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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

さよならまで、ふたり暮らし

作者: るの

西條美月、二十六歳。

システムエンジニア、独身。

私は仕事仕事仕事仕事の生活を過ごしていた。


朝はアラームで起きる。

朝ごはんは食べない。

食欲がないわけじゃない、時間がないだけ。

仕事仕事。


化粧をして、スーツに袖を通し、顔の輪郭を整えて、細身のPCバッグを肩にかけ家を出る。

エレベーターは止まっていた。

仕方なく階段を下りる。

仕事仕事仕事。


電車が止まっているのは、昨日からだ。

代行バスもない。

でも、徒歩で行ける距離だから問題ない。

夏前の朝は気温が高く、じんわりと額に汗が滲んだ。

仕事仕事仕事仕事。


会社に着いたのは八時五十分。

タイムカードはもう誰も打っていなかった。


「リモート推奨です」


そんな社内メールは前に見た。

けれど、私は家だと集中できないからと通勤を続けている。

仕事は山のようにある。

やらねばならないことは、尽きない。

仕事仕事仕事仕事仕事。


オフィスに顔を出すと、照明は半分ほどしか点いていなかった。

席は空席が目立つ。

それでもモニターの光がいくつか灯り、数名の社員が静かにキーボードを叩いていた。

いつも通りの光景。

いつも通りの職場。

私も席に着き、仕事を始める。


昼。

社員食堂に向かうとA定食はご飯と、ふりかけと、冷えたハンバーグだけだった。

温かいお味噌汁すらない。

でも文句はなかった。

作ってくれる人がいるだけでありがたい。


自席に戻るとまた仕事。

仕事仕事仕事仕事。

気づけば、あたりは薄暗くなっていた。


夜。

外の街灯のいくつかが消えていた。

工事でもしてるのかと思ったけれど、疲れて気にしている余裕はない。

いつものコンビニに立ち寄る。

店内にはほとんど客がいなかった。

照明も心なしか薄暗い。

気にすることもなくお弁当を手にレジへ向かう。

早くお弁当を買って家で食べてシャワー浴びて寝ないと明日の仕事に差し障る。


ぼんやりした頭で財布から何かを取り出して、差し出す。

レジの少女が少し困ったような声を出した。


「……大丈夫ですか?」


「何がだろう」と疑問に思いレジの少女を見る。

名札には「立花」とだけ書かれていた。

黒髪のロングヘア、まっすぐな瞳の、どこか冷静そうな顔。

その視線を辿ると、自分の手には社員食堂の食券が握られていた。


「……あっ、ご、ごめんなさい」


お金を出さないと。

そう慌てた拍子に指先が滑って財布が落ちる。

パチンという乾いた音と共に小銭が床に転がった。

目の前がぐにゃりと歪んだ気がする。


しゃがもうとした私よりも先に、レジの子が無言で屈んで、指先で丁寧に硬貨を集めてくれた。


「すみません……ほんと、すみません……」


恥ずかしくて、受け取る手がほんの少し震えていた。

レジを終えると、彼女が少し声を潜めて言った。


「顔色、よくないですよ、ご飯ちゃんと食べてますか?」


「え……そう見える……?」


言われて気が付いたが、声は自分でも驚くほどかすれていた。

そういえば、昼以降、水分もまともに取ってなかった。

最近残業続きだったからか、ちゃんとした食事をしていなかった気がする。

残業残業残業日勤残業。

そんな生活。


「……食べてないんだと思います」


思わず弱音が漏れてしまう。

そんな私の声を聞いて、レジの子はこんな提案をしてきた。


「……私、ご飯作ってあげましょうか?」


その言葉に、脳が一瞬停止する。

レジの子……「立花」さんは一見すると中学生程度に見える。

コンビニでバイトしてるのだから高校生?

