第10章:バニラの絶唱と、未来を撃ち抜く最後の恋
朝焼けの路地をサトルが去ってから、わずか十分。
私は印刷工場のシャッターを半開きのままにし、足元の「本物の金型」を両手で抱え込んだまま、冷たいコンクリート床に腰を下ろしていた。
生体コンソールが青白く明滅し、周囲の熱源反応をリアルタイムで解析している。空間歪曲率はすでに臨界点に達していた。未来の『機構』は、容赦なく総攻撃を仕掛けてくる。 甘いバニラの残り香が、まだ私の肌にまとわりついている。
サトルの体温が、唇に残る塩の味が、胸の奥で熱く疼いていた。 (……バカ。おじさん、絶対に死ぬなよ) 私は小さく微笑んだ。
計算も、ミッションも、一億クレジットも、もうどうでもよかった。ただ、この不器用な職人のために、妹(美羽)のために、そしてこの時代で初めて感じた「本物の恋」のために、私はここに残った。
空気がビリビリと震えた。 オゾンの焼ける臭いが一気に工場内に充満し、空間が裂けた。重装甲の未来型クリーナーたちが、次々と実体化する。十体、二十体……いや、五十体を超えている。
全身を覆う黒いエクソスケルトンに、青白く輝く時空安定フィールド。手に握られたのは、電磁加速ライフルと、時空を直接切り裂く「クロノ・ブレード」。
リーダーのクリーナーが、無機質な合成音声で告げた。『対象確認。金型回収優先。副対象——あや・コードネーム「ヴァニラ・ゴースト」——即時抹殺せよ。追加指令:対象の妹およびサトル・ターゲットを人質化完了。抵抗した場合、両名を歴史から完全に消去する』 その瞬間、私の視界にホログラムが展開された。
美羽——二一七〇年の病室で、酸素マスクを付け、弱々しく微笑むあの小さな体——が、青白い光の檻に閉じ込められていた。さらにその横に、血まみれのサトルが、幻影のように跪いている。未来の『機構』は、時空を折り畳み、サトルがお台場に向かう直前の「並行瞬間」を捕らえ、妹を過去に引きずり下ろしたのだ。狂気じみた人質作戦。
「美羽……サトル……!」
私の声が震えた。計算を超えた、純粋な恐怖と怒りが、胸の奥で爆発した。
クリーナーたちが一斉に銃口を向ける。 私はチタンワイヤーを取り出し、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。「来なさい。未来の亡霊ども。……この金型も、あの男の命も、美羽の未来も、全部、私のものよ」
戦いは、瞬時に地獄と化した。 最初の波が来た。電磁加速弾が雨のように降り注ぐ。私はドレスの裾から「重力制御デバイス」を全出力で解放した。空気が歪み、弾丸の軌道がねじ曲がり、天井に激突して爆発する。次に、クリーナーたちがクロノ・ブレードを振り上げて突進。時空を切り裂く刃が、私の首筋を掠める。
私は床を蹴り、旋盤の影に滑り込んだ。バニラの香りを最大濃度で噴出させた。甘い霧が工場内に爆発的に広がる。クリーナーたちの視界が一瞬、白く染まる。私の能力——「ヴァニラ・イリュージョン」。
未来のテクノロジーすら麻痺させる、魂を溶かす甘い幻覚。 十体のクリーナーが同時に幻影を見た。自分たちの過去の死体、家族の亡霊、消えた時間軸の自分自身。動揺した隙に、私はワイヤーを繰り返しエリア一面を紡ぎ、一体の頭部を粉砕した。
エクソスケルトンが火花を散らし、時空フィールドが崩壊する。 だが、『機構』は予測していた。 リーダーが命令を下すと、クリーナーたちの胸部から「反バニラ・ノイズ・エミッター」が展開された。
私の香りを逆解析した、超高周波の白いノイズが工場全体を埋め尽くす。甘いバニラが、苦い金属の味に反転する。私の頭蓋骨が割れるような痛み。幻影が逆流し、私自身の過去——親の夜逃げ、妹との別れ、路地裏での絶望——がフラッシュバックする。
「ぐっ……!」
膝が崩れかけた瞬間、妹のホログラムが叫んだ。
『お姉ちゃん……助けて……もう、息が……』
すぐさま、サトルの幻影も、血を吐きながら囁く。
