エピソード 0 . 5 ~小さな恋のアマル
「もう少し鼻が高かったらよかったのに」「口ももう少し大きかったら」
愛しているから。
家族だから。
そんな免罪符がついた心無い言葉。
「そうすれば少しは美人になれたのに」
祖父母の口から出た言葉は鋭い刃となって、5歳のアマルの柔い心にいとも容易く大きな傷をつける。
「今は子供らしくて愛らしいんだけどね」
そう言って、身内の気安さで。無神経さで。
子爵が不在のとある日曜日にやってきた前子爵夫妻は、初孫のアマルを「可愛い」と言ったその舌の根が乾かぬうちに、アマルを抱っこしたまま、笑顔のままでその言葉を放った。
聡いアマルは、その言葉が自分を傷つける為に発されたのではないと、分かっていた。
自分に向けられる彼らの笑顔がそれを物語っている。
祖父の抱っこする手は壊れ物を抱く様で、アマルの手にお菓子を渡す祖母の手も、優しさに包まれている。
それが分っているから、アマルは傷ついたと泣きじゃくる事をしない。
されど、分かっているからとその場を取り繕えるほど、大人びてはいない。
ただ、どうすればいいのか分からず、アマルの表情は固まってしまった。
そして、泣き出してしまわぬ様、目を開いて、口を真一文字に閉じる事しか、アマルには出来なかった。
娘の異変に気付いた母親だったが、夫の両親に物申す事など出来ず、ただ彼らが帰った後に、娘を抱き締める事しかできなかった。
「アマルは可愛い」「アマルは可愛い」
母親が呪文の様に繰り返しても、アマルの心に出来た傷は、じゅくじゅくと血を流し続けた。
*****
バイラムと遊んでいたアマルは、お昼寝の時間がきたのでベッドに入る。
バイラムが本を選んでいる間に、枕を立ててベッドヘッドにもたれかかる様に座る。いつもそうやって二人で並んで本を読んで、そして一緒に眠るのだ。
一度見聞きしたことは覚えているアマルにとって、部屋に置いてある本は全て覚えている。
だけどバイラムの優しい声で、つたない読み方で読んでくれるのが大好きで、いつもお昼寝の時にせがむ。
バイラムは、本棚にある大量の本の中からアマルのお気に入りの一冊を取った。
それは、塔に閉じ込められたお姫様を騎士が助け出すお話で、子爵がその童話を読みながら”お姫様”の所を”アマル姫”と変えて読んだことから、アマルはその童話が大好きになった。
それからはバイラムもその童話を読む時は、”アマル姫”と読んでいた。
「最近読んでなかったね。これにしよう」
そう言ってバイラムが笑顔でその童話を持ってくると、アマルの顔が苦痛に歪んだ。
「その本はイヤ!」
思いの外に強い言葉になってしまったことに驚いたアマルは、あの時の悲しみが蘇ってきたのか、くりくりのお目目にぽちっと涙を浮かべた。
そして、やはり泣いてしまわぬ様に、自分の口を真一文字にきつく閉じた。
そんなアマルの表情に驚いたバイラムは、童話を放り投げてベッドによじ登った。
「どうしたの、アマル?」
「あの本はもう嫌い」
「何で?」
「・・・アマルは、お姫様じゃないから」
堪え切れずにアマルの目から大粒の涙が次から次へと流れて来る。
「アマルはお姫様だよ?」
「アマルはきれいじゃないから、お姫様じゃないの!」
そう言って。「う゛う゛う゛」と声が漏れ出ない様に、堪える様に泣き出した。
「じ、じいじが、アマルは美人になれないって」
流れる涙をゴシゴシと擦りながら話すアマルに悲しくなって、バイラムも半泣きになってアマルを抱き締めた。
バイラムの肩に顔を埋めて、ずっと心に沈殿していた悲しかった気持ちを、アマルは吐き出した。
「ばぁばも、もちょっと鼻が、高かったらよかったのに、って」
「アマルは可愛いよ! お姫様だよ!」
アマルをギュッと抱きしめて、バイラムは叫んだ。
「でも、でも・・・」
えぐえぐ泣き続けるアマルに笑顔になって欲しくて、バイラムは一生懸命に慰めの言葉を考えた。
そしてアマルの肩に手をやってアマルを離すと、目と目を合わせる。
「僕はね、ユーストマの花が好きなんだ。ピンクや紫の淡い色の。だけどママは西の帝国からきた薔薇が好き。綺麗なんだって。皆ね、好きなものは違うんだよ。綺麗だって思う物が違うから。
僕はね、アマルが可愛いと思うよ。
アマルを可愛いって思わないじぃじとばぁばがおかしいよ。
ママは真っ赤な薔薇が好きだけど、あんな赤いの、綺麗じゃないよね? アマルも淡い色のユーストマの方が好きでしょ?
あれ? なんだっけ?
僕の言ってる意味、分かる?
