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意識を取り戻したきっかけは「俺の工房に何てことしやがる。このクソ女!」という男の怒鳴り声と布を壁に叩きつけるような音だった。
そして脳に刻まれた記憶が走馬灯のように私の中に流れる。
私は駆けた。消火した煙を上げる玄関ドアを眺めていた男の背中へ一直線に。
男が私の足音に反応して振り返る。
「死ねおらあああ!」
私の全速力ドロップキックを喰らう寸前の男の顔は信じられないものを見たような驚がく顔だった。
足の裏に男の胸骨が折れる感触がして、まだ煙を上げている玄関ドアに当たって跳ね返った男がうつ伏せに倒れる。
うまく息が出来ないのか、痛みで動けないのか。
私は男の肩を掴んで仰向けにひっくり返す。
男の口からゾンビのような呻き声が出て、ぜえぜえと心肺機能に重大な問題が起きた時に聞こえる呼吸音をさせた。
私も何度か味わったことがあるが、何も考えられないくらい息苦しかったのをよーく覚えている。
私は邪魔な男の足を蹴飛ばして玄関のドアを開けると、夜空に月が出ている事を確認してから男の頭の上にしゃがみ込んで息苦しそうな男の顔を覗き込んだ。
「正直に話すと、私もあなたがどうなるか分からない。でも私は気にしない。だって、あなたも気にしないでしょ?私がどんなひどい目に遭っても」
私は手に持っていた調理ナイフで、男の頬に月の女神ダナヘトラ様のシンボルマーク三日月を刻み、祝詞を上げる。
「恐れ多くも我が神ダナヘトラ様。我に御業を与えたまえ。我が願いを邪魔するものを退ける御業を与えたまえ」
玄関ドアから差し込んでいた月光が瞬きをしたように一瞬目の前も見えないくらい真っ暗になって元の視界に戻ると、私の足元に倒れていた男が跡形もなく消えていた。
「こわ……」
クラスメイト達を元の世界に返すチャンスをくれたし、そのために鍛えてもくれたから心から感謝しているし、大抵の要求にも応える覚悟はあるけど、その人知を超えた超常の力は純粋に怖い。まぁ心配した所で抗う事も防ぐことも出来ないのだから気にするだけ無駄だけど。
「恐れ多いって……そういう意味なのかなあ?」
まじやべーとか、マジでビビるとか?
玄関ドアを閉めた私は、床に落ちていた釘とスライド錠を拾って作業台に置くと、ダイニングキッチンの角の床に置かれている魔道ランプを拾い上げた。
「怖かったよね。悔しかったよね」
私は私と入れ替わったゾーイさんの魂が救われることを祈った。
「生贄ならいくらでも用意するからゾーイさんに酷いことをしないで下さいね、ダナヘトラ様」
ということで、ゾーイさんのためにダナヘトラ様に生贄を捧げよう。ドンケルス家のフランツの魂を。
侵入は簡単だ。
「父を迎えに来ました」
誠実そうな青年の声でそう言えば門番は誰かも問わずに通してくれた。
盛大に行われた婚約式で酔いつぶれた人間が屋敷の至る所で寝転がっていて、帰って来ない家族を心配して迎えにくる親や子、兄弟が多いからだろう。
普段は固く閉じられているドンケルス家の門も、今晩だけは出入りしやすいように常に開いている。
問題はフランツが寝ている部屋へどうやって行くかだ。
ドンケルス家のフランツの家族が居住している通路や部屋の前は、今日のために雇った私兵が常に守っている。
だからまともな方法で侵入する事は難しい。
「神様の言う通り」
ダナヘトラ様に生贄を捧げて得たのは、〈お告げ〉という能力。
何をしたいのかをお願いしてから”神様の言う通り”と呪文を唱えると、こうすれば願いが叶うよという光景が頭に浮かぶ。ゲームプレイのお手本のように。
私はドンケルス家の居住空間に誰にも気付かれずに入りたいと願ったら、庭園の光景が頭に浮かんだ。
ゾーイさんの記憶を頼りに、婚約式が行われたパーティー会場から庭園に出ると、そこでゾーイさんの記憶にある人間を見つけた。
ゾーイさんのお父さんを殺した流れ者を捕まえたフランツの腹心で私兵を指揮する傭兵隊長だ。
