第1章:肉の底辺と、電子の空
空は、とうの昔に死んでいた。
西暦二一七〇年。旧東京湾の跡地に広がる巨大なスラム『廃棄区』の空を覆っているのは、青空でも星月夜でもなく、永遠に淀み続ける鉛色の重金属雲だった。
そこから絶え間なく降り注ぐのは、皮膚を焼き、鉄を腐らせる酸性雨。大気は常に硫黄とオゾン、そして何百万という人間が発する排泄物と腐肉の臭いで満たされている。
だが、その死んだ空の遥か上空――雲を突き抜けた成層圏には、眩いばかりの純白の光を放つ巨大な浮遊構造物群が存在していた。
『天上都市』。
人類の九九パーセントを占める富裕層たちが、老いも病も苦痛もない「完全なデータ」として永遠の幻影を貪る、電子の天国である。
そこには飢えもなければ、酸の雨も降らない。ただ、完璧にプログラムされた快楽と平穏だけが、巨大なサーバー群の冷却音と共に永遠にループし続けている。
そして、その天国のサーバーを物理的に維持し、莫大な電力を供給するために、地上の泥沼を這いずり回っているのが、データ化する権利を持たない「肉体の残党」たちだった。
「……チッ、また雨が強くなってきた」
崩れかけたコンクリートの残骸の陰で、一人の少女が舌打ちをした。
あや。十五歳。
泥と油で汚れた灰色のオーバーオールに、サイズの合わない安全靴。肩まで伸びた髪は酸性雨のせいでパサパサに痛み、その顔には十五歳という年齢にそぐわない、冷酷で乾ききった野生の光が宿っていた。
彼女の細い手には、先端を鋭く削った鉄パイプが握られている。
あやの視線の先には、先ほど墜落したばかりの天上都市からの廃棄ドローンが、火花を散らして転がっていた。ドローンのコア・バッテリーは、スラムの闇市に持ち込めば一ヶ月分の食料と水に化ける。
だが、獲物を狙っているのはあやだけではなかった。
ドローンの反対側の瓦礫から、全身の半分を粗悪なサイバネティクス(機械化)に改造した大男が、涎を垂らしながら歩み出てきた。男はあやの姿を認めると、醜く歪んだ金属の顎をガチャガチャと鳴らした。
「おいクソガキ。それは俺の獲物だ。置いて失せろ。でなきゃ、その細い手足をモいで、慰み者にしてから裏通りに売り飛ばすぞ」
男が右腕に仕込まれたチェーンブレードを回転させる。鼓膜を劈くような駆動音が、雨音を掻き消した。
普通の十五歳の少女なら、悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
だが、あやは表情一つ変えなかった。涼しい、というよりは、すでに感情の奥底が完全に凍りついているような、無機質な眼光。
「……アンタみたいな『ジャンク上がり』が、一番動きが鈍いのよ。脳みそまで錆びてるんじゃない?」
「ナメやがってェッ!」
男が咆哮と共に、水溜りを蹴り上げて突進してくる。チェーンブレードがあやの頭上から振り下ろされた。
あやは動かなかった。刃が脳天を叩き割る直前――彼女はゴキリと関節を外すような異常な柔軟性で上体を逸らし、男の懐へと滑り込んだ。
それと同時。あやは男の足元、酸性雨が溜まった深い水溜りの中に、あらかじめ仕掛けておいた「むき出しの高圧ケーブル(ドローンから千切れたもの)」を、鉄パイプの先端で蹴り落とした。
「ガ、ギィィィィィィッ!?」
水溜りを通じて、致死量の高圧電流が男の粗悪なサイバネティクスを直撃する。
青白いスパークが男の全身を包み込み、機械のパーツから黒煙が噴き上がった。男は白目を剥き、痙攣しながら泥水の中へどうと倒れ込んだ。肉が焦げる嫌な臭いが辺りに漂う。
あやは、ピクピクと動く男の顔面を安全靴で冷酷に踏みつけると、その首筋に刺さっていた生体認証チップを鉄パイプの先端で抉り出した。
「慰み者にするんでしょ? 口だけじゃない」
吐き捨てるように言い放ち、あやは墜落したドローンからコア・バッテリーを乱暴にもぎ取った。
血と油と泥に塗れた十五歳。これが、この泥沼の底辺で「肉体」を持ったまま生き抜くということだ。弱者は強者に喰われ、隙を見せた者は一瞬でゴミ山の一部となる。
あやは血に染まった手を雨水で洗い流すと、バッテリーを麻袋に放り込み、足早に闇市へと向かった。
彼女には、なんとしてでも、どんなに手を汚してでも、日銭を稼がなければならない理由があった。
***
迷路のように入り組んだスラムの最下層。
あやが「家」と呼んでいるのは、廃棄された地下鉄の車両を改造した、雨風を凌ぐだけの狭いコンテナだった。
重い鉄の扉を開けると、ツンとする消毒液の臭いと、酷く湿った空気が鼻を突く。
「……お姉、ちゃん……?」
暗がりの中から、弱々しい声が響いた。
車両の奥、薄汚れたマットレスの上に、毛布にくるまった小さな影があった。あやの七つ下の妹、美羽だった。
あやは扉を閉め、厳重にロックをかけると、外での冷酷な眼差しを嘘のように消し去り、急いでマットレスに駆け寄った。