真面目そうな印象だ。

見ず知らずの未成年にご飯を作ってもらうなんて常識的には考えられない。


だがこの時の私は疲れていた。

常識も、羞恥心も、礼儀も。

全部、どこかに落としてしまっていた。

正直、ちょっと頭がおかしくなっていたのだと思う。


「……お願い、します」


そう答えていた。





部屋の中に、白い湯気が立ちのぼっている。

テーブルには、ほかほかの白米。

出汁の香りが漂う味噌汁。

焼き目の綺麗な鮭の切り身。

つややかなひじき煮。

彩りを添える小松菜のお浸し。


「いただきます」


箸で取り口に入れた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなるのが分かった。

ひと口目で、胃が驚いた。

ふた口目で、心が震えた。

ああ、食べてる。

私は今、ちゃんと、生きてる。


別に、社員食堂のご飯に文句があるわけじゃない。

けれど、あれは「誰かのための大量生産」だった。

今日のこれは。

私のためだけに作られた味だった。


「ごちそうさまでした!」


言葉に力がこもる。

自然と笑顔になっていた。

久しぶりに、声が張れた気がする。


立花さんは、静かに、けれど少しだけ誇らしげな顔で答えた。


「お粗末さまでした」


その言葉の響きが、やけにあたたかくて。

ふと、私は我に返る。


どうして彼女、こんなことをしてくれたんだろう?

今更ながら、その不思議が胸に引っかかった。

だって、私は彼女に何もしていない。

ただ、コンビニでうっかりしただけの赤の他人なのに。


「ねえ、どうして……ご飯、作りに来てくれたの?」


恐る恐る尋ねると、彼女は少しだけ視線を外して、ぽつりと呟いた。


「……私、死のうと思ってるので」


時間が止まった気がした。


「だからその前に、ひとつくらい、誰かにいいことをしてみようかなって」


箸を置いた手が震えた。

言葉が喉の奥に詰まった。

理由を、聞きたかった。

けれど……聞いていいのか?


人には人の事情がある。

それを引きずり出す権利なんて、私にあるんだろうか?

自己管理もできず、弁当で生き延びていた私が?


