表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

九章 広島の風景、心に刻まれて

 渥美半島の先端、伊良湖に着いたふたりは、フェリー乗り場の小さなターミナルへ向かった。

 海から吹きつける潮風に、ふたりの白髪がそっと揺れる。

 和夫は腰に手をあて、ひと呼吸つきながら歩を進める。


「……ああ、やっぱり腰にくるなぁ」


 ぼやくように言うと、隣を歩く智恵子が、笑みを浮かべて答える。


「無理しないでね。今日はまだこれからだよ」


 その声に励まされるように、彼は苦笑し、また一歩を踏み出した。


 乗船手続きを終え、車を列に並べると、車内にふたりきりの静かな時間が流れる。

 智恵子はバッグから湿布薬を取り出し、彼の腰にそっと手を伸ばす。


「貼っておきなさい。あったかくしておくと楽になるから」


「……ありがとな」


 彼は少し照れくさそうに背中を向け、彼女が腰に湿布を貼っている間、静かに目を閉じた。

 遠くには、出航を待つ白いフェリーが朝の光を受け、かすかに輝いている。


 やがてランプウェイが降ろされ、車列がゆっくりと動き始めた。

 彼は慎重にハンドルを握り、息を合わせるように彼女も窓の外を見つめる。

 船腹に吸い込まれるように進んでいくその瞬間、ふたりは少し背筋を伸ばした。


「何十年ぶりだな、フェリーなんて」


 彼がぽつりと言うと、彼女は微笑みながらうなずいた。


 車を停めると、ふたりはゆっくりとドアを開け、デッキへ向かった。

 無理に急がない。互いの歩幅を、自然に気遣いながら歩く。

 デッキに出ると、海風が頬に当たる。


「ちょっと冷えるわね」


 智恵子はそう言って、スカーフを首もとにきゅっと巻き直した。

 和夫はポケットから小さなカイロを取り出し、そっと智恵子の手に押し当てる。


「寒いだろ?」


 智恵子は小さく驚き、それからふわりと笑った。


 海を見下ろす手すりにもたれながら、ふたりはしばらく黙って波を眺めていた。

 若い頃のように、はしゃいだり、無邪気に騒いだりはしない。

 ただ、静かに、同じ景色を分かち合う。

 それだけで十分だった。


 やがて、船内アナウンスが到着を告げた。

「間もなく鳥羽港に到着します。車両デッキにお戻りください」


 智恵子は小さく頷き、手すりから手を離す。

 足取りは慎重だ。


「焦らなくていいよ」

 和夫が低く声をかけると、智恵子は「わかってる」と微笑み返した。


 車に戻り、静かにエンジンをかけた。

 扉が開き、まばゆい朝の光と鳥羽の潮の香りが流れ込んできた。

 先に動き出した車の後に続き、ふたりの車もフェリーを降りた。

 アクセルを踏み込む足に、かすかな痛みを覚えながらも、前を見据える。


 その一日の始まりに、二人の心は静かに揺れていた。疲れた身体に感じる小さな痛みも、無理に押し殺すのではなく、そのまま受け入れながら歩んでいくことに、むしろ安堵を覚えている。歳を重ねたからこその、心の余裕と言えそうだ。


 ふたりが共に過ごす時間、それがどんなものであれ、予測できない出来事が待ち受けているとしても、もうすぐそこに広がる未来への希望が大きく、どんな痛みも薄れて感じられるだろう。その先に広がる景色は、単なる旅路ではなく、二人にとっての大切な一歩一歩なのだ。


