第6章:香港の冷たいシーツと、絶望のカウントダウン
【一九九七年 六月三十日 二三時四五分】
【香港・九龍半島 超高級ホテル『ペニンシュラ』最上階スイート】
窓の外では、イギリスから中国への返還を祝う、狂騒的な花火がビクトリア・ハーバーの夜空を極彩色に染め上げていた。
しかし、分厚い防音ガラスに守られたスイートルームの中は、外の喧騒が嘘のように静まり返り、ただ重く、甘い熱気だけが充満していた。
むせ返るような、純度の高いバニラの匂い。
「……あや。君は、本当に魔法使いのようだ」
キングサイズのベッドの上。シルクのシーツに半ば身を沈めながら、初老の白人男性が恍惚とした溜息を漏らした。
男の名は、リチャード・ウォン。表向きは世界的投資家だが、裏の顔は、本来ならこの時代に存在するはずのない「未来の軍事データ」を違法に売買し、歴史のタイムラインに深刻なバグを引き起こそうとしている大物フィクサーだった。
その男の広い胸板に、あやは細く白い腕を絡ませていた。
漆黒の髪は汗で艶やかに額に張り付き、乱れたキャミソールの肩紐が、滑らかな肩の曲線から危うく滑り落ちている。
十五歳でスラムの泥水を啜っていた少女は、今や幾つもの時代を渡り歩き、数え切れないほどの男たちの人生を狂わせてきた、特務機関が誇る最高のエージェントに成長していた。
「リチャード……私、あなたがいないと、もう息もできないわ」
あやは、教え込まれた完璧な角度で男を見上げ、潤んだ瞳で囁いた。
彼女の指先が、男の首筋から胸元へと、羽毛のように優しく這う。その微かな接触だけで、男の心拍数が跳ね上がり、呼吸が荒くなるのがわかった。
バニラ・クロノスが血肉に溶け込んだ彼女の体は、ただそこに存在し、熱を帯びた吐息を吐き出すだけで、男の脳髄から理性を根こそぎ奪い去る。それはもはや、性行為という物理的な接触すら必要としない、圧倒的な「支配」だった。
「君のためなら……この世界を裏切ってもいい」
完全にバニラの毒に脳を溶かされた男が、あやの華奢な体を強く抱き寄せ、その雪白の首筋に熱い唇を這わせる。
男の荒々しい欲望が、あやの体をベッドへと押し沈めていく。肌と肌が擦れる音、シーツの軋み。男は自分が、この世で最も美しく、最も儚い生き物を完全に所有したと確信していた。
彼女の胎内へと続く深淵に、己のすべてを注ぎ込み、溶け合いたいという破滅的な渇望。
――だが、男は気づいていなかった。
自分に抱かれ、甘い嬌声を上げているこの女の瞳の奥が、氷河のように冷たく、絶対零度の虚無を湛えていることに。
「ああ、あや……愛している……ッ!」
男が理性の最後の一線を越え、獣のような声と共に絶頂へと登りつめようとした、まさにその一瞬。
男の全身の筋肉が弛緩し、すべての防衛本能がゼロになったゼロ・コンマ一秒の隙を、あやは見逃さなかった。
彼女は、男の背中に回していた右手の指先――その爪の裏側に仕込んでいた『極小のナノ毒針(未来の神経遮断薬)』を、男の第七頸椎の隙間へと、まるで愛撫の延長のように滑らかに、そして正確に突き立てた。
「……え?」
男の喉から、間の抜けた声が漏れる。
快楽に歪んでいた顔が、一瞬にして凍りついた。痛みすらない。ただ、心臓から脳への電気信号が完全にシャットダウンされ、男の巨体が糸の切れた操り人形のように、あやの上へと崩れ落ちた。
即死だった。外傷も、毒の痕跡も残らない、完璧な「腹上死(心不全)」への偽装。
『ターゲット・サイレンス。任務完了。生体報酬:五万クレジットを送金中』
網膜に淡く光るシステム文字。
あやは、自分にのしかかる男の重い死体を、まるで邪魔なクッションでも退けるかのように無造作にベッドの下へと蹴り落とした。
先ほどまでの熱を帯びた「恋する女」の表情は跡形もなく消え去り、そこにあるのは、血の匂いよりも冷酷な『尤物』の素顔だった。
「……これで、ようやく二千五百万クレジット」
シーツの血(彼女が偽装のためにシリンジで撒いた少量の偽血)を拭いもせず、あやはバスローブを羽織り、窓ガラス越しに香港の花火を見下ろした。
あと少し。あと五百万クレジットで、妹の美羽を永遠の楽園『天上都市』へ送り出すことができる。