そんな葛藤が、顔に出ていたのかもしれない。

立花は、ぽつぽつと続けた。


「こんな世の中が、嫌になっちゃったんです」


「なんかもう、壊れちゃってる感じがして……」


思わず自身生活を振り返る。

仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事。

休日はあるがほぼ一日寝ているだけ。

それで生きているといえるのか。

実際、私は今日、壊れかけていたではないか。


「仕事だから」

「大人だから」

「生きるためだから」


……そんな言葉で、全部ごまかしてた。


でも今は違う。

目の前で、ご飯を作ってくれたこの子が、死のうとしている。


そんなの、見過ごせるはずがない。

だって、私は。

この味噌汁で、生き返ったんだから。


だから、私は立ち上がって、彼女の手をぎゅっと握った。


「死なないで」


その言葉が震えていたのは、彼女のためじゃない。

きっと、私自身のためだった。


「死なないで、私に――毎日、美味しい料理を作ってください!」


それは、祈りのような、わがままのような、あるいは。

新しい日々への、契約のような言葉だった。


立花さんは、少し呆けた顔で私を見つめてから、くすっと小さく笑った。


「……じゃあ、明日も来ますね」


笑顔だった。まるで、春の光みたいな。

それだけで、今夜が少しだけ暖かくなる気がした。





朝。

アラームの音よりも早く、目が覚めた。

窓の外はまだ青く、鳥の声もなかったけれど、私は確かに「お腹が空いた」と思った。

久しぶりの感覚だった。


台所へ向かうと、ラップに包まれた朝ごはんが置いてあった。

手書きのメモが添えられている。


「電子レンジで30秒。味噌汁は鍋で温めてください」


指示通りに温める。

香りが部屋に広がり、眠気がふわりと抜けていった。


味噌汁をすする。

おにぎりを頬張る。

切り干し大根が優しくて、卵焼きは甘かった。

こんな朝ごはんを、私はどれだけ忘れていたんだろう。


職場では、昼になっても誰とも会話を交わさなかった。

それでも、昼食の時間が楽しみになった。


通勤バッグにそっと入っていたお弁当箱。

開けると、卵焼き、唐揚げ、彩り豊かな野菜。

心が、じんわりと満たされる。


「……頑張ろう」


ぽつりと呟く。

誰が見ていなくても、私は今日もきちんと生きている。

それだけで誇らしいと思えた。


残業を終え、夜遅くの帰路を歩く。

空は暗いが、今日はその闇が怖くなかった。


自宅のドアを開けると、部屋の中に明かりが灯っていて、そして。


「おかえりなさい」


立花さんが、玄関で小さく手を振ってくれた。

その瞬間、心臓が跳ねた。


たった一言が、こんなにもあたたかい。


「……ただいま」


私の返事が、少し遅れたのは、嬉しさで声が詰まってしまったからだ。


食卓には、鮭ときのこのホイル焼きと炊き立てのご飯、野菜のスープ。

二人で並んで食べるごはんは、どんな高級レストランよりも美味しかった。


「……立花さん、これ……」


ポケットから封筒を取り出して差し出す。

心ばかりのお礼として、お金を入れておいた。


けれど、彼女はちょっとむっとした顔になった。


「いらないです。そういうの、もらうためにやってるんじゃないので」


「……ご、ごめん……」


ショボンとなる私を見て、彼女はすぐに笑って言った。


「じゃあ、ご褒美として一緒にゲームで遊んでください」


彼女が取り出したのは、私が昔に買って、ほとんど使わずに棚の奥にしまっていたテレビゲームだった。

懐かしい起動音が響き、画面が明るくなる。


始まったのは対戦ゲーム。

勝って、負けて、また負けて、笑って、悔しがって。

感情が、感情が戻ってきた。


自分の中に、こんなにも笑う力が残っていたのだと気づいて嬉しかった。

楽しいと、心から思った。


そして夜が更けて、さよならの時間になる。

彼女は明日の朝食とお弁当を用意して、玄関で小さく手を振った。


「また、明日」


その言葉が、魔法のようだった。


また明日。

ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。

私は布団に入り、久しぶりに、心から思った。


「……明日が、楽しみだな」


遠くの空で、何かが爆発するような音がした。

続いて、サイレンの音も。


けれど、私は眠ってしまった。


明日は早いのだ。だから、今はもう、眠らなきゃ。






朝。

彼女が作っておいてくれたおにぎりと、出汁の香る味噌汁をゆっくりと食べる。

これがあるだけで、今日も「人間らしく」始められる気がした。


今日、オフィスにいたのは私だけだった。

今日って休日だっけ?

