第4章:甘い毒(バニラ)の洗礼
過去へ遡行するということ。それは物理的な移動ではない。
肉体という確固たる物質を、情報という極小の素粒子レベルまで一旦完全に解体し、過去の次元座標に向けて照射する。そして、狂い咲くような時空の濁流の中で、再び寸分違わぬ「人間の形」へと再構築する。
それは神の領域への侵犯であり、時間という絶対的な概念による、細胞一つ一つへの容赦のない蹂躙だった。
特務機関の最深部、『時空降下室』。
無機質な白銀の壁に囲まれたその円筒形の部屋の中央で、あやは全裸のまま、冷ややかな透明の拘束衣に包まれ、宙に浮くように固定されていた。
五年間の虚飾のカリキュラムを生き抜き、極上の尤物として完成された彼女の肉体は、ただそこにあるだけで、周囲の空気を狂わせるほどの完成された美を放っていた。雪のように白い肌、滑らかにうねる腰の曲線、そして、感情を完全に凍結させた涼しげな双眸。
だが、その完璧な器を過去へ送り届けるためには、一つだけ決定的な要素が欠けていた。
時空の摩擦――次元の壁を突き破る際に発生する、肉体を焼き尽くすほどの「時間的放射線」から、脳髄と臓器を保護するための生体被膜。
それこそが、生存率十二パーセントと呼ばれる『時空猟犬』たちの運命を分ける劇薬。
『時間同調剤』、通称――『バニラ』。
防護服を着た白衣の教官が、あやの傍らに歩み寄る。その手には、重厚な金属製のシリンダーが握られていた。
シリンダーの中には、粘気を帯びた琥珀色の液体が、生き物のように妖しく蠢いている。
「これが、お前の血となり、肉となり、そして『匂い』となる」
教官の言葉と共に、拘束衣の背中部分から、鋭く長い何十本ものチタン製の針が伸びた。
「投与、開始」
無機質な機械音と共に、針が束になってあやの脊髄、頸動脈、そして子宮の裏側の神経叢へと一斉に突き立てられた。
「――ッ……!」
声にならない絶叫が、あやの喉の奥で弾けた。
琥珀色の粘液が、圧倒的な圧力で彼女の血管内へと注入されていく。それは、炎を直接血管に流し込まれたかのような、凄絶な激痛だった。
しかし、その痛みは次の瞬間、これまで彼女がVRの仮想現実で経験したどんな快楽をも凌駕する、暴力的なまでの『官能』へと反転した。
バニラ・クロノス。
それは単なる薬品ではない。未来のテクノロジーが、過去の次元と同調するために生み出した「量子的な発情剤」だった。
薬液が脳髄に達した瞬間、あやの全身の神経回路がショートし、すべての毛細血管が限界まで拡張する。
彼女の華奢な背中が、弓のように大きく反り返った。透明な拘束衣の中で、真珠のような汗がとめどなく噴き出し、雪白の肌が、内側から燃え上がるような鮮烈な薄紅に染まっていく。
熱い。身体の奥底が、胎内が、脳髄が、ドロドロに溶けていく。
時空の壁を越えるための薬液は、あやの細胞の塩基配列を強制的に書き換え、彼女の肉体を「時間そのもの」と交わらせていた。
男に抱かれるのとは次元が違う。これは、数百年という歴史の重圧そのものに、己の存在のすべてを犯され、髄の底まで作り変えられるという、宇宙的で、恐ろしくエロティックな蹂躙だった。
「あ……ぁっ……、はぁっ……!」
凍りついていたはずのあやの桜色の唇から、理性を完全に失った、甘く、艶めかしい嬌声が漏れ続けた。涼しげだった瞳は限界まで見開き、焦点の合わない目で虚空を見つめながら、とめどない生理的な涙を流している。
つま先から頭頂まで、細胞の一つ一つが歓喜と苦痛に打ち震え、自らが「人間」という個体から、過去と未来を繋ぐ「概念」へと変態していくのを感じていた。
そして、その凄絶な生体変化の果てに、奇跡は起きた。
致死率八十八パーセントの激痛と快楽の波を乗り越え、あやの心拍数が徐々に安定し始めた時。
密閉された無菌室の中に、ありえない『匂い』が漂い始めたのだ。
それは、酷く甘く、脳の奥底を直接撫で回すような、むせ返るほどの芳香だった。
純度の高いバニラエッセンスに、わずかな鉄の錆(血の匂い)と、熱を持った女の体臭を混ぜ合わせたような、この世のものとは思えない香り。
匂いの発生源は、あやだった。
彼女の全身の毛穴から滲み出す汗、吐き出す熱い息、そして、彼女の存在そのものから、その圧倒的なバニラの香りがとめどなく放たれていた。
バニラ・クロノスが、あやの特異な遺伝子と完全に融合した証だった。
時空の摩擦による「量子的な焦げ臭さ」は、人間の脳(嗅覚)では正しく処理することができず、自己防衛本能として、それを極限まで甘い「バニラの匂い」として誤認する。
つまり、この強烈なバニラの体臭は、あやが「未来から来た異次元の存在」であることの、強烈な放射線そのものなのだ。
拘束が解かれ、あやは冷たい床の上に崩れ落ちた。
荒い息を吐きながら、彼女は自分自身の腕の匂いを嗅いだ。
……甘い。狂おしいほどに甘く、そして、どこまでも深く、暗い匂い。
五年間の虚飾のカリキュラムで手に入れた「完璧な女の振る舞い」。
それに加えて、今、彼女の肉体は、自らの意思とは無関係に、周囲の空間そのものを甘く発情させる「究極の媚薬」を放つ装置へと変貌を遂げたのだ。
「……素晴らしい適合率だ」
モニター越しに観察していた教官が、その甘い匂いに微かに当てられたような、陶酔を含んだ声で呟いた。
「過去の時代の男たちは、お前が近づくだけで、その匂いに脳髄を溶かされるだろう。それは理性の壁を通り抜け、直接、男たちの『破滅願望』に語りかける毒だ」
あやは、床にうつ伏せたまま、濡れた髪の隙間から教官を、いや、カメラのレンズを涼しげに見つめ返した。
全身を犯されたような虚脱感と、それに相反する圧倒的な全能感が、彼女の体内で渦を巻いていた。
この匂いがあれば。
私がひとたび微笑み、この甘い吐息を吹きかければ、どんな屈強な男であろうと、どんなに賢い男であろうと、一瞬で私という底なし沼に引きずり込むことができる。
相手がその匂いの異常さに気づいた時には、もう遅いのだ。彼らはバニラの甘さに溺れ、私の腕の中で、喜んで自らの命を、人生を、そして歴史を差し出すだろう。
あやはゆっくりと立ち上がり、自身の裸体を抱きしめるようにして、妖しく、そして途方もなく美しく微笑んだ。
彼女が纏ったこの『甘い毒』。
それは、妹の命を救うための三千万クレジットを手に入れるための、最強の武器。
そして。
後に、二十一世紀の新宿で出会うことになる、油と鉄の匂いに塗れた一人の不器用な職人――サトルの、空っぽになった左手のひらと心に、永遠に消えない幻肢痛としてこびりつくことになる、致命的な呪いの薫香。
歴史という名の巨大なキャンバスに、極上の尤物という名の「染み」が、甘い匂いと共に、今まさに零れ落ちようとしていた。