どんなに泥を啜っても、どんなに何百回、何千回と見知らぬ男に抱かれ、その命を奪おうとも、心さえ殺していれば何も感じない。私は、妹というたった一つの光のためだけに、この地獄を這いずり回る最高に美しい犬なのだから。
あやは、時空跳躍の帰還シークエンスを起動させた。
窓の外の花火が静止し、空間が歪む。凄絶な吐き気と共に、彼女の意識は再び一九九七年の香港から、二一七〇年の酸性雨が降るスラムへと引き戻されていった。
***
【西暦二一七〇年 廃棄区】
地下コンテナの重い扉を開けると、いつものカビと消毒液の臭いが鼻を突いた。
「美羽、帰ったわよ。……美羽?」
あやは、時空酔いの頭痛を堪えながら、薄暗い部屋の奥へと声をかけた。
しかし、マットレスの上に妹の姿はなかった。
代わりに、部屋の中央に、特務機関の制服を着たエージェントのホログラムが青白く浮かび上がっていた。
『H-072(アヤ)。任務ご苦労だった』
無機質なAI音声が響く。あやの背筋に、嫌な汗が流れた。
「美羽は……妹はどこ!? まさか、病状が……っ!」
『案ずるな。対象者(妹)は、すでに我々が確保し、医療カプセルにて生命維持を行っている』
「だったら、早くクラウドへのアップロードを! 私は約束通り、二千五百万まで稼いだ! あと少しで……!」
『その件について、通達がある』
ホログラムの男は、一片の感情も交えずに告げた。
『クラウドのデータ容量圧迫に伴い、肉体残党(スラムの人間)のアップロード権限の価格が改定された。新たな規定料金は、五千万クレジットだ』
――ドクン。
あやの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……は? 五千万……? ふざけないで。契約では三千万だったはずよ!」
『契約は絶対ではない。我々天上都市の理が絶対だ。妹を救いたければ、あと二千五百万クレジットを稼げ。期限は半年。それまでに支払いがなければ、妹の生命維持装置は停止される』
「待って! 半年で二千五百万なんて、毎日過去に飛んだって物理的に不可能よ! そんなの、ただの……!」
『通達は以上だ。引き続き、国家のために身を粉にして働け、優秀な猟犬よ』
ホログラムが、フッと消滅した。
後に残されたのは、妹の体温すら消え失せた、冷たく暗いコンテナの空間だけだった。
「……あ、ああ……」
あやは、その場に崩れ落ちた。
いくら血を吐いても、いくら心を殺して男たちに股を開いても。
このふざけた世界は、最初からスラムのゴミ屑に救いを与える気などなかったのだ。自分たちは、死ぬまでクラウドを維持するための電池として、あるいは過去を修正するための使い捨ての雑巾として搾取され続けるだけ。
希望など、幻影だった。
「……あああああああああああああああああっ!!」
あやの絶叫が、地下コンテナに響き渡った。
それは、十五歳の時からずっと凍りつかせていた、彼女の「人間としての感情」が、凄まじい怒りと絶望を伴って爆発した瞬間だった。
彼女は、血の滲むような思いで稼いだクレジットのデータ端末を、コンクリートの壁に力任せに叩きつけた。火花が散り、液晶が砕け散る。
荒い息を吐きながら、あやは暗闇の中で立ち上がった。
その瞳から、今までのような「演じられた怯え」や「虚無」は完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、この世界のすべてを、システムという神すらも焼き尽くそうとする、絶対的な『殺意の炎』だった。
「……正規のルートがダメなら。ルールごと、ぶっ壊してやる」
あやは、自らの血が滲む唇を舐め取った。
特務機関のシステムにハッキングを仕掛ける。彼らが隠し持っている、過去の時代から持ち帰るべき最も価値のある「歴史的特異点」を、組織を出し抜いて私が奪い、それを人質にして妹を奪還する。
それは、国を敵に回す、生存率〇パーセントの反逆。
あやは、部屋の隅に隠していた違法なハッキング・デバイスを起動した。
モニターに映し出された彼女の顔は、かつてないほどに生き生きと、そして底知れぬほど妖艶でクールな輝きを放っていた。
彼女はもう、誰かに飼われる『猟犬』ではない。
運命を自らの手で狂わせる、一匹の美しき『狂犬』へと生まれ変わったのだ。