『あや……俺は……お前を……信じてた……』
・・・これは、心理攻撃。完璧すぎる人質作戦。
私は歯を食いしばり、金型を胸に抱きしめた。指先が熱い。失われたサトルの「幻肢痛」を、まるで共有しているかのように。 ここで、反撃を仕掛けた。
私は金型を床に叩きつけ、生体インプラントを最大出力で同期させた。
「歪んだ真円」——サトルが作り上げた有機的な揺らぎを、未来技術で強制共振させる。工場全体の空間が、局所的に折り畳まれた。
重力場がねじれ、クリーナーたちの体が浮き上がり、互いに衝突する。壁が波打ち、天井が溶けるように歪む。バニラの霧が、時空の歪みの中で虹色に輝き、クリーナーたちの視界を永遠の甘い地獄に変える。
二十体が同時に崩壊した。肉体が次元の隙間に吸い込まれ、悲鳴も残さず消滅。 しかし、『機構』はまだ終わらない。
最後の波——「タイム・ハウンド・スウォーム」。
五十体の小型ドローンが、時空を滑るように出現。
美羽とサトルの人質ホログラムが、現実味を増す。
妹の酸素マスクが外れ、サトルの首にナイフが突きつけられる幻影。
私は金型を両手で掲げ、叫んだ。「もう、十分よ……!」
「ヴァニラ・エクスプロージョン」。私の体内の全バニラを、血と魂ごと霧化させる自爆させる。甘い香りが爆発的に膨張し、工場全体を包む。
時間軸が一瞬、停止する。クリーナーたちは動けず、妹とサトルの人質ホログラムが砕け散る。 私は金型を胸に抱き、微笑んだ。
(おじさん……美羽……ごめんね。でも、私は……) 体が粒子化していく。
バニラの霧となって、時空の彼方へ溶けていく。
未来の『機構』は、私を抹殺したと判断するだろう。だが、私は死なない。金型とともに、別の時間軸へスライドする。
最後の奇跡を、サトルに託すために。 工場は、爆音と閃光に包まれた。
すべてが、静寂に包まれた瞬間——
「……着いたぞ」 車が、松崎の印刷工場の前に停まり。
シャッターは、数時間前にサトルとあやが飛び出した時のまま、半開きになっていた。
あやがいる。そう思ってシャッターの下をくぐり抜けたサトルの足が、工場の床を踏みしめた瞬間、ピタリと止まった。
――異常だ。 三十年間、鉄を削ることで培ってきたサトルの五感が、空間の異様な歪みを察知した。 インクと有機溶剤の臭いが消え失せている。
代わりに充満しているのは、鼻腔を焼くような強烈な硝煙の臭いと、むせ返るような鉄錆――大量の血の匂いだった。
特務機関の男たちが、無言で拳銃を構えながら工場内へと展開していく。サトルは結衣を背に庇いながら、ゆっくりと仮眠室の方へ歩みを進めた。
「なんだ、これは……」 サトルの口から、呆然とした声が漏れた。
輪転機はひしゃげ、コンクリートの壁には無数の弾痕が穿たれていた。
巨大な刃物で一刀両断されたかのように、太い鉄骨が斜めに切断されて崩れ落ちている。
ほんの数時間前まで、自分とあやが身を潜めていた場所で、想像を絶する規模の「戦闘」が行われたことは明白だった。火器の痕跡だけではない。人間の理解を超えた、物理法則を無視したような破壊の爪痕が、そこかしこに刻み込まれている。
しかし、最も異様だったのは「死体」が一つもないことだった。 あれだけの血痕が床にぶち撒かれ、肉片らしきものが壁にこびりついているというのに、死体はおろか、負傷者の一人すら残されていない。
まるで、この空間で死んだ者たち全員が、文字通り「次元の彼方へ消し飛ばされた」かのように。
「あや……! あや、どこだッ!」
サトルはパニックに陥り、仮眠室へと飛び込んだ。
そこで彼が見たのは、無残に引き裂かれ、血の海の中にぽつんと残された「あやの安物のドレス」だった。
「……ッ!!」
サトルは膝から崩れ落ち、血に塗れたその布切れを拾い上げた。
ひどく冷たかった。だが、布の繊維の奥からは、あの強烈で甘いバニラの匂いが、呪いのように立ち昇ってくる。
「おい、生存者がいるぞ」 特務機関の部下が、工場の奥の段ボールの山から一人の男を引きずり出してきた。