 彼らの一日は、きっと、何気ない日常の中にこそ、深い満足感を見いだしていくことになるだろう。



 戦争ほど悲惨なことはありません。

 平和ほど尊いものはありません。


 ふたりが広島に到着したのは、人影もまばらな早朝だった。


 まだ街は静まり返っており、朝日が昇り始める前のやわらかな空気に包まれていた。


 海の匂いがわずかに漂う松大汽船まつだいきせんの乗り場近くの駐車場に車を停め、ふたりはゆっくりと歩き出す。


 汽船乗り場には、すでに多くの観光客が集まり始めていた。

 リュックを背負った外国人たちの姿が目を引く。淡い朝の光の中で、彼らの明るい笑顔とさまざまな言葉が飛び交う様子は、まだ眠りの中にある街の静けさと対照的で、朝の静けさの中ににぎやかなリズムが打ち始めたようだった。


 ふたりはその流れに身を任せるようにして、松大汽船に乗り込んだ。

 船はゆっくりと海を進み、やがて霧のような朝の光の中から、朱塗りの大鳥居が姿を現した。


 潮が引き始めていたのか、鳥居の足元が海に淡く映り、その荘厳な姿は、夢と現のあわいに立っているかのようだった。


「……見えてきたわ」

 智恵子が小さくつぶやいた。


 船が岸に近づき、ざわめく乗客の間を抜けながら、ふたりも静かに宮島の地に降り立つ。


 参道には、焼きたてのもみじ饅頭の香ばしい匂いがふんわりと漂っていた。

 蒸気を上げながら回転する焼き機の前には人々が列をなし、子どもたちの楽しそうな声が響いている。

 ふたりはその様子を遠巻きに眺めながら、静かに歩みを進めた。


 軒先に吊るされたしゃもじの土産、紅葉柄の手ぬぐい、小さな鹿の置物――。

 どれもが、この島の記憶を切り取ったように並んでいる。

 それを手に取る観光客の笑顔の裏には、どこかやさしい時間が流れていた。


 鹿が通りを横切り、観光客の笑い声とカメラのシャッター音が、あちこちから聞こえてくる。

 智恵子と和夫は言葉少なに、ただその場の空気を吸い込みながら歩いた。

 まるで、何かを心で聞き取ろうとしているかのように。


 厳島神社の朱塗りの回廊に足を踏み入れると、潮風と木の香りがふたりを迎えた。

 柱にそっと触れた和夫は、しばらく黙ったまま、やがてつぶやいた。


「この柱、何百年も、ここに立ってるんだな……」


「ええ。戦の時代も、嵐の夜も、全部ここで見てきたんでしょうね」

 智恵子の声には、時間の重みを感じ取るような静けさがあった。


 和夫は黙って頷いた。

 その横顔には、言葉にできないほどの感慨が浮かんでいた。


 ふたりは並んで海を見つめた。

 その向こうにあるのは、遠い過去と、今という瞬間。

 どれほどの悲しみがこの海を渡ったのか。

 どれほどの祈りが、この空に届いたのか。


 静けさの中で、ふたりは確かに感じていた。

 平和の尊さを。

 命の重みを。

 そして、いま生きてここにいるという奇跡を――。


 島を離れたふたりは、広電宮島口駅へ戻り、市内電車に乗り込んだ。

 広島の街をゆっくりと走る路面電車は、どこか懐かしさを感じさせる古風な車両だった。

 木の床には細かな傷が刻まれ、天井には丸い扇風機が取り付けられている。

 電車が揺れるたび、カタカタというやさしい音が車内に響く。


 隣の席では、制服姿の高校生が目をこすりながらスマートフォンを眺め、向かいには買い物帰りと思われる年配の女性が紙袋を膝にのせて座っていた。

 誰もがそれぞれの日常の中にいて、それがまた、どこか切ないほどに尊く見えた。


「こんなふうに、平和な朝が、ずっと続けばいいのにね」と智恵子が言う。


 和夫は窓の外を見つめながら、小さく頷いた。

 そこには、かつて焼け野原となったとは思えないほど、穏やかで、たおやかな街の姿があった。


 電車がゆるやかにカーブを描きながら進むと、次第に空が広がり、遠くに原爆ドームのシルエットが見えてきた。

 あの独特の、むき出しの鉄骨が陽の光を受けて、静かに佇んでいる。


 1945年8月6日、午前8時15分。