んとね、だからね、僕はアマルが可愛いと思っているし、僕にっとアマルはお姫様だよ」
「本当?」
「本当!」
「どうして?」
「どうしてって?」
「どうしてアマルはバイラムのお姫様なの?」
「だって、アマルの事、大好きだもの!」
バイラムの言葉がアマルの記憶に塗り込められる。大事に、大事に。
永遠に忘れない様に。
「でも、好きなものは変わるよ?」
アマルはもっと安心する言葉を言って欲しくて、バイラムに聞く。
何も忘れないアマルの、心の中に沈殿した悲しい記憶を塗り替える為に。
(もっと、もっと・・・)
バイラムは、「むむむ」と唸って目を閉じた。
「確かに。好きなものは変わる・・・」
さっきで止めておけば良かった。
もっともっと安心する言葉を言って欲しくて、否定してしまった事をアマルは悔やんだ。
バイラムは開いた視線の先の、アマルの悲し気な顔を見て、一生懸命に考える。
「そうだよ。好き嫌いは変わる。僕はニンジンが嫌いだけどね、大人になったら好きになる予定なんだ。それでね、バクラヴァは大好きだけど、大人になったら苦いコーヒーを飲めるようになって、バクラヴァは嫌いになると思う。パパみたいに。
だけどね、アマルを好きな気持ちは変わらないよ?
ママを好きな気持ちが変わらないのと、一緒!
分かる?」
もう一度好きと言って貰えて、アマルはホッとした。
「分かる?」
「分かる」
「だからアマルは僕のお姫様だよ」
(また言ってくれた)
アマルは嬉しくなって、また涙が零れた。
嬉しいと涙が出ると知らないバイラムは、アマルの涙にビックリしてしまう。
「なんでなんで?」
アマルが悲しいと自分も悲しいと気づいたバイラムは、アマルと同じ様に涙を流しながらアマルを抱きしめた。
「そんなじぃじとばぁばなんて、パパに怒ってもらおう!」
「うん!」
そしてそのまま二人は、泣き疲れて眠ってしまった。
その後、この話を聞いたバイラムの父親から子爵に伝えられ、二度とアマルに会わせないと怒りの手紙を受け取った祖父母は、大慌てで大量のプレゼントを持って子爵邸にやってきた。
「無神経な事言ってごめんね」「アマルは可愛いよ」
そう言って半泣きで抱きしめて来る祖父母。
アマルの心に出来た傷は消えないが、アマルは祖父母を抱き締め返した。
(パパが怒ってくれたから、アマルは平気)
いつからアマルの中で、バイラムがお兄ちゃんから好きな人になったのかは分からない。
だけど、この時から何かが自分の中で生まれたような気が、アマルはしていた。
*****
やり直したアマルにとって、祖父母の言葉に再度傷つけられる事はなかった。
だからアマルは、バイラムに泣いてその本はイヤだという事も無かった。
25年の歳月を得ても、アマルにはあの日の祖父母の気持ちが理解できないでいる。
美人で希少な光の魔力を持つ女性を妻に迎えた息子を誇らしく思い、自分の息子にそっくりな孫を愛らしく思い、初孫に全ての愛情を向けるくせに、どうしてあの様な心無い言葉を発したのか。
幸せが彼らの心を大きくしたのか、酒のせいか。
しかし、そのおかげで祖父母はアマルの機嫌を取る為に、潤沢な資産を使ってアマルの欲しがる物を買い与えた為、これは必要なプロセスだったのだと、今のアマルには感じた。
異国のお菓子からおもちゃ、そしてそれを凌駕するほどの図鑑や歴史書、小説から医学書まで。
本が好きなアマルの為に、世界中から取り寄せた希少な本は、全てアマルの血となり肉となった。
それが全て、このやり直しの世界で必要な武器となることを、今のアマルは知っている。
(バイラムが可愛いって言ってくれるから、別に他の人に美人じゃないって言われても平気)
しかしアマルが7歳の頃、自分一人がその思い出を持っている事が耐え切れず、アマルは寂寥の念に襲われた。
だから、ふと言ってみた。
祖父母に言われた言葉を。
「僕はね、ユーストマの花が好きなんだ。だけど母様は西の帝国からきた薔薇が好き。綺麗なんだって。皆ね、好きなものは違うんだよ。綺麗だって思う物が違うから。
僕はね、アマルが可愛いと思うよ」
あなたはいつだって、同じ言葉を私にくれる。
いつの日かと同じ慰めの言葉を口にするバイラムに、アマルは安堵する。
「好きなものは、変わるよ?」
「そうだね、好き嫌いは変わる。僕はニンジンが嫌いだけどね、大人になったら好きになる予定なんだ。それでね、バクラヴァは大好きだけど、大人になったら苦いコーヒーを飲めるようになって、バクラヴァは嫌いになると思う。
だけどね、アマルを好きな気持ちは変わらないよ?」
歓喜に心が震える。
アマルは堪え切れずに涙を流した。
9歳のバイラムはまだ、嬉しい時も人は涙を流すと知らない様で、アマルの涙にあたふたとする。
だけど、もう恋人同士となった二人だから。どうすれば愛する少女が泣き止むかは知っている。
バイラムはアマルのピンク色のほっぺに、優しいキスを落とした。
(あなたは20歳になってもニンジンが食べれなくて、苦いコーヒーは飲めるようになっても、バクラヴァは大好きなのよ。)
結婚式で伝えようと思っていた言葉。だけど伝えられなかった言葉。
アマルはそれを心の中で唱える。
あと半年もしない内に伝える筈だったその言葉を、今度こそ伝えるのだと、アマルは心に誓った。




