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幻影  作者: 光闇居士


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第5章:初陣と、手のひらの血

挿絵(By みてみん)

あやは、血に濡れた自分の手のひらを、

まるでいとおしい恋人の頬に触れるように、

そっと自身の唇に押し当てた。


【しおの】

次元の壁を突き破る感覚は、全身の血液を沸騰した鉛に入れ替えられるような、凄絶な吐き気と痛みを伴った。

 視界が極彩色のノイズに塗り潰され、鼓膜が破れるほどの耳鳴りが響く。それが唐突にふっと途絶えた瞬間、肺に流れ込んできたのは、無菌室のオゾンではなく、湿ったアスファルトと、排気ガスと、安っぽいタバコの煙が混じり合った「過去の時代の悪臭」だった。


【一九八X年 三月三十日 一四時〇〇分】

【某超大国・首都ワシントンD.C. 天候:曇天・小雨】


あやは、裏路地の煉瓦の壁に手をつき、胃液を吐き出した。

 灰色のトレンチコートに身を包んだ彼女の身体は、時空跳躍の摩擦熱によって異常な高熱を発している。そして、その毛穴という毛穴から、彼女が「未来から来た異物」である証明――あの狂おしいほどに甘い『バニラの匂い』が、冷たい春の雨の匂いを上書きするように立ち上っていた。


網膜の裏側に直接埋め込まれた生体ディスプレイが、淡いブルーの光と共に任務ミッションのカウントダウンを刻み始める。

『ターゲット:歴史保護対象(某大国・最高権力者)の暗殺を企てる、白人青年』

『状況:本来の歴史オリジナル・タイムラインにおいて、この後一四時二七分、権力者は凶弾に倒れ、死亡。世界は核の炎に包まれる第三次世界大戦のルートへと分岐する』

『ミッション:暗殺者の行動に物理的干渉を行い、弾道を逸らせ。権力者を「致命傷」から救済し、現在の歴史を維持せよ。生体報酬:一万クレジット』


「……たった一万クレジット」

 あやは、雨水で濡れた唇を微かに歪めた。妹の命を救うための三千万には、ほど遠い。だが、ここから始めるしかないのだ。


彼女はコートの襟を立て、路地裏から大通りへと歩み出た。

 目の前には、白亜の巨大な高級ホテル『H』がそびえ立っている。そのVIP専用出口の周囲には、すでに数十人のシークレット・サービス、制服警官、そしてカメラを構えた報道陣が、黒山の人だかりを作っていた。数分後、この国のトップが労働組合での演説を終え、専用のリムジンに乗り込むためにここから出てくる。


【一四時一五分 暗殺決行まで残り十二分】


あやは、報道陣と野次馬の群れの中に、音もなく滑り込んだ。

 スラムで培った気配を殺す歩法と、訓練で極めた『尤物』としての身のこなし。彼女が群衆の中をすり抜けるたび、すれ違った男たちは皆、不可解な表情で足を止めた。

 すれ違いざまに漂う、強烈に甘いバニラの香り。そして、濡れたコートの隙間から覗く、透き通るような白い肌と、ひどく怯えたような涼しげな瞳。

 報道のカメラマンも、屈強な警護官たちでさえも、一瞬だけ彼女の放つ「毒」に脳髄を撫でられ、無意識のうちに彼女のために道を譲ってしまう。あやは誰にも咎められることなく、最前線のロープ・バリアのすぐ背後へと到達した。