 広島の空に閃光が走り、街も人々も、一瞬で変わってしまった。


 原爆ドーム前で電車を降りたふたりは、しばらく言葉もなく歩いた。

 川沿いの道には、風に揺れる木々の葉のざわめきと、水面に反射する陽のきらめきが広がっていた。


 そして、目の前に現れたその姿――。

 まるで何かを語ろうとしているかのように。

 そして、すべてを静かに受け止めているかのように――。


 骨組みだけが残された建物は、どこか神聖さすら帯びていた。

 戦火を生き延びた無言の証人のように、そこに立ち続けている。


 智恵子は立ち止まり、そっと胸の前で手を合わせた。

「……こんなにも、すべてが……」


 和夫も帽子を取り、頭を下げた。

 言葉にできない思いが、胸の奥で波打っていた。


 風が通り抜ける。

 それはまるで、過去から今へと、何か大切なものを運ぶような静かな風だった。


 ふたりはドームの周囲を、ゆっくりと時計回りに歩いた。

 壁に残る焼け焦げた跡や、曲がりくねった鉄骨が、あの日の惨状を物語っている。


 周囲には多くの花が手向けられ、折り鶴が飾られ、祈りが絶えず捧げられていた。

 それは、人々がどれほどこの場所を大切に思い、平和を願い続けているかの証だった。


 やがて、智恵子がぽつりと呟く。

「誰かのために生きたいって思うのは、こういう場所に来た時なのかもしれないね」


 和夫は彼女の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。

「そうだな。生きてるってことが、すでに奇跡なんだなって思うよ」


 その言葉の重みを、智恵子は噛みしめるように受け止めた。


 ふたりは、何かを心に刻むように、しばらくそこに立ち尽くしていた。

 時間が止まったかのような、静謐な瞬間だった。


 原爆ドームを後にしたふたりは、静かに歩いて平和記念資料館へと向かった。


 入口に差し込む光は穏やかで、建物の中は外の喧騒とは別世界のように、静けさに包まれていた。

 中に入ると、空気が変わった。冷たく、張りつめたような静寂がふたりを包み込む。


 展示室には、あの日の出来事を伝える写真や映像、被爆者の遺品が並んでいた。

 焦げた学生服、溶けたガラス瓶、歪んだ腕時計。

 どれもが、かつてその瞬間を生きていた誰かの存在を物語っていた。


 智恵子は、ひとつひとつに目を留めながら、何度も息をのみ、時に目を伏せた。

 声もなく立ち尽くす彼女の隣で、和夫もまた、自分の胸の奥に沈んでいく重い思いと向き合っていた。


「こんなに、小さな子まで……」

 小さなサンダルの展示に、智恵子が目を潤ませて立ち止まった。


 和夫はそっと、智恵子の肩に手を置いた。

 言葉では言い尽くせない感情が、ふたりの間に流れていた。


 やがて展示の終わりに近づくと、未来へのメッセージや、世界各国の平和への誓いが綴られた壁が現れる。

 それは、悲しみの果てに生まれた希望のように、どこか温かさを感じさせる空間だった。


 ふたりは、そこに書かれた一節の前で足を止めた。


「過去を忘れず、未来を恐れず、今を生きる。」


 智恵子は小さく頷いた。

「私たちも、ちゃんと伝えていかなきゃいけないね。忘れないために。」


 和夫も、まっすぐ前を見つめながら答えた。

「うん。平和って、ただあるものじゃなくて、守り続けるものなんだなって思うよ。」


 外に出ると、夕日が西の空を染めていた。

 あの日から幾年もの歳月が流れ、悲しみの地は今、祈りと願いが交差する場所へと変わっていた。


 ふたりはもう一度、原爆ドームを振り返る。

 その静かな佇まいが、いつまでも彼らの心に刻まれていた。


 電車の中、ふたりは並んで座っていた。

 互いに目を合わせることもなく、ただ窓の外に流れていく街を見つめていた。


 智恵子の指先は、膝の上でかすかに震えていた。

 言葉にしようとして、喉元まで上がってきた想いは、すぐに重たく胸の奥へと沈んでいった。


(どうして、こんなことが起きたんだろう)