工場の主、松崎だった。彼は無傷のまま、いびきをかいて眠りこけていた。
「松崎! おい、何があった! あやはどうした!」
サトルが胸ぐらを掴んで揺さぶると、松崎は寝ぼけ眼をこすりながら、間抜けな声を出した。
「……あ? サトルか……? なんだ、パチンコから帰ってきたら、急にすげぇ甘え匂いがしてよ……頭がクラクラして、気づいたら寝ちまってて……」
黒コートの男が、舌打ちをした。
「……やられたな。野良猫だと思っていた女が、まさか我々の監視網すら欺く『本物の化け物』だったとは」
男は周囲の破壊痕を見渡し、忌々しそうに吐き捨てた。
「金型は、あの女が持ち去った。おそらく、この惨状もあの女が一人で、あるいは彼女の属する『未知の組織』が引き起こしたものだ。我々は、とんでもない思い違いをしていたらしい」
黒コートの男の言葉は、サトルの耳には届いていなかった。
『帰ってきて。私、おじさんのこと待ってるから』
朝焼けの路地裏で、自分に背伸びをしてキスをしてきた、あの純真な顔。 あやは、死んだのか。
それとも、すべては俺を騙すための芝居で、最初から金型を持って消えるつもりだったのか。 血まみれのドレスを握りしめるサトルの左手――失われた四本の指が、行き場のない激しい幻肢痛を訴えていた。
あやは、死んだのか。それとも、どこかの空の下で、あの小悪魔のような顔で笑っているのか。 特務機関ですら正体を掴めなかったあの女は、一体何者だったのか。
恋もまともに知らなかった実直な職人の心は、結衣という絶対的な「安息」を手に入れてなお、あの血と泥に塗れた数日間の「狂気」に、魂の半分を奪われたままだった。
サトルは夢を見た。
そこは、見渡す限りの無機質な、冷たい金属の壁に囲まれた空間だった。 見たこともないような幾何学模様の光が明滅する、巨大な円柱の部屋。
その中央に、女が繋がれていた。
両手首を青白い光のリングで拘束され、宙に吊るされている。 いつも纏っていた安物のドレスは引き裂かれ、傷だらけになった白い肌が露わになっていた。
黒い長髪が、力なく垂れ下がっている。
『……あや!』
夢の中で、サトルは叫ぼうとしたが、声が出なかった。
体も動かない。
うなだれていたあやが、ゆっくりと顔を上げた。
あの、人を小馬鹿にしたような、擦れた強気な顔はない。
その頬には一筋の涙が伝い、怯えきった、ただの脆い少女の顔があった。
あやの唇が、震えながら動く。
声は聞こえない。
だが、サトルの五感は、彼女の口の動きを正確に読み取っていた。
『――おじさん……助けて……』
(第二作『幻影』・完)
*そしてすべてが最終作『幻世』へと続く……
幻影 -Vanilla & Rust- (feat. DJあや) ☞ https://linkco.re/f7nzc0UT
「時空を超えた殺意は、やがて絶対の愛へとバグを起こす。」
サイバー・ノワール小説『幻影』&『幻指』筆者による公式イメージソング、2視点同時リリース!
油と鉄に塗れたアナログ職人・サトルを描き、ノワール界を震撼させた第一作『幻指』
https://ncode.syosetu.com/n4627lu/1
そして、彼を狙う未来の暗殺者・あやの過酷な生い立ちと反逆を描く第二作『幻影』
この2つの時空が交差する「新宿での逃避行」と「足立区での生存の交わり」を、男女それぞれの視点から歌い上げる究極のツイン・ロックアンセムが誕生しました。
序盤の静かで儚いJ-Popバラードから一転、サビで一気に時空の壁を突き破るような超絶ロックへと変貌。間奏では、冷徹な暗殺者から一人の女へと堕ちたあやの悲痛なシャウトと、すべてを犠牲にして彼女を守るサトルの魂の叫びが轟きます。
嘘とバニラの匂いで始まった関係が、鉄の金型と本物の涙によって「真実」へと変わる瞬間を、音楽で体感してください。
幻影 -Rust & Vanilla- (feat. サトル) ☞ https://linkco.re/YTUB0D7x