そこに、「奴」はいた。


金髪で、青白く、少し肥満気味の二十代の青年。

 安物のベージュのレインコートを着た彼は、冷たい雨が降っているというのに、額から脂汗を滝のように流していた。ポケットの中に突っ込まれた右手が、小刻みに震えている。

 あやの網膜の生体スキャナーが、彼のポケットの中身を透視した。

『Röhmローム RG-14 ・二二口径リボルバー。装弾数六発。弾頭:デバステイター(炸裂弾)』。

 青年は、虚ろな目でホテルの出口を凝視しながら、うわ言のように呟き続けていた。

「……見ていてくれ、ジョディ。僕が歴史に名を刻むところを。君への愛を、この銃弾で証明してみせる……」

 狂人だった。ある有名映画の若き金髪女優に異常な執着を抱き、彼女の気を引くためだけに、超大国のトップの頭を吹き飛ばそうとしている哀れなバグ。


「……底辺のゴミが。歴史を気取るな」

 あやは、心の中で冷たく吐き捨てた。

 しかし、彼女の表面上の顔は、見知らぬ群衆の中で迷子になり、心細さに震える可憐な少女のそれだった。


【一四時二〇分 暗殺決行まで残り七分】


あやは、標的の青年の背中へ、ミリ単位の計算で体を寄せた。

 彼女の冷たいコートの袖が、青年の腕に微かに触れる。同時に、あやのうなじから意図的に分泌された高濃度の『バニラ・クロノス』のフェロモンが、青年の鼻腔へと直接流れ込んだ。


「……っ!?」

 青年が、ビクンと肩を跳ねさせた。

 殺意と狂気で極限まで張り詰めていた彼の脳神経が、強烈なバニラの甘さに一瞬だけショートを起こしたのだ。彼が振り向くと、そこには雨に濡れた、この世のものとは思えないほど美しい東洋の少女が、すがるような瞳で彼を見上げていた。


「ごめんなさい……人が、多くて……」

 あやは、小鳥のさえずりのように甘く、震える声で囁いた。

 青年の瞳孔が開いた。彼の頭の中にあった「金髪の女優」の幻影が、目の前の圧倒的な「尤物」の存在感によって、ノイズのように掻き乱される。

「あ、いや……大丈夫、だよ……」

 青年は、コートのポケットの中でリボルバーのグリップを握りしめたまま、あやのバニラの匂いに陶酔し、顔をだらしなく歪めた。

 ――チェックメイト。

 あやは、青年の視線と意識のコンマ数秒を、完全に支配した。

 彼が今、最も無防備になる瞬間。そのわずかな「ズレ」が、数分後の歴史の弾道を決定的に狂わせることになる。


【一四時二六分三〇秒 暗殺決行まで残り三十秒】


大統領プレジデントだ!」

 群衆の中から声が上がった。

 ホテルのVIP出口のガラス扉が開き、十数人のシークレット・サービスに囲まれるようにして、初老の権力者が姿を現した。フラッシュの閃光が、昼間の雨空を白く染め上げる。歓声と拍手。

 権力者は笑顔で手を振りながら、わずか五メートル先に停車している防弾リムジンへと歩みを進めた。


その瞬間、あやの隣にいた青年の全身から、再びどす黒い殺意が爆発した。

 青年の右手がポケットから引き抜かれる。鈍い銀色に光る、二二口径リボルバー。


【一四時二七分〇〇秒】


「ジョディィィィィィッ!!」

 青年が絶叫と共に、銃口を権力者の胸へと向けた。

 シークレット・サービスたちが異変に気づき、「ガン(銃)だ!」と叫んで飛び出そうとする。しかし、遅い。青年の指はすでにトリガーを引き絞っていた。

 歴史が、破滅へと分岐しようとするその一・七秒間。

 あやだけが、スローモーションのように引き伸ばされた時空の中で動いた。


彼女は、悲鳴を上げて逃げ惑う一般人を装いながら、青年の死角――右斜め下方から、その華奢な身体を滑り込ませた。

 右手のひらには、コートの袖口から抜き放った、目視不可能なほど極細の『チタン・ワイヤー』。


パンッ! パンッ!

