ありふれた未来を
夕方のスーパーで、かごを片手に立ち尽くしていると、
天井の白い光がやけに冷たく感じる。
味噌と豆腐と、安い鶏むね肉。
それだけあれば、夜は足りるはずだった。
足りる、はずだった。
隣にいた人は、そういう光景を見ながら、
いつも少し笑っていた。
贅沢なんていらないよ、と言いながら、
値引きシールを探す私の手元を覗き込んで、
「これで十分だよ」と、どこか遠くを見る目で言った。
十分。
その言葉は便利だった。
夢を削る音が、聞こえなくなるから。
小さな部屋に帰ると、
流し台の蛇口から落ちる水の音が響く。
二人で並ぶには少し狭いキッチン。
肩が触れるたびに、笑っていた頃もあった。
でも最近は、触れないように立つことが増えた。
無意識に距離を測る。
言葉にしない約束みたいに。
「普通でいいんだよ」
と、その人は何度も言った。
温かいご飯があって、屋根があって、誰かが隣にいれば。
それ以上を望むから苦しくなるんだ、と。
私はうなずく。
うなずきながら、胸の奥がざらつく。
温かいご飯はある。
屋根もある。
隣にも、確かに誰かがいる。
なのに、どこか欠けている。
夜、電気を消したあと、天井を見つめながら考える。
自分たちは何を欲しがっているのだろう。
大金でも、豪邸でも、拍手でもない。
ただ、安心して息ができる場所。
明日も同じように笑えるという、根拠のない確信。
それは贅沢だろうか。
隣の寝息が、規則正しく聞こえる。
そのリズムに合わせて呼吸しようとするけれど、
うまくいかない。
ずれている。
少しだけ、でも確実に。
ある日、洗濯物を干しながら、その人は言った。
「こんなもんだよ」と。
風に揺れるシャツの影が、
ベランダの床を行ったり来たりする。
その影を見ながら、私は思う。
こんなもん、とは何だろう。
誰が決めた「こんなもん」なのだろう。
夢を語らなくなったのは、いつからだろう。
旅行に行きたいとか、海を見たいとか、
くだらない未来の話をしなくなったのは。
代わりに増えたのは、現実的な話。
家賃、光熱費、仕事の愚痴。
確かに必要なこと。
けれど、それだけで世界を埋め尽くしていいのだろうか。
私は、特別な何かが欲しかったわけじゃない。
ただ、当たり前に続いていく日々を信じたかっただけだ。
何も起きなくても、壊れないと信じられる毎日を。
でもそれは、思っていたよりずっと難しい。
「求めすぎなんだよ」と、その人は静かに言う。
目は優しい。
だからこそ、残酷だった。
求めすぎ。
そうなのかもしれない。
けれど、求めることをやめた瞬間に、
何かが終わる気もした。
ある晩、食卓で向かい合いながら、私は箸を置いた。
湯気の立つ味噌汁の向こうで、その人が顔を上げる。
何も特別な話はしていない。
いつも通りの、ありふれた夜。
それでも、胸の奥で小さな音がした。
ひびが入るような、静かな音。
私はようやく気づく。
欲しかったのは、派手な未来じゃない。
ただ、二人で同じ方向を見ているという確信だった。
同じ景色を見て、同じ速さで歩いているという感覚。
それがあれば、質素な部屋でも、安い鶏むね肉でも、
きっと満たされていた。
けれど今、私たちはそれぞれ別の方角を見ている。
どちらが間違いでもなく、
ただ、ずれている。
窓の外では、向かいの部屋の灯りがひとつ消えた。
誰かの一日が終わる。
また明日が来る。
ありふれているはずの明日。
誰もが当然のように手にしていそうな、穏やかな続き。
それが、どうしてこんなにも遠いのだろう。
湯気はゆっくりと消えていく。
食卓の向こうで、その人が何かを言いかけて、やめる。
私も、何も言わない。
手を伸ばせば届く距離なのに、
確かなものは何ひとつ掴めないまま、
夜だけが静かに深くなっていく。
欲しかったものは、きっと特別じゃなかった。
けれど、だからこそ、
どこにも見当たらなかった。




