返り、私を真っ直ぐに見た。

「あや。お前が妹を引き取るための三千万、いや、海外へ高飛びして、一生遊んで暮らせるだけの『億』の金を……俺がこの手で作ってやる」


心臓が、大きく跳ねた。

彼は知らない。私がその「億」の金のために彼を狙うエージェントだということを。公安やクリーナーたちという、世界の本当の恐ろしさを。

それでも、指を失い、すべてを奪われたこの男は、出会ったばかりの女の未来を背負い、強大な世界に一人で反逆の狼煙を上げようとしている。


「……バカ。死ぬわよ、あんた」


私は顔を伏せ、震える声で呟くのが精一杯だった。

愛なんてものは、任務を円滑に進めるためのただのゲームだった。甘いバニラのような嘘(幻影)を纏い、誰も信じずに生きてきた私の前に、初めて現れた「本物」。

血と鉄の錆の匂いに塗れた彼の強さと、あまりにも無防備な優しさが、私の構築してきた冷たい世界を音を立てて崩していく。


この人を、死なせたくない。

計算も報酬も関係ない、生まれて初めての痛みを伴う感情が、私の胸の奥で静かに、けれど熱く脈打ち始めていた。

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