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ありふれた未来を

作者: P4rn0s
掲載日:2026/03/05

夕方のスーパーで、かごを片手に立ち尽くしていると、

天井の白い光がやけに冷たく感じる。


味噌と豆腐と、安い鶏むね肉。

それだけあれば、夜は足りるはずだった。


足りる、はずだった。


隣にいた人は、そういう光景を見ながら、

いつも少し笑っていた。


贅沢なんていらないよ、と言いながら、

値引きシールを探す私の手元を覗き込んで、

「これで十分だよ」と、どこか遠くを見る目で言った。


十分。

その言葉は便利だった。

夢を削る音が、聞こえなくなるから。


小さな部屋に帰ると、

流し台の蛇口から落ちる水の音が響く。


二人で並ぶには少し狭いキッチン。

肩が触れるたびに、笑っていた頃もあった。


でも最近は、触れないように立つことが増えた。

無意識に距離を測る。

言葉にしない約束みたいに。


「普通でいいんだよ」

と、その人は何度も言った。


温かいご飯があって、屋根があって、誰かが隣にいれば。

それ以上を望むから苦しくなるんだ、と。


私はうなずく。

うなずきながら、胸の奥がざらつく。


温かいご飯はある。

屋根もある。

隣にも、確かに誰かがいる。


なのに、どこか欠けている。


夜、電気を消したあと、天井を見つめながら考える。

自分たちは何を欲しがっているのだろう。


大金でも、豪邸でも、拍手でもない。

ただ、安心して息ができる場所。

明日も同じように笑えるという、根拠のない確信。


それは贅沢だろうか。


隣の寝息が、規則正しく聞こえる。

そのリズムに合わせて呼吸しようとするけれど、

うまくいかない。


ずれている。

少しだけ、でも確実に。


ある日、洗濯物を干しながら、その人は言った。

「こんなもんだよ」と。


風に揺れるシャツの影が、

ベランダの床を行ったり来たりする。


その影を見ながら、私は思う。

こんなもん、とは何だろう。


誰が決めた「こんなもん」なのだろう。


夢を語らなくなったのは、いつからだろう。

旅行に行きたいとか、海を見たいとか、

くだらない未来の話をしなくなったのは。


代わりに増えたのは、現実的な話。

家賃、光熱費、仕事の愚痴。

確かに必要なこと。

けれど、それだけで世界を埋め尽くしていいのだろうか。


私は、特別な何かが欲しかったわけじゃない。

ただ、当たり前に続いていく日々を信じたかっただけだ。

何も起きなくても、壊れないと信じられる毎日を。


でもそれは、思っていたよりずっと難しい。


「求めすぎなんだよ」と、その人は静かに言う。

目は優しい。

だからこそ、残酷だった。


求めすぎ。

そうなのかもしれない。


けれど、求めることをやめた瞬間に、

何かが終わる気もした。


ある晩、食卓で向かい合いながら、私は箸を置いた。

湯気の立つ味噌汁の向こうで、その人が顔を上げる。


何も特別な話はしていない。

いつも通りの、ありふれた夜。


それでも、胸の奥で小さな音がした。

ひびが入るような、静かな音。


私はようやく気づく。

欲しかったのは、派手な未来じゃない。

ただ、二人で同じ方向を見ているという確信だった。


同じ景色を見て、同じ速さで歩いているという感覚。

それがあれば、質素な部屋でも、安い鶏むね肉でも、

きっと満たされていた。


けれど今、私たちはそれぞれ別の方角を見ている。

どちらが間違いでもなく、

ただ、ずれている。


窓の外では、向かいの部屋の灯りがひとつ消えた。

誰かの一日が終わる。

また明日が来る。


ありふれているはずの明日。

誰もが当然のように手にしていそうな、穏やかな続き。


それが、どうしてこんなにも遠いのだろう。


湯気はゆっくりと消えていく。

食卓の向こうで、その人が何かを言いかけて、やめる。


私も、何も言わない。


手を伸ばせば届く距離なのに、

確かなものは何ひとつ掴めないまま、

夜だけが静かに深くなっていく。


欲しかったものは、きっと特別じゃなかった。

けれど、だからこそ、

どこにも見当たらなかった。

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