「美羽、起きてたの。ごめんね、遅くなって。これ、今日の分の水と、薬」
あやは闇市でバッテリーと引き換えてきた、濁った精製水と、一粒の赤いカプセル剤を妹の口元に運んだ。
美羽の体は、恐ろしいほどの高熱を発していた。彼女の細い首筋から鎖骨にかけて、黒い染みのようなものが広がっている。スラムの有毒な大気と酸性雨によって肺と皮膚が内側から腐っていく不治の病、『錆肺』だった。
「ケホッ……ゲホッ……お姉ちゃん、手、冷たいね……」
薬を飲み下した美羽が、あやの泥だらけの手に、自分の小さな手を重ねた。美羽の手は熱く、そしてひどく痩せ細っていた。
「……雨に濡れただけよ。すぐに温かくなる」
あやは作り笑いを浮かべ、妹の頭を優しく撫でた。
親の顔は知らない。物心ついた時から、この腐った街で二人きりだった。あやにとって、この体温だけが、この狂った世界に残された唯一の「生きた証」だった。
「ねえ、お姉ちゃん」
美羽が、荒い息を吐きながら、コンテナの天井――その向こうにある見えない空を指差した。
「『クラウド』って、本当に痛くないの? 息、苦しくないの?」
「……ええ、そうよ。クラウドはね、いつもお日様が出てて、お花がいっぱい咲いてて、走っても全然息が切れないの。お腹も空かないし、嫌な雨も降らない。ずっと、ずっと幸せな夢を見ていられる場所よ」
「そっか……。私、そこに行きたいな。お姉ちゃんと、一緒に……」
美羽の瞳が、少しずつ虚ろになっていく。薬が効いてきたのだ。
あやは、妹が完全に眠りに落ちるまで、その手を強く握りしめていた。美羽の寝顔を見つめながら、あやの心臓が、ギリギリと音を立てて軋む。
――美羽の命は、持ってあと半年。
闇市のモグリの医者は、そう宣告した。
美羽を救う唯一の方法。それは、彼女の肉体が完全に腐り落ちる前に、脳のデータだけをスキャンし、上空の『天上都市』へアップロードすること。
つまり、「電子の空」への片道切符を買うことだった。
しかし、スラムの底辺に生きる「肉体残党」がデータ化の権利を得るためには、国営の特務機関に莫大な上納金を支払わなければならない。
その額、三千万クレジット。
今日、あやが命懸けでジャンク野郎を殺しかけ、ドローンのバッテリーを売って得た金は、たったの五十クレジット。薬代と水代で消え去る端金だ。
ゴミを拾い、他人の血を啜って生きたところで、百年経っても届かない天文学的な数字。
「……絶対に、行かせてあげる」
あやは、眠る妹の額に唇を落とすと、そっと立ち上がった。
システムは最初から狂っている。真面目に働いて命を救えるような世界ではない。この腐った肉の底辺から妹を電子の空へ打ち上げるためには、自分自身が「この世界で最も忌み嫌われる怪物」になるしかなかった。
あやはコンテナの隅に置かれた、ひび割れた旧式の情報端末を起動した。
ホログラムの青白い光が、あやの顔を不気味に照らし出す。彼女が開いたのは、スラムの裏回線にのみ流れてくる、特務機関からの『極秘求人データ』だった。
『特務時空機関――時空猟犬候補生募集』
『条件:肉体年齢二十歳以下。生体耐性適格者。身寄りなき者』
『任務:過去次元への潜入、および歴史保護(ターゲットの暗殺・回収)』
『生還率:12%』
『報酬(正規エージェント昇格時):天上都市へのアップロード権限、および三千万クレジットの支給』
生還率十二パーセント。十人中九人が、時空の摩擦に耐えきれずに意識を砕かれて死ぬか、過去の時代で野垂れ死ぬ「国営の自殺部隊」。それが、時空猟犬だ。
富裕層のデータ貴族たちは、自分たちの完璧なシステムを維持し、過去の歴史が改ざんされるのを防ぐために、決して自分たちは手を汚さない。彼らは、命の価値がゴミ以下のスラムの子供たちを使い捨ての「猟犬」として過去へ送り込んでいるのだ。
あやは、端末の光を見つめたまま、足元に転がっていた錆びたナイフを拾い上げた。
そして、自分の肩まで伸びていた髪を束ねると、根元から躊躇うことなく一気に切り裂いた。
ジョリ、と鈍い音がして、汚れた髪の束が床に落ちる。
鏡はない。だが、端末のモニターに映るショートヘアになった自分の輪郭は、もはや十五歳の少女のものではなかった。
感情を殺し、女という性を武器にし、他人の命を奪うことを何とも思わない「猟犬」。
三千万クレジットという血塗られた金のためなら、誰の股でも開き、誰の首でも掻き切る。
「……待ってて、美羽」
あやは、端末の『志願承諾』のキーを、血のついた指で力強く押し込んだ。
この日から、あやという一人の少女は死んだ。
後に時空を超え、二十一世紀の新宿で、指のない一人の職人の運命を、そして歴史そのものを狂わせることになる、最も美しく、最も冷酷な女スパイの「虚構の人生」が、泥と酸性雨の底辺で静かに産声を上げた。