そんなことを思いながら、席につきパソコンを起動する。


システム、ダウン。

まただ。

最近、妙にトラブルが多い。

全国の支社のサーバーが、まるで物理的に破壊されたかのように応答しない。

障害報告を飛ばしても、担当部署にはなかなか繋がらない。

電話もメールも。

皆忙しいんだろう――そう思い込んだ。


「できることを、やるだけ」


自分にそう言い聞かせた瞬間――照明が、ふっと落ちた。

パソコンの電源がUPSに切り替わる。警告音が一斉に鳴り始めた。


「……停電?」


窓の外を見れば、交差点の信号も消えていた。

道路には警笛が鳴り響き、やや混乱気味。

これは、地域全体の停電だ。

やや躊躇いながらも、私はパソコンの作業データを保存し、電源を落とす。


上司に連絡を取ろうとするが、電話は呼び出し音さえ鳴らない。


「これじゃ仕事にならないね」


仕方なく、私は退社することにした。

お昼も近いし、徒歩で10分ほどの自宅に戻ってお弁当を食べよう。

電気が復旧したら、また戻ればいい。


昼間の街は、いつもと違っていた。

妙に騒がしい。

口論している人も見かけた。

店のシャッターが閉まり、道路を警官が小走りに駆けていた。


「みんな余裕ないなぁ……」


私は、少し胸を張った。

私にはお弁当がある。

彼女が作ってくれた、心があったまるやつ。

他の人も私を見習って落ち着いてほしい。

そんなことを思いながら、自宅のマンションが見えてきた。


扉の前に、彼女がいた。


「立花さん……?」


まだお昼なのに。

少しだけ首を傾げながら声をかける。


「こんにちは!」


彼女は少し驚いた顔をして、こくんと小さく会釈を返してくれた。


「中、入らないの?」


鍵はもう渡してある。

遠慮する理由なんて、ないはず。


彼女は、そっと目を伏せて呟いた。


「……早く来すぎたので、怒られるかなって」


「怒らないよ」


当然だ。

怒るなんて、そんなはずない。

私はそっと彼女の手を取って、玄関の鍵を開けた。

部屋の中は、停電の影響でどこか薄暗く、空気も冷たかった。


「……何かあった?」


問いかけると、彼女は唇を少しだけ噛んでから、ぽつりとこぼした。


「……怖くなっちゃって」


停電で?それとも、もっと別の。


でも私はそれ以上、問い詰めなかった。

代わりに、非常用の棚から蝋燭を取り出し、テーブルの上に立てて火を灯す。


優しい炎が、ふわりと揺れて、部屋の壁に影を映す。


「……なんだか、誕生日パーティーみたいだね」


私が笑いかけると、彼女もようやく笑ってくれた。

その笑顔を見て、私は心から安心した。


「お弁当、一緒に食べようか」


彼女もまだお昼を食べていなかったので、私たちはひとつのお弁当をふたりで分け合った。

少し狭いテーブル、ろうそくの明かり、蝋の匂いが混ざる部屋。

でも、不思議と、居心地がよかった。

テレビもネットも繋がらないけれど、ふたりで笑って話すだけで、心がじゅうぶん満たされた。






夜になっても、停電は復旧しなかった。

部屋はまだ薄暗く、継ぎ足した蝋燭の火だけがゆらゆらと揺れていた。


「……冷蔵庫の中、全部アウトだね」


私は溜息混じりに呟いた。

冷気のない庫内で、生ものが傷むのは時間の問題だ。

でも幸い、卓上のガスコンロとカセットボンベ、それに土鍋があった。


「鍋にしちゃおっか。全部、ぶち込んじゃえば平気だよね」


「はい、火が通ってれば、大抵なんとかなります」


立花は手際よく食材を切り、私は土鍋でお米を炊いた。

少し時間はかかったけれど、ふたを開けた瞬間の香りに、思わず顔がほころぶ。


「いただきます」


ふたりで声をそろえて箸を手に取る。

ぐつぐつと湯気を立てる鍋の中から、熱々の野菜と鶏肉をすくって口に運んだ瞬間。


「あっつ……!」


舌がびりりと痛んだ。

思わず口を押さえると、隣で彼女がくすくすと笑った。


「……子供みたいですね」


「むっ……!」


私はちょっとだけ拗ねた。

たしかに、彼女の方が落ち着いて見える。

年下のはずなのに、どこか余裕があって、大人びている。


でも、私の方が背は高い。

だから、つい、そんな小さな優位を示すように言ってしまった。


「でも私の方が、背は高いからね」


すると今度は、彼女がほんの少し、頬を膨らませるようにして口を尖らせた。


「……私だって、あと三年もしたら……!」


拗ねたような声。

でも、そこで言葉が少し止まった。

彼女の顔に、わずかな陰りがさす。


「……どうしたの?」


私が尋ねると、彼女はお椀を置き、ゆっくりと私の方を見つめてきた。

それは、決意の表情だった。


「私と……」


一瞬の躊躇。

喉に何かが引っかかるような沈黙。


「……世界が終わるまで、私と一緒にいてくれますか?」


その言葉が、ぽつりと落とされた瞬間。

私は思考を完全に止めた。


……え?

プロポーズ?いま、私、プロポーズされた?