私は頭に浮かんだ光景に従って忍び寄った傭兵隊長の頭を近くのテーブルに置いてあった酒瓶で殴り、その背中に飛び乗って首に回した腕で首を絞める。
気を失ったらダナヘトラ様のシンボルマーク三日月を額にナイフで刻んで祝詞を上げる。
「恐れ多くも我が神ダナヘトラ様。我が願いを叶えたまえ。ゾーイさんに救いを与えたまえ」
視界が一瞬の闇に覆われ、それが消えると庭に横たわっていた傭兵隊長の姿が消えていた。
「……いやあの、中に入りたいんですけど」
分かってるという風に頭にドンケルス家の居住空間に侵入する方法の光景が浮かぶ。そこで思ったのは、庭園も傭兵隊長も関係ないじゃん、だった。
私は婚約式が行われたパーティー会場に戻り、警備しているドアの前でもじもじとトイレを我慢している私兵が、我慢できずに外へ駆けていくのを待ってドンケルス家の居住空間に入れるドアの中に入った。
「神様の言う通り」
誰にも気付かれずにフランツの居る所に行きたいと願って呪文を唱えると、頭に外壁の出っ張りを移動するスリルな経路が浮かんだ。
私兵の隙をついて入った使用人用の通路に人気は無く、その先にある使用人用の階段を上がって、ドンケルス家の家族各自の私室がある二階にあがる。
でも階段から通路に出たら通路を警備している私兵に見つかってしまう。
だから使用人用の階段にある明かり取り窓から外に出て、外壁の出っ張りにつま先を乗せて壁伝いにフランツが寝ている部屋へ向かう。
焦らずに、でも素早く。何処にでもいる平凡な女性がつま先だけで体重を支えられる時間は長くはないのだから。
「忍びに胸など要らぬのだ」
外壁に張り付きながら移動していて気づいたのは、自分のつま先が見えないくらいの巨乳にこのルートは無理だということ。
「無くて困ったこともないし」
あると困るという自慢話は聞くが、無くて困るという話は聞いたことが無い。
——胸があることで男の意識を顔から胸に向けることができる。
変装術を習った時に屈辱的な視線を向けられたことはあるが、それで困ったことは無い。
——出来れば谷間があると……いいんだけど、まぁ、無いなら仕方ないな。
困ったことは無い。このやり場のない怒りをどうやって晴らそうかと悩むことはあるけど。
手すりを掴む。
ベランダとバルコニーの違いは屋根があるかどうかで、フランツの私室にあるのは屋根のないバルコニーで月が良く見える。
やっほー、ダナヘトラ様。
フランツの私室に入れる両開きのドアが鎧戸で塞がれていて、外から入るには泥棒の七つ道具のようなもの特殊な物がなければ無理なように思える。
(……え?)
私は頭に浮かんだ通りの呪文を唱える。
「憐れな娘よ。最愛の父を亡くし、悲しみと悔しさに涙を流す無力な娘よ。さあ、今こそ示せ。その意志と覚悟を。〈影の乙女〉」
呪文を唱え終わると同時に、私の影が動いて、私を抱きしめた。
寒くも暖かくもないけど、誰かが私を抱きしめている感触はあった。
そして影は鎧戸の中に入って、鍵を外したのだろう。両開きの鎧戸が開いて、その次にある木製の内扉も開いた。
風が室内に入って扉の前に立つ私の髪を揺らす。
中に入ると、隣の部屋から音がした。おそらくフランツの寝室だと思われる隣の部屋のドアをゆっくりと慎重に開けると、ベッドに寝ているフランツの上に乗った私の影がフランツの首を両手で絞めていた。
「何で私がここに居るかは、言わなくても分かりますよね」
人影に襲われる悪夢を見ているような顔をしていたフランツの顔が、私の声を聴いて顔を見て目を見開いた。
「危ないので動かないで下さいね」
ナイフを手にした私にフランツが何かを言おうと口を動かしているが、私の陰に首を絞められていて呻き声すら出ない。
私は暴れるフランツの頭を動かないように体重をかけて押さえて、フランツの頬にダナヘトラ様のシンボルマーク三日月を刻む。
そして祝詞を上げる。
「恐れ多くも我が神ダナヘトラ様。我が願いを叶えたまえ。ゾーイさんに救いを与えたまえ」