(どうして、誰も止められなかったんだろう)


 彼女の瞳には、資料館で見た焼け焦げたランドセルや、ぐにゃりと曲がった三輪車が浮かんでは消えていた。

 小さな命が、名前も知られぬままに消えていったことを思うと、胸がきしむように痛んだ。


 隣に座る和夫もまた、目を伏せ、じっと手のひらを見つめていた。

 その手が、何もできなかった無力さを語っているように思えた。


(戦争って、国と国との争いのはずなのに)

(苦しむのは、いつだって何も知らない市井の人たちなんだ)


 ガタン、ゴトン――

 車輪の音だけが、過去と今を結ぶかすかなリズムのように響いていた。


 言葉にすれば、かえって崩れてしまいそうな沈黙。

 けれどその静けさの中には、互いを思いやる深い共鳴があった。


 ふたりは無言のまま、ただ、黙ってその時を共に過ごしていた。

 それが、今のふたりにとっての祈りだったのかもしれない。


「……子どもたちの写真、見た?」

 ぽつりと、智恵子がつぶやいた。視線はまだ、窓の外の街並みに向けられたままだった。


「見たよ……あの、焼けた制服の隣に置いてあった子の顔、今も目に浮かんでる」

 和夫の声もまた、かすれていた。静かな語り口の中に、胸の奥底から湧き上がる痛みが滲んでいた。


「名前……あったよね。小さな子の。あの子には未来があったのに……」


「きっと、ただ家に帰りたかっただけなんだろうな……お母さんのところに」


 電車がカーブを曲がるたび、揺れる身体をそっと支え合うように、ふたりは肩を寄せた。


「何ができるんだろう、私たちに」

 智恵子の声は、風にさらわれそうなほど小さかった。


「せめて、忘れないことだと思う」

 和夫はゆっくりと言葉を選びながら答えた。


「こうして見て、感じて、話すこと。そうすれば、その子たちの存在も、苦しみも、意味があったってことになる気がするんだ」


 しばらくふたりは黙った。

 しかし、その沈黙は先ほどまでのものとは違っていた。

 心が少しだけ近づいた、そんな静けさだった。


 やがて電車が停まり、広電宮島口駅に到着した。

 ふたりは立ち上がり、ホームに降り立つ。風が頬を撫でた。遠くで鐘の音が響いていた。


 電車を降り、ふたりは静かに広電宮島口駅前の駐車場へと歩を進めた。駅前の風景は、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせていた。観光地に向かう人々で賑わう一方、今の時間帯の空気はどこかゆったりと流れている。夕方の陽射しが地面に長い影を落とし、静かながらも確かなエネルギーが感じられた。


 ふたりは車に乗り込んだ。目指すは九州。新たな土地へ、過ぎ去った日々の記憶を携えて、ふたたび進んでいく。


いつもお読みいただき、ありがとうございます。

皆さまのおかげで、この物語を続けることができています。

登場人物たちが歩む旅路を共に感じ、時には深い静けさに包まれながら、物語の世界に浸っていただけたら嬉しいです。

これからも少しずつ、心に響く瞬間を描いていけたらと思っていますので、どうぞ引き続きお楽しみください。


次回の物語では、智恵子と和夫が広島の街を後にし、さらに新たな場所へと足を踏み入れます。

そこでは、過去と現在が交錯し、彼らの心に深い影響を与える出来事が待ち受けています。

次回もどうぞお楽しみにください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