冗談だろうか、そう思って立花さんを見つめる。

けれど、彼女の目は笑っていなかった。

真剣だった。まっすぐに、真っ正面から私を見ていた。


どうしよう。

どう返事すればいいんだろう。


私、彼女のことを……正直、ほとんど知らない。

名前も、年齢も、家族のことも、将来の夢も。

ただ、いつもご飯を作ってくれる、ちょっと不思議で、優しくて、落ち着いていて。


立花さんの目の端に、涙が浮かんでいた。


ああ、もう。


私は、逃げるのをやめた。

彼女と一緒にいると、嬉しくなる。

楽しくなる。

食事が楽しみになる。

彼女には悲しんでほしくない。

彼女には笑っていてほしい。

そう思う心に間違いはないのだ。


それが愛情かは、正直まだわからない。

もし違ってたなら、そのときは私が責任を取ればいい。


「……うん」


私はそっと笑って、彼女の手に自分の手を重ねた。


「私も、世界が終わるまで、君と一緒にいたいよ」


小さな炎がふたりの間で揺れて、彼女の目に宿った涙が、光の粒に変わった。






彼女の反応は、思っていたよりずっと劇的だった。

笑って、飛び跳ねて、勢いよく私に抱きついてくる。

あまりに軽いので、つい調子に乗って持ち上げてみると、彼女は子供みたいにキャッキャと笑った。


その笑顔を見て、ふと――思った。


可愛いな。

愛おしいな。


これが「恋人」に対する想いなのか、それとも「子供」を守りたいという庇護心なのか、それはまだ判らない。

けれど、これからきっと、少しずつ理解していける。

だって、これからは毎日を一緒に過ごすのだから。


夕食の後片付けを終えても、彼女は帰ろうとしなかった。

私も、帰ってほしいとは思わなかった。


「……一緒に、星が見たいな」


そんな子供っぽい提案を、私は微笑ましく受け入れる。


フローリングに毛布を敷いて、ふたりでその中にくるまりながら、窓から夜空を見上げる。

停電で真っ暗になった街の向こう。

そこには、いくつもの星々が浮かんでいた。


「……綺麗だね」


ぽつりと私が呟くと、遠くで爆発音のようなものが響いた。

誰かが花火でも上げているのだろうか。

喧騒が、風に乗って遠くから届いてくる。


彼女がそっと私の肩に頭を預けてくる。


「……コンビニでバイトしてた時、毎日来るお客さんが気になってたんです」


「……え?」


突然の話に、私はそっと目線だけで彼女を見る。


「最初はただ、綺麗な人だなって。それだけだったんです」


「でも、ある日から少しずつ変わっていって」


「髪に元気がなくなって、目の下にくまができて……」


「そのうち、お金の代わりに社員食堂の食券を出してきて」


それ、完全に私だ。


「……変な人だなって思って注意したら、子供みたいな顔で『へへっ』って笑って」


私は苦笑する。

そんな顔、した記憶はないけど。

――たぶん無意識にしてたのだろう。


「……その時の私、結構追い詰められてて」


「なのに、なんか……つられて笑っちゃって」


「……なんか、救われた気がしたんです」


私は彼女の髪をなでながらこう返す。


「……それ私のこと?」


からかうように言うと、彼女は冗談めかして答えた。


「さあ、どうですかね?」


また笑う。

その笑顔が、好きだと思った。

静かで、穏やかで、ただ楽しい時間。


「……この時間が止まってしまえばいいのにな」


思わず漏れた本音に、彼女はぽつりと応えた。


「……もうすぐ止まっちゃいますよ」


「……え?」


言葉の意味がわからなかった。

不思議そうにしていると、彼女は私を見つめながらこう言った。


「……えと、知らないんですか?」


「なにを?」


「巨大隕石の話」


「…………は?」


その瞬間、窓の外で爆発音が轟いた。

まるで、暴徒が暴れているような、割れた空気が歪むような音。

現実感が削れていく。耳が、少し遠くなった。


「今日、巨大隕石が地球に降ってきて……」


彼女の声が、ふるえている。


「……私たちは、全員」


言葉が、途中で切れた。


世界が、終わる――?


「……今日の、いつ?」


震える声で、私は問いかける。


「……あと1分後くらいです」


あまりにも、早すぎた。

頭が追いつかない。

心が、悲鳴をあげる。


立ち上がって、なにかしなきゃ、って思った。

けど、なにを? なにができる?


ぐるぐると混乱の渦が巻く中、彼女が見上げてきた。

目が揺れている。不安に飲み込まれそうな声で言った。


「……だめ、ですか。世界が終わるまで、一緒にいちゃ……だめ、ですか……?」


その一言が、私の迷いを一瞬で吹き飛ばした。


言いたいことは山ほどある。

疎遠になっていた両親とか。

音信不通になった上司とか。

好きなアイドルのライブとか。

食べたかったあ料理とか。


でも、それでも。


私は毛布の中の彼女を、ぎゅっと抱きしめた。


「だめじゃないよ……あなたがいてくれて、ほんとうによかった」


そう言って、彼女と顔を合わせる。

彼女は、笑っていた。とても綺麗な笑顔だった。


私も、きっと笑っていた。


その瞬間。

遠くの空が、真昼のように明るくなった。


毛布を貫くような強烈な閃光。

それに照らされた彼女の笑顔は、とても綺麗だった。


そう思えた。

最期の光に照らされた、私の大切な人。




こうして――地球は滅んだ。




幾憶数千万の悲劇の中。

彼女たちは幸せに最期を迎えた。

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