 一発目と二発目の銃弾が発射された。弾丸は権力者の頭部を逸れ、報道官の頭部と、警官の背中に命中し、鮮血が雨の中に飛び散る。


三発目が発射される直前。

 あやは、恐怖に顔を歪める「か弱い少女」の完璧な仮面を貼り付けたまま、チタン・ワイヤーを隠し持った右手のひらを、青年の銃を握る右腕の「尺骨神経(肘の裏の急所)」へと、下から優しく添えるように押し当てた。

 そして、バニラの匂いと共に、信じられないほどの力で、見えないワイヤーを青年の筋肉の奥底へと食い込ませた。


「……ッッ!?」

 声にならない激痛が青年の右腕を走り、彼の腕の筋肉が痙攣を起こして不自然に上へと跳ね上がった。


パンッ! パンッ! パンッ! パンッ!

 狂い咲くように連続して発射された残りの四発。

 本来ならば権力者の心臓を正確に貫くはずだった致命の弾丸は、あやの「見えない一撫で」によってわずかに数ミリ、その発射角を狂わされた。

 弾丸は権力者の胸を逸れ、リムジンの防弾ガラスに命中。そして、その『跳弾』が、権力者の左脇の下から肺へと食い込んだ。

 致命傷ではない。権力者はシークレット・サービスによって激しくリムジンの中へと押し込まれ、車は轟音と共に病院へと走り去った。


「う、あ、あああぁぁぁっ!」

 右腕の神経を断たれた青年が、銃を落とし、その場にうずくまる。直後、怒り狂った数人の警護官と群衆が彼の上にのしかかり、アスファルトに顔面を叩きつけた。


怒号、悲鳴、サイレンの音。そして、雨と血の匂い。

 極度のパニック状態に陥った現場のど真ん中で。

 あやは、突き飛ばされた群衆のふりをして地面に這いつくばったまま、誰にも見られることなく、冷たく、そして酷く妖艶な笑みを浮かべていた。


『ミッション・コンプリート。歴史の保護に成功。対象者の生存を確定』

 網膜に浮かび上がるシステム音声。

 暗殺は未遂に終わった。歴史は守られ、あやは自らの手で、世界を破滅から救ったのだ。


あやは、混乱する群衆に紛れるようにして、ゆっくりとその場から立ち去った。

 誰も、あの美しい東洋の少女が、歴史の弾道をねじ曲げた真犯人だとは気づかない。彼らの記憶に残るのは、ただ一瞬だけ嗅いだ、狂おしいほどに甘いバニラの匂いだけだ。


ホテルの裏路地に戻ったあやは、雨を避けるようにして、暗がりへと身を隠した。

 ドクン、ドクンと、心臓が異常な早鐘を打っている。

 彼女は、ゆっくりと自分の右手のひらを顔の前にかざした。


青年の腕の神経を斬り裂いた時に飛び散った、生暖かい血。

 それが、彼女の真っ白な手のひらに、べったりとこびりついている。

 五年間の仮想現実(VR)での訓練ではない。これは、本物の血だ。歴史を狂わせた人間の、他者の命の感触だ。


「……あ、は……」

 あやの口から、引き攣ったような、渇いた笑い声が漏れた。

 怖いのではない。悲しいのでもない。

 ただ、自分の手のひらから漂う「鉄と血の臭い」を、自分自身の身体からとめどなく溢れ出る「バニラの甘い匂い」が、跡形もなく包み込み、隠蔽していくその事実に、彼女は背筋が凍るほどの『全能感』を覚えていた。


血の匂いを、バニラで上書きする。

 罪悪感を、虚飾の美しさで塗り潰す。

 私は、最強の毒花になったのだ。


あやは、血に濡れた自分の手のひらを、まるでいとおしい恋人の頬に触れるように、そっと自身の唇に押し当てた。

 冷たい春の雨が、彼女の顔を濡らしていく。

 その顔は、十五歳の少女の面影を完全に失った、男の運命を喰い殺す『尤物ファム・ファタール』の、美しくも恐ろしい産声の表情だった。


――こうして、彼女は過去の次元における「最初の血」を味わった。

 一万クレジット。あと二九九九万クレジット。

 時空を超えて歴史の影で暗躍する、甘いバニラの匂いを纏った死神。

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